もどる

                          かけはし2003.2.17号より

狭山事件の再審を求める東京集会

不当逮捕から40年、不正義のこれ以上の持続を許さない!

 二月七日、東京千代田公会堂で「狭山事件の再審を求める東京集会」が狭山東京実行委主催で開催され、五百人が集まった。
 昨年一月二十三日、東京高裁・高橋省吾裁判長は、狭山事件の異議申し立てに対して不当な「棄却決定」を行った。この高橋決定は、石川さんが起訴後に出した手紙などを資料にして「石川さんに脅迫状が書けた」とか、再審段階になって検察側が持ち出してきた「石山鑑定」を引用して確定判決の認定する殺害方法を事実上変更したりする強引な論法を用いている。一方で弁護側の客観的で科学的な「斎藤指紋鑑定」などに関しては「一つの推論である」として退けた。特別抗告審(最高裁)で、この高橋決定を取り消させ、石川さんの無罪に向けていかなければならない。
 主催者あいさつの後、石川一雄さんが「不当逮捕から四十年目の今年、無罪を勝ち取るため、不退転の覚悟で闘う」と決意表明した。
 森本一雄事務局長が基調報告を行い、高裁高橋棄却決定を批判し、証拠の全面開示と事実調べを行うように要求した。
 森本さんは「政府は最高裁で狭山事件の審理を担当する第一小法廷の裁判官三人の異動を行った。この人事で東京高検検事長であった甲斐中判事を最高裁判事に任命した。彼は『石川は有罪だ』『証拠開示は断固拒否する』と主張し活動してきた人物だ。こういう人物が狭山事件の裁判官になったのだ」と司法の反動化を批判し、司法の反動化を打ち破り狭山闘争の勝利をつかもうと提起した。
 続いて鎌田慧さん(ノンフィクション作家)が「狭山裁判と差別の視点」と題して講演を行った(別掲)。
 最後に、「五月一日、狭山事件発生から四十年を迎えます。あまりにも長く、重い日々です。このように長期にわたって不正義が行われていることを、これ以上許しておくことができるでしょうか。私たちは今日を起点に、石川さんとともに、真実が認められる日まで、全力で闘います。そして必ずや勝利を勝ち取ります」とする集会決議を採択した。      (M)



2・7東京集会 鎌田慧さんの講演から

狭山裁判と差別の視点

 石川一雄さんと会ったのは仮釈放されてから一年後くらいだった。もう「石川青年」ではなかったが、明るく素直な人だった。石川さんは一九三八年生まれの私と同年代で、同じ時代を生きてきた。逮捕から今年で四十年になる。早く無実を勝ち取りたい。
 狭山裁判は差別裁判だということを再度明らかにして、怒りを喚起したい。石川さんが別件で逮捕された時、当時の新聞は「悪の温床・特殊部落」だのと書き差別をあおった。
 狭山事件の真実は脅迫状に表れている。よくできた脅迫状だ。普通なら行が上がったり下がったりするが、横書きで文章がそろっている。文章が行でちゃんと終わっている。こうした文章はかなり書き慣れていないとできない。そして字がなめらかで、文章が明解である。
 この脅迫状を警察は万葉がなのようで稚拙(ちせつ)だとし、これは「知能が低い、部落の人間がやった」と差別的な判断をした。しかし、脅迫状はうまくできている。こうした常識的判断が警察はできなかった。
 この脅迫状は石川さんが書いたものと違う。石川さんは小学五年まで学校にいったことなっているが、実は被差別部落ゆえに満足な仕事を与えられず、一家全員で働かなければならなかった。石川さんは畑仕事や農家への手伝い、でっち奉公などで学校にいけなかった。
 字を獲得した人から見ると、字を書けない人がいることをまったく理解できない。あの当時は教科書も無償ではなく、貧しい人には買えなかった。ノートもえんぴつもない。私は識字学級や夜間中学で字の書けない人のことを学んできた。字の書けないことによる恐怖心を知っている。銀行に行くのに、わざと右手に包帯をまいていき、銀行員に代筆してもらう。こうした屈辱的な体験は聞いてみないとわからない。
 石川さんの最初の自供は「三人共犯説」だった。「字を教えてくれれば、オレが脅迫状を書く」と石川さんが言ったことになっている。こういうことはありえない。当時、石川さんは履歴書やラブレターを他人に書いてもらっていた。そのような人が自分から脅迫状を書くというふうに心理が進むわけがない。警察は字を奪われた人のコンプレックスや恐怖心を知らないからだ。差別されている人のことを知らないから、これぐらい書けるだろうと思ったのだろう。これが冤(えん)罪をつくり出した最大のものだ。
  警察による証拠品のデッチあげも冤罪を作り出した。さらに、裁判官は人間よりも字を信用する。調書を信用する。裁判官を作る制度にも問題がある。さらに、冤罪を回復できないのはマスコミの責任も大きい。記者クラブがあり、そこから情報を取らないとニュースが作れない仕組みになっている。若い記者は五年間ぐらい記者クラブに入れられる。そこで警察官の価値観を持ってしまう。
 石川さんは弁護士を信じなかった。「十年で出してやる」という長谷部刑事との約束を信じていた。石川さんの無知につけこんで犯人にしたてた。しかし、石川さんはやられっぱなしではなかった。石川さんには字を獲得して闘うというドラマがあった。石川さんが学んでいくという闘いによって、狭山闘争の歴史があり運動を継続させてきた。
 識字学級で学んだ人は「学ぶことによって人生が広がっていく。奪われたものを奪い返すことによって解放されていく」と語っている。石川さんは拘置所の中で、刑務官からチリ紙をもらい、字を書く練習をした。運動時間をおしんで字の練習をした。血のにじむような努力をして字を書けるようになった。字を獲得することが自分の解放を勝ち取ることであった。犠牲にしたものはあるが、字を書けることによって豊かになっていった。
 石川さんのお兄さんが「弟も字が書けるようになって」とうらやましそうに言った。犠牲は大きかったが得るものも大きかったと思う。無知ゆえの悔しさや苦しさを共通のものとして考えてゆけるのか。
 裁判官は判決をくつがえす勇気がない。裁判官が勇気を持って再審開始の判断が出せるような世論を作るのが私たちの仕事、私たちが世論を作ろう。
 石川さんはいま、生殺しの状態に置かれ、精神的にすごいプレッシャーのなかにいる。石川さんの尊厳を回復するにはわれわれが力をつけることだ。裁判所にハガキを出し、裁判所に要請をする。近くの人に狭山を話す。いままでやって成果がないから、というのでなく、それならもっと成果を出すようにがんばること。私も狭山事件四十年の五月までに狭山の本を書きあげたい。(講演要旨。文責編集部)

もどる

Back