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                          かけはし2002.3.18号より

アルゼンチン--選挙で成立した政権を人民の反乱が打倒した

エドゥアルド・ルシータ


 死者三十人、負傷者四百三十九人以上、逮捕者三千二百七十三人。これが、これまで認められてこなかったアルゼンチンの普通の人々による人民の反乱が払った犠牲である。
 アルゼンチンの歴史上初めて、民主的選挙で成立した政権が、軍事クーデターではなく人民大衆の直接行動によって倒された。
 この行動は、青天の霹靂(へきれき)というわけではなかった。既存の秩序を拒否する無数の闘い、人民の行動や活動が道を敷きつめてきた結果であった。
 この一年は、この十年間で最も多数の社会的闘争が起こった年であった。闘いは、失業労働者や、命をつなぐ費用を求めて、あるいは生活の質の改善を政府に求めて、大衆行動で道路を封鎖した「ピケット」だけではなかった。失業していない労働者も未払い賃金の支払いや職と労働条件の防衛を求めて闘った。
 二〇〇一年十月十四日の立法議会選挙では、この抗議が別の形で表現された。投票が義務になっているこの国で、約六百五十万人(有権者の二六%)が棄権した。すなわち、投票する権利の行使を拒否したのである。無効投票は三百八十万票(二一・一%)以上に上った。複数の左翼の候補者は合わせて前例のない百五十万票(六%)を獲得した。大政党は六百五十万票以上を失った。
 長年にわたって醸されてきた代議制の危機はついに成熟し、その結果、体制はその正統性を失ったのである。
 国家制度の枠組みの外部で、二〇〇一年十二月十四日から十七日まで、人民投票が行われた。これは反貧困国民戦線(FreNaPo)に結集する労働組合連合アルゼンチン労働センター(CTA)と社会組織や政治組織が組織したもので、失業家族の各個人に対する失業保障の新しいプログラムを求めるキャンペーンである。ほぼ三百万人が投票し、国民戦線の新しいプログラムへの支持を表明した。
 圧倒的な経済危機に直面し、「代議制民主主義」の政党と制度にうんざりし信用できなくなった人々の意識は、成熟し、自分たち自身の手で問題を解決しなければならないことを理解したのである。
 二〇〇一年十二月二十日から二十一日の社会的爆発では、次の三つの要素の組み合わせが表現された。政府は危機に立ち向かうことができず、正当性のない外国負債に奉仕する支払いを続けることができなくなり、銀行預金の凍結と労働者賃金の一部取り上げに訴えた。銀行システムと共同で政府はこれらすべてを決定し、支払いシステムの連鎖を切断し、お金、すなわち商品の一般的等価物を市場から消滅させ、事実上すべての商業活動と金融活動を麻痺させた。
 社会的答えが出るのに時間はかからなかった。失業率が最も高い極度の貧困地域では、生産と消費から排除されている何千人もの人々が大きなスーパーマーケットを取り囲み、食べ物を要求した。食べ物が得られなければ、フェンスを押し倒し、自分の手で食べ物を手に入れた。何十年も彼ら流に経済を略奪してきた大規模倉庫も、群集によって略奪された。破壊行為は小商店に対しても行われたが、貧しい人々同士の戦争は、反動的右翼セクターの挑発を疑わせる。
 非常事態宣言と大統領の演説は横柄かつ無内容なもので、首都ブエノスアイレス大都市圏の強烈な反応を引き起こした。まず家の中で怒ってフライパンを打ち鳴らすことが始まり、次にそれは主要な通りに進出し、ついには大通りへと動き出し、男と女、労働者、事務員、主婦、学生、退職者、専門職や小企業主の群集が、最大の象徴であるマヨ広場に結集した。生活費が高いにもかかわらず(そのことに責任ある人々は裁かれ糾弾されなければならない)、だからこそ庶民は、流動する社会を制御する力を失ったことを暴露した国家に挑戦したのである。
 まず、十二月二十日から二十一日にかけての早朝、四万人の人々が経済相の辞任を要求した。次に大統領の辞任を要求し、ついには国家の制度とそれを作った人々を明確に名指して「二人とも出て行け」と要求した。
 何よりも象徴的なことは、複数の銀行本社、多国籍企業、現金自動預け払い機、複数の政治家の自宅が、群集の怒りの行動の標的になったことである。
 最近のこれらの行動のために、極端な新自由主義的政策を再び導入しようとする試みは明確に制約を受けるであろう。
 政府の打倒は、大衆の自発的な直接行動によって達成された。搾取され、抑圧され、排除されてきた人々は、純粋に、政治をつかみ、自分たちの権力と自治を回復するために行動した。何十年もの間、それは政党と体制の制度によって奪われてきたのである。これ以上勇気づけられる結果はあり得ない。選挙の投票によって任命された指導者の罷免が、具体的実践の中で始めて実現したのである。
 左翼はこの動員に活発に参加した。数が少なかったために、あるいは実生活で作られる非代表制の弁証法についていけなかったために、彼らの参加の役割は決定的なものではなかった。三つの労働者のセンター、すなわちCGT、CGT「反逆派」、CTAは、公式にはストライキを宣言したが、メンバーの動員や大衆行動への参加を呼びかけず、姿を現した後すばやく引き上げた。CGTの場合には、それは国家権力の種々の分派との妥協の結果であり、CTAの場合には、市民的勇気の欠如と政治的方向性の欠如の組み合わせの結果であった。
 したがって、行動する大衆の運動は、自分たちが何を望まないか、何を受け入れ何を拒否するかは知っていたが、何を本当に望んでいるのかを知らなかった。席をふたたび明け渡し、支配階級の利益を伝統的に表現する既存の政治的分子がそれを占めることを可能にした。
 しかし、これらの限界と欠点にもかかわらず、アルゼンチンで新しい政治的状況が開かれた。いまや大衆運動の中で、政治的代議制の新しい形態に関する論争と議論が始まっている。すなわち、代表と代表される者との新しい関係、独自の責任で物事を考え、決定し、実行する集団的能力のための舞台の設定に関する議論である。
 したがって、未来は非常に豊かで可能性に満ちているが、困難も不足していない。多くのことが社会のより意識的なセクターの介入にかかっている。これらの主役たちが自らの指導性を自覚し変革の潜在能力を豊かにすることにかかっている。
(「インターナショナルビューポイント」02年2月号)

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