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アルゼンチン  左翼統一の過程のスピードアップを  かけはし2002.3.18号より

左翼勢力の前に大きなチャンスが存在している(下)

クラウディオ・カッツ


 左翼の統一の提案は、しばしば「いまはそのときではない」とか、「人民は党を信頼していない」とかが入り混じった議論や、それぞれの組織の指導部に対する「彼らは代表していない」とか「彼らは常に彼らの間の闘争を続けている」とか「彼らはメディアのことしか考えていない」とかの批判を通じて、あるいは「統一は下から作られる」、「構造はピラミッド型である」などの、実際には既存の組織の立場の正統性に関わる疑問の形で、挑戦を受けてきた。これらの異議は、より優れたオプションを示さないがゆえに純粋に否定的な傾向をもつ。
 他方、もっと建設的な論争として、三つの可能な、しかし異なる、左翼の統一の戦略が存在する。第一のオプションは、従来から提起されてきたもので、革命党建設の必要性を、統一戦線の考え方に対置して提起するものである。究極的には、この方向性は単一組織の孤独な発展にのみ都合のよいものであり、「運動主義」の旗印によって説明される。まず「党は唯一の革命的組織である」と宣言され、次に大衆運動は「水平的で不均質なもの」であり、したがって「古い諸党」の結集を必要としないことになる。党を内部的に建設することは再編成や合同と対照的なものとして、まるでその目的が互いに相反するものとしてとらえられる。
 最善の場合でも、この政策は左翼の統一を独自の組織建設の任務の中での小さな回り道と考え、統一戦線作業に関わる場合に生じる集団的学習の外部でこの種の党建設が行われれば党建設が強い歪みをこうむりがちであるという事実を無視する。「党」あるいは「運動」の形成を弱めるのでなく左翼の統一のために闘うことは、現在の状況の中で最も有効に建設し得るのはどんな種類の組織なのかについて、経験の交流を通じて共通の理解を深めることを可能にするのである。そうせずにセクト主義的なコースを採用することは、現実に対する感覚の強い喪失をもたらし、自身の成功を過大視し、他者の成功を認識できないグループを反映したものになるだろう。
 一部の人々が唱える左翼の統一の第二の戦略的オプションは、労働組合構造にすべてを賭けるもので、CTAのいつかは起こる急進化を達成することを目指す方針であり、これは結局、一種のブラジルのPTのアルゼンチン版の形成を希望することである。アルゼンチンではこの立場は長い歴史を持っており、CTA指導部潮流と登場してくるペロン主義指導者たちの関係がいつか分裂することに希望をゆだねてきた。この可能性は常に開かれているだろうが、今日、この戦略的オプションは過去よりも支持を失っていることは明らかである。
 それだけでなく、CTA内のそれらの勢力は依然として左翼よりもペロン主義、ARI、あるいはソシアル・ポロ(変革のための戦線/社会的極)に緊密に結びついている。このために、彼らが結局どのような政治的オルタナティブを構築するとしても、社会主義に向かうものにはならず、ある種の民族的資本主義を支持するプロジェクトに向かうものになるだろう。
 ただし、この現実を理解することは、今日種々の労働組合の間に存在する政治的方向性の大きな違いに直面したときそれに対して目を閉じたり無関心であってよいことを意味するものではない。CTAは、ダエル(CGT・労働総同盟の指導者ロドルフォ・ダエルのこと)官僚制やモヤノ(CGT内反対派ウーゴ・モヤノを指す)・ギャングとは異なる。しかし、CTAに対して特別な影響力を持つには、左翼は別個の勢力として振る舞うことが必要である。
 左翼の一部が提起している第三のオルタナティブは、近年発展している道路封鎖運動や土地占拠運動や人権組織などの抵抗運動の中に直接埋め込まれた構造であるべきだ、というものである。
 この国には、非常に戦闘的な、直接行動の方法で絶えず政府に挑戦している多くの社会的セクターが存在することは、疑いない事実である。これらの闘争への関与の度合いは、各左翼潮流のバイタリティを示す良い指標である。選挙における成功だけを見て種々の組織の力を計ることが誤っている理由もここにある。
 しかし、これらの社会的運動を理想化すべきではないし、彼らが他の社会で優勢な政治的影響から隔離された、まったく別世界で進化していると考えるべきはない。ここにも社会の他の領域の主要な問題と同じ、政治的建設の同じ問題が存在している。実際これらの運動の一部に非政治化の明確な兆候が存在するとき、基礎にある急進化の幻想に惑わされることは特に危険である。たとえば、左翼に投票するのでなく無効投票をすることは、貧困地域においても、国の他の地域と同じように否定的意味を持つ。なぜなら、社会的運動が怒りに駆られて左翼に向かわないとすれば、ペロン主義専制の復活に味方するだろうからである。
 左翼の統一の戦略は、われわれが論じてきたオプションのいずれよりも、社会的闘争にとってより進歩的で現実的なオプションを構成する。しかし、このオプションは、現実に存在するチャンスを認識し、同時に左翼の文化的雰囲気の変化を推進する場合にのみ、成功するであろう。
 そのような変化は、種々の左翼組織間の関係において現在生じている変化の中に見られる。セクト主義的共食いと特徴付けられた過去のこれらの関係は衰退しているが、消滅したわけではない。一部のグループは、真の敵は資本家であり、思想と日々の苦しみの点で近しい同志たちではないことを、ついに理解するに至っている。左翼間の議論に使われる言葉は、より丁寧なものになってきている。悲しいことに、この成熟は左翼の一部には広がっておらず、彼らは、テレビで多数の人々に話す場合はその種の言語を使わないとしても、批判する場合は依然として侮辱的衒学的スタイルを取っている。

 強力な政治的ボスの伝統は、その起源はアルゼンチンのクレオールの伝統の中にあり、それ自体ある意味で左翼が再考すべき研究の対象であるが、「意見の違いは内部でのみ議論する」という考え方で正当化されてきた組織的硬直性から抜け出すとともに、このような伝統を克服することが必要である。
 このような組織機能のモードは、長年のセクト主義的実践の間に左翼の慣習となっていた。しかし、開かれた、民主的で洗練された論争を維持することにより、「新しい人類」のモデルと連帯と同志関係を模索している人々にとって、左翼はいまや魅力的空間を作り出すことができる。それは、ブルジョア政党に支配的な服従と自己中心的な対抗意識とは根本的に異なる空間である。さらに、統一を構築することは永続的な政治闘争とあらゆるギャップを明確にすることを意味する。また、これらの困難を謙虚に評価するという考え方に慣れること、批判を行っている人々の成果を認識し、批判されていることを常に比較することを必要とする。
 一部の人々は、これは左翼統一の成功に賭けるものであり、提案者の過度の楽観主義を示すものであると考えている。しかし、この戦略が正しく、現在のチャンスに適合したものであるとすれば、多少の興奮や幸福感に文句をつけるには及ばない。長い間「われわれは崩壊した」、「社会主義は死んだ」、「七〇年世代は消滅した」と聞かされてきた後では、革命家が常に度し難い「勝利を夢見る人々」であることを思い出すのも悪くはない。
(「インターナショナルビューポイント」02年2月号)


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