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W杯、キャンドルデモ、大統領選            かけはし2003.1.27号より

感性世代の「文化革命」

欲望を糸口に日常的連帯……彼らは新たな政治文化の主体へ踏みだすのか


「世代論」ではどこか不十分だ

 2002年の大統領選直前には「世代対決」が、以後には「世代革命」という言葉があらゆるメディアを飾った。インターネットと携帯電話で武装した20代の結集力は、デジデル世代がアナログ世代を退けたという言葉へと続いた。
 今回の選挙で世代論という枠をつきつけているのは、あながち間違いではないけれども、どこか不充分なようだ。中央選管委の投票率の集計や韓国放送の出口調査によれば、20代の投票率は47・5%にすぎない。ノ・ムヒョンとイ・フェチャンに対する選択の比率は3対1程度で圧倒的な傾向性を示したが、85・1%と最高の投票率を示した40代の選択比率は1対1とほとんど対等だったし、50代以上の場合も4対6程度に分かれたのに比べてみれば、そう驚くべき数値ではない。
 実際に有権者数、投票率、候補別得票率を総合して計算してみると、20代の有権者のうちノ候補に投じた数は240余万人だが、40代は300余万人、50代は320余万で、20代の比重を軽く突破する。30代では350余万票ほどになった。結局、全世代の安定した支持がノ候補当選を可能にした。
 だれもが予想できなかったチョン・モンジュンの支持撤回という直撃弾を受けても「パボ(注、本来は差別的な「バカ」という意だが、ここでは愛称)、ノ・ムヒョン」を最後の勝者に押し上げた事件にふさわしい言葉は「2030の革命」というよりも「大韓民国の人々が確実に変わった」ということではないだろうか。

W杯、キャンドルデモ、大統領選

 20代が際立っているのは少しずつ変わってきた人々の意識を、また感受性を新しい現場で可視化することに決定的に寄与したからだろう。「感性世代」という呼び方に表れているように、既成世代と違って非規律的に主体化された彼らの存在はW杯の熱風において、インターネットから出発して街頭にあふれ出てきたキャンドル・デモにおいて、そして大統領選挙において、ハッキリと浮かび上がった。そして既成世代は、堂々と自身を主張する若者たちのやり方に熱烈に呼応した。6月の「赤い悪魔」に、12月のキャンドル・デモ隊に非難を浴びせる「大人たち」を周囲で見ることはできたか。「社会構成体論争」を主導し、80年代の代表的理論家として活躍していまは脱近代の思恣を追究しているイ・ジンギョン氏の診断だ。
 「流れとして存在している大衆はモル(物質の量を説明する化学的単位)的であり分子的だ。1モルに存在する6×10の23乗ほどの気体はそれぞれ独立的だが、流れとして見ると一緒に動く。既存の制度化されたさまざまな通路、さまざまな溝に沿って流れているモル的な線分が、ある瞬間、あふれ始めた。ファンの立場にそって動くというから脱け出ることがうれしい、楽しいということを知ってしまった20代が先頭に立ち、40〜50代の既成世代がこれに合流し始めた。その伝染・感染の速度が速まるとともに、梅雨どきの渓谷が、あっという間にあふれるような現象が起こった」。
 イ氏の表現はフランスの後期構造主義の哲学者「ドゥルーズ」式の言い方だ。ドゥルーズは存在を、やむことのない運動の次元から眺める。流れ、モル的、分子的、伝染、感染などは既存の形而上学と違って、存在の運動性、躍動性を感じさせる各単語だ。このような概念は20代が示している新たな感性を理解する上で有効だ。もう少し耳になじんだ社会科学的言い方に変えてみよう。20代に代表される新たな主体たち、そしてここに多数が呼応する既成世代の変化をどう言い表すことができるのか。チョ・ハネジョン延世大社会学科教授の言葉だ。

巨大談論崩壊で日常に注目した世代

 「単純なスローガン、イデオロギーではなく、欲望、イメージ、感受性が重要な時代だ。いまや単純な論理は退屈で、大衆はそのような論理によって後期近代的問題を解決することはできないということを、よく知っている。新たな文法を持った主体たちが登場し、彼らは少なくとも単一民族、単一の主体、単一の巨大談論とは決別したがっている。個人を中心にして暮らしを再構成していくことに関心を持っている、自身の日常を掘り起こし、個性を生かしたがっている人々だ」。
 このような新たな主体が突然、天からポンと降ってきたわけではなく、既成世代の変化もまた、ある瞬間に生じたわけでもない。時間をさか上ってみよう。90年代以後、巨大談論が崩壊するとともに変革の陣営はグラムシの陣地戦論、フーコー、ドゥルーズ、ボードリヤールなどが多様に提示している脱近代論的方法論に注目し始めた。
 すでに大分以前に「ルモンド」が「ポスト・モダニズムという幽霊が徘徊している」として大々的な論争を呼び起こした現象が、局地的に再現された。ポスト・モダニズムの実体についての論争としてかまびすしかったが、一部では「日常」、「欲望」に注目したこの思惟体系の有用性に注目し始めた。
 例えば1991年の『ポスト・モダニズムと批判社会科学』(文学と知性社刊)を著した少壮学者キム・ソンギ氏が「ポスト・モダニズムの目でマルクス主義を見る場合、意外な政治変革の展望も期待できるだろう」としてポスト・モダニズムとマルクス主義との関係や接点を確認しようとした。
 「理性、主体、進化、発展を前提とする近代の論理を乗り越えなければならないという主張が提されている。……これまで文化は社会的付帯現象として萎縮するか、反対に極端な自律性を付与されたりした。だが文化というものが実際に位置すべき所は経済でもイデオロギーでもなく、むしろ日常と欲望の次元だ」。
 「具体的」人間に絶対的に与えられている現実は日々の日常的、文化的暮らしだ。このような認識が事新しいのは、中央に組織された政治集団が個々人の欲望を代弁する現実は日々の日常的、文化的暮らしだ。このような認識が事新しいのは、中央に組織された政治集団が個々人の欲望を代弁することはできないという「考え」と無関係ではなかった。
 労働現場を凝視していた視線の一部は放送、映画などの文化の現場になびき、80年代という意識の洗礼を受けた人々は日常での革命を夢見て「文化の担い手」へと踏み出した。大衆文化はまさに勃興し始め、いわゆるソテジ(元人気歌手グループ)世代は大衆文化の気運をたっぷりと受け、自分たちだけの感受性を育み楽しみつつ、新世代の出現を告げた。彼らはチェ・ゲバラのTシャツを好んで着ながらも社会主義の理念に恋々とはせず、太極旗のファッションを楽しみながらも国粋主義の嫌疑を漂わせない非規律化した存在となった。

文化の現場に進歩の地平を広げ

 日常を支配している欲望の政治地形図において、進歩陣営が主導権を握らなければならない理由は一層、明らかになった。CFさえ「私は私!」と宣言し、自身の欲望を堂々と表して楽しめ、と「扇動」する消費資本主義の時代が広々と広がったのだ。
 「1930年代の大恐慌以前の資本主義はプロテスタンティズムの倫理に基づいた苦痛にみちた節制と禁欲とによって蓄積を進行させた。例えば禁酒法を思いうかべて見よ。だが過剰生産は大恐慌を生み、資本主義はそれまでの調節システムを変えた。国家や資本が乗り出して欲望を煽り始めた。ケインズの有効需要理論は、そういうものではないのか。韓国では87年前後に変わっていった。欲望を抑圧するよりも絶えず刺激する時代が、ぱあっと開かれた」(イ・ジンギョル)。
 赤い悪魔、キャンドル・デモ、大統領選へと続いている一連の現象を「文化革命」と呼ぶことができるのは、このあたりではないだろうか。進歩陣営が文化運動という名によって大衆文化の「ヘゲモニー」を少しずつ握ってゆき、大衆文化の世紀がわあーっと開かれた90年代を駆け抜けたN世代は、完ぺきに分子的大衆(階級や民衆ではない)へと成長し、彼らが面白い、あるいは気持ちがいいと感じる事柄に出会うと一瞬にして勢力化した。W杯の熱風のような非政治的祝祭に出会い、存在感を可視化した彼らは、反米という政治的事案に出会ってキャンドルデモによってアイデンティティーを再確認したが、大統領選でも目いっぱい遊んでしまった。
 彼らの属性は当然にも保守とは全く似つかわしくなかったばかりか、保守から見れば危なっかしいこと、この上ない。イ・フェチャン候補の政治哲学や国政ビジョンを盛り込んだ「未来を開く窓」を代表執筆したコン・ソンジン韓陽大教授は、12月26日に放送された文化放送「100分討論」で20代を指して、こう語った。「見たいものだけ見、聞きたいことだけ聞いている世代は、どこか非正常的だ」。同日、キム・ヒョニル「中央日報」論説委員も似たような論理で「(彼からが選択した)大統領選の結果も、どこか非正常的だ」と繰り返し語った。
 自己の欲望に後ろ暗さを持つなと、TVを通じて、歌を通して、映画によって多くの暗示を受けてきた既成世代の感受性も、かつてのようではなかった。彼らは北の核の危機、「アカ」攻撃、地域主義など守旧勢力が封じ込めた欲望の通路のかわりに、現実的で個人的な欲望を選択した(特に忠清道と江原北部地域の「変身」はピッタリとあてはまるのではないのか)。

「指導論」ではまた失敗するか

 欲望の政治地形は今後、どう展開されるのか。欲望がどこに飛び跳ねるのかはだれも分からない。だからなのか、一部では「意識ある」30代が10代、20代を率いていくべきだという「指導論」を用心深く持ち出す。だが、イ・ジンギョン氏は断固として「指導論」を批判する。「組織化という、前に失敗した枠組みを持って30代が飛びかかる瞬間、新たな大衆は、あっという間に消えて見えなくなってしまうだろう。どのみち大衆運動は、いつでも再び踊り出てこれるポテンシャル(潜在力)の順位で存在する。非政治的に流れている大衆の欲望が政治的に合流する地点を一層、拡張しなければならない。例えば反米という現在の動きは韓(朝鮮)半島の平和のための反戦の問題として一層広く深く進めなければならないのではないのかと思う」。
 「正しい/間違っている」よりも「良い/嫌だ」という基準で生きている世代において互いに排他的に別れることのできる個人主義の危険性を見てはとれるものの、同時に違いを認めながら連帯と疎通を可能にする長点を読みとることができる。サイバー空間を通じた談論の形成と流通に面白さを感じた人々はいまもう一つの「食いぶち」を待っているのかも知れない。(「ハンギョレ21」第441号、03年1月9日付、イ・ソンウク記者)




「文化的反権威主義」はどんな方向に向かうのか

 それは本当に新たな現象だったのか。ノ・ムヒョン候補の当選に終わった大統領選挙をめぐってにぎやかな論争が続いている。以前とは全く異なって見える社会現象をめぐって正確な分析が出せないマスコミは、たやすく「世代論」によりかかっている。20〜30代の改革性向の有権者が既成秩序を転覆し、主流社会を「接収」したというのだ。
 だが、ちょっと考えてみよう。20〜30代が改革的候補に票を投じたことが新たな現象なのか。しかも韓国放送とメディア・リサーチが共同で実施した出口調査の結果を見ると、今回の選挙で20〜30代の投票率は、それぞれ47・5%と68・9%で、全国平均投票率70・8に及んでいない。むしろ40代と50代以上はそれぞれ85・8%、81・0%で平均投票率を上回っている。
 「今回の選挙の大きな特徴として印象づけられたほどには世代による差別性がハッキリしたとは思えない。キム・ヨンサム、キム・デジュン政権を経て広がった民主的地平が効力を発揮したという分析が妥当だと思う」。クォン・ヒョンテク聖公会大教授(日本学)はあふれかえる「世代論」を警戒した。インターネットと携帯電話で武装し、即時的な双方向型の意思疎通を通して政治改革を主導するだろうという展望は「若い世代の中の一部の先進分子たちにみ当てはまること」だと言いきった。政治を楽しみ、選挙を祝祭と理解して参加している積極的な若者よりも、政治に無関心な若者がより多いというのがクォン教授の見解だ。
 同じ大学のチョ・フィヨン教授(社会学)も、このような認識に部分的に同意する。明らかに改革志向的な姿を示しながらも、財閥の息子であるチョン・モンジュン氏に簡単に魅了される程度に20代の政治文化は多様だ。そのような若者たちの目から見ても韓国政治の後進性が深刻だということはあった。このためにチョ教授は今回の選挙を「政治的挑戦勢力である386世代と文化的挑戦勢力であるW杯世代の出会い」だと分析する。1980年代の政治的経験のある386世代が先導するかっこうで30代と20代の改革的結合がなされたというのだ。
 87年6月に触発された政治革命はノ・テウ政権の登場によって挫折を味わった。けれども日常的、文化的次元で既成秩序や特権層に対する反乱は絶えず続いてきた。これをめぐってチョ教授は「文化的反権威主義」だと表現する。彼は「68年5月にたった1回、噴出してヨーロッパ文化を転覆してしまった、いわゆる『68革命』と違って、わが社会の文化革命は15年余の歳月をかけて持続的に実現されてきた。失敗した政治革命の動力は、根深く残っている日常的、文化的権威に対する挑戦へと続いた。これが既成の体制を変え、変化をつき動かしてきた」と言う。
 だとするなら今回の選挙で表れた変化の動きは、どこまで広がっていくのだろうか。性急な人々は既に2004年の総選挙まで視野に入れている。若い世代の積極的な参加を通じて古い政治構造が撃破されるだろうとの希望混じりの展望が打ち出されている。だがクォン教授は「高度成長期を経るとともに社会的緊張度が高まっているうえ、いわゆる『新自由主義』という現政府の競争促進政策によって、競争から疎外される若者たちが増えている。社会的緊張度を低めない限り、疎外された若者たちの政治的無気力症は、むしろ深化しかねない」と指摘する。同じ年頃の、47・5%の後ろに隠れている52・5%に達する20代に、わが社会の耳目を集めなければならない時だ。(「ハンギョレ21」第441号、03年1月9日付、チョン・イナン記者)

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