| フランス年金改悪・公共サービス民営化・教育リストラ かけはし2003.11.24号 |
今年五月から六月、ラファラン右翼政権による年金改悪や民営化などの新自由主義的攻撃に反対する連続した全国的ストライキと、数十万人を動員する大規模な街頭デモが繰り返された。CGTやCFDTなど大労組指導部がほとんど屈服するなかで展開されたこの闘いは、フランス社会運動の新段階を示すものである。
二〇〇三年五月〜六月のストライキ運動は、フランス社会運動の重要な段階を画するものであった。一年前に政権の座についたラファラン政府は、多くの新自由主義的改革の実現を目標に掲げ、国家の役割の再編と賃金労働者の生活条件に対する攻撃を進めた。
欧州連合(EU)諸国の多くが、第二次世界戦争後かちとられた社会保障を解体する上ですでに重要な処置を進めているのに比べると、フランスは資本主義的観点から見ると、雇用、社会的保護、公共サービスや年金などの面で遅れている。
ラファラン政府は、二〇〇二年六月に政権の座について以来、ジョスパン社会党政府がすでに設定していた道を引き継いで民営化を加速すると公言していた。政府が標的に選んだのは、EDF/GDF(電気とガス)、エールフランス、フランス・テレコムである。また政府は、EUの要求に適合させるという名目で鉄道輸送と郵便サービスの新部門に競争を導入した。
二〇〇二年秋には、これらの攻撃は関連部門の職員の多くの動員をもたらした。教員はすでに補助教員の仕事の抑圧に反対して大衆的な動員を行っていた。しかし、これらの反応はまだ分散的であり、一方、労働組合運動の指導部は、二〇〇二年五月の大統領選挙における左翼政党の敗北によって麻痺しているようであり、これらの「改革」が複数左翼(社共)の政策の継続だったために、方向感覚を失ったように見えた。
このような中で二〇〇二年十二月には、政府は電気とガスの民営化を開始することを決定し、手始めにこの部門の職員の年金を管理する年金基金を創設した。これまでは会社は年金資金割当てを直接その口座に統合していた。FO(労働者の力)とSUD(連帯・統一・民主)を例外として、この部門の労働組合でこの計画に反対したところはなかった。広範な労働組合のこのような支持にも関わらず、一月九日の投票では職員の大多数が改革を拒否した。この投票が、数週間後に政府が提案する年金改革を大衆的に拒否する基盤となった。
年金改革は、どこが政権を取ろうと新政権にとって必須の通過儀礼として、大統領選挙の前から予想されていた。複数左翼と右翼のどちらも、この問題を人口動態学的至上命令であるかのように表現していた。彼らの主張によれば、シェアアウト年金(拠出型年金)システムを均衡させるには、二〇四〇年までに職員の払い込み期間の延長が必要になる。フランスでは定年は事実上、平均的に五十八歳に始まるが、ジョスパンとシラクは二〇〇二年三月のバルセロナにおけるEU首脳会議で、これを五年間延長することを約束していた。
フランスの職員は、シェアアウト年金システムで六十歳から満額受け取る権利を持っている。すでに最初の攻撃は、一九九三年バラデュール右翼政府によって行われていた。バラデュール政府は、民間部門の労働者が年金を満額受け取るには四十年間支払わなければならないという改革を導入した。
この攻撃は、労働者の運動からの何の反応もなしに行われた。したがって、ラファラン政府は改革を社会的公平の問題として提出した。民間部門と公共部門の調和をはかる過程、というわけであった。鉄道労働者のストライキが国を麻痺させた一九九五年十一月〜十二月の「再現」を恐れて、政府は特別年金制度の恩恵を受ける職員、すなわち鉄道労働者(SNCF)、パリ交通労働者(RATP)、電気およびガス労働者(EDF/GDF)は提案されている改革の影響を受けない、と発表した。しかし、彼らが次の標的になることは、だれもがとっくに知っていた。
一月から目標は決まっていた。公共部門での拠出期間を四十年に延長し、後にそれを全職員の期間延長に道を開くドアにすることを、六月末までに議会で可決立法することである。政府は、労働組合連合組織の合意署名を求めなかったが、もちろん社会党の善意と、二月に行われる予定の「対話」会議の枠組の中で少なくとも組合運動の一部の支持をあてにしていた。
労働組合指導部は守勢に入り、一九九三年の後退を取り戻す挑戦や「すべての人々に三十七年半(の払い込み期間)」を防衛することを拒否した。社会のための選択で中央での決戦を準備しようとせず、政府との最もましな妥協を追求した。このようにして二〇〇三年一月には、すべての大組合組織、すなわちCGT(労働総同盟)、CFDT(民主労働総同盟)、FO(労働者の力)、CGC(管理職組合総連盟)、UNSA(自治労働組合全国連合)、CFTC(キリスト教労働者同盟)、FSU(統一組合同盟の注1)は、CFDTの路線に代表される政綱を採用した。加入期間三十七年半を要求の軸にせず、政府のもくろみを社会的に反動的な雇用主の攻撃として非難しなかった。二〇〇三年のCGTの大会は、多くの反対があったとは言え、この路線を支持した。
二〇〇三年二月一日土曜日、労働組合統一戦線が組織した全国統一行動日に、百以上の町で七十万人以上の労働者がデモ行進した。どこでも要求は「三十七年半を守れ」であり、組合連合アピールの基礎に挑戦するものであった。
翌日から、政府と組合の間で議論がはじまった。指導者たちは政府の目的の残忍性に気づかないふりをし、みんなCGT指導者ベルナール・チボーにならってラファランの議論の「あいまいさ」について語った。
年金改革が軌道に乗ったと考えた政府は、国立教育機関の専門技術職(ATOS)である学校心理士と職業アドバイザ(Copsy)に対する直接攻撃を開始した。約十一万人の職員が公務員としての地位を失い、多数の国家機能の非中央集中化の枠組の中で地方政府に移管されることになった。この攻撃は、教育補助員の仕事の抑圧と組み合わされたものであった。
国立教育機関の職員の何度かの全国ストライキの中で、三月に学校と大学で、特にボルドーとパリで、「継続可能ストライキ」が始まった。
このとき以降、国立教育機関における運動は社会的運動の原動力となった。非中央集中化プロジェクトと年金改革の両方におびやかされているこのセクターは、全国労働組合連合(CFDTを除く)が設定した統一行動日である四月三日とメーデーに大量に動員し、巨大なデモストレーションを出現させた。いたるところで職種を越えた集会が開かれ始めた。
これ以降、一九九五年のジュペ・プランの新自由主義に反対する反乱以来八年ぶりに、フランスは未曾有の広がりをもった社会的政治的激震を経験した。この運動はいくつかの重要な特徴を持っている。
b一九九五年よりさらに大規模なストライキ。何百万もの労働者がストライキに参加したが、その中には多くの若者がいた。これは賃金労働者の新しい世代の社会運動への参加を示すものである。この現象はストライキのバックボーンとなった国立教育機関において顕著だったが、すべてのセクターに見られた。
b運動の全国的ひろがり。フランスのほとんどすべての町や村でデモストレーションが行われ、イニシアティブが作られ、職業を越えた集会が行われた。
b教育部門の継続可能ゼネラル・ストライキ。一部の地域では二カ月以上続いた。一つの職業部門のストライキの長さとしては一九六八年五月以来のことである。
b七度にわたるストライキとデモストレーションの全国統一行動。二月一日、四月三日、五月六日、十三日、二十五日、六月三日、十日。二〇〇三年メーデーと同じように、数百万の労働者のデモが行われた。
b多くのセクターにおける部分的な継続可能ゼネラル・ストライキ。SNCF、郵便、フランステレコム、税務、ANPEなど。
b大きな動員に民間部門が参加したことは重要である。それは一九九五年より大規模であった。パリ地域より地方都市で重要であった。
b職業を越えた集会の設定。一般に教員によって呼びかけられ、町や近隣社会で行われ、多くの動員のイニシアティブとなった。
bブーシュ・デュ・ローヌ県やピュイ・ド・ドーム県をはじめとするフランスのいくつかの地域における、特殊なタイプの継続可能地域ゼネラルストライキ。
もう一つの重要な要素は、ストライキ運動の側のオルタナティブ的対応の力である。ここにはグローバルな正義のための運動やコペルニクス財団やATTACのような協会が果たした仕事の重みが感じられる。他の動員されたセクターと同じように教員の運動の中にも多くの革命家が存在する。富の分配の問題や社会的正義の要求が、運動のテーマとして取り上げられた。
五月の始めから、政府は一九九五年の妖怪にとりつかれた。政府は決意を再確認したが(ラファランは五月七日午後、「街頭が支配しているのではない」と宣言した)、部分的に戦術を変更し、CFDT指導部に対して提案されている法律にすぐに合意署名をするようにせっついた。
この署名は五月十四日に行われたが、それは約二百万人のデモ参加者の支持を受けたストライキ統一行動日の翌日であった。この統一行動はあらゆる部門の公務員の高率の支持と民間部門の多数のストライキの支持を受けていた。この署名はこの労働組合連合に深刻な危機をもたらし、一月に構築された労働組合統一戦線を分裂させたが、運動を破壊することにはならなかった。
五月九日には、国立教育機関の主要労働組合FSUの指導部が継続可能なゼネラル・ストライキを呼びかけたが、これは五月六日以来多くの施設、小学校、中学校ですでに実現していた。五月十三日の後、継続可能ストライキは特に鉄道、フランス・テレコム、郵便局、税務へ拡大する可能性があった。
しかし、CGT指導部は全面対決を望まなかった。民間部門との断絶の恐れを唱えて、CGTは特に鉄道や郵便局仕分けセンターの中での継続可能ストライキの呼びかけに反対した。多くのCGT支部やFOやSUD組合が戦闘的姿勢を示し、CFDTの組織は指導部の態度を拒否したが、最大の労働組合連合の重みは大きかった。その後の大衆動員と教員の力は、事態を逆転させるには十分でなかった。
運動の社会的力とその限界は、フランスにおける社会的政治的力関係の状態に新たな光を投げかけている。人々の広範な階層の新自由主義的反改革に対する抵抗が確認された。
二十年間にわたって、歴代の政府の支持を受けて支配階級は被雇用者に対して一連の得点を挙げてきた。再編成、規制緩和、民営化、低賃金、不安定労働の増加、などである。それにも関わらず、あらゆるこれらの攻撃も大衆の抵抗を屈服させることはできず、新自由主義はこの国を征服することができなかった。
これは全国政治情勢の分析の最も重要な点である。同時に、伝統的左翼の社会自由主義的転換と労働組合運動の支配的セクターの交渉労働組合主義への「回帰」、労働運動の意識、組織と指導部の危機の否定的影響、反資本主義的オルタナティブの弱さが、闘いの結果にのしかかっている。
二〇〇三年春の動員は、二〇〇二年四月二十一日に対する社会運動のそれなりの反応であった(2)。あの日、長年にわたって醸成されていた社会的政治的危機、伝統的政党に対する幻滅が表面化した。それは主として国民戦線の影響力と大統領選挙第二回における同党の得票に示されている。
評論家は、もう一つの政治的現象であった極左派(トロツキスト)が三百万票を獲得したことを軽視したが、今日ではこの危機は、政治的社会的舞台への数百万の職員の噴出として明白に現れている。彼らは長い間従ってきた新自由主義的政策から生じる問題に対して、行動と社会的動員を通じて応えている。四月二十一日は、新自由主義に対するナショナリスト的反動的反応を明確にした。二〇〇三年春は「階級闘争」の反応である。それは動員の二つの次元、社会的次元と政治的次元に示されている。
政治的には、政府は世論をかちとってはいない。反対に、動員の最中には、六〇%以上がストライキに同情的であった。ストライキは、制度の正当性の危機を強めた。これは、大統領選挙の第一回投票でシラクが一九・八八%しか得られなかったことを思い出させる。ラファランの「街頭が支配しているわけではない」という主張とは反対に、数百万の教員や職員の動員は、多くの民衆にとって、議会における議員の多数決以上にではないにしても、正当であると映ったのであった。
政府は全面対決を求め、年金、非中央集中化、大学の自立化などあらゆる重要な改革の追い討ちをかけた。ストライキの圧力の下で、最後の二つのプロジェクトに関しては部分的に後退せざるを得なくなった。年金に関してはフィヨン法を押しつけることに成功したとしても、運動の社会的力の抵抗を受けている。
政府は年金に関しては勝利したが、社会的運動は戦いに敗れて引きあげたわけではない。一九八〇年代の英国とは異なる。英国ではサッチャーはストライキ運動をつぶし、労働組合運動を永続的に打ち破った。国際的環境はもはや同じではない。新自由主義的反改革には異議の声があがっている。グローバルな正義のための運動が存在する。二〇〇三年の社会的春の力学は敗北の力学ではない。めざましい社会的動員、何百万もの職員の動員があった。では、ゼネラル・ストライキが実現しなかったのはなぜか。
労働運動の一般的状況に関連していくつかの説明が行われている。伝統的労働運動の全体的弱体化、民間部門における雇用主側からの圧力、などである。このような一般的状況の中で賭けられた社会的政治的賭け金の高さ(問題の大きさ)も、動員に対する一連のためらい、疑問、障害をもたらした。何カ月にもわたって、年金改革は人口動態学的技術的必要性の問題であると説明された。四十年の加入期間への道に関する左翼と右翼の合意は、二〇〇二年三月のバルセロナにおけるEUサミットにおいて明らかであった。
国立教育機関におけるストライキ運動とその継続可能ゼネラル・ストライキへの転化が、事態をひっくりかえした。教員(その多数派は女性である)は束縛を振り切ることによって、運動に急進的内容を与えた。
この状況が、年金改革に対する被雇用者の精神の変化を作り出した。世論調査によれば、二・三月と四・五・六月の間には大きな変化が見られる。回答者の多数はフィヨン・プランの撤回または新しい交渉の開始を支持した。しかしこのことによって、労働組合の分裂や特定部門の少数派の動員や多くの労働組合チームが全面対決やゼネラル・ストライキの可能性について準備ができていなかったという問題がなくなるわけではなかった。
しかし、これらの障害にも関わらず、動員は社会のあらゆる層に達した。このようにして全国組合連合指導部の責任はつぶれていく。CFDT指導部の役割は意外ではない。一九九五年の場合のように、CFDT指導部は右翼政権と新自由主義反改革を支持した。この全国組合連合で新たな危機が始まった。しかしCGTの指導部と、それなりにFOの指導部も、継続可能ゼネラル・ストライキを望まなかった。五月七日、五月十四日、五月二十六日、六月四日の四度の機会に、CGT指導部はCGTの全勢力を継続可能ストライキにゆだねることを拒否した。CGTの継続可能ストライキの呼びかけに反対する主張は、次のようなものであった。
(a) ゼネラル・ストライキは指令することはできない。
当然である。しかし、ゼネラル・ストライキを準備することはできる。特に、政府が設定した挑戦課題に対応した目的を設定することができる。CGTはそうしようとはしなかった。
(b) 民間部門を巻き込まなければならない。
この議論に訴えて、CGTは加入期間三十七年半の要求やフィヨン・プランの撤回の要求を拒否した。一言で言えば、CGTは公務員のゼネラル・ストライキを呼びかけることを望まず、決定的力を発揮するものを望まなかった。
民間部門は部分的に闘いを行っていた。それは一九九五年のとき以上であった。少数派ではあったが、いくつかの大企業でスト参加者がいたことは重要である。ルノー・クレオン、ル・シャンチエ・ド・ラトランティク、ガス・ド・ラク、ミシュランなどである。地方の多くの小企業がデモの間、仕事を停止した。
さらに、民間部門のゼネラル・ストライキの呼びかけは力関係の構成要素を構成することができる。公共・民間の反対の恐れ、ルペンが公務員のストライキをポピュリスト的に利用する恐れが、メディアが繰り返す政府寄りの強力なプロパガンダの中での運動の人気の中の悩ましい矛盾となった。
(c) 継続するにはスト参加者はあまりにも少数派である。
やはりここでも、問題を詳細に議論する必要がある。鉄道の場合、五月十四日と十五日のストライキは少数派であったが、一九九五年の場合より重要であった。最初は少数派であったストライキが、教員の場合のように、多数派のストライキになる可能性がある。ここには「政治的善意」があふれている。
CFDTと政府の合意と目覚しい教員の動員によって動揺したCGT指導部は、運動がコントロール不能になる可能性がある闘争の集中を拒否した。
さらに実質的には、CGTの全国連合委員会へのルディグの報告書が示すように、CGT指導部は「組合主義回帰」戦略を実行したのである。「われわれの戦略は政治的なものではない。あれこれの政府の打倒や右翼政府を暴露することを目指さない。……例外的な状況の下でCGTが呼びかけるのは、ゼネラル・ストライキのスローガンではない」。
明らかにCGTは、政府の政治危機への道を開こうとしなかったのである。砲火を集中し、政府との対決に集中する必要があったのに、当時の行動を通じて、大衆運動の帆が受けていた風を逃がしたのである。FO指導部の場合は、おずおずと「職業を超えたゼネラル・ストライキ」のスローガンを採用したが、運動ではCGTのスケジュールに従った。
FSU(運動の圧力とこの全国連合の戦闘的部分の提案を受けて)と組合連合G10連帯(新しいSUD組合を含む)だけがゼネラル・ストライキを呼びかけたが、それを実行する力は持っていなかった。
よく言われる議論は、政治的オルタナティブの不在、ということであった。しかし、社会の選択の問題や、資本主義的新自由主義的政策に対するオルタナティブの問題、富の分配の問題、利潤に食い込むことによる年金の財源確保の問題を提起したのは、ストライキ運動自体であった。(つづく)
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