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ベネズエラ                      かけはし2003.11.10号

チャベス政権と「ボリバール革命」の現在(下)

エドワルド・ディアゴ



ボリバール主義憲法の制定

 チャベスは複数の選挙に連続して勝利することになる。まず、一九九八年十二月に、ほとんどすべての既成政党に対して勝利をおさめた。PPTは下部党員の圧力の下でチャベスを支持することを決定し、当時の中心的指導者パブロ・メディナ(4)の意思に逆らった。社会主義を目指す運動(MAS)は、カルデラの最後の右翼政府(一九九三〜一九九八年)の中心であったが、やはりチャベスを支持し(5)、主要指導者の離党をもたらした。他の政治勢力はすべて反対にまわった。それにも関わらず、チャベスは五五%の票を獲得して選挙に勝利した。
 彼の偉大なる政治プロジェクトは、「全権力を人民へ」のスローガンの下に立憲的改革を推進することである。これを達成するために、彼は憲法制定会議を設立するための国民投票を呼びかけた。この会議の選挙において、彼の支持者は九〇%の議席を勝ち取った。一年以内に新憲法が作成され、任期が更新される前の二〇〇〇年八月に憲法制定会議の多数によって承認された。このとき、チャベスは一九九八年十二月の選挙で得たより多くの票を得たわけである。
 ベネズエラ・ボリバル主義共和国の新しい「ボリバル主義憲法」は、多くの領域で正真正銘の革新的内容を含んでいる。法の状態の概念は法と正義の状態によって置き換えられ、参加型民主主義の概念が導入された。
 国会議員は罷免される場合があることになった(6)。労働者の共同体の概念および自主管理の原則が導入された。コロンブス以前の時代の人々の先祖伝来の伝統に従って管理される土地所有権を含む先住民の権利が認められた。この憲法はフェニミスト的である。多くの憲法の条項の中に環境防衛の原則がうたわれている。独占権としての生命有機体特許取得が禁じられた。原料としての石油は、私有が可能な分野から除外された。領土内の外国軍隊の存在は禁止された。連帯とラテンアメリカ統合の原則は卓越した位置を得た。
 他の要素は、権力を獲得したブロック内での交渉の結果、すなわちブロック内の右翼との妥協の結果を示している。旧体制に起源をもつ非中央集権的警察力の原則は維持された(7)。
 妊娠中絶は、鋭い論争の後、中絶支持のチャベスの立場(二〇〇三年四月にも公然と繰り返された)にも関わらず拒否された。性的指向性による差別禁止は、討論の中では導入されなかったが、チャベスは最近ゲイの権利を防衛した。自由企業は、生産手段としての私有財産と同じように、憲法の原則として維持された。このように、憲法は明らかに資本主義体制の枠内に存在している。とりわけこれらの例は、チャベスの党が権力の最初の時期に正真正銘の反動勢力を取り込んだことを示している(8)。
 純粋な社会革命をさまたげる要素がちりばめられているが、それにも関わらず憲法は半直接民主主義あるいは参加型民主主義を目指す民衆運動にとって貴重な道具である。それは「ボリバル主義革命」の真の革新である。

社会は大衆運動の渦の中に

 数千のボリバル主義者のサークル、民衆集会、闘う労働組合、女性や学生の集会、農村あるいは農地のための委員会、数十の一般民衆の政治グループが、今日のベネズエラを運動の中の社会にしている。これらのすべての組織が、国家元首からの率直な圧倒的な支持によって利益を得ている。国家元首は、これらの中に国の変革に必要な意識の高まりの純粋な過程を見ている。
 このようにして、たとえば、学校を閉鎖するという政治的な決定に反対して学校制度を防衛するためコミュニティの動員が、国家元首の支持を得て行われる(9)。民衆階級のための公立大学開設を求める学生集会が、高等教育相の支持を得て行われる。国立女性研究所は、家庭内暴力や職場での暴力に反対する女性を助けるために、全国数千カ所に「集会所」を開設し、彼女たちに自分たちの権利を知らせ、他の権利を手に入れるために組織化を推進した。
 また女性研究所は、女性たちを組織して公共クレジットにアクセスできるようにし、自立した経済活動者になれるようにした――提案されている活動が性的分業の形態を再生産するものであったとしても。多数の新しい労働組合が、野党に結びつけられているCTV連合の外部に出現した。これらの労働組合は、今年の初めに、新しい全国連合UNTを結成することを決定した(10)。
 カラカスは約四百万人が住む都市である。住民の大きな部分が「バリオス」(ブラジルのファベラスに似たもの、スラム)で生活している。最初は掘っ立て小屋であっても、バリオスは年月を経て真の近隣社会に転化し、そこでは住民が所有権を持たない占拠した土地に自分たちの家を建てる。これらの近隣社会はチャベス主義者の拠点となり、大統領の「自分たちを組織せよ、あなた方を政治的、経済的に支援する」というアドバイスにしたがって自己を組織化する。このようにして民衆集会が作り出され、新しい制度によって強化された。すなわち、民衆計画立案のための地方評議会である。
 ここにボリバル主義革命の最も興味深い微妙さが存在する。国家の長が民衆組織による国家転覆の首謀者なのである。高度に官僚化された国家に直面したウーゴ・チャベスは、近隣社会の問題を直接自分たちで管理するように同胞に訴え、労働者が企業を管理するよう奨励した。この印象的な政治的突き上げは、しかしながら、ベネズエラ社会の真の変革をもたらしているわけではない。

さらに大きな改革が必要だ


 三年間で読み書きできない人をなくし、家賃を半額にし、電気を国有化し、農業改革を実施したキューバ革命とは異なり、ボリバル革命は、未だ大きな構造的改革を実現していない。しかし、カストロ主義革命とは異なり、チャベス主義は新聞を弾圧せず、政党を禁止せず、政治犯を投獄していない。したがって、どちらの意味でも、ボリバル革命をある種のキューバ化だと言うことはできない。
 それにも関わらず、人民がこの政府の可能性に対する信頼を失わないようにするには、大きな構造的改革が必要である。人民に食料を供給する大計画を、数カ月前におずおずと開始されたことを基礎にして展開する必要がある(11)。公共衛生はひどいぼろぼろの状態にある。しかし、全国教育改革が開始され、ボリバル学校が開設された。ここでは生徒の給食と全日制授業が保証される。
 しかし、これらの欠点の全責任を政府のみに負わせることは誤りであろう。政府が直面している大きな困難は、国家機構の大きな部分に対する支配が存在しないことである。この官僚的現実は、二十世紀後半の開発のベネズエラ・モデルによって説明される。
 ベネズエラは四十年間石油収入によって生活してきた。石油収入は税収の五〇%、輸出の八〇%を占めている。食料の七〇%を輸入に頼っている。国の経済モデルは原油輸出に基づいており、国の工業化に投資されることはなかった。正しく言えば、ベネズエラは民族ブルジョアジーが指導する資本主義国ではない、と言うことができる。
 雇用者階級に依存するいわゆる労働階級も正しく言えば存在しない。労働者の五〇%はインフォーマル・セクターで雇用されており、最大のフォーマル雇用者は国家であり、フォーマル・セクターの仕事は旧体制の支持者最優先主義モデルに従って雇用されている。各大臣やサービスの管理者は、他の人を解雇せずに自分の友人を雇い入れる。政党の党員はこの支持者最優先主義を基礎にして組織されている。一例を挙げると、カラカスのリベルタドール区の新聞通信サービス部は実に五十四名の人員を抱えている。既存の民営企業は国家の初期支援を受けて設立されたもので、これらの企業のオーナーは税金の意味さえ知らない人々である。

提起される革命の根本問題


 ベネズエラには、ブラジルの労働者党(PT)のようなその名前に値する労働階級の党は存在しない。チャベスは、機構も戦略的展望もなしに権力の座についたのである。また、彼はベネズエラ人が党というものに対して抱く巨大な不信感の産物でもある。実際、民衆運動の要求に応えて明確な方向を政府に与える構造化された党は、まったく欠如している。
 変革の戦略的プロジェクトの不在は、内発的な開発および生産力の発展のための一国的資本主義の建設(実際、場合によっては資本家階級の建設)の必要性と共同管理または自主管理に対する熱望の間でためらう議論を産み出している。
 革命家出身であるにも関わらず、ウーゴ・チャベスには政治的教育が欠如している。そのことが、アルフレド・パナやルイス・ミキレナのような、国家機構と一体になって敵対の主役を演じるような人物に信頼を置くようなことをもたらした。同時に、今日チャベスの周りにいる政治的社会的勢力は、一九九八年に彼を支持した人々よりは明白に左翼である。
 非理性的な野党に握られているメディアに直面して、民衆運動はラジオおよびテレビの内容に関する法律を作成し、現在議会で議論されている。おずおずとではあるが、この法律は、政府がもはや情報の操作にフリーハンドを与えないという決定をしたことの現れである。新しい労働組合連合UNTは、一九五八年以来ベネズエラにはびこっていた階級協調の伝統に反対して、階級闘争の舞台に明確に登場した。石油部門の雇用者側のストライキの敗北後、政府は石油産業の支配を握った。
 いまや、裁判制度と選挙評議会の支配を握ることが必要であり、チャベスの支持者として当選しながら野党に寝返った国会議員や知事を取り除く必要がある。
 ベネズエラで進行中の政治過程は、目新しく、われわれ自身の政治的伝統に関する疑問を提起するものである。中央権力の掌握だけでは、国の富を共有するために必要な変革を行うには十分ではない。法的枠組を厳格に通過する変革の過程の枠組の中では、権力の分散が官僚的抵抗に対するオルタナティブであり得ることを、ベネズエラはわれわれに教えている。
 政治的プロジェクトは革命的ではないし、さらに支配階級は民衆投票を受け入れてはいない。経済と政治の権力を握っている者たちは、チャベスが行おうとする改革を阻止するためにあらゆることをするだろう。ベネズエラは革命的過程の中心問題を提起している。すなわち、「民主的平和的革命」の枠組の中で支配階級の利益に正面から攻撃を加えることができるのか?。
 ベネズエラでは、革命運動の固有の歴史のために、軍は明らかに政府の支配下にある。このことは、非民主的結果を避けるために十分であろうか?

当面の展望と問われる課題


 手足をもがれ、現在分裂している野党は、武器を置いたわけではない。憲法上の焦点に集中している。チャベスは二〇〇三年八月十九日に任期の半ばを迎える。この日以降、野党は署名を集めて提出することにより罷免国民投票を求めることができる。一年以上にわたって、野党は、国の圧倒的多数がチャベスの罷免を望んでいると主張してきた。しかし、チャベスへの付託の取り消しになった場合、新しい大統領選挙に彼が再び立候補できないことを示すものは何もない。そのような場合、チャベス主義者の候補者はただ一人、チャベスである。
 何人の候補者が野党を代表して立候補するだろうか。それがたった二人だったとしても、チャベスが選挙に勝利するには十分である。そして、もしチャベスの付託が取り消されなかった場合、野党の態度には、政府を取り替えたいという欲望のために超憲法的結果を追求しようとしていることを示すものは何もない。
 ボリバル主義革命は、次の過程に必要な過渡的段階であり、それはベネズエラ社会の被抑圧階層が主導する革命への道を開くことができる。これが起こるためには、政治的および労働組合の連帯のネットワークの組織化が必要である。

原注
(4) パブロ・メディナのケースは、チャベスと関連した左翼の分裂の症状の一つである。「急進大義」の指導者で元革命的マルクス主義者。PPTの元書記で、ベネズエラにおける負債支払い反対運動の指導的人物の一人でもあった。彼は新憲法の作成にも積極的に参加した。
 「反乱」と題する本を書いたが、その中で彼は、一九九八年の選挙でチャベスを支持することを拒否したにも関わらず、チャベスの権力の座への就任を第一級の役割であると主張している。PPTの指導部であったときには、組織をチャベスから引き離そうとし、組織の大会によって拒否された。彼は一人でPPTを去ったが、彼のファミリー全体は依然としてPPTの指導部である。
 二〇〇二年初めに彼は野党に合流し、四月反乱参加者の一人となった。現在は「民主共同」の一員であるが、これはあらゆる犠牲を払っても「チャベスのカストロ主義的共産主義体制」の転覆を支持する組織の連合であり、とりわけ右翼部分で構成されている。
(5) 二〇〇二年以降、MAS指導部の多数派は野党に移行した。これを拒否した人々は新党PODEMOSを形成した。二〇〇三年四月のその最初の大衆活動は、少なく見積もっても二万五千人を結集した。
(6) 第七十二条以下は、すべての選挙による付託の取り消し、法律や条約の破棄、法律の提案、何らかの重要な問題に関する国民諮問投票の組織化の可能性を想定している。選挙による付託の場合、取り消しは任期の中間期以降に行うことができる。国民投票の支持者は選挙人の二〇%の署名を集める必要がある。付託を取り消すには、取り消し賛成の投票が議員が獲得した票数を超える必要がある。チャベスは八月十九日に任期の中間期を迎える。この日から、野党は全国選挙評議会(CNE)に向けた署名運動を開始できる。
(7) 最も典型的なケースはアルフレド・ペナのケースである。彼はチャベスのMVRを代表する憲法制定会議のメンバーで、中央集権的でない警察力の維持を最も強烈に主張した。チャベスの支持を受けてカラカス市長に当選すると、彼はすばやくチャベスの主要な敵対者となり、カラカス警察を二〇〇二年四月反乱者の裁量にゆだねた。
(8) ルイス・ミキレナはこの一例である。彼はチャベスに対して大きな影響力を持つMVRのオルガナイザーで、最高裁判所のメンバー指名の責任者であった。チャベスによって権力から排除された彼は、クーデターを支持した。彼に指名された裁判官は、二〇〇二年八月にはベネズエラにはクーデターは存在せず、存在したのは「権力の真空状態」だけであったと判決した。
(9) 二〇〇二年十二月から二〇〇三年一月に至るロックアウト中に、大カラカス市の市長アルフレド・ペナは、学校を閉鎖する命令を出した。
(10) UNTは、CTVを離脱した最大の連合を含んでいる。メーデーでは、UNTのデモ隊は恐らく十万人以上であった。
(11) 四月には、最初の公共食料品店が開店した。政府は、低価格の食料雑貨店および薬局を民衆地区に開くことを計画している。
(「インターナショナルビューポイント」03年9月号)


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