ベネズエラで、ウーゴ・チャベスが一九九八年に大統領に就任してから五年が経過しようとしている。筆者のエドワルド・ディアゴは、チャベス政権の成立を労働者人民が権力を握る「革命」へ向かうひとつの過程としてとらえ、分析している。石油産業の企業側長期ストとその挫折が象徴するように、支配階級との攻防は続いており、勝利のための新たな政治的結晶化と労働組合の連帯のネットワークが求められている。
長期的に進行中の「革命」
一九九八年にベネズエラの大統領になったウーゴ・チャベスは、深く非政治化し腐敗と支持者最優先主義に汚染された国の手綱を握った。一九五八年に始まったベネズエラの「民主主義」は、連合した政党のエリートたちによって簒奪され、腐敗のネットワークと化していた。チャベスの選挙での勝利の基盤になったのはこの古い体制への拒否であって、具体的政治的プロジェクトを基盤にしたものではなく、政治的プロジェクトを提起する頼りになる組織された社会的勢力は存在しなかった。
ベネズエラでチャベスの下で起こったことは、そもそも最初から社会主義革命と呼べるものではない。しかし、われわれが「革命」と言うとき、政治的心理と組織の根本的変化、体制が人民のものであるという意識の大衆的高まりを意味するというのであれば、一種の革命が進行中である。
「革命」とはそれが具体的に実現する前に始まる長い過程であるというのであれば、ベネズエラ革命は一九五〇年代にマルコス・ペレス・ヒメネスの独裁に反対して始まり、現在ウーゴ・チャベスをスポークスマンとしながら権力の門前に立っている、と言うことができる。その支持者たちがよく口にする言い方に従えば、「ボリバル主義革命」はフランス革命に似ており、将来のより急進的な過程を準備するうえで不可欠の段階なのである。
ヒメネス独裁打倒と新体制
評論家たちはしばしば、ベネズエラの現代史はラテンアメリカの中では例外的であると言う。ベネズエラでは代議制のリベラルな民主主義の確立に成功したが、ラテンアメリカの他の国々は政治的不安定、軍事独裁、ゲリラ闘争の展開をこうむるような状況にあるというわけだが、現実はもっと複雑である。
ベネズエラの代議制民主主義は、軍部の決起をともなった人民の反乱に続く一九五八年一月二十三日のマルコス・ペレス・ヒメネス独裁の打倒によって生まれた。市民の側ではベネズエラ共産党(PCV)が反乱の中で最も活動的な政党であった。共産党は独裁に反対したすべての政党の連合である愛国評議会(民主行動[AD]、COPEI、URD、PCV)(1)の先頭に立っていた。
一部の歴史家は、当時の特権階級は、米国と同盟して、もはや彼らの利益にそぐわなくなった独裁の転覆を支持した、と述べている。当時、ベネズエラは石油に関しては地球上で最も重要な国であった。
第二次世界戦争中には、ベネズエラはヨーロッパの米軍の配置に必要な石油と原料の主要供給国であった。石油産業全体が西側企業、特に英国企業によって支配されていた。独裁の崩壊は新しい政治体制をもたらした。この体制は、追放中のAD(民主行動)の指導者ロムロ・ベタンクールの選出によって決定的に確立された。PCV(ベネズエラ共産党)はウォルフガング・ララザバルの立候補を支持した。
これは、一九五八年一月二十三日から一九五九年一月のベタンクール大統領選出までの臨時大統領となることを保証するものであった。この新しい体制は一九六一年に憲法を採択したが、この体制は一九五八年の間に主要三政党(AD、COPEI、URD)の連合によって封印されていた。
この三党連合は、プント・フィホ協定(現状固定協定)によって共産党排除を決定した。これは一種の三党連立政府協定であり、生まれたばかりの民主主義を守るという口実の下に、選挙結果がどうなろうとも三党が権力を共有するというものであった。
これと並行して、主要労働組合連合であるベネズエラ労働者連合(CTV)は、独裁政権時代に結ばれた労働協約の維持に関する雇用者側との協定に署名した。CTVはADに指導されADの利益に直接呼応する労働組合連合である。プント・フィホ協定が決定的に崩れたのは、一九九八年のチャベスの勝利によってであった。
武装闘争と左翼の軍隊工作
新しい体制の最初の数カ月間を特徴付けたのは、労働者、学生、PCVを含む革命的左翼の要求であった。一九五八年のベタンクールの勝利は、急速に裏切りと見られるようになった。左翼的綱領と個人的イメージ(彼は一九三〇年代にはコスタリカ共産党員であり、一九四五〜一九四八年には左翼政権に参加した)によって当選したが、彼は急速に支配階級の利益と和解し、一九五九年にはいかなる左翼政権もアメリカ帝国主義をにらみつけて屈服させることはできないと確信していた。
一九五九年一月のキューバ革命が、この分析の誤りを痛烈に証明した。キューバ革命は支配政党AD内部の左翼部分の急進化に有利に作用し、PCVを復活させた。
ベタンクール政府による左翼部分に対する弾圧によって、革命的左翼は合法路線からの転換を余儀なくされた。一九六一年にはPCVは武装闘争に向かった。ADから分裂し、ADの青年層に指導され、地下活動時代に革命的マルクス主義の影響を受けたMIRもこれに加わった。
PCV内部では、ダゥグラス・ブラボの指導の下に軍隊工作に関わった部分が存在した。この部分が、一九六二年にAD体制の転覆を試みた。PCVは二回にわたる軍事クーデターを組織した。一九九二年二月四日のチャベスの公然舞台への登場は、軍隊内部の左翼勢力のこのような戦略の結果であった。軍隊内部の左翼勢力の大多数は民衆セクターの出身者で、その一部は公立大学で訓練され、したがってマルクス主義や進歩的思想に対しても開かれた態度を持っている。
このような意味で、革命の過程は一九五〇年代の終わりに始まり、チャベスの選挙で最初の小さな勝利をおさめたと言うことができる。
革命戦術としての選挙闘争
訓練中の若い兵士であったウーゴ・チャベスは、兄のアダム・チャベスの影響を受けて、一九七〇年代の終わり頃に地下活動に参加した。アダム・チャベスは現在はベネズエラの農業改革を担当しているが、当時はベネズエラ革命党(PRV)の活動家であった。
PRVはゲリラ運動から生まれた組織である。一九六二年に、共産党の影響の下で民族解放戦線(NLF)と民族解放武装勢力(AFNL)が設立された。一九六五年に共産党が武装闘争の停止を呼びかけたとき、ダゥグラス・ブラボはこれを拒否した。NLF―AFNLはFALN―PRVとなった。
一九六九年には、戦士の大多数はカルデラ大統領の特赦を受け入れた。ダゥグラス・ブラボとアリ・ロドリゲスを中心とするグループはPRVのゲリラ活動を維持し、軍隊内の地下工作を再開した。アリ・ロドリゲスは現在は国営石油会社PDVSAの役員である。
CP、AFNLおよびPRVは反封建・反帝国主義の階級横断的政治綱領を採用していたことに留意する必要がある。この綱領によれば、民族ブルジョアジーは作り出される革命的体制の中で占めるべき位置を持っている。この政治的立場をチャベスもおおむね維持している。二十一世紀のベネズエラにおいて、チャベス派の大多数は、一九六〇年代のゲリラ運動と同じように考えている。ゲリラ運動は小さな政治的遠征ではないのである。
武装勢力の内部で、ウーゴ・チャベスは後にMBR―二〇〇(革命的ボリバル主義運動)となるものを展開した。これが一九九二年二月四日の市民・軍隊の反乱を指導することになる。むしろクーデターと思われているが、この反乱は一九八九年二月二十七日の民衆反乱の弾圧に対するMBR―二〇〇の反応であった。一九八九年二月二十七日の民衆反乱は、ラテンアメリカの社会主義インターナショナル支持者の一人であるカルロス・アンドレス・ペレスが実施した新自由主義政策に反対するベネズエラの排除された大衆の自然発生的運動であった。治安部隊は三千の死者を路上に放置した。
無名のチャベスは、一九九二年二月四日のクーデターを企てたことによって公然舞台に登場した。当然ながら、伝統的左翼の部分は軍隊内部の政治工作のことはよく知らず、反乱軍の大佐を信用しなかった。そのときは小グループになっていたPRVは別にして、急進左翼の他の二つの政党は軍隊内部に独自の機構を展開していた。「急進大義」(2)と「赤旗」(3)である。民衆の側では、チャベスが体制を追い出す可能性をただちに理解した。体制はその新自由主義的政策と腐敗のために憎まれていたのである(少数者が米国式生活水準で生活している一方で、圧倒的多数は貧困の中にあった)。
一九五八年から一九九三年まで、すべての大統領はADかCOPEI出身であった。一九九三年の大統領選挙はこのモデルから断絶し、異端マルクス主義政党「急進大義」が大衆的レベルで登場した。この党は、特に国の東部で階級的労働組合主義の中で発展した党である。一九九三年の選挙では、この党の候補者アンドレス・ベラスケスは大統領になれるところに到達していた。大規模な不正選挙により彼は当選しなかった。党の少数派は彼の勝利を要求する街頭デモストレーションを呼びかけるように求めたが、党の多数派は拒否した。これが一九九七年の分裂の伏線となった。一九九七年の分裂によって「皆のための祖国」(PPT)党が設立され、今日チャベス派の中の第二党になっている。
チャベスの軍隊内での地下活動中に、チャベスと「急進大義」の間で何度か接触があったが、合意は生まれなかった。一九九三年の大統領選挙時には、チャベスは積極的棄権を呼びかけ、これが「急進大義」の側のチャベスに対する激しい憎悪を引き起こした。「急進大義」の大統領候補アンドレス・ベラスケスは、今日野党側にあり、二〇〇二年四月には軍隊反乱側を支持することをためらわなかった。
一九九八年の大統領選挙に参加するに際して、チャベスはこれは戦術的運動であると公言した。代議制民主主義の枠組の中で選挙を戦術と見なすことは、自分の目的が革命であることを白状することである。投票箱によって権力につくのは国家の正統な長としての立場から革命的過程を設定するためである、と認めることである。 (つづく)
(*) エドワルド・ディアゴは革命的共産主義者同盟(LCR、第四インターナショナルフランス支部)のメンバーで、現在ベネズエラに滞在中である。
原注
(1) AD(民主行動)は左翼ポピュリスト政党で、社会主義インターナショナルに加盟している。COPEI(独立選挙民政治組織委員会)はキリスト教民主主義派。URD(民主共和同盟)は左翼民族主義政党であるが、今日では重要でない。PCV(ベネズエラ共産党)は、モスクワに対する戦略的政治的自立路線をとり、帝国主義に対する階級協調主義的政策を支持していた。
(2) 「急進大義(カウサ・ラジカル)」は一九七一年に設立された。ゲリラ闘争の敗北を自覚し社会民主主義的方向に反対するPCVの一部から生まれ、その勢力を鉄鋼産業の労働運動に投入した。方向性は異端マルクス主義である。一九九三年の大統領選挙では勝利をおさめかけた。
(3) 「赤旗(バンデラ・ロハ)」はMIR(左翼革命運動、一九六一年にADから分裂した革命的マルクス主義組織)から分裂。一九七〇年代初めの和平を拒否し、小さな軍事機構を維持している。一九八〇年代には親アルバニア的方向をとっていたが、現在は野党の一員で、右翼勢力に支配された共同組織の軍事勢力と見なされている。
(「インターナショナルビューポイント」03年9月号)
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