もどる

差別の深まりと学生数減少で存続の危機に      かけはし2003.10.13号より

変化を模索する朝鮮学校

南北統一した市民教育への脱皮は可能か


学生の60%が韓国籍の学校も

 よく「朝鮮総連系学校」と呼ばれる日本の朝鮮学校。白いチョゴリ(上着)と黒いチマ(スカート)を校服として着ている学校、昨年の北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)による日本人拉致事件認定以後、日本の右翼らから繰り返してチマ・チョゴリを裂かれる受難に遭っている学校として知られてきた。
 朝鮮学校が在日本朝鮮人総連合会(以下、総連)系列だという事実だけで、一般的にそこは北側と連係している学校、従って韓国とは関係のない学校として知られてきた。けれども、これは事実とは異なる。朝鮮学校の学生らの60%程度が韓国籍を持っている。
 最近、拉致の政局以後、韓国国籍を取得した家庭が急激に増えている。東京朝鮮第1初中学校の中学3年生の場合、23人中12人以上が韓国国籍を持ったことが知られている。自ら明らかにしてはいない学生まで含めれば60%を超えているというのが、ここの学生らの説明だ。もちろん高級部(高等学校)に上がれば、その数は多少減っていく。けれども日本の学校に入っていく一部の学生らを考えに入れたとしても、このような流れに大きな変化はないものと思われる。

学校から降ろされた「指導者像」


 日本の朝鮮学校数は大略、140カ所だ。民団(在日本大韓民国民団)系の韓国学校は東京と京都にそれぞれ1カ所、大阪に2カ所の合計4カ所にすぎない。大阪の白頭学園や金剛学園は日本語の教育時間が韓国語の教育時間よりも多い、いわゆる「1条校」だ。日本の教課課程に符合する教育を行い、日本政府からいかなる制約も受けない学校だ。在日同胞60万人のうち、朝鮮籍を維持している人は、せいぜい5万人だという点を考慮すれば、朝鮮学校の規模の膨大さを考えることができる。
 朝鮮学校の数が多いのは在日同胞の歴史と密接なかかわりがある。北韓はいかに大変であっても、ほぼ毎年、支援金や奨励金を朝鮮学校に送ってきた。50年代や60年代、韓国が60年代初めに韓日会談などを通じて在日同胞を放棄した政策を推進してきたのに反して、北は在日同胞を海外公民と規定し、その間、朝鮮学校にだけでも149回にわたって400億円を超える教育支援金や奨学金を送ってきた。朝鮮学校の教室正面に北側の指導者の肖像画が掲げられたのも、まさにこのような「困難だった時期の支援に対する感謝の表れ」だというのがクォン・ダルイン東京朝鮮中高級学校教師の言だ。
 だが初級部や中級部の教室正面に掲げてあった肖像画は昨年秋に下ろされた。もちろん高級部の教室や教員室には、そのまま掲げられているが、朝鮮学校に変化の風が吹いているのは明らかだ。直接的契機は昨年、北の総連自立化の方針と関連がある。肖像画の問題をはじめ、総連としては本国に該当する北側と同一のやり方で対処する必要はない、というものだ。けれども長い目で見れば、これまでの朝鮮籍中心の在日同胞社会が長い期間、変化を模索してきた結果だ。
 朝鮮学校の学父母(父兄)たちは学校が北ではなく在日同胞の資産であることを強調する。朝鮮学校が初期に北の支援を受けたのは事実だが、これまで朝鮮学校を培い育くんできたのは在日同胞自身たちであることを忘れてはならない、というのだ。彼らは最近の朝鮮学校学生数の急減を心配している。多いときには60年代に3万5千余人に達していたが、最近では1万2千人程度に減った。3分の1ほどに減ったわけだ。
 昨年5月24日、神戸市のある兵庫県では1948年4・24阪神教育闘争55周年を記念するフォーラムが開かれた。4・24阪神闘争というのは米軍占領下の日本・文部省が朝鮮人学校閉鎖令を下したのに抗して日本全域でこれに反対した闘争を指す。当時16歳だった学生キム・テイルが日本警察が撃った銃弾に当たって死ぬなど、米軍占領期に唯一、非常事態まで宣言させるに至った闘争だ。
 そのように苦労して守ってきた阪神初級学校や神戸初級学校が昨年、統廃合されて遂に阪神初級学校はなくなった。東京朝鮮第8初級学校は1年生と2年生がなくなるとともに門を閉ざすに至った。下関の朝鮮学校は在日同胞が4千人にもなるが入学生が1人もなく、結局は廃校となった。その理由は朝鮮学校がずっと北韓一辺倒の教育をしてきたからだ。

卒業生は日本社会に適応できるのか


 朝鮮学校の教科書は、これまで少しずつ変わってきた。最近では30年代の抗日闘争だけではなく、アン・チャンホをはじめとする20年代の臨時政府の独立運動も教課の課程に含むなど、南側の歴史教科書を参考とした痕跡もかいま見える。
 けれども初級部6学年の社会教科書に紹介された世界各国の国旗のうちフランス、ドイツ、イタリア、中国などの国旗は目についても南側の太極旗は見えてはいない。高級部の現代文学の教科書の場合も同じだ。平和的建設時期や祖国解放戦争の時期、そして社会主義革命期、建設期、全面的建設期の諸文学は詳細に紹介されたけれども、チェ・インフンやチョ・セヒ、ファン・ソギョンなどの小説は紹介されてはいない。「現代朝鮮革命の歴史」をはじめ、理念偏向的な教科内容も、そこここに残っている。
 したがって子ども時代に朝鮮学校で育った在日同胞2、3世たちが、急変する情勢の中で子どもらを朝鮮学校に入学させるというのは簡単ではない。大変な決断と苦悩とが必要なところだ。ところで韓国学校は地域上の遠さばかりではなく、学生の構成上も距離感があると彼らは考えている。韓国学校は韓国語を教えるのではなく韓国語を使用する所だという認識や駐在員らのための学校だというイメージが根深い。80年代以降、日本に定着した人々は在日同胞ではないという認識のせいでもある。結局、彼らにとっては子どもらを朝鮮学校の初級部を卒業後、日本の学校に送るのか、それとも中級まで終えてから日本の学校に送るのかの選択だけが残されている。
 朝鮮学校の学生数が急減したまた別の理由は、子どもが朝鮮学校を出て日本社会にキチンと適応できるのかについての危機感のせいだ。東京朝鮮第1初中級学校初級部に2人の娘を通わせているキム・ウボン氏は朝鮮大学校の理工系を出てきたが、日本社会は高等学校の学力さえ認定してくれなかったと嘆いた。日本社会で生きていくために彼は再び理工系の専門学校に入らざるをえなかったが、専門学校でさえ初めは朝鮮高校の高等学校の学力を認定しようとせず、閉口したというのだ。
 けれども最近問題になった大学入試受験資格不認定をはじめ、日本社会が朝鮮学校や在日同胞社会に加えている差別ばかりが危機感を感じさせる原因のすべてではない。最近になって日本経済が困難になるとともに、在日同胞社会の内部で解決されていたあれこれの働き口さえ減り始めたために就業と生存の問題は決して対岸の火事ではありえない。
 朝鮮学校の教課内容も、このような危機感を増幅させるのにひと役買っている。東京朝鮮中高級学校で一時期、英語教師をした後、いまは東京朝鮮第1初中級学校初級部に子どもらを送っているチョン・ヒョンスク氏は「日本でさまざまな資格試験を経験してみて、日本の歴史や地理あるいは文化の理解度が明らかに不足しているということが分かった」という。
 確かに70年代までは朝鮮学校の教課内容は帰国を前提としたものだった。60〜70年代、帰国(北送)事業のためにもウリマル(国語)教育は必要だったからだ。そうしていたのが70年代末、80年代初め以降、教課内容は「帰国」から「定住」や「共生」へと変わり始めたけれども、依然として「定住」や「共生」のための教育は全体の教課課程において不足しているというのが衆論だ。朝鮮学校を出て日本社会で生きていけるのかという危機感は次第に高まっているのも、まさにそのためだ。

ニュー・カマーもともに学べる


 このような危機感は結局、運営上の困難さとして表れた。関西地方のある朝鮮学校の教師らは1年分の月給のうち8カ月程度だけをもらって教員職に従事している、というケースもある。現在、朝鮮学校の教師らの月給は日本の教師の月給の2分の1から3分の1にすぎない。ある場合にはボランティアの水準にとどまってもいる。だからと言って教師らが学生らを教えるのに手を抜いているという話ではない。ともあれ朝鮮学校の夜はいつも明かりがともっている。教師数が絶対的に足りず、残された仕事を夜遅くまで互いに分け合いながらやっていかなければならないからだ。
 問題を解決するために東奔西走している人々は、やはり学校の経済的運営の面倒を見ている各学校単位の教育会だ。在日同胞2世たちが子どもらを再び朝鮮学校に送ることのできる環境へと変えなければ学校の存立自体が危ぶまれるからだ。教育会に参加している朝鮮学校の学父母たちもまた熱心だ。彼らは、より多くの在日同胞たちに学校を開放するためにさまざな方法を模索中だ。
 東京朝鮮第1初中級学校の教育会に参加しているキム・デウン氏は「東京の中で在日同胞らが最も多く暮らしている三河島付近の荒川区には朝鮮籍や韓国籍を含め、おおむね6〜7千人が暮らしている」と語った。現在、東京・荒川区で暮らしているニュー・カマー数は在日同胞数の半分ほどだ。けれども彼らは町では互いにあいさつもし一緒に過ごしているけれども、彼らにとって朝鮮学校というのは依然として遠い所以上の意味があるからだ。
 このような問題を解決するために東京朝鮮初中級学校教育会はニュー・カマーの人々をも抱えることのできる朝鮮学校改革案を、この2〜3年間作りあげ上級機関に提出した状態だ。けれども最近の日本での在日同胞をめぐる社会情勢がもっともよくないありさまで、結果は楽観的だとは言えない。
 このような問題意識に在日同胞2世の商工人らも合流している。98年の東京朝鮮中高級学校創立50周年を迎え、新校舎建設を支援するとともに、彼らは総連側に自分たちの建議事項を書いた「要望書」を送った経過がある。
 「民族教育フォーラム」と「民族教育の今日と明日」、「東京朝鮮中高級学校新校舎建設委員会」名義の「民主主義民族教育事業を改善教課することについて」という副題のついたこの「要望書」には、どうすれば在日同胞全体を一緒にする民族教育をすることができるのかついての願いや望みが込められている。南と北を1つの祖国と考える教育だけが朝鮮学校が目指すべき道であると同時に、生き残られる唯一の道だと判断したのだ。子どもらを統一に寄与できる子どもとして育てるためにも朝鮮学校は生き残るべきであり、そのためには変わらなければならないというのが彼らの考えだ。

総連と韓国政府の足どりは遅い

 最近、このような論議を受け、朝鮮学校の一線教育会の人々らを中心として朝鮮学校を変えるためのさまざまな論議が進行中だ。「新世紀民族教育ネットワーク」をはじめ、さまざまのチャンネルから多様な方案が模索されている。
 けれども、まさに朝鮮学校の運営を握っている総連の足どりは速いようには見えない。在日同胞の自主的判断を常に強調しているものの、依然として本国が優先するためのようだ。韓国政府の即時の支援もそれほど容易とは思えない。現在、朝鮮学校には国語の先生として在日同胞2〜3世ではなく現地の母国語の先生が必要であり、各種の情報化の施設なども切望される状態だ。けれども韓国政府の即時の支援は朝鮮学校をカネで奪おうとするとの誤解を招きかねない。
 朝鮮学校で大学教育を受けているクォン・ヒャンスク日本・上智大学アジア文化研究所研究員は「危機をチャンスへと発展させ、南と北の断絶した教育ではない、南と北を超えた教育、韓(朝鮮)半島内では現在不可能だけれども在日同胞の間では可能な統一教育、あわせて東北アジアのすべての人々とともに平和と共生を論じあえる市民教育を作り出していくチャンスとみなせたらば、と思う」と語った。(「ハンギョレ21」第477号、03年10月2日付、シン・ミョンジク専門委員)


もどる

Back