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書評『改憲・護憲 何が問題か』高田健著-技術と人間社2200円+税                              かけはし2003.1.13号より

「憲法調査会」の実態と問題点を鋭く暴く

内 田 雅 敏


 許すな!憲法改悪・市民連絡会の高田健さんの著書『改憲・護憲 何が問題か』(技術と人間社)が出版された。以下は、憲法改悪を阻止する闘いや有事立法に反対する闘いで、常に高田さんとともに運動を担ってきた弁護士の内田雅敏さんから「かけはし」編集部と「人民新報」編集部に寄せられた書評である。




「戦争をする国」への流れの中で

 二〇〇二年十一月一日、衆議院憲法調査会は中間報告書を作成し、衆議院議長に提出した。同報告書は両論併記の体裁をとりつつも、全体として改憲志向の強いものとなっている。それは国会に設置された憲法調査会が「まずはじめに改憲ありき」という姿勢で委員会の構成、運営がなされてきたことからして必然のものといえよう。
 本書は「許すな!憲法改悪・市民連絡会」の中心メンバーであり、同時に日本でもっとも熱心な憲法調査会のウォッチャーであると自他ともに認める高田健氏が、前記中間報告書に対抗して執筆したものである。
 氏は本書の冒頭において現在の憲法状況について、「日本は世界にまれな平和憲法のもとで、『戦争のできない』『戦争をしてはならない国』として自己規制してきたが、いまやその国是をうち捨てて、急速に『戦争のできる国』『戦争をする国』へと変質しつつある。もはやこの国は言葉の真の意味で『戦後』ではなく、また新たな『戦前』ですらない、『戦時』と言っても過言ではない時代に入りつあるのである」と分析した上で、本書のタイトルにあるように「改憲・護憲何が問題か」を順次論じている。
 その内容は「『戦後』から『戦前』、そして『戦時』へ」「曲がり角に来た憲法調査会と『中間報告』」「新段階の改憲論」「憲法調査会設置とまやかしの『論憲』」「憲法調査会の実態」「憲法調査会での議論」「地方公聴会」「憲法調査会での主な論点」「『憲法改正、国民投票法』案批判」「市民の改憲案運動はどこに行く」等々多岐にわたるが、なんといっても本書の中心を占めるのは「憲法調査会の実態」「憲法調査会での議論」と「憲法調査会での主な論点」であろう。評者もこの三点を中心に論じようと思うが、他の点についても簡単に触れておく。

「ポスト冷戦の改憲論」

 高田氏は本書の冒頭において、今や「改憲調査会」と化した憲法調査会の動きの背景には、九〇年代冒頭の湾岸戦争を契機とする日米軍事同盟の強化、それは正確に言えば、日本の自衛隊、とりわけ海上自衛隊が米軍に組み込まれ、米軍のアジア戦略、さらには中東をも含む世界戦略の中でますます従属性を深めている事実を指摘する。氏はこれを「ポスト冷戦の改憲論」と呼ぶ。
 一九九四年六月の北朝鮮核兵器疑惑を契機として、一九九六年橋本・クリントン会談による「日米安保共同宣言」――日米安保の目的を再認識し、「極東の平和と安全」から「アジア・太平洋の平和と安全」のために拡大――一九九九年の「周辺事態法」、二〇〇一年九月のニューヨーク同時テロを口実とする「テロ対策特別措置法」、そして今般の有事法制三法案という流れである。これらの流れは米国の要求に基づくものであるが、高田氏は同時にこれは日本の財界からの要求でもあるとして、以下のように指摘している。
 「一九九七年当時、経済同友会代表幹事を務めていたウシオ電機の牛尾治郎会長は『国際秩序ということになると、米国の場合、海外進出企業が地域紛争に巻き込まれても、空母を派遣すれば安泰かも知れない。しかし、日本の場合は現状のままだと、個別企業が天に祈るしかない』(読売新聞社「日本は安全か」)と嘆いたことがある。
 これより先の一九九四年七月に発表された経済同友会報告は『新しい平和国家』を提唱し、『我が国は、これまで戦争の放棄と戦力の不保持のみを拠り所とする平和国家であった。新しい平和国家とは、これまで以上に国際社会についての明確な認識を持ち、我が国はもとより世界の健全かつ安定的な繁栄を実現するために様々な努力を行なう国家である。すなわち、一国のみの繁栄や一国の中だけの平和に終結することから脱却し、政治的にも経済的にもより一層世界に貢献し、世界と調和するための国内の仕組みと政策を持ち、かつ国際社会の諸問題の解決に積極的に取り組むことである』と述べ、さらに@『安全保障基本法』の法制化A第九条の改憲Bそれらを時限的修正九条として現九条と併記する、の三案を提起した。
 これが日本の財界が海外派兵を可能にする改憲を要求する立場であり、かつて小沢一郎らが平和憲法を『一国平和主義』などと言い、敵視したことの背景でもある」。

「憲法調査会」とは何なのか

 憲法調査会を傍聴していて感ずることは、@当初、そこでの議論は、「護憲」「論憲」「改憲」の三つの立場があるとされていたが、今日では「論憲」派が――主として民主党・公明党であったのだが――その軸足を「改憲」へと移してしまったことA調査会での議論が「学級崩壊」とでも形容するような、およそ委員会の成立自体が危ぶまれるような雰囲気の中でなされていることB委員会での議論が「お笑い憲法調査会」とでも呼びたくなるような低レベルのもの、等々である。これらの点については高田氏がほぼリアルタイムで週刊金曜日に連載していた「今週の憲法調査会」が本書の末尾に再掲載されているので、これを読むと分かりやすい。

「改憲」派に変身する「論憲」派

 @について高田氏は、「当初『論憲』派と言われた公明党・民主党の委員たちの多くが、この三年足らずの期間に『改憲』派としての立場を鮮明にしてきたことである。実に憲法調査会が看板にした『論憲』は、これらの中間派を改憲の渦に呑み込んでしまうブラックホールであった。この傾向は調査会が発足して一年目頃から顕著に現われた」と述べ、民主党の鳩山代表(当時)の「自衛隊は海外から見れば軍隊で憲法解釈はあいまいだ。そこに(自衛隊員の)自尊心の喪失がある」、「憲法の中で集団的でも個別的でも本来あるものなら(自衛権の行使)を明記すべきだ」という発言、あるいは公明党の赤松委員の「論じて変えないのは論憲ではない」「最大の論点は安保問題であり、やっかいでもここから手をつけなければならない」といった発言を指摘している。

「学級崩壊」的な憲法調査会の惨状

 Aについて高田氏は以下のように述べる。
 「これらの調査会を傍聴して実感したのは、論議が形式的であり、各委員が憲法の議論に真剣に取り組んでいるとはとうてい思えないことであった。憲法調査会はいわば「学級崩壊」状況の中で開かれているのである。
 各委員の会議への出席率は極めて悪い。開始予定時間がきても出席者が過半数の定数に達しないので、会長が開会を宣言できずに待っていることすらある。たいていの場合、多くても三分の二くらいの出席で開会する、約三分の一は遅刻か欠席である。時間がたつごとに櫛の歯が落ちるようにポロポロと欠けていき、その日の会議の終わり頃には五十人(衆議院)の定数のうち十数人ほどしか議場に居ない場面はザラにある。発言は多数会派から順に行なわれるから、とくに会議の終盤の『護憲』論側の委員の発言時間になると、与党側の委員はほとんどいない。折角出席していても眠っている者がすくなくない。実に上手に居眠りをする。先にも述べたが、中曽根元首相などは着席するや腕組みして目を閉じ、間もなく口を開けて眠りはじめて、目が覚めると退場する。
 隣の委員などとの私語も多い。例えば党の大会や代表選挙が近かったりすると、とたんに議席の渡り歩きが活発になる。多数派工作でもしているのか、後ろから相手の肩を抱くようにして耳に口を寄せて話し込む。そうかといえば自分の発言の時だけ出席して帰ってしまう。あるいは明らかに調査会以外の書類を読んだり、書き物をしたり、甚だしい場合は週刊誌を読む者までいる。
 奥野誠亮元文相のように議論のテーマがまったく違うのに、いつもの自らの持論である『憲法はアメリカにおしつけられたのだから改憲すべきだ』という話を延々とやって、各委員に『またか』という顔をされる『こまったおじいさん』的な委員もいる。あるいは保守党の小池百合子委員のように、参考人や他の委員の発言を聞かないまま、自分の発言の時間に入場して、用意したメモだけ読み上げて退席するという大胆な離れ業をやってのける委員もいる」。
 そして「この実態は『学級崩壊』以下ですらある」と断じる。委員会の議事録だけで見てもこのようなことは正確には分からない。委員会を傍聴してみて、はじめて分かることである。このようなひどい実態にもかかわらず、調査会の報告書ということになると、何回、何時間、真剣に論議したということになってしまうのであるから恐ろしい。委員会を傍聴できるのは、ほんのわずかな人々だけであるから、本書のような指摘は極めて重要だ。

「お笑い憲法調査会」のトンデモ話

 Bについては、高田氏が指摘するように、例えば、
 「(九条について)戦争が終わったばかりで戦争を嫌がるのは、二日酔いで頭が痛いときに酒を飲まないのと一緒だ」(青山武憲)、「日本は世界にまたとない君主制の国家であり、見事な王朝文化を中心に、東洋と西洋の文明の融和に成功しつつある国家であり、国民であります」(市村真一)。
 「日の丸の旗は血塗られているというお話がよくでるわけですけれども、大東亜戦争で亡くなった方というのは、数え方にもよりますが、大体三百万人ぐらいだと思います。それに対しまして、戦後の合法的に認められました中絶の数は一億人とおっしゃる産婦人科の医者がいらっしゃる。……大東亜戦争三十三回分の殺人を合法的に繰り返したのは戦後の日の丸の旗でございました。どちらが血塗られた旗か」(曽野綾子)。
 「国会で今すべきことは、そういった歴史というものをふまえて、国家の宣言、国家の自律制というものを再認識しながら、この憲法を歴史的に否定することなんです。否定するのはどうこうって、ただ、とにかくこれは好ましくないし、こういう形で、決して私たちが望んで形でつくられたんじゃないということを確認して、国会で否定したらいいじゃないですか。否定するには、内閣の不信任案と同じなんで、過半数があったら通るのです。手続きじゃないのです。改正の手続きに乗ることはない。……否定する上で、どこを残して、どこを直すかということの意見がはじまったらいいのです」(石原慎太郎)等々のように、暴言、時代錯誤の発言が多々なされている。
 これらの発言に共通することは、知的誠実さの欠如、あるいは歴史に対する無知ということである。曽根綾子の発言について言えば、戦争の死者と、妊娠中絶の数を比較する非常識さはもちろんのこと、「大東亜戦争で亡くなった方……というのは……大体三百万人」という発言に見られるように、そこには日本人以外の二千万人とも言われるアジアの人々の死に対する眼差しが全く欠けていることに驚く次第である。そして石原慎太郎の言う国会による「廃案決議」云々については、現行憲法上国会にそのような権限のないことは明らかであり、彼の発言は国会議員に対して憲法破壊、立憲主義否定のクーデターを教唆しているものに他ならない。
 ひどいものである。
 高田氏は本書において、改憲論者がその理由付けとして主張する「新しい人権論」について、それは改憲のための口実にすぎないこと、五十嵐法大教授らの提唱する「市民の憲法論」の危うさに等についても論及しているが、本評においてはそこまで触れる紙幅がないので、これらの点について本書を読んでいただきたい。

「司令塔」中曽根康弘の実像


 本書の中で高田氏は「中曽根元首相は憲法調査会に出席しても、たまにしか発言しないし、席につくや否や腕組みして目を閉じて、やがて口をぽっかり開いて眠りに入り、しばらくして目が覚めたやおら退席するという具合で、一見、ほとんど仕事をしているようには見えないのであるが、与党や改憲派の国会議員たちにとってはその存在は相当の重みがある。事実、中曽根は首相や与党の主だった議員との非公式の食事会や、公開の演説会、あるいは雑誌の場などを通じた発言でしばしば憲法調査会と改憲の運動の戦略的な方向性を示し、依然として改憲運動の司令塔になっている」と述べている。
 最後に、この中曽根康弘という人物について述べておこうと思う。高田氏も指摘するように、中曽根元首相は、
 一、鳴呼戦いに打ち破れ 敵の軍隊進駐す
平和民主の名の下に 占領憲法強制し
祖国の解体計りたり 時は終戦六ヶ月
 二、占領軍は命令す 若しこの憲法用いずば
天皇の地位請け合わず 涙をのんで国民は
国の前途を憂いつつ マック憲法迎えたり
 三、十年の時は永くして 自由は今や還りたり
我が憲法を打ち立てて 国の礎築くべき
歴史の責を果たさんと 決意は胸に満ち満てり
 四、国を愛す真心を 自らたてて守るべき
自由と平和民主をば 我が憲法に刻むべき
原子時代に遅れざる 国の理想を刻まばや
 五、この憲法のある限り 無条件降伏つづくなり
マック憲法守れるは マ元帥の下僕なり
祖国の運命拓く者 興国の意気挙げなばや

と「憲法改正の歌」(一九五六年)を自ら作詞したり、憲法調査会でも、「明治憲法は天皇が下された欽定憲法であり、今の憲法は、占領中、占領軍の有力な指導、影響でできた占領憲法だ。我々は初めて、国民憲法をみんなでつくろう、そういうような意図で国家の形と心をはっきり固めて、この国家構造をしっかりした上で、戦略的にも米英に軽視されない、中国やロシアにも軽視されない、顔のある国家に作っていかなければならぬ、そういう段階に入ったと私は見ています」等のいわゆる「押しつけ憲法論」を展開している人物である。
 しかし、このような発言は外、すなわち海外では以下のように変ってしまう。
 一九八五年十月二十三日、国連創立四十周年記念会期において中曽根首相(当時)は次のように述べた。
 「一九四五年六月二十六日、国連憲章がサン・フランシスコで署名されたとき、日本は、ただ一国で四十以上の国を相手として、絶望的な戦争をたたかっていました。そして、戦争終結後、我々日本人は、超国家主義と軍国主義の跳梁を許し、世界の諸国民にもまた自国民にも多大な惨害をもたらしたこの戦争を厳しく反省しました。日本国民は、祖国再建に取り組むに当たって、我が国固有の伝統と文化を尊重しつつ、人類にとって普遍的な基本価値、すなわち、平和と自由、民主主義と人道主義を至高の価値とする国是を定め、そのための憲法を制定しました。我が国は、平和国家をめざして専守防衛に徹し、二度と再び軍事大国にはならないことを内外に宣明したのであります。戦争と原爆の悲惨さを身をもって体験した国民として、軍国主義の復活は永遠にあり得ないとであります。この我が国の国是は、国連憲章がかかげる目的や原則と、完全に一致しております。
 そして、戦後十一年を経た一九五八年十二月、我が国は、八十番目の加盟国として皆さんの仲間入りをし、ようやくこの国連ビル前には日章旗が翻ったのであります。
議長!
 国連加盟以来、我が国外交は、その基本方針の一つに国連中心主義をかかげ、世界の平和と繁栄の実現の中に自らの平和と繁栄を求めるべく努力してまいりました。その具体的実践は、次の三つに要約することができましょう。
 その第一は、世界の平和維持と軍縮の推進、特に核兵器の地球上からの追放への努力であります。
 日本人は、地球上で初めて広島・長崎の原爆の被害を受けた国民として、核兵器の廃絶を訴えつづけてまいりました。核エネルギーは平和目的のみに利用されるべきであり、破壊のための手段に供されてはなりません。核保有国は、核追放を求める全世界の悲痛な合唱に謙虚に耳を傾けるべきであります。とりわけ、米ソ両国の指導者の責任は実に重いと言わざるをえません。両国指導者は、地球上の全人類・全生物の生命を断ち、かけがえのないこの地球を死の天体と化しうる両国の核兵器を、適正な均衡を維持しつつ思い切って大幅にレベルダウンし、遂に廃絶せしむべき進路を、地球上の全人類に明示すべきであります」。
 彼は、この発言に先立つ同年八月十五日、内閣総理大臣として初めて東京裁判でA級戦犯として処刑された東條英機元陸軍大将らをも合祀している靖国神社に公式参拝し、中国・韓国・北朝鮮ら近隣アジア諸国からの厳しい批判を受けた。それ以前も「日本国家単一民族論」とか日本列島「不沈空母論」などと、偏狭なナショナリズムを煽り、軍事力の強化を主張していた。
 彼のこれらの発言そして前述した憲法調査会での発言と前記国連演説との落差の大きさには驚くばかりである。なんという言葉の軽さ、歴史に対する不誠実さか。高田氏が指摘するように、このような人物が今や改憲調査会と化してしまっている憲法調査会の「司令塔」「イデオローグ」なのである。
 この国の前途を思うとき暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
 本書はこのような憲法調査会の実態、そこで論議の問題点を鋭く指摘したものであり、多くの人々によって読んでいただきたいものである。


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