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                          かけはし2003.1.13号より

松井やよりさんを追悼する

国富 建治


 十二月二十七日、自ら設立した「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW―NETジャパン)とアジア女性資料センターの代表として、アジアの女性たちとの連帯、女性差別との闘い、人権・平和のための闘いに生涯をかけてきた松井やよりさんががんのために亡くなった。六十八歳だった。
 本紙の読者は、松井やよりさんが、二〇〇〇年十二月に行われた「女性国際戦犯法廷」を中心になって組織したことを記憶しているだろう。天皇制右翼の激しい妨害と中傷、日本のマスコミの無視、あるいはNHKの歪曲報道の中で、二〇〇一年十二月にはハーグで「女性国際戦犯法廷」の最終判決が下され、天皇裕仁に有罪が宣告されたことは画期的なできごとだった。それはとりわけ一九九〇年代以後、韓国やアジア諸国の「軍隊慰安婦」の告発を通じて、日本の戦争犯罪を糾弾し、被害の回復と補償を求める運動が大きく広がっていく中で作りだされた歴史に残る闘いであった。松井さんの存在をぬきにしては「女性国際戦犯法廷」の成功はありえなかった。
 松井さんは、朝日新聞の記者だった一九七〇年代に韓国への「キーセン観光」反対運動に取り組んでから、フェミニストとしてアジアと日本を貫く女性差別の構造に鋭いメスを入れ、アジアの女性たちのエンパワーメントを支えるネットワークを作りだす作業に取り組んだ。
 経済侵略と環境破壊、貧困と女性差別、そして戦争の不可分な結びつきを徹底した現場取材でえぐりだした『女たちのアジア』『女たちがつくるアジア』(いずれも岩波新書)などの著書は、希有なジャーナリスト、活動家としての彼女の営為を物語るものである。そして「慰安婦」との出会いを契機にした「国際女性戦犯法廷」はそうした彼女の闘いのまさに集大成というべきものであった。
 「国際女性戦犯法廷」に一区切りをつけた後も、松井さんは、新自由主義的グローバリゼーションと国家・社会の軍事化が、女性たちにその犠牲を集中させている現実を厳しく批判した。ブッシュのアフガニスタンへの戦争に反対した松井さんは、同時にタリバンや北部同盟などのイスラム原理主義者たちによる女性の人権侵害に怒りを燃やしていた。
 二〇〇二年になって松井さんは、いっそうエネルギッシュになったように見えた。八月から十月にかけて、松井さんは韓国、インドネシア、モンゴル、フィリピン、アフガニスタンへと幾つもの国際会議やスタディーツアーの中心的オルガナイザーとして、睡眠時間も削って動き回った。そして十月初旬にアフガニスタンのカブールで体調を崩し、急きょ帰国して診察を受け、医師により「末期がん」であることを告知されたのである。
 それからの二カ月、松井さんは死と向かい合いながら「女たちの戦争と平和資料館」の構想を具体化し、生涯をかけた「人権と平和」のための闘いの継続を後に続く人びとに委ねた。松井さんは、北朝鮮金正日独裁体制の拉致犯罪に対する批判の高まりの中で、日本の戦争・植民地支配の犯罪が意識的に抹消されていく報道のあり方に怒っていた。そして死の二日前まで、病床で鉛筆を握り「自伝」の執筆に意欲を燃やしていたという。
 私がそれまで文章でしか知らなかった松井さんと、活動の場をともにするようになったのはここ五年間ほどのことに過ぎない。渋谷のアジア女性資料センターで、武藤一羊さんたちと「民衆の安全保障」研究会を始めたのがその出発点だった。それが基礎になって二〇〇〇年には、九州・沖縄サミットへの対抗企画として準備された〈民衆の安全保障〉沖縄国際フォーラムの準備にも、私は松井さんとともに関わることができた。その活動は、「民衆の安全保障をめざす会」を通じてアジア平和連合(APA)の出発にまで引き継がれている。「国際女性戦犯法廷」に関しては、私たちは右翼の妨害から会場を防衛するために連日「動員」されることになった。
 その中で私は、目標の達成のために万難を排し、「不可能と思われることを可能にする」松井さんの、「いい加減さ」を許さない闘いの姿勢を垣間見ることができたと思う。
 十二月三十日、松井さんの父親が設立した東京・渋谷の山手教会で西野瑠美子さんを葬儀委員長にして松井さんの告別式が執り行われた。会場に入りきれないほど多くの人びとが松井さんとのお別れにかけつけ、大津健一さん(日本キリスト教協議会)、富山妙子さん(美術家)、武藤一羊さん(ピープルズプラン研究所)、池田理恵子さん(VAWW―NETジャパン)、久保田真紀子さん(アジア女性資料センター)が「思い出と決意」を語った。
 松井さんが二十一世紀の民衆運動に残したものの大きさは、時とともに自覚されていくだろう。そのたびごとに松井さんがいないことによる「喪失感」が、私たちに繰り返しまとわりつくことになるだろう。しかし、私たちは彼女の生涯に叱咤激励を受けながら、「平和と人権と公正、民主主義」のために歩み続けなければならないのである。 (02年12月30日)

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