かけはし重要記事

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中国共産党第16回大会の示したもの(上)        かけはし2003.1.1号より

資本主義的国民政党への転換へ

「普通の帝国主義大国」への軟着陸は成功するか


米に次ぐ経済大国めざす高成長路線

 第十六回中国共産党大会が開催された。「政治報告」では、昨年度の朱鎔基首相の政府報告での十年目標をさらに十年延長し、二〇二〇年までにGDP(国内総生産)を二〇〇〇年比で四倍増(四兆ドル)にするという高度成長路線を掲げた。四兆ドルといえば日本のGDPにほぼ匹敵し、それが実現すればアメリカに次ぐ世界第二の経済大国になることになる。
 また「政治報告」には、江沢民が二〇〇一年七月一日に中国共産党創立八十周年記念大会で行った演説(七一講話)で強く打ち出した「わが党は一貫して、中国の先進的な生産力の発展の要求を代表し、中国の先進的な文化の進む方向を代表し、中国の最も広範な人民の利益を代表しなければならない」という、いわゆる「三つの代表」論が盛り込まれた。
 いうまでもなくそれは、今日の中国経済の発展を牽引する資本家階級を共産党の主要な構成要素の一つとして取り込むための「理論」である。「三つの代表」論は党規約にも「マルクス・レーニン主義」「毛沢東思想」「小平理論」と並んで盛り込まれた。
 さらに、規約の「労働者、農民、軍人、知識人およびその他の革命分子は入党申請ができる」という部分の、「革命分子」が「社会階層の先進分子」に改訂され、党の性格も「労働者階級の前衛部隊であると同時に中国人民と中華民族の前衛部隊」と改められた。これによって、これまで全党員の数%にとどまっていた私的資本家の大量入党に、公式に道が開かれた。
 それは、急激な資本主義的経済発展によって中国社会を動かす実力を持つに至った私的資本家階級を、共産党一党支配体制の中に組み入れて管理・統制し、党外で政治的影響力を発揮しないようにすること、逆に言えば、共産党を資本主義的国民政党として再確立することによって一党支配体制を防衛しようとするものにほかならない。
 党大会の翌日に開かれた中央委員会総会(一中全会)では、胡錦濤を総書記とする新指導部が選出された。胡錦濤は、八六年末から八七年の学生運動に同調して失脚して首相の座を失った胡耀邦を批判する大会で、李瑞環(政治局常務委員から今回引退)とともにただ二人、胡耀邦への批判を拒否したためにチベット自治区に左遷されたという経歴を持つ、共青団閥である。これまでの政治局常任委員では、胡錦濤以外は全員が引退し、いわゆる「革命第四世代」が大多数となった。
 胡錦濤に次ぐ序列第二位の政治局常務委員に呉邦国副首相、第四位に賈慶林、第五位に曽慶紅、第六位に黄菊など、江沢民直系の上海閥が多数を占めた。その上、江沢民が党中央軍事委員会主席として留任し、しかも彼以外の「革命第三世代」がすべて引退したことで、江沢民の政治的影響力はむしろ強まったといえるかもしれない。
 次期首相候補で序列第三位の温家宝は朱鎔基グループの「構造改革」派。八九年の天安門事件で学生の民主化闘争に同調する姿勢を示したことで首相の座を失った趙紫陽とともに行動したが、失脚を免れた。胡錦濤の共青団閥は王楽泉、王兆国、呉儀らを政治局員に送り込み、中央委員会でも一二%を占めたとされているが、最高指導部の中では少数派になっている。
 政治局常務委員会の九人全員が理科系の大学出身者で、政治局員、中央委員にも経済関係のテクノクラートが多いということにも、経済成長に全力を挙げようとする新たな指導体制の性格が表現されている。

「三つの代表論」の経済的背景

 中国共産党が「民族と国民の党」への転換を公式に打ち出した背景は、いまや「世界の工場」となった中国が、まだ多少の法的不備は残っているものの、ほぼ全面的な資本主義社会になったということである。
 DVDの生産量は世界の五〇・八%、携帯電話は一八・五%、デスクトップ型パソコンは二八・六%、カラーテレビは二四・四%、ビデオデッキは二五・四%、冷蔵庫は二五・五%、電子レンジは三二・七%、エアコンは三七・五%、オートバイは四九・五%。いずれも群を抜いて世界シェアのトップを占めている。まさに「世界の工場」である。
 中国の輸出額の九〇%は工業製品である。世界のトップ企業五百社のうち八〇%以上が中国に進出し、三十九万社を超える外国企業が中国で事業展開し、直接投資受け入れ総額でも世界第二位になった。年間の外資受け入れ額も、二〇〇二年には米国を抜いてトップになると予測されている。日系資本のエレクトロニクス関連の機器組立ラインは、すでに大半が中国に流出した。中国から日本への輸出の九〇%が、日系資本の企業内輸出である。二十年以上にわたる高度経済成長の最大の原動力が、外国資本の大量導入であったことは、あらゆる研究者とエコノミストが指摘するところである。
 かつて八〇%を占めていた国有工業は二〇%台に低下し、その国有工業自身が香港などを通じて外資を呼び込み、合弁や合作で外資系となり、同時に株式を上場して次々に日本で言えばNTTやJRのような株式会社になっている(もちろん当初の最大の株主は政府になる)。上場企業の最大多数派が「国有」株式会社なのである。
 また、海爾(ハイアル)集団、格力集団、美的集団、TCL集団、科竜集団など大手家電メーカーはじめ、株式会社化した国有企業を含む中国系多国籍資本が続々と登場し、南米各国や南アフリカ、インド、日本、さらには米本土にも現地法人を設立している。
 最大の外資受け入れ国であるアメリカが同時に最大の対外投資を行っているように、大量の外資を受け入れている中国も東南アジアを中心に積極的な資本輸出を行っている。すでにマレーシアへの投資は日米を抜いてトップに立った(日本経済新聞社編『中国―世界の「工場」から「市場」へ』)。資本主義の発展が大規模な資本輸出を行う段階に至ったという意味で、中国はいまや欧米や日本と同様の当たり前の帝国主義になりつつある。
 一九九〇年代中頃までに、消費財および原材料や工作機械などの生産要素の市場化率は八五%に達した。政府活動の市場化率は七三%、労働力の市場化率は六〇%に達している(田代秀敏/賀暁東/英華『沸騰する中国経済』中公新書ラクレ)。貧困にあえぐ内陸から華南経済圏をはじめとする工業地帯へ、文字通り失うべき何物も持たない労働力商品として流入する出稼ぎ労働者は一億二千万人を超えている。
 中国の上場企業数は二〇〇一年末で千百五十四社。時価総額は六十五兆三千億円に上り、香港市場とほぼ肩を並べ、アジアでは日本に次いで二位と三位を占めるまでになった。日本の個人投資家は八百八十三万人だが、中国の個人投資家は六千六百五十万人に達している(前掲『中国―「工場」から「市場」へ』)。
 私企業経営者や外資系企業高級職員、政府高級官僚や一部の弁護士や会計士、有名俳優や作家、スポーツ選手などからなる最も豊かな「ニューリッチ」層は、全国で一千万人とされているが、その財産の六六%は価格が高騰した不動産である(朱建栄『中国―第三の革命』中公新書)。
 外資導入を原動力に発展し、巨大な労働力市場、金融・証券市場、不動産市場を持ち、本格的資本輸出を開始するに至った中国経済は、いまや開発独裁資本主義から欧米や日本のような帝国主義へ急速な肥大化を遂げつつあると言うことができるだろう。

経済発展に伴う大衆的意識の変化

 改革・開放路線が始まった一九七八年から二〇〇一年までの二十三年間に、中国のGDPは二十六倍にふくれ上がり、現在一兆二千億ドル、イタリアを抜いて世界第六位となった。あと一、二年でイギリスとフランスを抜き、世界第四位になろうとしている。中国の公共料金や生活物資の価格は安く、たとえば上海の公共料金は東京の五分の一である。そのため購買力平価を使ったレートでGDPを計算すると五兆ドルの規模になり、日本を抜いてすでに米国に次ぐ世界第二位になっている。
 あとで触れるように、繁栄する沿海部と極貧にあえぐ内陸部との格差はすさまじい。しかしこの急激な経済成長が全体として中国人民の生活を底上げしてきたのもまた事実なのである。そしてそれが民主主義なき官僚的中央指令経済システムの解体と結びつき、対外開放政策と結びつくことによって、支配体制の統制力を掘り崩し、人民の意識に巨大な変化をもたらしている。
 もちろん、繁栄する沿海部を中心にしてだが、共産党官僚支配体制のコントロール下に置かれた国有企業や人民公社などの「単位」に帰属してきた労働者人民は、「単位」が解体することを通して、権利の主体としての自立した市民意識を獲得しつつある。
 経済が発展し、いまだ部分的ではあっても資本主義的大衆消費社会が形成され始めるなかで、商品を選ぶ権利を行使する意識が生まれ、各地に消費者運動が発生した。消費者保護協会が各地で設置され、インターネットで結びつき、法律を駆使して企業と行政を動かし、統制し、さまざまな要求を実現し始めている。
 「中国国家統計局の邱暁華局長は『一九七八年以前は政府がすべてを決めていた。七八年から九〇年代初頭までは企業がすべてを決めた。そして九〇年代後半からは消費者がすべてを決める時代になった』と述べてこの転換過程を説明している」(朱建栄前掲書)。環境権を主張して開発計画と対決する運動やエコロジー運動も広がっている。
 情報通信手段が急激に発展した。携帯電話加入者数は二〇〇二年末に二億人に達する。インターネットへのアクセス(上網)の自由化は九六年に始まった。九七年末の登録利用者数は六十万人だった。それが二〇〇二年夏には四千五百八十万人にふくれ上がった。すでに北京では四五・六%の世帯がアクセスし、上海では三六・一%の世帯がアクセスしている。二〇〇五年には、登録利用者数が二億人に達すると予測されている(前掲書)。
 奥地の中小都市や街にも「ネットカフェ」が普及している。香港や台湾の新聞のネット版にとどまらず、世界中の情報にアクセスすることが可能になっており、政府は「反中国的」と見なす海外のウェブサイトにアクセスできないように必死になっているが、「知る権利」を行使しようとする流れを食い止めることは、もはや不可能になっている。
 文化大革命が終わった頃、全国に三十社前後のテレビ局と七十社前後の新聞社しかなかったが、現在では新聞二千紙、雑誌八千誌、テレビ局四百二十にもなっている。政府は、新聞と雑誌に対する財政支援を大幅減小した。この措置によって、各誌紙は大衆的に見られ、読まれる内容にすることで売り上げを伸ばして経営を安定化することを迫られた。それは、政府系新聞社も含めて報道への政府のコントロールを大きく掘り崩した。現在では、すべての出版物のうち政府系出版社の売り上げはわずか八%、残りはすべて民間の出版社が占めている(同前)。

政治への批判と参加、部分的民主化

 知る権利の行使と、政府・行政や企業への批判を含めた社会参加は一体である。省庁などの政府機関や行政機関や警察を相手取って起こす各種の行政訴訟が増え続けて、この十年間で七十三万件にもなり、しかも政府や行政機関側の敗訴率が三〇〜三五%と、驚くべき高さに達している(日本では一%以下)。
 強い要求の広がりによって、政府各部門の「政務公開」や政府文書の公開、裁判の審理過程のテレビ中継、ホームページでの政府・行政との対話、政府価格の決定をめぐる公聴会の開催とテレビ中継など、多様な情報公開と政治参加が始まっており、それが現実に政策を変更させるなどの力を持ち始めている。
 市場経済化の進行は、支配体制の頂点から末端まで極端な腐敗を進行させ、情報化社会の深まりと知る権利の広がりは、共産党支配への大衆的な不信と怒りをかき立てた。今回の共産党大会で政治局常務委員から引退した李瑞環・政治協商会議首席は昨年、党と政府部門と国有企業の官僚が浪費した金額はGDPの二〇〜二五%に達すると述べて、腐敗の深刻さを訴えた。
 「反腐敗闘争の強化」が毎年呼びかけられ、全人代常務副委員長や大臣、地方トップなどの最高幹部を含む数え切れないほどの犯罪が摘発されても腐敗はとどまるところを知らず、二〇〇一年一月から十一月までの一年足らずで十七万四千六百三十三件の幹部犯罪が摘発されている(同前)。
 失われた支配の正統性を回復し社会と経済を活性化する手段として、行政機関と党機関への直接選挙制の導入をはじめとする民主化の諸措置が進行している。農村では村民委員会主任(村長)の直接選挙が広がっているが、村の上の単位である郷(農村部)と鎮(農村地帯の都市部)で、郷鎮行政首長の直接選挙が導入され始めている。都市部でも、自治組織としての社区居民自治委員会の直接選挙による選出が、まだ部分的だが始まった。
 広東省では、省の党委員会が行政への指導文書を出すというこれまでのあり方をやめ、省議会に共産党議員団を作って行政に提案し、「八つの民主党派」と無所属議員に提示して多数決で決定するという実験を開始した。もちろん「八つの民主党派」は自立性を持たない衛星政党に過ぎない。しかしいまだ擬似的ではあっても、「議会制民主主義」導入への試みではある。地方議会が「自立化」し、実質的な審議を行って地方政府の方針や決定を覆すという、これまでにない事態も生じつつある。
 南京市では、党委員会や地方議会、地方政府、裁判所、検察院の業務に対して市民代表も含む一万人が投票し、得票の最も少なかったものが罷免されるなどの実験が始まっている。
 党員と非党員を区別しない公募と選抜試験による行政幹部採用がすでに全国化している。この制度で二〇〇〇年一年で十一万人の若手幹部が登用された。江蘇省で行われた二十一の副局長クラス幹部の公募に二千六百八十六人が申し込んだ。党内民主化の試みも徐々に進行しつつある。省や市の党委員会書記が独裁的に任命していた区の党委員会トップを、党委全体会議での無記名投票で選出する制度が幾つかの省や市で始まっている。
 このような民主化の諸措置は、急激な市場経済化によって社会をコントロールする能力を掘り崩され、すさまじい腐敗の進行によって支配の正統性を失った共産党支配体制が、経済成長の中で活性化しつつある人民の不信に直面して導入したものにほかならない。

支配体制の危機感と「三つの代表」論

 二〇〇〇年初め、曽慶紅の党中央組織部が数万人の党員に対して行った無記名の極秘アンケート調査では、圧倒的多数が改革・開放路線への支持を表明したが、「共産主義を信じるか」という問いには七割以上が「信じない」と回答した(朱建栄前掲書)。
 江沢民が最初に「三つの代表」論を語ったのは、その直後の二月末、小平が市場経済化の加速を指示した有名な「南巡講話」を発表した中国南部・広東省高州市を視察した時であった。その二カ月後の二〇〇〇年五月、江沢民は三千二百五十万社の私営・個人企業とそれに所属する一億三千万人を党の支持基盤に結集する必要があると提起した。
 江沢民は「反腐敗闘争は党の存亡を左右する」として、旧ソ連・東欧やインドネシア・スハルト体制、ペルー・フジモリ体制などの腐敗の蔓延による支持基盤の解体による政権崩壊についての研究を指示した。
 ソ連や東欧の崩壊に際して、共産党は広範な人民はもちろん党員や軍隊の支持も全く得られず、党が解散させられ財産が没収される時も党員や支持者の抗議行動は全く起きなかったことが、党内で危機感を持って語られていた。そして二〇〇一年七月一日の党創立八十周年大会に置ける「七一講話」で、「三つの代表」論が大々的に打ち出されたのである(朱建栄前掲書)。
 二〇〇一年夏、避暑地の河北省北戴河における会議で、多くの私営企業家が共産党以外の「八つの民主党派」に入党しているという、党中央組織部の調査結果が報告された。この傾向が続けば、共産党は経済成長を主導する資本家階級の支持を失うばかりか、「八つの民主党派」が政治的に自立してしまいかねない。
 「三つの代表」論に対する保守派スターリニストからの強い批判に対して、江沢民は「共産党はいまや全民党である。すなわち、市場経済によって利益を追求している。ヨーロッパのブルジョア社会民主党とどれほどの違いがあろうか」と平然と答えたという(ウィリー・ラム『新皇帝胡錦濤の正体』小学館)。
 実力を高め、自信を深めた資本家階級は、地方レベルの人民代表大会に多くの委員を送り込んでおり、九〇年代四川省や広東省をはじめ全国各地の中小都市で市長や副市長の座を資本家が買い取る「買官」が広がっている。大企業経営者が「ライバル都市へ工場を移転する」と脅し、その都市の行政ポストを握ってしまうのだ(ウィリー・ラム前掲書)。
 「資本家の入党は共産党の性格を変えるもので、規約に違反する」という、力群をはじめとする保守派の抵抗に対して、江沢民は「三つの代表」論への支持をを六中全会(第十五期中央委員会第六回全体会議)の決議に盛り込んで基盤を固め、保守派の握る雑誌『潮流』『真理の追究』『当代思潮』の三誌を廃刊に追い込んだ。
 二〇〇一年十一月に深 
で開かれた私営企業のフォーラムでは、憲法を改正して私有財産の不可侵を明記せよという要求が出された(ウイリー・ラム前掲書)。それに先立つ二〇〇〇年末、国務院発展研究センターの陳清泰副主任は、「多くの民営企業が国内での私有財産の保護に自信がないため、財産をひそかに海外に移転している状況にかんがみ、党指導部は『私有財産の不可侵』を憲法に盛り込むことを検討している」と示唆した(朱建栄前掲書)。そのための改憲の時期はそう遠くないと言われている。これが実現すれば、名実ともに「普通のブルジョア国家」への軟着陸である。
 同時に、江沢民も胡錦濤も共産党一党支配の解体と複数政党制への転換は長期的にはいずれは不可避と考え、そのために胡錦濤が校長を務めてきた中央党校がドイツ、フランス、北欧に研究者を派遣し、資本主義のもとで改革を進めるヨーロッパ社民の研究を進めてきた。共産党と知識人は、議会制民主主義の中で長期政権を保持してきた自民党にも関心を深め、橋本派などの名前をつけた派閥はオープンで、チェック・アンド・バランスが働くので中国でも取り入れるべきだという意見もあるという(ウィリー・ラム前掲書)。
 これまで党内の研究機関から出された展望では、いずれも各級政府機関にすべて直接選挙を導入するのは十数年後から二十年後である。そこへ向けて、中国共産党支配体制はゆっくりと、慎重に歩を進めている。もしそれが実現するとすれば、議会制民主主義と法制度を備えた、欧米や日本と同様の「普通の帝国主義大国」が完成することになる。
(つづく)
(02年12月17日 高島義一)


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