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小泉の施政方針演説                  かけはし2002.2.18号より

 戦犯追及で追いつめられていた
昭和天皇裕仁の居直りの歌引用

国家主義的国民統合で危機乗り切り策す

「天皇に学び難局に立ち向かえ」

 小泉首相は、二月四日に国会で行った施政方針演説を次のようにむすんだ。
 「おわりに、ひとつの歌をご紹介したいと思います。昭和二十一年正月歌会始に詠まれた、昭和天皇の御製であります。/ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松そをゝしき人もかくあれ/終戦後、半年もたたない時に、皇居の松を眺めて詠まれたものと思われます。雪の降る、厳しい冬の寒さに耐えて、青々と成長する松のように、人々も雄々しくありたいとの願いを込められたものと思います。/明治維新の激動の中から近代国家を築き上げ、第二次大戦の国土の荒廃に屈することなく祖国再建に立ち上がった、先人たちの献身的努力に思いを致しながら、我々も現下の難局に雄々しく立ち向かっていこうではありませんか」。
 戦犯である昭和天皇裕仁の歌(しかも「御製」などという絶対敬語を使って)を自らの施政方針演説の結語に引っ張って来たのは、靖国公式参拝を強行した天皇制国家主義者・小泉ならではだ。小泉は昨年四月の自民党総裁選でもこの歌を引用したことを見ると、それがよほどお気に入りなのであろう。
 自由党は二月五日の衆院議院運営委員会理事会で「軽々しく引用すべきではない。天皇陛下の政治利用だ」と、これまた天皇主義をまるだしにして議事録からの削除を要求したが、小泉は「そういう人こそ、政治利用している」と強弁した。二月六日の参院議院運営委員会理事会でもこの問題は取り上げられた。山崎正昭委員長は「慎重に取り扱うべきだ」との見解を示し、上野公成官房副長官に協議内容を首相に求めるよう伝えた、とされている。

裕仁の歌に何が込められているのか

 ところで、小泉が有り難がっている裕仁のこの歌の意味はどういうものだったのか。
 この歌が発表された一九四六年一月は、天皇裕仁自身の戦犯追及をふくめて天皇制の存続そのものが国際的にもっとも危機にさらされていた時期にあたっていた。
 一九四五年十二月から、極東国際軍事裁判に向けた準備が進められていた。十二月二日には皇族の梨本宮守正に戦犯の指名があり、十二月六日には近衛文麿、木戸幸一といった天皇側近の「宮中グループ」重鎮に逮捕命令が出された。四六年一月一日には、天皇を占領支配のために政治的に利用しようとしていたGHQの意向でいわゆる「神格否定」の「人間宣言」(「新日本建設に関する詔書」)が出されたが、それでも天皇制の将来はきわめて不確定なものだったのである。
 一月九日にはオーストラリアがロンドンの連合国戦争犯罪委員会に天皇をふくむ六十二人の日本人主要戦争犯罪人リストを提出した。また、東久邇前首相や裕仁の弟である三笠宮といった皇族の内部からも裕仁退位論が公然と語られるようになっていた。この中で、裕仁とその宮中側近グループは、天皇の戦犯「不訴追」を確実なものとするためにマッカーサーの秘書だったフェラーズの意向を受けて、同年三月からいわゆる「昭和天皇独白録」の聞き取り作業に着手する。それは、裕仁を戦犯追及から逃れさせるための日米支配層の共同作業であり、裕仁個人にとっても責任を軍部の一部指導者に押しつけるための徹底した責任回避の産物であった。
 厳しい冬の雪にも色を変えぬ松のように人の心も変わってはならないというこの歌は、自らの存在の危機に動揺しつつもあくまでも天皇制の存続にしがみつこうとした裕仁の心情を表現している。それはまったくごう慢で無責任な居直りに貫かれていた。

天皇制国家イデオロギーとの対決を

 この歌が発表される直前の「人間宣言」について後に裕仁は、「神格否定」は二の次で「一番の目的」は「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す」ためだったと語っている(一九七七年那須での記者会見、高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』文春文庫)。この歌の中でも、日本帝国主義の敗北という激変する情勢に自己保身的に対応しつつ、国民に対しては「国体護持」を強要しようという裕仁の姿勢がきわだっている。
 小泉は、労働者民衆に対して昭和天皇裕仁の「御製」を振りかざして「痛みに耐えろ」と訴えているのだ。「人もかくあれ」などと説教を垂れた戦犯天皇裕仁の居直りを持ち上げる小泉の天皇制国家主義イデオロギーと対決することが、いますべての労働者・市民に改めて問われている。
(平井純一)                        


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