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いいだもも・生田あい・栗木安延・来栖宗孝・小西誠著--社会批評社 
                           
かけはし2002.2.4号より

『検証 内ゲバ』に寄せて

日本の大衆運動を破壊した「内ゲバ戦争」の主体的要因は解明されたか

 中核派系大衆運動を代表する人物の一人であった反軍兵士運動の小西誠らによる『検証 内ゲバ』が出版された。日本の左翼大衆運動を崩壊状況に追い込んだ革マル派・中核派・解放派を中心とした無惨な「内ゲバ戦争」の当事者たちから、この内ゲバを批判し、その根拠を問い、それを克服しようとする書籍が出版されたことは画期的である。しかしその内容は不十分であり、内ゲバの思想的根拠に迫り得ていない。


「なぜ日本でだけ」という問題意識

 内ゲバは、日本新左翼運動がスターリニズムから受け継いだ最悪の遺産である。すでに三ケタを超える死者と数千人の重軽傷者を出した「内ゲバ戦争」は、社会主義革命をめざす貴重な活動家の生命を奪い、さらに多くを活動不能な状態に追い込んだということにとどまらず、新左翼運動に期待した広範な労働者学生市民を絶望させ、急進的な大衆運動そのものへの深い嫌悪感を抱かせ、戦闘的左翼運動を決定的衰退に追い込んだ最大の主体的要因であった。
 日本の大衆運動の最大の基盤のひとつであった学生運動は、「層」としての学生がさまざまな政治的社会的要求をかかげて闘う大衆的自治会運動としての性格を完全に失い、現在では「一握りの党派活動家が数少ない学園で学生大衆の意志とほとんど無関係に行なう政治活動」になってしまっている。
 新左翼労働運動の左からの政治的圧力と抵抗が極度に弱まることによって、労働運動の右傾化と新自由主義への屈服が国際的にも群を抜いてスムーズに進行し、いまや日本は帝国主義諸国でもほとんど例のない「ストライキのない国」になってしまった。中小労組のいくつかの例を除けば、ストライキを組織した経験のある労組の指導部がほとんどいないという状況になっている。国家と資本に対する労働者人民の集団的抵抗の歴史的連続性そのものが事実上、失われるという、世界でも稀な事態が生じているのである。
 九〇年代半ば以降、新自由主義と資本のグローバリゼーションに対決する国際主義的闘いが世界的に高揚し、ヨーロッパでは多国籍資本によるリストラや労働条件の切り下げに反対する国境を超えた「ユーロスト」が展開されている。北米でも、ラテンアメリカでも、韓国を先頭にアジアでも、新自由主義に対決する労働者人民の集団的抵抗が広がってきた。ところが日本では、弱肉強食の新自由主義を徹底化しようとする「小泉改革」に、リストラされ切り捨てられる労働者人民自身が期待するという逆説的事態が生じている。
 われわれが繰り返し指摘し続けてきたように、世界でも稀なこのような極めて否定的な状況を作り出してきた最大の主体的要因こそ、革マル派・中核派・解放派を中心に展開されてきた凄惨な「内ゲバ戦争」であった。
 本書は、大衆運動そのものを破壊したこのような「内ゲバ戦争」がなぜ引き起こされてきたのか、それも「日本でだけ」引き起こされてきたのかという問題を解明し、それによって日本の大衆運動の再生の手がかりをつかもうとする問題意識で書かれている。

「独特の日本型の思想」に迫れたか


 著者のひとりである小西誠は、序章で次のように述べている。「一九六〇年前後から始まり六〇年代に本格化した新左翼運動は、フランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパはもとより、アメリカなど世界中に広がっていった。だが、日本を除くこれらの諸国では、運動内部での反対派へのテロル、内ゲバという事態は、ほとんど発生していないと言われている。とすると日本での内ゲバの横行は、単純にスターリニズムの『注入』ということだけでは捉えきれない。スターリニズムの『注入』であると同時に、独特の日本型の思想としてのそれを把握しなければならないだろう」。
 日本における内ゲバの横行を解明しようとするこの作業の中心となっている小西誠は、彼自身の整理によれば内ゲバで四十八人もの革マル派の活動家を殺害した中核派の、反軍兵士運動の中心的活動家であり、八〇年代から九〇年代にかけて中核派の大衆運動の「顔」であった。もうひとりの中心である生田あいは、赤軍派に近いブント関西派の指導的活動家であり、ブントが四分五裂していく過程で死者まで出した内ゲバと、彼女自身と彼女の子どもに関わる極めて深刻な女性差別事件を体験している。
 六〇年代にすでに始まっていた内ゲバに反対する見解をたびたび発表し、大衆運動を内ゲバによる破壊から防衛しようと呼びかけ続けてきたわれわれからすれば、残念ながら三十年遅すぎた提起である。三十年前に彼らが気づき、内ゲバに反対する行動を起こしていれば新左翼運動は現在のような極端な否定的状況に陥ってはいなかっただろう。
 遅すぎたとはいえ、自ら内ゲバ党派に関わってきた活動家自身が、否定的体験の真剣な総括をはじめたという意味では本書は積極的なものである。新左翼運動を破壊した内ゲバ主義を真に克服しない限り、その再生をかちとることはできないからである。しかし残念ながら、本書がその作業に成功したとは言えない。
 本書の結論は、小西が序章で述べる「日本における内ゲバの背景、思想的要因は、スターリニズムの『注入』による『唯一前衛党論』にあることは明らかである。……この思想は、党の複数主義を認めない、党内外の反対論・異論を認めない『一党独裁主義』『党内独裁主義』にある」ということにつきる。そしてここから一歩も出ることなく、堂々巡りをし続けている。
 小西論文に続き、さまざまな角度から内ゲバを論じているそれぞれの論考は、それぞれ深刻な問題を取り上げてはいるが、問題の核心に迫ることなく、逆にそれをあいまいにすることに寄与しているのである。

自ら設定した問いに答えてはいない


 本書は、以下の六本の論文で構成されている。序章「なぜいま内ゲバの検証が必要か」(小西誠)、第一章「革共同両派の内ゲバの歴史・理論と実態」(小西誠)、第二章「内ゲバ\\その構造的暴力と女性・子ども」(生田あい)、第三章「内ゲバの主要因\\新旧左翼の唯一前衛党論」(栗木安延)、第四章「スパイ、転向、内ゲバで壊滅した戦前日本共産党」(いいだもも)、第五章「日本共産党の『五〇年問題』と党内抗争」(来栖宗孝)。
 小西論文は、中核派と革マル派を軸にした内ゲバの歴史を要領よく整理し、両派が内ゲバを正当化した理論を批判している。そしてその結論は先に引用したように、党の複数主義を認めず党内外の反対論・異論を認めない「唯一前衛党論」こそ、内ゲバの思想的根拠であるというものである。小西はここで、民主集中制と党内民主主義の圧殺をイコールで結ぶという混乱した論を展開しているが、藤井一行の『民主集中制と党内民主主義』(青木書店)が詳しく論証しているように、レーニン時代の党生活は民主主義の圧殺とはほど遠いものだった。
 生田論文は、ブント荒派による自宅襲撃や組織内部の性暴力事件と女性差別糾弾闘争、組織の分裂と解体、そして先日まで「同志」であったはずのものによる内ゲバ襲撃と彼女の子どもの負傷、子どもを世話してくれていたはずの同志による子どもへの性暴力事件など、「第二次ブント諸分派の日常茶飯事」となっていたと彼女自身が語る極めて深刻な「内ゲバ体験」が軸になっている。それに連合赤軍内部の凄惨なリンチ殺人事件や、赤軍派を生み出したブントの誤りについて、生田がいまどのように考えているかという、真剣ではあっても政治的には混乱した文章がつけ加わっている。
 生田の結論は、「常に大衆戦線を党に従属させる党派主義」と「唯一前衛党論への物心崇拝」「スターリン主義の半スターリン主義的清算の限界」が内ゲバの根拠であったとするものである。
 栗木論文はそのタイトル通り、「唯一前衛党論こそ内ゲバの原因」という結論で書かれている。しかし、極左セクト主義と右翼階級協調主義のジグザグで国際階級闘争を深刻極まりない敗北に追い込んできたスターリン路線が、社会ファシズム論の極左セクト主義から右翼路線に再び転換したにすぎないコミンテルン第七回大会の人民戦線路線を高く評価するなど、おおざっぱな印象記の水準にとどまっている。
 労働者の闘いをブルジョアジーが許容する範囲に押し止める人民戦線路線は、スペイン人民戦線におけるPOUM虐殺=トロツキスト狩りが象徴するように、ブルジョア的限界を超えて闘いを推し進めようとする勢力に対する、スターリニストのすさまじい「内ゲバ」と完全に一体のものとして展開されたのである。
 いいだ論文は、戦前の日本共産党は内ゲバで壊滅したという「結論」を導き出そうという、いささか乱暴かつ強引なものである。来栖論文は日本共産党のいわゆる「五〇年分裂」の経過をたどり、激しい査問、リンチ、除名、追放など、「内ゲバ」状況を紹介しつつ、それが新左翼に受け継がれたと述べている。
 複数主義も党内民主主義も否定するスターリン主義的「唯一前衛党論」とその物神化が日本新左翼に横行した内ゲバの思想的根拠だという主張や、戦前戦後の日本共産党の内ゲバ体質を新左翼が受け継いだというのはその通りである。しかしそれでは、「なぜ日本でだけ、あれほど多数の死者や重軽傷者を出した激しい内ゲバが行なわれてきたのか」という、本書の序章で立てられた問いへの答えにはなっていない。
 第二次大戦に至る時期も戦中も、スターリニスト党のすさまじい内部粛正や、国際左翼反対派=トロツキストに対する弾圧と内ゲバ殺人は日本以外の国や地域でより一層、激しく行なわれてきた。にもかかわらず、なぜ日本の新左翼だけがスターリニズムの内ゲバ主義という人民に対する犯罪を受け継ぎ、アメリカやヨーロッパの新左翼はほとんど受け継がなかったのかという回答を、『検証 内ゲバ』は出すことに失敗している。小西が「スターリニズムの『注入』というだけでは捉えられない、日本独特の思想」と言う内ゲバ主義の謎は、一切明らかになってはいないのである。
 深刻な組織内女性差別問題を引き起こし、それへの対処をめぐって第四インターナショナル日本支部の分裂と組織的崩壊状態に陥ったわれわれにとって、生田のすさまじい体験は読むことが苦しくなるほどであり、われわれ自身の在り方を鋭く問うものでもある。女性差別問題は、われわれにとっていまなお克服すべき課題である。またそれは、組織の官僚化との闘いや民主的運営の問題など、内ゲバ主義の克服の問題ともたしかに結びついている。
 だがそれは、日本の新左翼のなかでだけ内ゲバが激発したこととはやはり相対的に別個の問題である。そのような女性差別問題は、家父長制的・男主義的社会の在り方との自覚的闘いがフェミニズム運動の触発によって組織内に広がるまでは、たとえばヨーロッパの新左翼組織のなかでも引き起こされてきたからである。小西の言う「日本独特の思想」の根拠は、別の所にあると言わなければならない。

なぜ欧米で内ゲバ激発がなかったのか

 ヨーロッパでも北米でもラテンアメリカでも、現存する「新左翼運動」の中心は国際左翼反対派以来の闘いを継承するトロツキストである。例えばイギリスの左翼書店に行けば、十数団体の新左翼党派の政治新聞が並んでいるが、そのほとんどに槌と鎌のマークがついている。第四インターナショナル統一書記局に所属していないグループも、大部分が自らを「トロツキスト」として規定しているのである。
 このような諸国で新左翼運動は、一九二〇年代以来のソ連邦左翼反対派と国際左翼反対派のスターリニズムと対決する厳しい闘いの歴史的連続性の上に、自己を形成した。国際共産主義運動の指導権を独占するスターリニズムの左右へのジグザグと破滅的路線を批判し、プロレタリア民主主義を破壊する官僚専制支配を告発し、すさまじい粛正と肉体的抹殺に抗して、マルクス主義の連続性を防衛してきた闘いの歴史の上に、一九六八年フランス五月革命が象徴する新左翼運動の形成がかちとられたのである。
 国際左翼反対派の綱領的出発点は、レーニンとトロツキーが指導した一九二一年と二二年のコミンテルン三回大会、四回大会のプロレタリア統一戦線戦術であり、それをスターリンらが踏みにじった結果としてもたらされた一連の各国革命の無残な敗北であり、そして進行する党の官僚化を厳しく批判した二三年のトロツキーの「新路線」をめぐる論争であった。
 トロツキーと国際左翼反対派、そして第四インターナショナルにとって、プロレタリア統一戦線の思想とソビエト民主主義、そして党内民主主義は、文字通り命を賭けて守りぬかなければならない原則であった。『過渡的綱領』は、「ソビエト諸党の合法化」すなわち複数政党制を要求している。プロレタリア統一戦線は、複数の労働者政党が存在しないかぎりそもそも意味を持たない。そして党内民主主義も、党内に複数の異論が存在しその見解が自由に表明されなければそもそも意味を持たない。
 第四インターナショナルと各国支部の規約は、当然のこととして「分派結成の権利」を承認してきた。日本でもわれわれは規約で分派結成の権利を承認し、党員から出された意見書を討論ブレチンで全党員に配布し、討論を保証しようとしてきた。
 暴力は、本質的に強制の手段である。社会主義革命は、どのような意味でも党が労働者階級に強制するものではありえない。その党の理論や路線や方針が正しいか否かは、労働者自身の具体的経験にもとづく選択を通して、しかもそれが勝利をもたらすことによって、初めて実証されるのである。
 他党派の主張や党内の異論を暴力で圧殺することによって、労働者人民にいわば「唯一の真理」として強制されるような路線は、その出発点からして根本的に誤っている。スターリニスト官僚支配体制のすさまじい弾圧と粛正に屈することなく、ソビエト民主主義の再生とプロレタリア民主主義の再生を要求して闘い続けてきた国際左翼反対派と第四インターナショナルの経験を継承しようとするトロツキストにとって、そもそも内ゲバ主義的発想は絶対受け入れられないものであった。
 もちろんセクト主義的傾向は存在するし、小西が言うような大衆運動上の小競り合いは皆無とは言えないだろう。しかしトロツキストであると自覚するグループ内やグループ間で内ゲバ主義が路線化してしまったり、それが日常的に行なわれることはありえなかったのである。
 このような、国際左翼反対派以来のプロレタリア民主主義をかかげた闘いを実践的に受け継ぎ、自らを「トロツキスト」と自覚する政治グループが中軸を形成していたからこそ、ヨーロッパでも北米でもラテンアメリカでも、新左翼運動のなかに日本のような深刻な内ゲバはほとんど発生しなかったのである。

「独特の日本型の思想」の根拠とは

 日本の新左翼運動は、国際左翼反対派とトロツキズムの実際の闘いの歴史的連続性の上に自らを形成することができなかった。それは、山西英一らの努力によって「輸入」されたトロツキズムの受容として始まった。
 六〇年安保闘争へ向かう嵐のような闘いのなかで共産党と袂を分かって形成されたブント(共産主義者同盟)や、後に革マル派を作ることになる黒田寛一らは、プロレタリア民主主義を全力で防衛しようとした闘いを含むトロツキーと第四インターナショナルの闘い全体に学び継承しようとすることなく、スターリニストがドイツ革命やスペイン革命をはじめとする国際階級闘争を「裏切り」、無残な敗北に追い込んだという点だけを、未消化なまま受け入れた。いわゆる「裏切り史観」として、トロツキズムの一部だけを受け入れたのである。そして革命を「裏切った」共産党に変わる革命政党を、スターリニスト官僚に負けないような暴力を行使しても作り出そうとしたのである。
 それを最も典型的に表現しているのが、黒田寛一の次のような有名な文章である。「現実政治が合理的に動くのであったならば、何ら問題はない。……合理的には割り切れず、常に非合理的なものがつきまとい、それがからみあってゆく。この現実政治のパラドックス、階級闘争における非合理的なモメント、敵対するものの間の非合理的な力関係\\これが、政治のダイナミックスをなすのであって、これを本当に理解することなく、ただ文学青年的に割り切ったところに、革命家たらんとしたトロツキーがたんなる理論家となり、真の(レーニン的意味における)政治家たりえなかった根本的な理由があるのだ。……現実政治のダイナミックス\\理論的正当性にもかかわらず、政治的実践においては敗北を余儀なくされる場合がしばしばありうるというこの政治運動のメカニズムの非合理的側面を決して忘れてはならない」(黒田寛一『革命的マルクス主義とはなにか』)。
 こうして、自分たちこそ理論的正当性を持つと確信する革マル派は、「政治的実践において敗北を余儀なくされる」ことのないように、スターリニスト以上の目的意識性を持って「現実政治」における「組織戦術」として「非合理的な力」を行使し始めた。革マル派による、他党派解体のための目的意識的な内ゲバはこのようにして始まったのである。
 このように、小西が解明しようとした「独特の日本型の思想」とは、国際左翼反対派とトロツキーのスターリニズムとの闘いの一部分を受け入れ、その全体から深く学ぶことを拒否して形成された、「裏切り史観」と他党派の暴力的解体路線のアマルガムであった。
 この意味では、「私たちは『スターリン主義の半スターリン主義的清算』の限界にあった」という生田の述懐は正しい。日本の新左翼運動が内ゲバ主義の荒廃に陥った思想的根拠は、スターリニスト官僚支配体制の暴虐に抗してプロレタリア民主主義を守りぬくために闘い続けてきたトロツキーと国際左翼反対派以来の、スターリニズムとの闘い全体に学ぶことを拒否したことなのである。

内ゲバ主義と真に対決しているのか

 さらにわれわれは、小西、生田らが到達した立場が未だきわめて不十分であり、真に内ゲバ主義に対決するものになり得ていないことを指摘しなければならない。それをはっきり表現しているのが、八四年に引き起こされた中核派によるわれわれへの内ゲバテロ襲撃に対する小西の態度である。
 八四年、三里塚闘争の方針上の対立を理由にして中核派はわれわれの活動家七人を自宅や出勤途上で襲撃し、頭蓋骨骨折、両手足骨折、片足切断などの重傷を負わせるという許しがたい犯罪を犯した。当時小西は、中核派の大衆戦線を代表する指導的活動家のひとりであった。
 本書のなかで小西は、当時から第四インターに対するテロには反対していたが、あえて公然とは反対しなかったと述べ、しかもそのような態度は間違ってはいなかったと主張している。その理由を、小西は次のように述べている。
 「言うまでもなく、中核派ではこのような党の路線に対して反対を公言したものは、即除名である。つまり、この当時、中核派との絶縁を賭けて、このテロルに反対を公言することが正しい選択であったか、ということだ。……内部は『軍事主義一色』に染まり、命令主義・官僚主義的統制が行き届いていた。……こういう状況のなかで、私ひとりが公然と反対したとしても、私とともに行動するものは皆無といえただろう。……私自身が七〇年代当初から決意していたのは、中核派をその根底から変革することであり、その時期を待つことであった。……そこでの私の結論は、よりベターでしかない党派であったとしても、それに加わり、長期的に時間をかけて、その変革を進めていくということであった」。
 まったく言い訳にもなっていない。「実は私も侵略戦争には反対だったが、それを公言すれば特高警察に逮捕されてしまう。獄中に入れられては反戦運動の可能性はない。だから私は外でその時期を待ち、あえて戦争反対とは公言しなかった」。反戦運動から逃亡した人物がこのように自己の立場を正当化しようとするのと同じことである。
 党の路線に反対を公言すれば即除名というように、ひとかけらの党内民主主義もないばかりか、方針が異なる党派に内ゲバテロ襲撃を仕掛け、しかも極左冒険主義的軍事主義路線に突き進むという、スターリン主義そのもののような党派である中核派が、労働者人民の解放に結びつく唯一の政治的選択肢であると考えたとすれば、その判断の決定的誤りを恥じるべきであろう。
 小西誠という、日本の反帝国主義的大衆運動の世界できわめて著名な人物が、除名を覚悟して内ゲバ反対を公然と訴え、その中止を広く呼びかけたとすれば、間違いなく大きな反響を呼び、中核派が内ゲバテロ襲撃を手控えざるを得なくなった可能性も否定できない。内ゲバ主義に反対する見解を持ちながら沈黙し続けた小西の政治判断の誤りははっきりしており、その責任をまぬがれることはできないだろう。
 自らが所属する党派の内ゲバ主義の誤りに気づいていながら、除名を恐れて公然と反対することを手控えた誤りをいまも正当化するような態度では、小西の「内ゲバ反対論」が本当に真剣なものかどうか疑いを持たざるを得ないのである。
 われわれはこの間一貫して、われわれが関わる共同行動や統一戦線の構造から、内ゲバ主義者を排除することを主張し、多くの信頼する友人たちとともにそれを実行してきた。内ゲバ主義者によって破壊された大衆運動の基盤を、内ゲバ主義者と共同して再建することはできないからであり、内ゲバを一掃する闘いをいまも内ゲバを正当化する人々と共同して推し進めることは不可能であるからだ。本書では、生き生きとした大衆運動を再生させる上で不可欠のこのような共同行動の原則について全く触れられていない。

われわれの闘いの不十分性について

 内ゲバ主義を横行させてしまったことに対する、日本における第四インターナショナル派としてのわれわれの主体的責任についても言及しておかなければならない。
 本書のなかで小西と生田は、「内ゲバに反対する第四インターの主張は一〇〇%正しかったが、実際に内ゲバを止める上で無力であった」と異口同音に述べている。われわれは彼らのこのような指摘を認めざるを得ない。
 革マル派と中核派の内ゲバが、相互に殺し合う文字通りの「内ゲバ戦争」の段階に突入していった七〇年代はじめ、すべてのブント系諸派や中核派は六九年の「安保決戦の敗北」を軍事的敗北ととらえて「党の武装」の強化という混迷に陥っていた。だからこそ彼らは、生田が本書で指摘しているように、連合赤軍の銃撃戦とリンチ殺人事件に対してほとんど評価不能の状態に陥っていたのである。
 これにたいしてわれわれは、「全学連の再建と総評青年協の奪権」をかかげ、「安保決戦」に登りつめた反帝国主義的な急進主義大衆運動の一切の成果を防衛し、発展させるために全力をあげていた。この闘いは着実に成果をあげ、われわれは三里塚反対同盟の戸村委員長を推し立てて闘われた七四年の「戸村参院選闘争」をはじめとする全国大衆闘争のさまざまな戦線で、急速に責任党派になっていった。
 このようなわれわれにとって、激化する内ゲバ戦争は迷惑ではあっても、いわば「対岸の火事」であった。「破産した党派は内ゲバで勝手につぶれていけばいい。われわれは戦闘的大衆闘争を発展させることに全力をあげるだけだ」という気分だったことは否定できない。そこには、「意欲的に闘おうとする者はわれわれの所に来るしかなくなる」という「漁夫の利」的意識さえ潜んでいたかもしれない。
 われわれはたしかに、激化する内ゲバを機関紙を通じて強く批判し続けた。しかし全体としての内ゲバをやめさせるような大きな社会的運動を作り出そうとはしなかったし、そのような独自の運動が必要だと考えることもできなかった。われわれは、自分たちの原則的闘いを責任を持って展開していればいいのだという水準を超えることができなかった。内ゲバの激化を含む情勢全体に責任を持とうとすることが必要だという意識に到達することができなかったのである。
 他党派を見下すこのような思い上がった意識、そして「トロツキズムの正しさ」に、いわば「安心立命」したような意識は、組織の大衆運動主義的急成長のなかで容易に官僚主義的傾向を強めた。また、激しい大衆的実力闘争として展開された七八年の三里塚開港阻止決戦に向かう過程で、組織の「軍事主義」と「男主義」的傾向が強まり、その中で深刻な女性差別事件を引き起こすことになったのである。
 それは女性たちを深く傷つけただけでなく、組織の分裂と解体状況をもたらした。日本のトロツキスト運動が解体状況に陥ったことは、内ゲバ主義の横行によって後退し続けていた日本の新左翼運動が、社会的影響力のある運動としての位置を失う決定的要素のひとつとなった。
 われわれが本気で、組織をあげて内ゲバ主義者を孤立化させようとし、内ゲバ主義の一掃をめざす闘いに取り組んだのは、八四年に中核派による内ゲバテロ襲撃を受けてからであった。それは十年以上も遅すぎたのである。

社会主義革命運動の世界的再生の道

 ソ連邦の崩壊によって、ロシア革命の勝利による「革命の現実性」を基盤にした世界社会主義革命運動の一サイクルは終焉した。第四インターナショナルは全世界で、新自由主義の攻勢に対する労働者の抵抗闘争を組織しつつ、現実の闘争経験の蓄積を通して次の社会主義革命運動のサイクルを作り出すための闘いに挑戦しつづけてきた。
 それは今日では、九九年WTOシアトル会議粉砕闘争の勝利を経て、昨年のジェノバ・サミットを包囲する闘いに登りつめた反グローバリゼーション運動の高揚として大きな前進をかちとっている。そして「オルタナティブな世界は可能だ」「もうひとつの世界は可能だ」という希望のスローガンのもとに、トロツキストを中心とする労働者党左派の拠点であるブラジル・ポルトアレグレに世界百二十カ国以上の労働運動や農民運動、女性運動、先住民運動などが結集した「世界社会フォーラム」の成功として、大きな前進をかちとっている。
 ヨーロッパやラテンアメリカでは、日本のように内ゲバが激発しなかっただけでなく、七〇年代後半、あるいは八〇年代から、第四インターナショナル派と共産党がさまざまな大衆闘争で共同行動を行ない、党大会に相互に代表が参加するという状況が作られていた。
 今日では、数十人の国会議員を持つイタリアの共産主義再建党のように、スターリニズムを克服しようとする旧共産党勢力と第四インターナショナル派が共同戦線党を組織している例も稀ではない。デンマークの赤と緑の連合のように、共産党と第四インターナショナル派と他の左翼組織が共同選挙名簿で国政選挙を闘い、それぞれ国会議員を送り出しているところもある。イギリスではトロツキストを中心に多数の左翼党派が結集した合同組織として社会主義政治連盟を結成した。ニュー労働党ブレア政権の新自由主義に対決する労働者の現実的オルタナティブ勢力として登場し、国政選挙にも参加して大きな成果をあげつつある。
 言うまでもなく、このような闘いを可能にしているのは、新自由主義に対する労働者のストライキを軸にした集団的抵抗闘争の新たな広がりである。日本では内ゲバ主義の横行を主体的要因として、このような国家と資本な対決する集団的抵抗の歴史的連続性が事実上、断絶するという状況に陥ってしまった。
 新自由主義と資本のグローバリゼーションに連動して、「戦争のグローバリゼーション」「グローバル戦争の時代」が始まっている。われわれは小泉政権の戦争政策と、新自由主義的「改革」に対決する大衆的闘いを作り出し、国家と資本に対決する集団的抵抗の経験を再建しようとするところから再出発しなければならない。大衆運動の生き生きした発展のためには、内ゲバ主義に象徴されるスターリン主義のあらゆる表れとの意識的闘いが不可欠である。『検証 内ゲバ』で開始された探求が深められ、そのような闘いの一助となることをわれわれは強く期待している。(02年1月27日 高島義一)


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