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映 評 『光の雨』高橋伴明監督作品 原作 立松和平 かけはし2002.1.21号より

「鎮魂の思い」を超えぬ映像

「全共闘世代の敗北」の再生産に終わる

 「光の雨」は、一九七一〜七二年の連合赤軍内部の手前勝手な観念論である「革命戦士の共産主義化」、暴力(内部リンチ)を伴った「相互批判\自己批判」と称して十四人の仲間を殺害した内ゲバ殺人事件に焦点をあてた映画である。連赤事件の総括点の結論は、「テロリズムと内ゲバ主義批判」である。この地平から「光の雨」の全体像の到達点を浮き彫りにさせるためには、原作者である立松と監督である高橋の発言をも見なければならない。
 立松の原作「光の雨」では、特赦で釈放された元死刑囚(八十歳)の「爺い(玉井)」(連合赤軍の坂口弘がモデル)がアパートの隣部屋の受験生・阿南満也と友人の高取美也に対して連赤内ゲバ殺人の全過程と自らの犯罪を「懺悔」(ざんげ)的に語りつくすという設定だった。「懺悔」は、連赤関連裁判資料、メンバーの坂口弘、永田洋子、森恒夫が執筆した文献をほぼベースにしている。この作品は、立松自身の「全共闘世代」の敗北感を引きずりながらも、どのように後の世代にこの事件の犯罪性を伝えていったらいいのかという苦悩の一端がそこに垣間見えていた。
 それは「斧で断ち切るようにして断絶させた事件について、表現者たちは誰も手を触れようとしなかった」(パンフ)状況や、「『理想社会を追求するのに仲間を殺すのかよ』という批判に返す言葉がなかった。世の中を良くしようとか、みんなのことを考えよう、ということがなくなった。思想が断絶してしまった」(毎日新聞01年12月11日)現在を作り出してしまった力のなさにこだわりながら、「小説も映画もそれを埋める作業」という水路を選択し、革命をめざした仲間同士が「なぜ殺したのか、なぜ殺されたのか」、そして「人を殺す正義はない」のだという観点から格闘していくというものであった。
 映画では、小説「光の雨」の映画化に取り組むスタッフとキャストたちを追っていくという設定の劇中劇方式を採用している。「全共闘世代」として監督役の樽見、「インターナショナルもアジテーションも知らない新世代」として映画メイキング・若手監督の阿南、さらに連赤幹部と兵士役の若者たちを登場させた。全共闘を知らない三十代の青島武(プロデューサー/脚本)が発案したこの方式によって「過去・現在・未来」の交差を作り出し、テーマを深化させていく促進剤となっているところがひとつの魅力となっている。
 ここに青島がこだわったのは、「山岳アジトで何が起こったのか? 十四人の若者はなぜ死んだのか?」を忠実に描き、今日の映画にするためには、「再現ドラマ」と「団塊の世代の回顧映画」という性格を排除する必要があったからだ。「全共闘世代」と「新世代」をうまくブリッジしてしまった。そして、立松の苦悩を「明るく」クリアーしてしまったと言える。
 他方、この青島提案を採用した高橋伴明監督(五二歳)には、映画の全体イメージがデッドロック状態にあったと言う。その遠因のひとつとして高橋も立松と同様の苦悩を引きずっていたことを次のように語っている。
 「当時、全共闘の末端にいて負けたという思いと生活があって映画にのめりこんだ。事件の時は、誰かが映画にして`時代の意味aを問うだろうな、と思っていたが誰もやらない。事件に触れれば左右からの批判で傷つく。しかし、我々団塊の世代が引き起こした事件だし、語る責任がある。立松さんは小説化に当たって`痛い目a(無断引用事件)にあったが、乗り越えて完成させた。彼だけに責めを負わせるわけにはいかない、と映画化に踏み切った」(毎日新聞、同前)。
 さらに高橋とオーバーラップして見える劇中監督・樽見が、映画制作の途中でかつての内ゲバ事件の「トラウマ」から失踪してしまうのだが、このシーンとの関連で高橋は、「重なる部分があるとしたら『負け組』気分ですよね。学生時代に運動に参加し結果としてそこから逃げた。その負い目はずっと感じてきましたから」(パンフ)と告白する。
 樽見の後任を阿南が引き受けるのだが、「あなたたちはいつもそうだ。自分たちだけであの時を語って、僕たちには何も語ってくれない」と全共闘世代を批判し、映画撮影を終了させていく。おそらく阿南のセリフは高橋自身に向けられたものであろう。
 高橋は、立松との対談の中で「この映画を作って吹っ切れたところはあったのか」という質問に対して、「背負っていた荷物がだいぶ軽くなった。やっと語ることができた、と。ただ、全部荷物を降ろしたわけではない。今後も語っていこう、という覚悟は定まった」(毎日、同)と自分に言い聞かせているように結んでいる。
 さて立松と高橋の総括の基軸は、いったいどこにあるのだろうか。作品と映像からはっきりと見えてこないし、中途半端すぎる。次の世代への伝達という目的意識性はわかるのだが、発言の方向性がぼやけているのだ。ブルジョアメディアに乗るために表現者としての自己抑制や制約があるのだろう。だが、今日のような逆流情勢の真只中であえてそれでいいのかと問わざるをえない。
 内ゲバ殺人事件という政治的問題を取り扱った以上、その問題を政治的に止揚するための方向性を提示しなければならないし、同時に現在進行形の問題に対して、どのような立場からどのように発信するのか。ダイヤモンドダストの「光の雨」に浮かぶ十四人に対する「供養」(高橋)「鎮魂の思い」(立松)だけで踏み止まってしまっていることが、新たな「全共闘世代の敗北」の再生産なのである。
 九・一一米国で発生した無差別大量殺人=無差別テロに対して、日本新左翼の一部分に賛美したり容認する部分が存在しているように、いまだにテロリズムを批判していくことができない否定的状況が存在している。それは連赤事件の極左冒険主義に至る問題が克服されていないということだ。 
 米国によるアフガニスタン侵略戦争という国家テロリズムの問題や運動内部でテロリズムと内ゲバ主義路線を放棄しない部分に対する断固とした批判をしていく態度が求められているのだ。この映画を通して改めて「テロリズムと内ゲバ主義批判」を繰り返し強調する必要があることを痛感せざるをえない。(遠山裕樹)

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