かけはし重要記事

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寄 稿                        かけはし2002.1.1号より

アフガニスタン国境の街ペシャワールで

豊田 直巳(フォトジャーナリスト)


 マスコミは、ブッシュ政権の「報復戦争」を正義とする一方的報道をいまなお続けている。「報復戦争」下のパキスタンを訪れてアフガニスタン難民や空爆で傷つけられた人々を取材したフォト・ジャーナリストの 豊田直巳さんに、現地の印象記を寄稿してもらった。


 パキスタンにアフガニスタン難民や、アメリカの空爆の被害者、あるいはアフガニスタン人を援助する人々の取材から帰って、はや一カ月になろうとしている。
 十月の初旬に在東京アメリカ大使館への「アフガン空爆反対」抗議行動や渋谷での「ピース・ウォーク」などの取材を重ねてからパキスタンに行ったのだが、日本に戻っても、事態は悪化こそすれ、何一つ好転の兆しも見えない。いやついに日本は「ブッシュの戦争」に参戦し、海外派兵までもあれよあれよという間に許してしまった。しかメディアから洪水のように流れ出る「情報」は、虚実取り混ぜて、もううんざりするほど巷にあふれ返っている。でそんな中で、本紙読者に新たに提供するような事柄があるのか、自信はない。それでもテレビや新聞であまり報じられないかもしれないことを二、三書き記させていただく。
 アフガンとの国境の町に入って、まず意外だったのは、ここの両替商にはアフガニスタン通貨の一万アフガニーの新札が、文字通り束になって出回っていたこと。一万アフガニーが約十七パキスタン・ルピーの交換レートであった。しかしこの札束はどうもアフガンから商売でやってきた者が、パキスタンでの買い付けに使うために両替をしているのではないのだ。交換レートは固定相場ではなく、円とドルのように毎日変わる変動相場だという。その動く相場を読んで、為替差益を得るためだという。
 滞在当時は、その相場がタリバーンの苦戦がラジオなどで報じられるとアフガニーが上がり、タリバーン善戦のニュースが入ると逆にアフガニスタン通貨の値打ちが下がるのだというのだ。もちろんアフガニーはタリバーン政権下のアフガンでも公式通貨である。しからば、逆だろうと思ったのは、ペシャワールに入った数日後に市内で数万人規模のタリバーン支持のデモがあったからだ。
 旧市街のメインストリートを埋め尽くす群衆はウサマのポスターを掲げ、主催の「ジャミアテ・イスラミ」(イスラム協会)の旗を無数にうち振った。まだ暑い盛りの中で延々と続く集会に参加するその大人数を見れば、ペシャワール市民の大半はタリバーン支持かと思うのだが、どうもそうとは限らないのかもしれない。
 デモの取材にはもってこいの旧市街の真ん中に宿を取っていた。その宿の手伝いにくる青年は普段からクールで少し斜に構えたところがあるのだが、毎日のようにあるタリバーン支持のデモ隊を見て「本当にタリバーンを支持しているかどうか?」という。「どうせモスクの導師に率いられて、貸し切りのバスで田舎から出てきた連中で、動員の意味など理解していない」というのだ。
 真偽は確かめていないが、確かにデモが自然に広がっていくこともなければ、飛び入りの参加者は遊び半分の子どもたちくらいではある。私自身もその様子から、空爆前に言われた「革命への転化」はないと思った。タリバーンはペシャワール辺りの人々と同じパシュトゥーン人が多いといっても、それによる共感が普遍性を持つということはないのかもしれないとも思ったのだ。また、市内で働くアフガン人も多いのだが、その彼らはデモにほとんど参加していないようなのだ。
 パキスタン政府が、反米の気運の広がりを恐れてアフガン人の参加を許していないということも、理由の一つかもしれないか、思いの外ここに暮らす一般のアフガン人はタリバーンを快く思っていないのかもしれない。ここで生まれ育ったアフガン人の青年は「自分は殺されたマスードはいい人だったと思っている」とした上で「ここのアフガン人は誰もタリバーンなんか支持していないよ。だからデモに参加するアフガン人なんか一人もいないのだ」という。これも、まさかとは思ったのだが、アフガニー通貨の交換相場のあり方は、これらの話がまんざら嘘でもないことを示していた。
 それにしても物乞いも多いペシャワールでも、現金を山と抱える金持ちも結構な数いるものだ。そして、少なくとも彼らの多くは口に出していうのははばかられても、タリバーンの負け戦を期待しているわけだ。カブール「陥落」によってカブールでのアフガニーのパキスタン・ルピーとの交換相場も跳ね上がったと報じられていた。イスラムが強い社会と言っても、人は現金には弱いのかもしれない。
 弱いといえば、私は川と魚にめっぽう弱い。よってあのインダス文明を育んだインダス川のあるパキスタン行きの荷造りでは、当然短いロッドとリールを入れるのを忘れなかった。そしてイスラマバードからペシャワールに向かう乗り合いのトヨタハイエースの窓から、その少し白みの混じったような青い水の流れるインダスを見てしまった時から、病気が発病してしまった。
 ペシャワールからタクシーなら四時間も北上すれば、仏教遺跡群と風光明媚で売るミンゴーラの町があるとガイドブックはいう。しかもご丁寧に、そこでは「マス」料理が名物だという。ということで出かけてみたのだが、そのミンゴーラにあと三十分もあれば着くと思われる寒村の検問所で、警察に「この先には外国人は行けない」とバスを降ろされてしまった。
 確かに検問所には開閉式のゲートがある。だが、ドイツが版元の英語版地図には、何の表示もない。ペシャワールで買った雑な印刷の地図に何も描かれていない。ところが「知識人だ」と通訳を買って出てくれたバスに同乗してきた地元の教師を通して警察官に理由を聞いても、今ひとつ理由がはっきりしない。ただ、その通訳もミンゴーラは危険だというだけで、何が危険なのか分からない。だいたいその教師は自分はそこに向かうのである。
 ただおぼろげながらも分かってきたのは、ミンゴーラは観光地でも、そこに至る道が、「トライバル・エリア」と呼ばれる、パキスタン政府の法律の及ばないところを通過するということらしいのだ。戦争さえなかったら、「トライバル・エリア」も幹線道路の通行は外国人にも許されているが、深刻化するアフガニスタン情勢のあおりで、そこから外国人を閉め出しているということのようだ。
 しかたなしにペシャワールに戻って分かったのは、どうもその「トライバル・エリア」にタリバーンを支持する義勇兵たちが集まって、そこで武装を整えて国境を越えてアフガン入りをしているということ。その数も半端ではないようで、数千名単位で、何度も送り出されているようなのだ。
 しかしパキスタン政府はここに治外法権的な自治を許している以上、アメリカに協力すると言えども手を出せない。いや、「トライバル・エリア」の設定されたイギリス植民地政府も、抵抗の激しい住民に結局は手を出せなかったゆえに、そこを自治という名で植民化しなかったらしいのだが、独立パキスタンもそれをそのまま引き継いだ。
 しかし、それが今、思わぬところでパキスタン政府に救いを与えているようにも見える。つまりタリバーンに参加する義勇兵を、パキスタン政府がまともに捕まえ始めたら、アメリカに向かっている義勇兵の矛先は、自分に向かうことになる。ならばアフガンに行ってくれた方が話は早い。しかし圧力をかけ続けるアメリカも怖い。だが義勇兵が「トライバル・エリア」で武装をするなら、パキスタン政府はアメリカに対して「あそこはパキスタンであって、しかしパキスタンの法の及ばないところだから、どうすることもできない」と言い訳がたつというもの。
 よっていま、タリバーンの敗走で、国境を越えて逃げ戻った義勇兵の彼らは、もし政府がわれわれを捕まえるなら、われわれはここで政府と戦うと声を挙げている。ちなみにアフガンとパキスタンの国境線を引いたのは、彼らではない。イギリスのご都合主義である。アメリカがウサマ・ビンラディン氏をこの「トライバル・エリア」に取り逃がしたら、大英帝国にでも責任をとらせるしかあるまい。一カ月の断酒生活の中で、ぼんやりとそんなことも考えた。

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