かけはし重要記事

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湯川順夫さん(トロツキー研究所)に聞く        かけはし2002.1.1号より

フランスの社会運動の現場を訪ねて

反戦・反失業・居住の権利のための闘い

 ヨーロッパで、資本のグローバリゼーションと新自由主義に対決する社会運動が、労働運動を中心にして大きく高揚している。二〇〇一年九月、ヨーロッパ社会運動の先頭を走るフランスを訪れ、アフガン戦争に反対するデモに参加するとともに、失業者運動やホームレスの住居獲得運動の現場で交流してきた湯川順夫さん(柘植書房新社『フランス社会運動の再生』訳者)に話を聞いた。



――九月下旬にフランスを訪問したそうですが、今回はどのようなところを訪ねたのでしょう。

 当初の目的は二つで、ひとつは第三回マルクス国際会議に参加することであり、もうひとつはSUD(連帯・統一・民主という名称の新しい独立労組)をはじめとするフランスの社会運動団体の訪問と討論でした。しかし、当初計画段階では予定していなかった九月十一日の事件があり、それに対するアメリカの報復戦争の開始というまったく新しい事態の中でフランスの反戦運動の探訪という課題が新たに加わりました。
 フランスの社会運動団体もSUDだけではなく、交流したい団体は他にもたくさんあってその主要なところを訪問するだけでも時間がかかるわけですですから、九月二十三日からわずか一週間という短い滞在の中で、以上の三つの課題をこなすというのはかなり困難で、残念ながらそれぞれのところについてはかなり駆け足の訪問ということにならざるを得ませんでした。
――わかりました。それではまず時間的順序に関係なく、今一番トピックな反戦運動について聞きたいのですが、アメリカの報復戦争に対するフランス現地の反対運動はどのように展開されているのでしょうか。

 ちょうど、われわれが訪問していた九月二十九日(土)にレプブリック広場からの反戦デモがありましたので、その集会とデモの現場に行ってきました。このデモは、九月十一日以降では、フランス最初の本格的な反戦デモだったわけですが、主催者発表や警察発表の人数は知りませんが、実数で四千人だったそうです。
 なぜそれがわかるかというと、このデモには、郵政全労協の招きでSUD―PTT(郵便電信電話部門の独立労働組合)の代表として昨年六月に来日したエルヴェ・ケランさんもSUD労組の隊列に加わって行進していて、ケランさんがデモの人数を実際に数えたのだそうで、その人数を後でわれわれに教えてくれたのです。コソボ問題をめぐるNATOのユーゴスラビア空爆のときの反戦デモが三千人ほどだったことからすると、今回の反戦デモはかなり幸先よいものだと言えそうです。
 今回の四千人のデモ隊の内訳は、ざっと見渡したところ、女性団体や市民団体が三割、SUD系、FSU(教員の独立組合)、アナーキスト系のCNT、CGT系のいくつかの組合などを中心とした労働組合の隊列が二割、LCRと共産党を中心とした政党の隊列などといった具合でした。そこでの横断幕や叫ばれているスローガンは、「チャドルのもとに女性は閉じ込められ、辱められ、抑圧されている」(女性団体)、「イスラム統合主義のテロ反対、帝国主義の十字軍反対、アフガニスタンに平和を」(LCRのシュプレヒコール)といったものでした。

――今の説明や写真を見るかぎり、女性団体が前面に出ているようですね。

 今回のデモはもともと夏のバカンス前から、アフガニスタンの女性の権利を守るためのデモとして計画され、この実行委員会には当初、広範な実行委員会が形成されていました。アフガニスタンの女性団体を初めとしてフランスの多くの女性団体や人権擁護の市民団体、社共、緑、MRG(左翼急進主義運動)、LCRをはじめとするほぼすべての左翼政党、FO(労働者の力)を除くすべての労働組合ナショナルセンター、ATTACなどの社会運動団体が参加していました。
 ところが、途中でワシントンとニューヨークでの九月十一日の事件が起こり、アメリカの報復戦争の可能性が高まると、この実行委員会の討論の過程で、アメリカの報復戦争反対というスローガンを入れるべきだという意見が強まり、その意見が採択されたのですが、このとき、労使協調路線を取るCFDT(フランス民主労働連合)やそれと同じ傾向の教員の組合UNSA(自治労働組合連合)が反戦のスローガンを入れることに反対して、実行委員会から退場しました。
 社会党は退場しなかったものの、九月二十九日のデモには姿をみせませんでした。緑の党も退場しなかったものの、九月二十九日のデモではその隊列を私は見ることができませんでした。ただ、緑の党の隊列を見たという人もいるので、いたのかも知れませんが、見落としてしまうほど少数の隊列でしかなかったことは確かでしょう。
――今度の反戦デモは、かつての湾岸戦争やNATOのユーゴスラビア空爆のときと比べると何か違いがありますか。

 周知のように、湾岸戦争とNATOのユーゴスラビア空爆をめぐっては、ヨーロッパの左翼もフランスの左翼も三つに分裂しました。たとえば、簡単に言えば、NATOのユーゴスラビア空爆をめぐっては、第一は空爆支持の社会党と緑の党、第二は空爆反対だが同時にミロセヴィッチのコソボへの民族抑圧政策をも弾劾するという共産党とLCRであり、第三は空爆反対でミロセヴィッチ体制支持という立場です。
 この第三の立場は、フランスではほとんど見られなかったのですが、共産党に起源をもつヨーロッパの左翼勢力の一部に見られました。たとえば、スペインのかつて共産党系であった勢力の一部やイタリア共産主義再建党の一部、さらにはギリシャの反戦運動内の宗教的、民族主義的潮流などがそうであり、これはユーゴスラビア大使館「主催」の「官製」反戦デモとも一部では重なり合っていました。
 今回も以上の構造は基本的に変わらないのですが、左翼を取巻く社会の気分は大きく変わってきました。今回、ATTACのクリストフ・アギトン氏やピエール・ルッセ氏が特に強調していたのは、湾岸戦争時やユーゴスラビア空爆時のかつての反戦デモは、「人道主義」の名のもとでの挙国一致的とも言うべき戦争支持の圧倒的雰囲気に抗して、孤立した形で行われざるをえなかったが、今回はそうした孤立感がまったくないという点でした。
 こうした社会の変化の圧力を受けて、その指導部がアメリカの戦争に積極的に協力し、参戦している社会党や緑の党の一部に動揺が広がっているのもそのためでしょう。むしろ、今回は、反グローバリゼーションの運動に参加してきた人々が反戦運動に合流しており、反戦運動がより大きな広がりを見せていると言えるでしょう。
 もうひとつ注意しておくべきは、ヨーロッパの支配層が必ずしもブッシュ政権の現在の戦略に必ずしも全面的に賛成しているわけではないという点です。「テロ撲滅」という大義名分があるから、ヨーロッパの各国政府はアメリカの報復戦争に同調して、さまざまな形で参戦していますが、たとえば対イスラエル政策を取ってみるならば、本音は、イスラエルの現在の軍事強硬路線を後押しするブッシュ政権の現路線とは距離を置きたいということではないでしょうか。つまり、ヨーロッパのブルジョアジーは、中東地域の安定のためにはより安定したパレスチナ和平の過程を確立しなければならないし、そしてシャロン政権の政策をそのまま単純に支持するだけではそうした展望を見出せないと心の中では考えているのではないでしょうか。
 こうしたアメリカとヨーロッパの「違い」は、たとえば二〇〇一年八月末から九月初めに南アフリカのダーバンで開かれた国連主催の世界人権差別撤廃会議で象徴的な形で見られることになりました。パレスチナ問題が取り上げられ、イスラエル国家のシオニズム批判が問題となったときに、イスラエルとアメリカの代表は退場してしまったのですが、ヨーロッパの各国代表はそれに同調して退場することはありませんでした。そして、こうしたアメリカとヨーロッパの支配層の微妙な違いは、ヨーロッパにおけるアメリカに対する批判的世論の形成を促進する作用を果たしており、ひいては反戦運動がより大衆的な規模で展開される余地を作り出しているのではないでしょうか。

――実際、その後のフランスでのデモをより大規模になっていますよね。

 そうです。たとえば、十月十一日のパリの反戦デモには八千人の人々が集まり、フランス全土では三万人が結集したようですから、ユーゴスラビア空爆のときとは比べるとより大規模な反戦運動が展開されていることは確かです。
――では次に、社会運動について聞きたいのですが、どのような運動と具体的に交流したのでしょうか。

 スケジュールの関係で私個人が直接行けなかったものもありますが、労働組合ではSUD―PTT(郵便電信電話部門のSUD組合)で、ホームレスの人々を支援し空家占拠などの闘争を展開しているDAL(住宅権利協会)とDROIT DEVANT(権利向上協会)、失業闘争を展開しているAC!(反失業共同行動)、ATTAC(市民を援助するために金融取引への課税を求める協会)、さらには青年運動のAARRG!!(グローバルなレジスタンス・ネットワークのための学習と煽動)などです。
 こうした団体の人々と直接討論し、実際の闘いの現場にも行ってみて、一部ではありますがフランスの社会運動の息吹を体験することができました。SUD―PTTでは、アギトンさんおよび昨年六月に日本を訪問したケランさん、さらには女性の指導者ヴェルヴェイン・アンジェリさんから延べ二日間にわたって話を聞けました。またAC!についても、パリ郊外のクレティーユ・プレフェクチュールの労働組合会館で開催された二日間にわたる全国集会に最初の日の午後の討論を傍聴することができました。AC!は、こうした全国討論集会を年、二、三回開催しているのだそうですが、ここでは山谷労働者のAさんが日本からの連帯をあいさつを行いました。
――わかりました。紙面の関係上そのすべてを報告してもらうことはできませんし、本紙ではすでに昨年六月のSUD全国ツァーをはじめとしてSUD組合の運動については系統的紹介していますし、最近でも湯川さんは『情況』誌(二〇〇一年十一月号)でSUDの運動を紹介しておられるし、ATTACとのインタビューも今後、別の機会に発表されるということですので、今回は、フランスの社会運動の中で大きな役割を果たしてホームレスの運動の現状を主に報告して頂けないでしょうか。

 実際に空家占拠をしているところをも含めて見学してきました。住宅をめぐる運動おいて重要な役割を果たしている団体としてDAL(住宅権利協会)とDROIT DEVANTもあります。DALに比べて、こちらの方が若者中心の運動という形になっていますが、今回のツアーの中ではDROIT DEVANTとも交流した仲間もいましたが、私自身はそちらの方には行けなかったので、DALとの交流について少し報告しましょう。
 まずDALの全国事務所に行ってその指導者の一人、ジャン・バプティストさんの話を聞くことができたので、彼のしてくれた説明を紹介しましょう。一九九四年のドラゴン通り七番地の占拠で有名なDALは、一九九〇年に結成され、現在、会員は一万人であり、その第一の目的は、住宅環境の悪いひとたちのために、再入居先を見つけることであり、具体的には、各家庭の相談に乗り、その情報にもとづいて正式書類の作成や住宅関係当局との交渉の手助けをすることだといいます。第二の目的は、公正な住宅政策を実現するために、ホームレスを動員して、占拠やデモなどの運動を展開するものです。これは非暴力が原則であって、暴力的になると警察の弾圧もエスカレートして悪循環に陥ってくるからだということでした。
 こうした活動によって、十年間で十一万世帯の住宅を確保することができたという。このような成果を勝ち取るためには、住宅所有者プラス住宅関係当局とホームレスとの間の力関係を有利な方向に持っていく必要があり、そのためには世論の支持とメディアの利用が不可欠であって、著名人や宗教者や研究者を動員することによってマスメディアが取り上げざるを得ない状況を作り出すことが試みられてきました。
 バプティストさんはまた、フランスの住宅問題についても説明してくれました。すなわち、フランスでは、三十年前に家賃が自由化され、その結果、家賃が高騰し、住宅はこの高騰化をねらった不動産投機に対象になり、空家があっても低所得者には入居できないという状況が生まれまし。その結果、低所得層は大都市中心部から郊外へ追いやられてしまいました。最近ではこの郊外自治体が、低所得層の集中による税収の減少を嫌って、「中産階級を呼び寄せることができる」都市再開発ということで、低所得者層がここからも排除されつつあるそうです。こうした政策は共産党市長の自治体でも例外なく推進されているそうで、この話を聞くと、共産党が伝統的拠点であったパリ周辺の自治体を次々と失っていくのもある意味では当然かなと思いましたね。
 バプティストさんの説明全体を貫いていたのは、貧困問題は国がそうした問題に関わる民間団体に補助金を出して解決を図るというやり方に対する拒絶の姿勢でした。それでは基本的に新自由主義の路線と変わりがなく、そうしたやり方はむしろ運動の自立性を損なうことになるというのです。そうではなくて、DALは住宅の相談に来る人当人が運動の担い手になるようにしているのだそうです。この意味でDALは、やはり一般のNGO団体とは性格を異にして、フランスの新しい社会運動だなという感じがしましたね。
 また、バプティストさん自身はかつてはある小さな毛沢東主義派の組織のメンバーだったそうで、この点でも、「六八年五月世代」の古い活動家と新しい活動家との結合というフランスの社会運動の共通の性格を体現していると言えそうです。
 事務所でこうした話を聞いている最中にも、アラブ系の女性が子どもを連れて相談にやって来たり、いま、警察が来てすぐ立ち退けと迫られているという人からの緊急電話が入ったりと、住宅問題がいぜんとして深刻な問題であり、DALが活発な活動を続けていることがよくわりました。
――実際に占拠されている住宅にも行ってみたのですか。

 ええ。最初に行ったのは、空家占拠ではないのですが、パリの北の郊外にあるサンドニ市の市庁舎前でキャンプ闘争をしている現場でした。ホームレスの人たちは、このように、空家占拠だけでなく、公共の場所にテントを張って生活し、異議申し立ての運動を展開するという闘争をやっているのです(キャンプ闘争)。そこは、市庁舎の玄関を火事で焼け出されたのに行くところのない家族たちがテントを張って占拠をしているところでした。行ったのは午後でしたから、占拠している家族の大人は働きに出ていて夜の九時か十時頃に仕事から帰ってくるということでほとんどいず、この闘争を支援していたDALの活動家から主な話を聞くことが出来ました。サンドニ市は数少なくなっている共産党市長のもとにあって、市当局と交渉の末、数日後には再入居先が決まったのだということでした。
 この後、さらに、そこにいたDAL活動家の案内でパリの中心街にあるイタリア系保険会社が所有していた空家占拠の建物にも行ってみました。そこは、さすがに繁華街で大手の保険会社が所有しているというだけあって、日本のわれわれが想像しがちな占拠されている「劣悪な住宅条件の家」というイメージとはまったく異なるもので、内部は広く立派でした。そこでは、占拠している家族同士で管理委員会が作られており、この住宅全体の管理の問題などが定期的に討論されているということでした。
 また別の日には、九四年十二月の空家占拠闘争で有名になったドラゴン通り七番地をも訪れてみました。今や修繕・改築されて普通の住宅になっていたのだが、そこに行くと、一九五〇年代にサルトルなどが盛んに入り浸っていたことで有名なサンジェルマン・デ・プレのカフェ、カフェ・ド・フロールとつい目と鼻の先のところにあることがあらためて分りました。
 その後、今度はパリの一八区にあるDALの地区事務所を訪問した。毎週土曜日の午前中、パリの一七区、一八区、一九区の住宅問題を抱えている人々の集まりが開かれているからです。この会合の後、実際に占拠している住宅の内部を見せてもらったのですが、ここは先に述べたイタリア系保険会社所有の住宅とは対照的に、壁ははがれ、水洗便所の水は流れず、使用後はバケツの水を流さなければならないというきわめて劣悪な住宅条件のもとにありました。
 DALの運動を実際に見てみると、こうした空家占拠に訴えざるを得ない家族のほとんどが、アラブ系やアフリカ系など移民出身の人々が圧倒的に多いことが分りました。バプティストさんの説明によれば、もともとのフランス人はこのような闘争に参加してテレビなどを通じて親戚や知人に顔を知られるのを嫌う傾向があるのに対して、移民出身の人々はそうした罪悪感はなく、社会的上昇意欲があるので、より積極的に闘争に参加する傾向にあるのだそうです。またフランスの場合のホームレスの空家占拠運動というのが、独身者の運動でなく、家族の運動であるということもあらためて感じました。
 以上がDALの運動の簡単な報告ですが、こうした運動に参加している活動家たちは、開発や投機によって住宅から、社会から自分たちが排除されているというところから、今日の新自由主義的なグローバリゼーションが生み出す深刻な矛盾を自分たちの問題として捉え、他の社会運動団体とも共闘して反グローバリゼーションの運動にも積極的に参加しているように思えました。
――それでは社会運動についてはこれで終えたいと思いますが、最後にフランスの青年の運動について簡単に報告してもらえないでしょうか。

 われわれが会ったのは、AARRG!!(グローバルなレジスタンス・ネットワークのための学習と煽動)というグループですが、私自身は別のところを訪問していてそのグループに会うことができませんでした。したがってこれはもっぱら、いっしょにフランスに行った社会学者で「アソシエ」でも活動しておられる櫻本陽一さんから聞いた話をそのまま伝えることにします。これは十代後半から二十代の都市郊外に住む移民の青年たちの運動であって、反グローバリゼーションの運動を展開して、ジェノバのデモにも参加しただけでなく、マクドナルド店などのサービス業の不安定雇用の雇用の職場で低賃金と不安定な待遇のもとにおかれている若者の闘いを組織しているそうです。実際、現在も続いているフランスのマクドナルドやピザ・ハットなどのファーストフード店での争議ではこのグループが大きな役割を果たしています。これは、日本でも全労連が組織し始めている青年ユニオンとも少し共通するところがあり、こうした試みがもっとなされるべきではないでしょうか。
――では最後に、第三回マルクス国際会議についてはどうだったのでしょうか。その印象を聞かせて下さい。

 率直に言って、行ってみて痛感したのですが、私個人で全体像をつかむのは困難でした。というのも、ひとつには社会運動団体への訪問と重なり合って会議の方にはあまり出られなかったためですが、もうひとつは会議全体が膨大で、まず哲学、経済学、教育、社会学、政治学、歴史、エコロジーなど十五もの部門(セクション)に分かれ、そのもとでさらに百以上の分科会に分かれて行われたからです。第一回会議における分科会の数が五十、第二回会議の分科会のそれが九十、今回はさらにその数は増え、予定された分科会の数は遂に百を超えるものとなりました。
 ただ、印象として言えることは、今回の場合はそうした膨大な分科会の全体を貫くひとつの共通テーマがグローバリゼーションであったことにも表れていると思いますが、九月十一日の直後ということもあって現実との関係がよりいっそうのいやおうなく問われる会議になったということです。
 日本であれば、雑誌のマルクスの特集やマルクスに関する学会などが、今日では、そのほとんどが「現実の社会」に対する生き生きとした問題意識を根本的に欠いた、むしろそこから切断された「思想としてのマルクス」しか扱わないのが当たり前になっている感があります。その意味では、この国際会議は、日本のそうしたあり方とはおよそ正反対のものできわめて新鮮なものに映りました。
 こうした現代社会との関係は、グローバリゼーションの問題を全体を貫くひとつの共通テーマに据えると同時に、具体的に、社会運動の部門を新たに設け、単に研究者だけでなく、ピエール・ルッセやクリストフ・アギトンやミシェル・ルソーなどの社会運動家とも言うべき人々にもひろく報告の門戸を開放したことによって、さらに深まったと言えるのではないでしょうか。
 たとえば、毎日、午前と午後の各分科会が終わると、午後六時から、講堂のような大きな会場で全体の集約討論集会が開かれるのですが、九月二十八日の夜の討論集会には、今日の国際情勢を反映して次のような事態が起こりました。司会は、クリストフ・アギトン、ジャネット・アベール、サミール・アミン、もうひとりイギリスの女性のもとで、討論が行われました。、そこでは、ジェノバでの「ブラック・ブロック」の問題や反グローバリゼーション運動の中でマイノリティーの問題をどのように取り組むべきかなど、運動に直接に関わる問題が直接話し合われていたのですが、途中で、会場から一人の女性が、反戦デモのところで少し触れた南アフリカのダーバンでの国連主催の世界人権差別撤廃会議のことを持ち出し、国連の機関がはじめて公式にイスラエルを正式に「人種差別主義国家」だと規定したとして激しい調子で抗議し始めたのです。
 当然、それに対して、アラブ系と思われる若者が反論するということで激しい応酬がしばらく続きました。九月二十九日の反戦デモにも、ミシェル・レヴィをはじめとしてこのマルクス国際会議で活躍している研究者の姿を見ることができました。こんなことは現在の日本の「学会」ではあまり考えられないのではないでしょうか。
 なお、『かけはし』の読者になじみのある人々としては、ダニエル・ベンサイド、ミシェル・ユソン、カトリーヌ・サマリ、ミシェル・レヴィ、エンツォ・トラヴェルソ、ジルベール・アシュカル、エリック・トゥーサン、ピーター・ゴーワンなどが各分科会の報告者に名を連ねています。


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