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                           かけはし2002.1.1号より

「ACT」(11月26日号)五十嵐敬喜報告批判

「小泉改革応援団」路線は人権・環境・平和の市民運動を崩壊に導く

 「市民の政治」を掲げる新聞「ACT」(11月26日号)に、「緑の政策研究会・結―YUI―」の勉強会報告が掲載された。テーマは「小泉内閣と特殊法人改革」、講師は法政大教授の五十嵐敬喜である。五十嵐の公共事業と特殊法人に対する批判は、彼がこれまで多くの著書や雑誌論文で主張してきたもののエッセンスであり、そこであげられている数字や、このままでは財政の全面的破綻が避けられないという主張に異論があるわけではない。
 問題は五十嵐が、小泉政権による靖国神社参拝や海外派兵や有事立法など、憲法改悪に集約される軍事外交路線と、公共事業・財政政策を完全に引き離し、前者には反対だが後者については「すべて賛成です」と主張していることである。
 五十嵐は言う。「いま、小泉内閣を倒せと言って、立往生させては財政がどうにもならなくなる。私は、なんとか小泉内閣に改革をやらせたいと思っています。小泉さん以上にこのことをやれる人はたぶんいないと思います。これ(公共事業・特殊法人などの改革――引用者)を全部ひっくり返すと六年はかかります。野党で政権をとろうとしても六年以上はかかるでしょう。だから、とりあえず小泉さんにしてもらうしかないんじゃないでしょうか」。御ていねいにこの部分には「小泉さんじゃなきゃできない」という二段見出しまで付けられている。まさに手放しの「小泉応援団」を表現する紙面構成である。
 五十嵐のこのような主張は、財界の意を受けて小泉政権が行なおうとしている「聖域なき構造改革」のねらいを完全に見誤り、人権や環境や生活を守り戦争に反対する市民運動を分断し、混乱させ、崩壊に導く極めて危険なものである。
 「小泉改革」で打ち出されている基本的内容や方向性は、小泉内閣になって初めて出てきたものではない。それは、レーガノミックス、サッチャリズムと並んで打ち出されてきた中曽根の臨調行革路線以来の社会経済体制の新自由主義化と国家主義軍事大国化路線を、一挙に完成させようとするものである。
 第二次大戦後の世界資本主義は、フォード主義的大量生産・大量浪費とケインズ主義的財政支出、そして福祉国家体制の拡充を基礎に拡大再生産を続けてきた。しかしそれは、七三年と七九年の二つの石油危機を契機にした深刻な世界同時不況を経て重大な行き詰まりに陥った。高度経済成長の時代が終焉するとともに、ケインズ主義的財政支出の積み重ねの結果として財政危機が深刻化した。戦後資本主義が直面したこのような行き詰まりを突破するために、新自由主義への転換が始まった。
 新自由主義の基本的論理は、巨大資本の利潤追求のための横暴から労働者人民を保護するために制度化されてきたさまざまな社会的規制を取り払い、「小さな政府」を旗印に財政支出を削減して、安心して暮らすことができる生活の社会的基盤を保障する「福祉国家」の体制を解体し、すべてを「市場の論理」に委ねれば資本主義経済の新たな発展が可能になるというものである。
 この論理のもとで、国鉄の分割民営化をはじめとする公営企業民営化と首切り大合理化が強行され、金持ち大減税・大企業大減税が繰り返されるとともに大衆大増税としての消費税導入が強行され、医療制度をはじめとする社会保障水準の切り下げにつぐ切り下げが強行された。かつては所得税の最高税率が七五%だったことや、健保本人負担がゼロ割で七十歳以上の高齢者医療費が無料だったことなど、今日では信じられないほどだ。いまや小泉政権の看板閣僚の一人である竹中平蔵は消費税の一四%化を公言し、健保本人負担は三割に引き上げられようとしているのである。
 軍事的には、あらゆるレベルで日米合同軍事演習が繰り返されて共同作戦体制が強化され、PKO海外派兵が推し進められ、新ガイドラインと周辺事態法によって憲法九条の空洞化が極限まで推し進められてきた。また、政治システムとしては少数政党と少数意見を切り捨てる小選挙区制が、「政治改革」の美名のもとに導入されてきた。このような、日本の政治経済社会体制の全般的反動化を、憲法改悪と新自由主義の徹底によって完成させようとしているのが「小泉改革」なのである。
 中曽根の臨調行革路線以降も、政府や財界から、さまざまな「改革」のプランが提出されてきた。たとえば九五年十二月、村山自社さ連立政権のもとで行政改革委員会規制緩和小委員会が発表した「光り輝く国をめざして」は次のように述べていた。「今回の構造改革は、明治維新や第二次大戦後の改革に匹敵するかそれ以上の、大きな社会および意識の変革を迫るものであり、従来の考え方や枠組みの延長線上だけでは考えられない」。
 そして「聖域」を設けずに国全体のリストラに取り組み、「経済構造改革を進め、さらにそれが経営、雇用、教育、医療、福祉、行政、地域といった広範な社会的構造改革につながっていくことを期待している」と述べた上で、「甘えを脱し」「痛み」を我慢して「生き残り」のために改革を断行すべきだと主張した。この中で強調されていたキーワードは、「市場原理」と「自己責任」であった。
 それは橋本政権の六大改革(行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融構造改革、教育改革)に引き継がれた。経団連や経済同友会などの経営者団体もつぎつぎに「改革」のプランを発表した。これら政府や財界の一連の「改革」プランは、「痛みを恐れず」「聖域なき構造改革」を断行すると強調した小泉の所信表明演説と、構成や論理だけでなくキーワードまでほとんど全く同じであった。
 経済活動に関する規制は原則廃止する。健康・安全・環境などの社会的規制は、規制緩和によって最小限に切り縮める。安定した生活を維持するための公的責任も最小限にとどめ、社会保障機能まで民営化して、国民一人一人が「自己責任原則」で行動する「市場原理にもとづく競争社会の構築」をめざす。これが、この十年あまりにわたって打ち出され、推し進められてきた新自由主義的「改革」の方向性であった。
 この一連の「改革」は、政府の公的責任を放棄する「小さな政府」路線を推進することによって、深刻化する一方の財政危機をなんとか克服したいという願望の表現であった。それは同時に、日本の多国籍企業が、資本のグローバリゼーションのなかで激化する「大競争の時代」に勝ち抜くために、あるいは世界の多国籍企業や金融資本から日本が最適の市場として選ばれるために、社会構造を上から下まで徹底的に新自由主義的に改造しようとするものでもあった。「小泉改革」とは、このような新自由主義的改造を完成させようとするものに他ならない。
 小泉政権が推し進めている「解雇自由」の法制化も、そのようなものの一つである。「整理解雇四要件」のような成文化されていない解雇制限を解消し、日本の企業のリストラを支援するだけでなく、日本に進出した多国籍企業が勝手にリストラを行なっても争議にならないような法体系の整備が必要だというわけだ。小泉政権は、いまやハローワーク(公共職業安定所)の民営化と有料化まで打ち出している。失業者が仕事を探すのもカネ次第ということになる。
 日本社会の新自由主義的改造を使命とする小泉政権は、「靖国神社公式参拝断行」を叫びつつ憲法改悪を前面に掲げて登場した。そして9・11テロと報復戦争を好機として一挙に参戦法の成立を強行し、自衛隊を派兵してアメリカのアフガン侵略戦争に参戦してしまった。有事立法が、次期通常国会にも上程されようとしている。
 それは偶然ではない。弱肉強食の新自由主義的諸「改革」は、かつては「企業社会」の大量浪費的「豊かさ」を基礎にして成立していた国民統合を解体し、貧富の差を拡大して社会を深く分裂させていかざるをえない。この中で資本の支配を安定的に維持するためには、天皇制や戦争のシンボル操作による国家主義的国民統合が不可欠になっているからである。
 新自由主義的な資本のグローバリゼーションは、世界規模で貧富の差を急激に広げ、「市場の暴力」でアイデンティティーの基礎である共同体や伝統的生活の基盤を根こそぎ破壊することによって、敵意に満ちた宗教的原理主義や民族的原理主義を生み出し、世界のさまざまな地域に深刻な社会的爆発と不安定化の火種を作り出す。そして帝国主義はそれを軍事的に押さえ込もうとするだけでなく、自ら火を放って戦争を挑発し、その戦争を通じて、超国籍巨大企業と化した多国籍資本の権益を守りぬく帝国主義世界支配体制を、軍事力の行使を軸により一層、強化しようとしているのである。
 アメリカ帝国主義を主軸とした戦争体制が、湾岸戦争、ユーゴ侵略戦争を通じて実戦的に強化され、アフガン侵略戦争を通じてさらに強化されつつある。日本帝国主義にも、この世界的戦争体制への主体的参加が要求されている。言うまでもなく、米軍の財布の役割を果たすだけでは欧米諸国にあなどられ、帝国主義的「プライド」を満足させることができない。そして軍事力の行使によって帝国主義的「プライド」を大衆的に形成することは、国家主義的国民統合の核心である。だからこそ小泉政権は「戦争のできる国家体制」を作り出すために全力を上げているのであり、憲法改悪に全力を上げているのである。
 それは国家体制を強権化しようという欲望と一体である。小泉は、自民党総裁選のなかで、憲法改悪の突破口として首相公選制を掲げた。首相公選制は、いまなお広く定着している九条を迂回するためだけに便宜的に出されたわけではない。それは、直接国民の信を問う形式をとることによって、議会から超越した「大統領的首相」を作り出そうとするものである。それはこの間の自公保与党三党の強引な運営で形骸化した議会審議をさらに形骸化して、行政執行権力の独裁的支配を強めようとすることをねらったものである。
 それはまた、盗聴法や改悪住民基本台帳法=国民総背番号制などの、労働者市民のプライバシーを踏みにじり基本的人権を脅かす管理支配体制の強化と一体である。さらにそれは、弁護士自治の解体と司法業務の新自由主義的規制緩和によって、裁判の人権擁護機能をさらに弱体化しようとする司法改革と一体である。
 司法制度改革審議会の最終報告は、司法制度改革を、規制緩和や税制改革や医療・社会保障制度改革、政治改革=小選挙区制導入など「『この国のかたち』の再構築にかかわる一連の諸改革の最後のかなめとして位置付けられるべきもの」として打ち出している。まさしく、すべてが結びついた全一連の「国家改造計画」なのである。
 「橋本六大改革」は大不況を深刻化させ、九七年アジア通貨金融恐慌のきっかけを作り出すことによって挫折した。小渕政権と森政権は、大不況におびえて新自由主義的「改革」をスピードダウンし、展望のない場当たり的ゼネコン政治で財政危機をさらに深めただけでなく、深刻極まりない政治不信を引き起こしてしまった。
 小泉はこの支配の危機の深まりを、マスコミを利用したデマゴギッシュなポピュリズム政治でトップダウン式に強行突破し、中曽根政権以来の歴代政府が推し進めてきた新自由主義と国家主義に貫かれた「国家改造計画」を、橋本の挫折を乗り越えて自分こそが完成するのだという固い決意と使命感をもって登場したのである。
 ところが五十嵐は、ひとつながりの「国家改造計画」として出されている小泉の「聖域なき構造改革」のなかから、特殊法人改革だけを「良い改革」として取り出し、しかもそれを「公共事業改革」に一面化して、「すべて賛成」「なんとか小泉内閣に改革をやらせたい」と主張するのである(小泉の特殊法人改革の現実については本紙01年12月10日号参照)。
 五十嵐は、特殊法人改革にも貫かれた「小泉改革」の新自由主義的本質には全く言及しない。正規雇用を無権利の不安定雇用に変えて首切り自由社会をめざす「小泉改革」、住居に関する公的責任をすべて放棄しようとする「小泉改革」、金持ちしか高度の医療を保障されない社会に向かう「小泉改革」、カネがなければ失業者が求職活動もできないようにしてしまう「小泉改革」、奨学金まで民営化し就学ローンにしてしまおうとする「小泉改革」、消費税率の八%化が具体化しつつある「小泉改革」。これらの、労働者市民に一方的に「痛み」を強制する「小泉改革」には全く触れようとしないし、その資本のグローバリゼーションとの関係にも全く関心をはらわない。
 そのため、小泉がなぜ国家主義的国民統合を強化しようとしているのか、なぜ「戦争のできる国家体制」の形成と憲法改悪に全力を上げているのか、なぜ憲法を踏みにじって参戦関連三法の成立を強行し自衛隊を参戦させたのかということについて、全く理解することができず、これらには「反対する」と言いながら結局は「小泉改革応援団」の一員になれと訴えているのである。
 多国籍企業のトップリーダーたちで構成された財界主流が、「小泉さんじゃなきゃできない」と期待しているのは、新たな利潤を生み出さなくなり税金を食いつぶすだけになった旧来の利権の構造を切り捨て、不採算部門やグローバル化で追い詰められた中小零細企業を切り捨て、「権利としての社会保障」を民営化して「自己責任」を押しつけ、労働者の抵抗を押しつぶしてリストラ自由社会を実現することである。中曽根ら反動的国家主義者が「小泉さんじゃなきゃできない」と期待しているのは、憲法を改悪して天皇を元首化し、九条を解体して戦争国家体制を完成させ、基本的人権の上に「公の秩序」を置く社会を実現することである。
 人権や環境や平和を守り戦争に反対する「市民の政治」を、このような新自由主義と国家主義に貫かれた「小泉改革」の応援団となって推し進めることはできない。それはせいぜいのところ、鳩山民主党の市民運動部局を作ることにしかならないであろう。
 たとえ「小泉さんがやっても」、極度に悪化した財政が近い将来、いずれは破綻せざるをえないことは、今回政府与党で合意した特殊法人改革のまやかしや第二次補正予算の現実がはっきりと示している(本紙01年12月10日号)。破綻すれば政府・財界はこれまでと同様、すべての犠牲を労働者市民に押しつけることによって多国籍資本の利益を守ろうとするだろう。
 その時に団結して反撃し押し戻すことのできる力を全国的に形成するために、いまこそ「小泉改革」の新自由主義的本質を暴き、それに抵抗する闘いに全力を上げなければならない。そして体制側からキッパリと自立したそのような闘いのなかからこそ、社会全体を変革する真の可能性が生まれてくるのである。新自由主義を貫く「小泉改革」を美化する五十嵐流の「小泉改革応援団」路線は、労働者市民の自立した闘いを分断し、解体し、抵抗の可能性を奪う反動的役割を果たすのである。
 ドイツ緑の党もフランス緑の党も政権与党として、多国籍企業の新自由主義的要求とそれと対決する労働者の闘いとの間で動揺しながらも、結局は資本主義統一ヨーロッパの側から労働者の要求を値切り、抵抗闘争を抑える役割を果たしてきた。たとえば、フランスの労働者が政府を揺るがす闘いで週三十五時間制を実現したにもかかわらず、社会・緑政権によって経営者の雇用増義務が削除され、変形労働時間制が容認されたことによって、かえって労働強化と労働時間の不安定性をもたらしているのである。社会・緑政権と対決する労働者の闘いは、さらに激しく広く展開されている。
 ドイツとフランスの緑の党は、戦争の問題ではユーゴ空爆に賛成し、NATO域外への侵略戦争を発動する「新戦略概念」を受け入れたことに続いて、アフガニスタン侵略戦争への全面的参戦も承認した。フランスからは、原子力空母シャルル・ドゴールを主力とする大部隊が派遣されている。ドイツからは戦車部隊を含む大規模な正規軍部隊が派遣されている。
 それは、かつての村山社会党が、安保・自衛隊・原発に至るまで基本原則をすべて投げ捨てて自民党政治を受け入れたことをはるかに越える決定的裏切りである。村山社会党は原則は投げ捨てたが、実際に戦争に乗り出すところまでは行けなかった。ところがドイツ社民・緑政権やフランス社会・緑政権は、実際にユーゴ空爆に加わって罪もない多数のユーゴ民衆を虐殺した。今回も、いまなお憲法九条の一定の制約下にあって「補給」しかできない自衛隊とは異なって、直接にアフガニスタンに砲爆撃を加える態勢に入っているのである。
 新自由主義に屈服し侵略戦争に全面的に加担する、このような「緑の政治」に無自覚に流されていく方向から決別することこそ、いま「市民の政治」に強く求められている。問われているのは、政権に参加したり協力したり期待することではなく、新自由主義と戦争政策に対する確固とした抵抗運動を作り出すことなのである。(12月7日 高島義一)

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