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    かけはし2019年5月13日号

4月19日〜21日沖縄ツアー


現地の闘いの息吹き実感

歴史的背景も再確認

 アジア連帯講座に参加する八人が四月一九日から二泊三日で沖縄現地基地建設反対行動に参加した。参加した行動は以下のようなものである。四月二〇日土曜日、?平和丸で辺野古の海へ?キャンプ・シュワブゲート前、米軍基地建設反対集会に参加?大浦湾対岸から基地を眺望?衆院沖縄三区補選・屋良ともひろさん選挙応援?土砂積み出しの安和桟橋へ。夕方、何我舎へ宿泊。?知花昌一さんと交流。
 四月二一日、?知花さんと交流?恨の碑(朝鮮軍属の強制徴用・労働、虐殺事件)、?千人が助かったシムクガマ?嘉手納基地を一望する道の駅。?ヌヌマチガマ・ガラビガマ(野戦病院での日本軍による日本兵士の虐殺)、?シーサーの弾丸跡。

海とゲート前で
現場の闘い共に


 四月二〇日の朝。辺野古港に行き、平和丸に乗船。海は満潮で波が立っていた。全員救命胴衣をつけて出発。左手に米軍キャンプ・シュワブ基地。警戒線にオレンジのフェンスが張られ、海保や民間の警備船が進入を阻止しようと見張っている。波が強まり、船の中にしぶきが入ってきた。大浦湾まで行くのは危険なので断念した。大浦湾側に、土砂を積んだ大型台船が二台入っていき、外洋では巡視船が二四時間監視していた。埋め立て護岸で大型のクレーンがテトラポットを積み上げて海に投入していた。漁船が数隻出ていたが、漁をすることなく、ただ居るだけで一日五万円が支払われているという。ムダな税金が使われている。
 辺野古港に戻る途中で、カヌー隊と抗議船が大浦湾めざして出て行った。抗議船の西川船長は東京東部で東水労の指導部だった人で退職後、抗議船の船長になった。平和船の副船長で半年の見習いという西浦さんは練馬区の出身で、同じ練馬のMさんの友人。闘いの全国性を実感した。この後、キャンプ・シュワブゲート前の座り込みへ合流。
 山城博治さん(沖縄平和運動センター議長)の司会で集会が開かれていた。元芝工大自治会委員長のYさんが連帯のあいさつをしていた。芝工大全学闘の元委員長や横国大、東洋大出身で東大安田講堂闘争の元被告の人たちも参加していて、久しぶりの再会でお互いの健闘をたたえた。
 第一ゲート前から第二ゲート、第三ゲートへ移動して、カヌー隊への激励・集会を行った。那覇バス一九人、糸満三六人と島ぐるみの人たちが続々と参加してきた。沖教組、自治労、国公労の組合員も参加していた。参加者の一人が「米軍基地にかつてヤギが飼われていた。それは基地に毒ガスや核兵器が貯蔵されていたからだ。また、ここの弾薬庫と嘉手納弾薬庫まで秘密のトンネルでつながっている。それほど基地は強大であり、危険なものだ。必ず撤去させる」と発言した。
 沖縄韓国民衆連帯の沖本さんが「四月二七日に行われる三八度線の非武装地帯を五〇万人で手をつなぎ分断の歴史を終わりにしようとする平和行動へ沖縄から三〇人が参加する」ことを報告した。今日はトラックの搬入の動きはないということで、正午で抗議行動を終えた。われわれはその後、大浦湾の対岸からキャンプ・シュワブや弾薬庫を見る浜に移動した。大浦湾では台船から船へ土砂の移動を行っていた。

屋良選挙応援で
民意の強さ知る


 午後三時から、衆院選沖縄三区補選でオール沖縄の推薦で立候補した屋良ともひろさん(ジャーナリスト)が選挙戦最終日、名護市で訴えをするということで応援した。交差点にヤラというのぼり旗を林立させながら三〇〇人程の支援者が集まった。その中には創価学会の三色旗も二本あった。
 玉城デニー知事も候補者と同じ宣伝カーに乗って到着。玉城知事は「中国を訪問してきたが中国脅威論を煽るのではなく、経済発展する中国と仲良くすることによって、沖縄の未来も開かれる」と話した。屋良さんは「辺野古新基地建設を断念させること。沖縄の未来は日米政府の圧力のもとに決まるのではなく、自由な沖縄の存在こそが大切である」ときっぱり表明した。絶対に選挙に勝ち、基地建設を止めるという民意に後押しされた強い決意に大きな拍手が巻き起こった。
 この後、安和桟橋に行った。左手の奥に山が削られた跡が見えた。ここから土砂や赤土が桟橋に運ばれて来る。そして大きな鉄管の中のベルトコンベアーによって岸壁に運ばれる。今日は動きはなかったが、ここでの搬入阻止行動が極めて重要な攻防になっている。

「日の丸」から
「灼熱の旗」へ


 夜は知花昌一さんの何我舎に移り、バーベキューに舌つづみをうちながら知花さんと交流した。知花さんは一九八七年の沖縄国体開催の時、読谷村で開かれたソフトボール大会会場の「日の丸」を引きずり下ろし焼き捨て逮捕された。
 当時、読谷村のチビチリガマであった強制的自死強制事件の真相が被害者が三〇年忌を過ぎてようやく証言して明らかになった。彫刻家の金城実さんや知花さんらはこの虐殺の真実を後世に遺すために、記念碑を作った。当時沖縄の学校で「日の丸」掲揚がゼロに近いということで、文部省は「日の丸」強制を強めた。この年の三月の読谷高校の卒業式で、壇上の「日の丸」が女子高校生によって、引きずり下ろされ、どぶにつけられ、捨てられるという衝撃的な抗議行動があった。これを知った村の知花さんたちは国体で「日の丸」を掲げさせないと実行委を作った。知花さんは当時スーパーを経営していて、他の人より逮捕されてもがんばれるということで知花さんが決起したという。
 翌朝の朝食の時、知花さんの行動を映したビデオを見せてもらった。一本は知花さんの決起とその背景をさぐるものであり、もう一本は沖縄にとって「日の丸」がどのような歴史をたどってきたかを知花さんの体験を通して明らかにするものだった。
 米軍が沖縄を占領・統治した時、「日の丸」は禁止された。本土復帰運動が起きると教職員組合は、学校で「日の丸」を掲げるように要求した。禁止が解かれたのが一九六九年。知花さんは当時買った「日の丸」を今でも持っている。
 「日の丸」の位置づけが変わったのは沖縄の本土復帰によっても、米軍基地の存在が一切変わらず、その上本土の政治・経済が沖縄支配としてのしかかったからだ。「日の丸」は新たな支配の象徴になった。
 知花さんは三つの卍模様の琉球国の国旗を見せてくれた。沖縄の歴史を知り、抑圧をはね返す解放の旗として「琉球国旗」を受け取って欲しいと渡されたという。そして、ドクロに囲まれた「日の丸」。これは「灼熱の旗」と名付けられた丸木俊・位里さん(原爆の図の作者)から送られたもので、一番大切にしていると話してくれた。知花さんとの有意義な交流を終えて、沖縄戦戦跡めぐりに出発した。

日本軍の非道性
怒りあらためて


 最初に嘉手納町が運営する道の駅の四階に上り、「安保の見える丘」で広大な米軍嘉手納空軍基地を見た。成田空港の二倍はあるという嘉手納基地。日曜日ということもあり、軍用機の離発着はなかったが、哨戒機、空中給油機、輸送機が何機も駐機していた。三階のビデオ室で嘉手納基地の歴史と現状を見た。いかに嘉手納基地が重要な基地機能を持っているかリアルに分かるものであった。
 次に、ガマへ。野戦病院のあった地下壕。米軍の上陸・攻撃によって、負傷者はあっという間に、千人を超した。食べ物も限られ、医薬品もつきる中、最後には歩けない兵士を「処置」として青酸カリや手りゅう弾によって殺して壕を放棄した。「敵」に殺されるのではなく、自軍=日本軍によって殺されていった。当時の日本軍が持っていた「人を人とも思わない」天皇制思想にはまった非人間的なやり方に深い憤りが湧いた。すべての電気を消して、真っ暗で水の音だけがする壕は恨みの兵士たちがよみがえるようであった。最後に弾丸が突き刺さった跡のある沖縄で一番大きなシーサー像を見て、那覇空港へと帰途についた。
 なお、朝鮮人が軍属として沖縄に強制的に連れてこられ、強制労働されながら、その後、スパイとして処刑された。その事実を残すために「恨の碑」が金城実さんらによって制作された。また、読谷村のシムクガマに避難した住民千人が米軍の投降の呼びかけに応じて壕から出た。その壕にたまたまハワイ帰りの沖縄人がいて、英語で兵士ではなく住民であることを伝え、全員が助かった壕も見学した。
 今回のツアーは沖縄のOさんにお願いした。Oさんは沖縄の歴史を深く理解し、修学旅行生や外国人らをこうしたガマ(壕)などに案内して、説明するガイド役をやったり、辺野古新基地建設の闘争にずっと参加している。今回のツアーが有意義なものになったのはOさんの案内があったからだ。心から感謝したい。(M)

コラム

怒りの葡萄

 映画「怒りの葡萄」を観た。観たといっても映画館ではなく格安DVDを買ってである。モノクロ一二九分の大作。一九四〇年に製作されたとは思えない社会性を持った映画だ。日本では、米、マッチなど一○品目が切符制になった時代である。
 アメリカを代表する作家スタインベックの名著「怒りの葡萄」が出版されたのが世界恐慌から第二次世界大戦へ向かう一九三九年のこと。今年で発表八〇年になるが、今もその内容は決して色あせていない。翌四〇年には本作でピューリッツアー賞を受賞し、六二年にはノーベル文学賞を受賞している。
 また、発表翌年にはジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演により映画化され数々の賞を獲得している。そのDVD化された映画のジャケットには、「資本主義の不条理な社会に流されながら生きていく一組の家族と民衆の強さを描いた」「アカデミー作品賞の最有力とされながらその内容がゆえに受賞を逃した」と記されている。
 その内容とはオクラホマ州で発生した砂嵐による農作物被害と、トラクター一台で一五世帯の労働をまかなえるとうそぶく地主の機械化により暴力で農地を追い出されたジョード家が逆境に抗する姿を描いたもの。家財一切を二〇〇ドルで売り払い、七五ドルで買った中古トラックに家族一二人が乗り込み、ルート66をアリゾナ砂漠やロッキー山脈を越えて仕事があるというカリフォルニアへ向かうというある意味プロレタリア小説を思わすものだ。そこには、アメリカ資本主義の横暴と闘う一家の姿を力強く所狭しに描いている。
 しかし、「乳と蜜の流れる、豊穣な『約束の地』」であると噂されたカリフォルニアは、すでにオクラホマを追われた農民たちであふれジョード家の希望は無惨にも打ち砕かれ、旅の途中で地主に雇われた警備員を撲殺した主人公のトムは、官憲の目を逃れるために家族と別れひとりキャンプを去る。
 そんな「怒りの葡萄」と同時代に実際にオクラホマ州の季節労働者と旅を共にしたフォークシンガーにウッディ・ガスリーやピート・シガーがいる。以前、本稿で書いた高田渡や加川良の系譜につながるものだ。「怒りの葡萄」が発表されたときウッディ・ガスリーは二七歳、ピート・シガーは二○歳だったが、二人とも生涯の社会主義者だった。
 ウッディは、ギターに「この機械はファシストを死なせる」と書き、ピートは、一九三六年一七歳で共産主義青年同盟に参加、のちのハンガリー動乱を契機に離党はするが、四二年にはアメリカ共産党に入党している。二人が出会ったのも一九四〇年労働者のための慈善コンサート「怒りの葡萄」であったという。彼らの唄には、この「怒りの葡萄」をモチーフにしたものが少なくない。
 アメリカというと建国から今日まで資本主義の権化のように思われがちだが、資本家と労働者、地主と小作人という階級闘争があったことはまぎれもない事実である。また「怒りの葡萄」は、保守層から目の敵にされ「はだしのゲン」ではないが、当時、本書を置かない図書館も続出したが、図書館の読者的自由を守る決意として図書館の権利宣言が発せられたことも忘れてはいけない。時代背景から見れば、アメリカは日本より階級的だったともいえよう。
 今日、ウッディ・ガスリー生誕一〇〇年を記念した三枚組CDが届く。その唄を聴きながら再度、本の頁を開いてみたい。(雨)



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