幼年期の敗戦の記憶
今から七四年前、私が当時国民学校二年生の時に日本は敗戦を迎えた計算になる。「大元帥・昭和天皇」による「玉音放送」のあった八月一五日といえばちょうどお盆のさなかであり、この地方の盆唄に「盆よ盆よと春から待ちて、盆が過ぎたらなにょ待ちる」というのがある。一四日の夜から三日三晩踊り明かすこの地の盆踊りは、誰もが春から待ちわびていたものである。
敗戦を迎えたこのような時の盆踊りは罷りならぬなどという「お上からのお達し」があったようであるが、そのお達しに納得出来ない人々は、心ゆくまで踊ったということである。権力にもそれを取り締まるほどの元気もなく、めでたきかな無政府状態であった。
当時、国民学校の校庭には奉安殿という、なにやら白い箱みたいなものがあって、中には天皇・皇后の写真が「安置」されているということで毎朝礼拝させられ、天皇陛下がいるからこの戦争はかならず勝つと刷り込まれていた。
しかしそれをまるまる信じていたかというと、そうでもなかったような気がする。というのは、当時大本営発表もあまり威勢のよいことばかりは言っていられなくなっていた。
私が生まれ育ったこの地は、長野・愛知・静岡の三県の境あたりに位置していて、一九四四年の暮れころから浜松にあった軍事施設が米空軍B29によって五、六回爆撃をされ、夜になると南の空は昼のようにあかるかった。もうこの戦争は終わりに近いことなど、大人のひそひそ話に耳を澄ませていて、子供心にもうすうす感じていたように思う。
破壊を免れていた軍事工場
B29の爆撃は国際条約違反の民間の人・建物そして広島・長崎への原爆投下は、今もなお鋭い傷跡をのこしている。あのときの爆撃で日本の軍需工場はことごとく破壊されつくされたというのが私の最近までの認識であった。しかし「山本義隆著・近代日本一五〇年/岩波新書」を読んで大きく修正を迫られることとなった。以下抜粋を紹介する。
朝鮮戦争の勃発後、米国の対日政策は日本に軍事協力を求める方向に転換し、一九五二(S27)年四月に日米安保条約と抱き合わせにサンフランシスコ講和条約が発効して、日本は、沖縄・奄美・小笠原をのぞき、主権を回復して、独立を達成する。
その直前GHQは「兵器・航空機生産禁止令を解徐し、ひきつづいて賠償に指定してあった民間軍事工場の指定解徐の方針を出し、四月二六日には航空機製造施設など八五〇工場を日本に返還することを発表した」(小山、一九七二)。そして五二年に「航空機製造事業法」、五三年には「武器等製造法」が制定され、五四年には日米相互防衛援助協定(MSA協定)が締結され、日本は防衛力増に努力することが義務づけられた。そしてこれにつづいて、東大と京大に航空学科が復活した。
それとともに三菱、三井、住友の旧財閥は息を吹き返し、軍需産業が復活の歩みを始めることになる。経団連は一九五二年に「防衛生産委員会」を組織し、翌年には 業界団体「日本兵器工業会」(のちに「日本防衛装備工業会」に改名)が設立されている。(p221)
生きかえった軍需産業
B29の爆撃で、日本の兵器工場はことごとく破壊されつくしたと思っていたが「航空機製造施設など八五〇工場」は生きていたということになる。これは私にとって大いなる驚きであるが、ではそれらの工場を稼働させていた技術者・研究者はその当時どのような状況におかれていたのか「内橋克人著・同時代への発言・3岩波新書」(p74)
たとえば「零戦」を生んだ三菱重工では、航空技術者たちは日本の敗戦と戦後にどう対応していたのだろうか。敗戦時、彼らの主力は信州松本の疎開工場に集結していた。
敗戦の報とともに高級技術者たちはひそかに指示を受け、時をみて全国五カ所におよぶ製作所へと移動を開始している。第一陣は水島製作所(岡山県)、京都製作所へ。ついで第二陣が川崎製作所、長崎造船所へ、であった。水島、長崎には、航空機の開発研究にとって欠かせない大規模な風洞や水槽などの実験設備が、戦禍にも破壊されず、残存していたからである。このため両製作所に主として「空力分野」の技術者・研究者たちが送られた。やがて彼らは再び移動を開始し、最終的に京都、水島の両製作所に再結集して戦後の機会到来を待つことにしたのである。
そうした技術者の一人が直接筆者に語ったところによれば、当時このようにして温存された技術者 は百五〇人(戦車から航空機まで含む)を数えた、という。やがて、米軍需産業からのライセンス生産により国産機の製造がスタートする。それに先立ち、一九五二年 (昭和二七年)彼らのうちまず七〇人が名古屋(現在の名古屋航空機製作所)めざして、はやばやと移動していった。
アジアの人々を踏み台
にした経済大国への道
「温存された技術者は百五〇人」とあるが、彼らはエリート中のエリートで、その人材のすそ野は広かっただろうと思われる。戦中の軍需産業を支えた、その他多くの技術者・研究者たちは戦後の経済成長にどのような役割を果たしたのか。
実際、戦時下のレーダー開発が戦後のトランジスターやダイオードを基礎とした電気通信分野発展の基礎となったことは、よく知られている。電気産業では、東芝、日立、松下はいずれも戦時下の軍需生産で大きく成長した企業である。戦後生まれの企業としてはソ ニーが知られているが、そのソニーにしても、母体はほぼ全面的に海軍技術研究所の人脈である。自動車産業も、トヨタ、日産、いすゞは、以前に言った「自動車製造事業法」の恩恵を受け、昭和十年代に政府の保護下で育まれた企業である。さらに、米軍の占領下で航空機の生産が完全に禁じられたことによって、戦時下で航空機の生産に従事していた三菱重工以外の軍用機メーカーや軍の研究所の技術者たちの多くが、自動車産業に移ったことが知られている。戦後の国産自動車の開発には、戦前・戦中の航空機産業の技術的蓄積がものを言ったのである。軍の技術者はまた、国鉄や鉄道研究所にも多く働き口を求め、鉄道技術の発展をもたらした。日本の高度成長を代表する技術のひとつが新幹線と言われているが、「新技術の集大成である新幹線開発においても陸海軍技術者や航空技術者の活 躍が目立った」のだ(沢井、二〇一五)……略……
一九四八年の朝鮮民主主義人民共和国と翌四九年の中華人民共和国の成立を前にして、占領軍は、日本の民主化から日本を極東の軍事工場・兵器庫にするという方針に転換した。そして、一九五〇年六月に朝鮮戦争が始まると、日本は、米軍の兵站基地の役割を果たした。
その朝鮮戦争での特需こそは、日本経済が速やかに回復できた最大の要因である。特需はナパーム弾やロケット砲・迫撃砲・バズーカ砲をふくむ砲弾類や拳銃・小銃・機関銃とそれらの弾薬といった兵器類から、軍用トラックや自動車部品、石炭や麻袋あるいは軍服や毛布等の物資にいたり、さらに戦車や無線装置等の修理から基地建設にまでおよんでいる。
自動車産業の復活
米軍特需によるトラックの受注が「天の恵み」となって、トヨタ、日産、いすゞの三社を蘇らせた。
一九五〇年から五年間の特需で、日本には三〇億ドルが流れ込み、企業は、その利益を古びた設備の更新と最新の技術の導入にあて、その後の発展、六〇年代の高度経済成長の基礎を築いた。
そして、高度経済成長が七〇年代半ばまで持続しえたのは、自動車、鉄鋼、テレビの輸出が好調であったこととともに、これまた六五年に本格的に始まるベトナム戦争での特需に大きく負っている。
朝鮮やベトナムの人たちを殺戮するために、多くの兵器が「平和憲法」の支配する日本で作られていたのであり、こうして日本は復興をなしとげ、「驚異的」といわれる経済成長を達成した。ふたたび日本は、アジアの人たちを踏み台にして大国への道を歩んだのである。(近代日本一五〇年〈p217〜222〉)
さて、「一九五〇年から五年間の 特需で、日本には三〇億ドルが流れ込み」という箇所を読み、少し考えこんでしまった。というのは当時は全国各地に米軍基地があり、その付近には「赤線」があったことは知られている事実である。「売春」という言葉には「商取引」の意が含まれていると思うが、いかなる理由にせよそれは違う。暴力そのものである。彼女らは、その生き方を選ばざるをえない事情をそれぞれに抱えていたであろうが、そのような事情を醸成した社会による暴力であると私はかんがえる。そのような暴力にたいして支払われたドルは「報酬」とは言えない。まさに性奴隷である。
当時、政府が米軍基地の赤線の女性たちの性病検査をしていれば、資料はのこっている筈である。情報公開の手続きの道もあるかもしれないが、ネットでの検索では難しいものがある。そのことによるドルの流入はいかほどか、額の多寡ですませられることではない。「あゝ野麦峠」の少女たちが置かれた状況とどこかで重なる部分があるように思える。そこには地租改正による農村の疲弊が背景にあったのである。いずれそのことも含めて、別の項で論ずることにしたい。
国産CCVの誕生
一九八三年四月、三菱重工名古屋航空機製作所から一機の「新世代ジェット戦闘機」の研究機が送り出され、岐阜県・各務原飛行場での度重なる飛行試験の結果、防衛庁航空実験団の手により性能優秀と認定され、翌一九八四年三月末、ただちに防衛庁に納入された。
同機が新世代ジェット戦闘機の最先端に位置づけられる理由は明白なものである。
エレトロニクス技術の急テンポな進化の結果、空中における戦闘能力の評価基準は質的に変化した。電子戦は戦闘機に要求されるすべてのシステムを一変させ始めている。三菱重工名古屋航空機製作所を誕生の地として全貌を現した純国産ジェット戦闘機が実戦配備されれば、空の電子戦において、現時点では確実に戦況の主導権を把握できる。スピードの緩急ではなく、機体の行動可能圏の三軸化への成功に秘密が隠されている。通称CCV、すなわち「コントロール・コンヒィギャード・ビークル」と呼ばれる航空機の出現がそれである。
まず、新世代戦闘機のイメージを描くため従来機とは次元の異なる航空性能から、解説を加えておかなければならない。平易に表現すれば次のように示すことができる。
一、同機は、超音速で直線飛行を継続しながら、そのままの飛行姿勢で上下左右に移動できる。すなわち機首を変えることもなく、直進姿勢のまま思い通り機体を右方向へ左方向へ、また上昇、下降へと自在に転じることができる。
二、逆に、機首の向きを左右上下に変えても、機体はもとのまま同じ方向へ、同じ姿勢で飛行しつづけることができる。すなわち飛行進路を変えずに、機体の向きだけ変更することが可能である。
三、要約していえば三軸、すなわち左右、上下、前方(斜め前)およびそれぞれをつなぐ動線のすべてに対して、自由な移動が、機首方向、機体角度などと関係なく、可能となった。……略……戦闘機にとってのウイークポイントは機体の腹部を敵機の銃口の前方にさらすこと、とされるが、新鋭機はそのような危険を瞬時に回避しつつ存分に交戦できる。……略……これまでCCVは航空・宇宙の超先進国である米国の二機を除いて存在していなかった。世界三号機が純国産機として日本の独自技術で生み出されたことになる。(同時代への発言〈p57〜〉)
問題は「もう一つの日産」
この、「同時代への発言」の内容は衝撃的であるが、本書の発行は一九九九年で、その後の推移・現時点ではどうなっているかが問題である。「九八年だったか」九九年だったか記憶が曖昧であるが、反安保実行委員会の主催で広瀬隆さんを講師に招いて講演会をひらいたことがある。その時「日産は自動車を作っている会社だと思っている人がいるかもしれないけれど、あれはミサイルを作る会社なんです」といった趣旨の発言があった。そのことはこの「内橋克人著・同時代の発言3」に詳しい。
カルロス・ゴーンさんの逮捕を機に彼への報酬とされている金の流れとともに、日産の事業の内実に迫ることが問われているのではないか。次の稿でそのことにも触れたいと思う。 (つづく)
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