組織建設の中心担った苦闘
困難に正面から立ち向かう
「逃げない気迫」を共有したい
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寒さが厳しくなった一月二〇日夜、長い間新時代社で主(ぬし)のようにがんばってきた大竹文夫同志が風呂場で倒れ突然亡くなった。享年七〇歳。連絡を受けてから今日で五日も経つが、未だ亡くなったという実感を持てない。昨夏、私が脳出血で入院し、半年振りに退院したということを聞きつけ、群馬から東京の私の部屋を夫婦で見舞ってくれたのが、彼に直接会った最後。暮れの一二月に「明日、東京に出て国会闘争に参加する。時間が空いたら顔を出す」と電話で話したのが、彼の声を聞いた最後になってしまった。
故郷は尾瀬・片品村
彼の自宅があり、故郷でもあった「群馬県片品村」は、あの有名な「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 遠い空」の高層湿原・尾瀬の玄関口である。私はそのあこがれの尾瀬に一九七六年の秋に初めて連れて行ってもらった。彼が故郷に戻る車に無理矢理便乗したというのが正確かも知れない。片品村の自宅に到着した翌日、車で尾瀬の入り口である大清水まで出掛け、二人で尾瀬沼と燧ヶ岳が見える三平峠まで歩いた。からまつの株が黄色に色付き始め、湿原は草紅葉に染まっていたのを四〇年過ぎた今でも鮮明に記憶している。これを契機に私は燧ヶ岳や至仏山に登ることも含めてそれ以降数回、尾瀬を訪ねている。私の友人たちの尾瀬行きは私と同じように最初は大竹さんといっしょという人が多い。
機関紙活動の中心で
彼は一九四八年、群馬県片品村で生まれ、県立沼田高校片品分校を卒業し、一九六七年に東北大学に入学した。一九六七年は山崎博昭さんが羽田闘争で死亡した(虐殺された)年で、急進主義運動が高揚していく出発点になった年でもある。こうした政治的背景もあり、彼は入学直後から学生運動に飛び込んだ。しかし、それから三年後の一九七〇年には全共闘運動が下火になり、急進主義運動を主導していた新左翼の中にセクト主義と内ゲバ主義的な堕落した体質が顕在化し始めた。それを契機に彼は学生運動に見切りをつけ、大学を中退し上京した。
この時期、全共闘運動は下火になったが三里塚闘争や沖縄闘争に代表された全国的な大衆運動は依然として高揚していたし、広がり続けていた。私と同じ歳であった彼もこうした運動、闘いに引き付けられたように思う。
上京後、彼は第四インターナショナル日本支部(日本革命的共産主義者同盟)に加盟した。この時期、第四インターナショナル日本支部は、全国反戦や全国全共闘を軸とする急進主義運動の全国的高揚を背景に、それまで分裂していた組織を再建・再統一して三里塚闘争と沖縄闘争に全力で取り組み始めており、今から見てもすごく活気があり、魅力的であった。
当時、日本支部は一方で三里塚・沖縄闘争に全力で取り組むのと同時に、他方では全国組織の一体性をさらに強化するために、機関紙「世界革命」を旬刊から週刊化への活動にその努力を傾注していた。日本支部に加盟した大竹さんは、関東各地にこの機関紙「世界革命」の支局を建設するために奮闘した。この組織活動への参加が、その後三〇年間新時代社の主(ぬし)となる活動の出発点であった。機関紙「世界革命」の発送日には、大竹さんは車に「世界革命」を積み、東京五地区(東・西・南・北・多摩)と埼玉・神奈川・千葉の事務所に配送し、また書店にも届けていた。
七〇年代関東で活動していた仲間なら、この当時の大竹さんの姿を思い浮かべることができるだろう。今日の関東におけるわが組織の原型は大竹さんなどのこうした活動が形成したと言っても過言ではない。
直面した組織問題
「出る杭は打たれる」。私たちが本当の意味でこの言葉の持つ本質を知ったのは一九七八年三・二六闘争以降である。三・二六闘争で私たちは「三里塚闘争に連帯する会」の仲間たちと共に第八ゲートを突破し、要塞に赤旗を翻し、管制塔を占拠する闘いに成功した。この闘いの勝利を私たちは反対同盟とともに心から喜んだ。それは私たちが全国大衆運動の最先頭に立ったことを意味した。しかしこのことが私たちに取っては何を突きつけてくるのか全く理解してはいなかったし、どのような政治的思想的資質を問うのか全く分からなかった。当然にもなんの準備もしていなかった。三・二六以降何が始まったか簡単に羅列してみる。
第一は権力による集中弾圧。ガサ入れに始まり、尾行、事後逮捕、職場への圧力等々。さらにこの権力に呼応する形で、労働組合官僚は闘った仲間に対して統制処分。また既成政党も過激派キャンペーン。あげれば切りがない。第二は中核派による一坪運動を口実にした無差別テロ。これは三里塚闘争において主導権を失った中核派のどう喝であり、他の大衆運動においても中核派の位置と役割が後退していくことへの恐怖から出た政治的策動である。そして最もこのテロが悪質であったのは全面的な権力の介入を招いたことである。第三は、私たち自身が運動や闘いの最先頭を担う資質がないという政治的限界が露わになったことである。この最も象徴的な問題が女性差別問題であった。わが同盟の差別的体質が次から次へと暴露され、一層女性たちを傷付け、女性たちが組織を離脱せざるを得ない構造までつくり出してしまったのである。そして第四は、これら一連の行きつく結論としての日本支部の組織分裂である。唯一の救いはこの組織分裂が内ゲバ的なものにならなかったことである。しかし今日なおこの分裂を克服できていないことが私たちの限界を物語っているともいえる。「出る杭は打たれる」というのは、単に外からの圧力だけではない。問われているのは課題に応えることができなければ内部から分解するベクトルも働くのである。
わが組織は八〇年代、九〇年代、こうした政治的試練に立たされてきた。特に関東には東北や関西のように加入戦術を経験した世代(オールド層)がほとんど存在しなかったために、組織の中堅であった大竹さんたちに矛盾が集中した。三・二六直後の職場の解雇や処分に反対する闘いでは、早朝から門前闘争を展開し、昼は裁判闘争、夜は支援会議での相談という具合で休む間もなかった。中核派のテロに対しては病院・家族の対策に奔走しただけではなく、自らも自宅には帰れず、長い間事務所での生活が強制された。女性差別問題で差別的体質を引きずりながら、問題を政治的思想的に深めるために議論の中心に立ち続けた。それは組織分裂でも同じであった。
この時代を私たちはどう考えるべきなのかと大竹さんと討論したことがあった。彼はその時、「総括なんぞおよそできないが、言えることはよく逃げ出さず踏んばったなあ!」と感慨深く話していたことを思い出す。その点でみると七八年の三・二六から一〇年間は活動家としての試練の時代であったと言える。大竹さんが言うように「逃げずに踏んばった」というのは、この時代をともに経験した仲間の共通の本音であるように思う。
質実剛健と慌てんぼう
彼は夏になると製麺屋から買ってきたうどん一束にねぎを刻み昼飯にしていた。酒を飲む時は、夏は冷奴、冬は湯どうふ。よっぽどのことがない限り、彼はこのあり方を変えることはなかった。その意味で彼は誰よりも質実剛健で、曲がったことの嫌いな武骨漢であったし、周囲に彼を悪く言う人は誰もいなかった。しかし、そんな彼も近くにいる私たちからすれば驚く程せっかちで、慌てんぼうであった。時々それに振りまわされた。
一度こんなことがあった。夏合宿の会場を予約するために河口湖に向かって中央高速を走っていた時、彼は突然「今日にも二番目の子どもが産まれるかもれしない。しかし、彼女の入院する病院の名前と場所を忘れてしまった。次のドライブインで電話をかけて聞くから、次のドライブインでちょっと休もう」と言い出した。会場の予約が終り、昼飯を食い終わると彼は「俺は先に帰るから、電車で帰ってくれ」と店を飛び出していった。
だが気付くと椅子の上に彼の黒いカバンが残っている。バッグを開けると、財布はあるし、電話で聞いた病院名をメモした手帳も入っていた。今と違ってスマホも携帯電話もない時代であったので、私は彼のカバンを持って電車に乗った。大月駅で富士急から中央線に乗り換えるために歩いていると改札口で大きな声で私を呼ぶ声。彼は入場券を買うカネも、高速道路代も持っていなかったのである。病院名は手帳を見なくても覚えていたのか確かめたことはなかった。これに類するエピソードはいくつもある。
彼は愛すべき人間であった。それとともにわが組織の礎を築くために人生を捧げた。大竹同志、本当にご苦労様でした。ありがとう。ゆっくり休んで下さい。(大門健一)
1.28
通常国会開会日行動
安倍改憲NO!沖縄と共に
寒気ついて450人
一月二八日第一九八通常国会が始まった。正午から国会前で「安倍改憲NO!辺野古土砂投入即時中止!共謀罪廃止!安倍政権退陣国会開会日行動」が寒気をついて四五〇人の参加で行われた。主催は総がかり行動実行委、安倍9条改憲NO!全国市民アクション、共謀罪廃止実行委員会。
主催者を代表して発言した高田健さんは、「毎月勤労統計」偽造を厳しく糾弾し、施政方針演説の最後に述べた「憲法は国の理想を語るもの」「憲法審査会の場で、各党の議論が深められることを期待する」との主張を批判した。そして、勤労統計偽造を安倍首相の責任と厳しく批判した。高田さんは、また辺野古への工事強行を糾弾すると共に、沖縄県民投票が行われることになったことを歓迎した。
各野党からは社民党の福島みずほ参院議員、共産党の小池晃書記局長、立憲民主党の江崎孝、国民民主党の大島九州男、「沖縄の風」の伊波洋一各参議院議員が発言し、野党の共闘姿勢を示した。
さらに共謀罪NO!実行委の海渡雄一弁護士、日本のジェンダー平等度の低さを訴える女性たちのアピールも参加者たちの共感をさそった。
総がかり行動は沖縄と結び安倍改憲阻止!辺野古新基地NO!の思いを一つにした。 (純)
コラム
漢字パズル
一昨年の暮れ。愛用のパソコンが故障し、年をまたいで気分が落ち込んでいたことは、以前本欄に書いた。今年の休みは曜日の組み合わせで一週間以上にもなる。あれこれと計画を立て二九日、母親の暮らす老健施設に行くと、本人から衝撃的な言葉が飛び出した。「二、三日前から目が見えなくなった」というのである。
生まれつき左目が見えない母は、右目だけで仕事に打ち込み、四人の子を育ててきた。その右目も強度の近視で、眼鏡をかけても遠くの物がぼやける。私がその事実を知ったのは、父の死から一五年。彼女が六四歳、私が三六歳の頃だ。告白の驚きは大きかったが、改めて振り返ると思い当たる数々の所作があった。長いあいだ彼女は、家族にさえ自分の障碍を隠し続けていた。
動揺する私に、「一階に降りた時に何かにぶつかって、それから見えにくくなった」と繰り返す。市販のパズル雑誌が大好きで、一度目の脳梗塞でパートを辞めてからは、自宅で熱心にボールペンを握っていた。一冊の三分の二ほどを解答し、行き詰ると家族に新刊をせがんだ。私は彼女が解けるようにと、ヒントを記入してから渡していた。
施設側は母の変化に気づかず、「ぶつけたなら顔に傷跡が残るはず」と外傷説を否定。双方の主張は平行線だが、私は「とにかく受診を」と訴えた。手つかずのパズルが積み上げられ、設問じたいが見えなくなっていることは、網膜剥離や白内障を経験した私には明白だった。
老健に近い眼科医院の開院は新年四日から。入所者が施設外の医療機関を受診するには、配置内科医による紹介状が要るという。非常勤の若い医師は、右目にペンライトを当てて首をかしげ、面倒そうに書状を書いた。
奇しくも四日は、四度目の介護認定調査の日だった。「調査より診察を」と日程変更を申し出るも、ケアマネは調査員の多忙を忖度し聞き入れない。当日朝、私が区役所に電話して事情を話すと、調査員はあっさりと訪問時間を繰り上げた。送迎用のワゴン車で、一〇時には調査を終えて医院の玄関に入った。
混むだろうと心配した狭い待合室に人影はなく、検査装置への移乗を、車椅子に慣れない看護師に私が指示を出した。
「白内障だが、手術しても視力が出るかどうか」と東京医大出身の医師は言った。診察後本人は落胆し「こんなとこ、来なけりゃよかった」と吐き捨て、若い事務員は苦笑した。
朝一番でテーブルにつき、会話が成立しない利用者たちと顔を合わせる。歯がないとはいえ歯茎で何十年も普通の食事を採ってきた母にとって、極刻み粥状の献立はストレスの元凶である。加えてパズルを解く唯一の楽しみすらままならない。これからどうなるのか。不安な一年が始まった。(隆)
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