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    かけはし2019年1月28日号

世界経済の危機を防ぐ手段はまったくない


経済

世界的惨事伴い危機が進行

資本主義の原動力の枯渇と危機
グローバリゼーションを混沌化

ミシェル・ユソン

 主流的エコノミストの経済分析は、今もってごく短期の、しかも金融を中心とした収益性にもっぱら焦点を当てている。現在の経済システムは、基本的に何ごともなく、その自律的運動を続けていくかのようだ。しかし世界経済が日毎に不透明さに包まれていることは事実であり、ブルジョアジーの危機への隠しきれない不安感は、一定の時をおいて繰り返す株式市場のけいれん的乱高下として顔を出している。この不透明さの根底にあるものは何か、根本的に異なった角度からの探求が必要だ。以下ではそのような観点からの分析が試みられ、現在のシステムには危機の進行を止めるものは何もないと主張している。なお、この論考には注として三四項目の参照文献が紹介されているが、ここでは割愛する。(「かけはし」編集部)


 リーマンブラザースの破綻から一〇年後、ますます多くの分析が二つの問題を中心に行われつつある。つまり、それはどのように起きたのか、そしてそれが再び起きる可能性はあるのかと。しかしそれらはほとんどすべて、過去あるいは今後の金融の動き、を中心としている。
 しかし以下で用いられている観点は、世界的混乱の経済的根を識別しようとするものであるがゆえに、少し違っている。それを導く諸原則は以下のようなものだ。つまり、一〇年前に始まった資本主義の原動力の枯渇と危機が、ますます混沌化するグローバリゼーションに導きつつあり、経済的かつ社会的に新たな危機をもたらしつつある、ということだ。

資本主義は蒸気を使い果たした

 資本主義の原動力は最終的には、生産性の増大を生み出す能力、換言すれば一時間あたりで生産される商品量を増大させる能力に依拠している。ところが、一九七四―七五年と一九八〇―八二年の全般化された不況以来、生産性の増大は緩やかになっている。われわれは、ある人びとが「黄金時代」と呼んだものから、今日「現世の停滞」で脅かされている新自由主義的資本主義へと進んできた。しかしこの時期を通じて資本主義は、次の偉業、つまり生産性の増大における減速にもかかわらず、収益性の回復、を達成することになった。
これはただ、ほとんど普遍的な賃金上昇の減速によってのみあり得るものになってきた。その総所得に占める割合は、今も傾向的に下降中だ。そしてこの結果はそれ自身、互いに作用し合う一組の諸過程(グローバリゼーション、金融化、テクノロジーイノベーション、債務化)のおかげで得られてきた。その作用を各々の相対的な寄与へと分解しようとしても無益だと思われる。
不平等は、この密接につながったモデルの不可分な一部だ。しかしその密接性は持続可能とはなり得ないだろう。二〇〇七―八年の危機に導いたものこそこのモデルが抱える諸矛盾なのだ。グローバリゼーションはまさに、このモデルの本質的な要素の一つだが、危機には、その諸特性をやわらげる作用があった。

古典的帝国主義世界の大転換

 危機に先立つ一〇年は、いわゆる新興諸国、特に中国の台頭という特色があった。この「新興」は、設計段階から生産と最終消費者への引き渡しへと、数ヵ国にまたがって広がったさまざまな部分に基づく、生産の新しい組織化によって駆動されている。これらの「グローバル・バリュー・チェーン」は、世界経済を取り巻くいわば蜘蛛の巣を編み合わせている多国籍企業の神楯の下で確立されている。一台のスマートフォンは今、地球上のあらゆるところの労働者によって設計され、生産され、そして売られている。
グローバリゼーションのこの新しい形態は、一九八〇年代はじめの危機から逃れる一つの方法として役立ち、低賃金労働力の貯水池を開拓しつつ、「現存する社会主義」の崩壊後にさらに度を強めた。しかしそれは、世界の製造業産出の配分(エネルギーを除いて)が示すように、世界経済における実体的な移行へと導いた。
その産出は二〇〇〇年から二〇一八年の間で六二%増大したが、この成長のほとんどすべては、いわゆる新興諸国で達成された。そしてそれらの諸国では、産出は二倍以上になり(一五二%増大)、一方先進資本主義諸国ではその産出はほんのわずかしか増大しなかった(一六%増大)。新興諸国は今日、世界の製造業産出の四二%を占めているが、それと比べてその産出は二〇〇〇年、二七%でしかなかったのだ(図参照)。中国や南アフリカといったいくつかの諸国では、この工業化はますます大量生産工業に限られなくなっている。そしてハイテク生産への、また生産財生産へまで含む上向運動を示している。
しかしながら、「先進」諸国と「新興」諸国間の対立関係は、今起きている事態を分析する上では誤解を招くやり方だ。
ローザ・ルクセンブルクは二〇世紀始め、「民族資本主義間の競争によって示された資本主義的蓄積過程の政治的表現」として、帝国主義を定義することができた。ニコライ・ブハーリンは、「資本の民族化過程、すなわち国民国家の国境内に閉じ込められ、相互に解け合わない均質な経済体の創出」を描いた。各帝国主義国はその後世界の獲得に乗り出し、こうして、帝国主義間、として特性を与えられた第一次世界大戦となった。
しかし今日、諸国家の地図と諸資本の地図はもはや一致していない。われわれはそれゆえ、帝国主義諸国と従属諸国間の非対称な向き合い方という表現を捨てなければならない。そしてそれを、多国籍企業によって駆動された複合的不均等発展の論理にしたがって構造化された世界経済、という一つの概念で置き換えなければならない。

世界的生産体制下の国家の位置


諸国家の地図と資本のそれがますます分離されている現在からわれわれは、それらが互いに交わしている関係について、違った形で考えなければならない。確かに、あれやこれやの多国籍企業とその国家との間にある特権的なつながりは、明らかに今でも消えていない。そして国家は、その民族的工業の利益を守ろうとするだろう。しかしそこに生まれている距離はむしろ、大企業が世界市場をその視野に収めているという事実、またそれらの収益力の源の一つがそれらのコストを最小化する目的で、またそれらの利益をタックス・ヘイブンに置く目的で、世界的規模で生産を組織する可能性にあるという事実、そこから出てくる。
それらの企業には、それらに国内の雇用に頼るよう迫る制約がまったくない。そしてそれらの販路は、それらの母港が抱える国内状況からは大きく切り離されている。これが意味することは、諸企業が世界市場で代わりになる販路をもっている限り、一つの国の弱い成長も、その国にある諸企業にとっては耐えることのできるもの、ということだ。諸国家の任務は、そして特に欧州では現実だが、もはやそれらの「民族企業」をこれまでのように守ることではなく、それらの領域内に外国からの投資を引き込むためにあらゆることを行うこと、になっている。
世界的生産というこの組織化は、世界中での資本の自由な流れに対する障害すべてを覆すことを狙いとした政治的諸決定によって、可能にされ、構築されてきた。それらは、国際的諸機構と諸条約を通じて実行され、しばしば構造調整計画という形態で従属諸国に強要されてきた。
グローバリゼーションはこうして、力関係の折り込みへと導き、そしてそれは、二重の対立をはらんだ規制と呼ばれる可能性をもったものにしたがって組織化されている。一方で諸国家は、グローバル資本主義が機能する諸条件を保証しつつ、その中で国力の規模としてのそれらの地位を守ろうとする。他方でその同じ国家は、国内市場向けに生産している諸企業から組織された部分に対して、また国内で社会的な紛争を呼ぶものを管理するために、世界市場に向きを取った諸資本の異なった利害を調停しなければならない。
今日経済的力関係は二つの軸に沿って構造化されている。その二つとは、国民国家間の対立を基礎としたある種古典的な「縦の」軸、および諸資本間競合に対応する「横の」軸だ。その際国際的な諸機構は資本主義諸国家の一種の管財人として機能しているが、しかし今日、「超帝国主義」も「世界政府」も存在してはいない。逆に現代資本主義は、あらゆる実体的規制を逃れ、悪化した競合と、共有の稼動枠組みを再生産する必要との間でもまれながら、無秩序なやり方で行動している。国民国家の大権は、一定の一方向的主張とは逆に、未だ廃絶されてはいない。世界経済との関係では、まだ残っているもの、つまり原材料に対する支配、がある。

無視できない原材料支配欲求


原材料入手に対する永続的な闘争は、決して止まることはなかった。そしてそれは、不均衡と紛争を諸々生み出している。明らかなこととして、われわれはエネルギーについて、つまり原油、ウランその他を考えることができる。これに、生産力主義的な農業、水力発電、また工業のために略奪された土地も加えなければならない。水の利用もまた、一定数の地域的紛争を発生させている。
グローバリゼーションには、国を輸入食料で溢れさせることによってであったり、あるいは土地の強奪によって、小農の農業を不安定化させる作用がある。同時に、国際的投資にはしばしば、厳しさの緩い法律しか備えていない国にもっとも汚染を起こす生産を再配置する、という動機がある。
これらすべてのメカニズムは気候変動によってさらに悪化させられ、結果としてわれわれは最終的に、広い意味での移転譲渡(水、汚染、温暖化、干ばつ、豪雨、補助金付農産物、特許化された種子、農薬と化学肥料)が、「強制的国外流浪の原因」という考えを進めることができる。
しかしながらこの現象のそのままの描写は、少しばかり単純化しすぎ、他の社会的かつ政治的な諸要素との接合を忘れることに導きかねない、そうした決定論的危険をもっている。
たとえば、シリアにおける内戦は大オイルメジャーの利益を確保する目的で秘密のやり方で焚きつけられている、などと主張することは、明らかにはなはだしく還元主義的だろう。しかし二人のエコノミストの分析が示しているように、事態のこの決定要素は――武器売却を加えて――存在しているのだ。
それらは、一九六七年の六日間戦争(エジプトを中心としたアラブ諸国とイスラエルとの戦争:訳者)から二〇一四年の第三次湾岸戦争までで、四つの最大石油グループ(BP、シェブロン、エクソンモビール、シェル)の利潤率が大企業の平均以下に落ち込む時期の後に諸々の紛争が続いていることを明らかにしている。彼らの描いた「中東の歴史はかなりの部分ある種の寓話だ」、そして「この地域の数々のドラマ……にはそれ自身がもつ特定的論理がある」とこれらの筆者が語っているとはいえ、彼らの論述は、諸資源への支配を求める欲求を、他の決定諸要因と正確に結びつける必要を思い起こさせる。

グローバリゼーションの息切れ

 今世紀の最初の一〇年は、ある種の補完性論理を下敷きに作動した中国/米国枢軸によって支配された(人々は「チャイナメリカ」について語った)。米国は、貿易収支黒字、特に中国のそれのリサイクルによって資金手当てされた対外赤字に基づき、信用の上で暮らしていた。中国での、ジョイントベンチャー形態での投資は、中国経済の力強い運動に貢献した。
他の諸国は、労働力のこの国際的仕分け、つまり有名となった「新興諸国」あるいは別称CEECs(中、東欧諸国、確かに極めて異質的な一一ヵ国)、に統合された。そして欧州と米国間大西洋経済枢軸も発展中だった。
このグローバリゼーションは資本の観点から見て有効だった。そして支配的なイデオロギーの努力すべては、その便益を持ち上げること、グローバル競争に適応する必要を人々に説き伏せ、生産再配置の脅しを振りかざすことに捧げられた。
しかし二〇〇八年の危機で始まったこの一〇年は、このグローバリゼーションの諸限界を徐々に暴き出したかのようだ。われわれは、グローバリゼーションの終わりについて語ることはできないとしても、永続的であるように見える、ある種の枯渇の明白な諸兆候を強調しなければならない。
グローバル・バリュー・チェーンの発展は、低賃金コストの追求ばかりではなく、生産性上昇の点で新興諸国がもつ潜在力によっても突き動かされていた。中心部分におけるそれらの減速は、周辺におけるそれらの力強い上昇によって相殺される可能性があるだろう、というわけだ。
この一〇年におけるもっとも際立つ現象の一つは、南における生産性成長が相当程度減速した、ということだ。新興諸国では、「合算した工場生産性の年間平均成長率は、プラス三・五%(二〇〇〇―七年)から辛うじて一%以上(二〇一一―一六年)へと、三分の一以下にまでなった」。
これは疑いなく、世界貿易の劇的な減速を説明する助けとなる要素だ。それはその時まで、世界生産の倍以上の早さで成長を続けていた。今日それは同じ率で増大中だ。
一つの理由は、中国がバリュー・チェーンから外れつつある、ということにある。「再輸出向け材料の輸入は今や、全機械類輸出の二〇%以下でしかない。それは一九九〇年代、四〇%だったのだ。いくつかの要素がこの撤退を説明する。それは、賃金の高まり、もっと技術的に高度な製品を含む活動に向けた再方向付け、成長の果実のもっと良好な配分に対する切望、為替レートの跳ね上がり、といったことだ」。
われわれは、中国を除いた場合、新興の終わりに付いてすら語ることができるだろう。他のBRICS諸国(ブラジル、ロシア、インド、南アフリカ)は、中国や韓国ができたようには、原材料供給を基礎とした当初の専門化以上に飛び出ることができずにきた。ピエレ・サラマはブラジルの例で「再初歩化」について語り、他のエコノミストたちは、いわば早熟の脱工業化という考えを呼び出している。
加えて、新興諸国は不規則な資本の動きにさらされている。それは、それら諸国の対外収支と通貨価値の慢性的不安定性を引き起こしているのだ。この間のトルコとアルゼンチンの事例は際立つ事例だが、しかし人は、資本流入から見捨てられた南欧諸国に言及することもできるだろう。

社会的混乱への帰結があらわに

 危機は、もう一つの現象――その悪化には緊縮諸政策も寄与してきた――をあらわにすることにも役目を果たした。つまり、現実には「幸福」でもなく、「全員に行き渡る」こともない、そうしたグローバリゼーションによって発生させられた社会的混乱という現象だ。
多くの研究は、IMFやOECDといった国際機関のものも含めて、その腐食性の作用を、そのもっとも目立つものとして職の両極化、を指摘してきた。あらゆる先進資本主義国で同じ現象が、「両端での」雇用増大が観察されている。物差しの一端では高度に熟練した職が、他端では不安定な職が前進中にある。この二つの間で、「中間階級」は停滞し、社会的前進に対するその見通しは消えている。同時に所得の不平等も拡大中だ。
グローバリゼーションが責任のある唯一の要素ではない。そして、資本と労働間の力関係同様、金融化と新たな技術の充足もまたそれ自身の役割を果たしている。そのモデルの全体から、グローバリゼーションの責任部分を抜き出すことは、不可能ではないとしても非常に難しい。
この点は、全体の諸国は「先進的」でもなく、新興中でもないということ、そして世界人口の相当な部分は資本主義的グローバリゼーションの力学の外にとどめられている国にある諸部分で暮らしている、ということを思い起こす機会だ。こうして分割線は、社会の諸編成を横切り、社会の脱構造化に力を貸している。
驚くことではないが、所得の不平等に関する研究のこの間の激増が生まれてきた。この分野における世界的専門家の一人であるブランコ・ミラノビッチは、今では広く共有されているこの観察結果を「所得の不平等は、諸国内部では進行中だが、世界的広がりでは、中国の台頭によって減少を続けている」とまとめている。そしてこの各国内部での不平等拡大は「国民国家の政治的安定に重い圧力をかけている」。
この試練を前に国際諸機関は、この主題について彼らなりに過失を自認しつつある。つまり、グローバリゼーションの恩恵をもっと「包括的」にするためには、それを再配分しておけばもっとよかっただろうと。しかしこの願望的観測は、グローバリゼーションの推進力の一つ、激化した課税をめぐる競争とは対立しているのだ。
こうして先進資本主義諸国の平均所得税率は、一九九〇年代初頭の四四%から二〇一七年の三三%へと、さらにドナルド・トランプがとった諸方策を考慮に入れた場合、二七%にまですら進んだ。そしてこの運動は世界的だ。同じ時期を通じて、平均課税率もまた三分の一落ち込んでいたのだ。
矛盾は明らかだ。「資本吸引力」は、税財源の着実な減少を意味し、グローバリゼーションの恩恵を「包括的」にするために、グローバリゼーションの作用を矯正すると思われるある種の再配分にその財源が振り向けられることは不可能なのだ。課税からのこの全般的な利潤除外は、脱税への入り口であり、それがさらに国家財源を減少させている。たとえば二〇一五年、多国籍企業利潤の四〇%はタックス・ヘイブンに置かれていた。
社会的国家はこうして内部から掘り崩されている。そして、世界化された経済への適応が国家の減量を伴うことは驚くことではない。国家の機能はグローバリゼーションによって中立化されるのではなく、それらは別の方向に向けられている。つまり社会的国家は、その優先度が資本吸引力と経済の競争力である反社会的国家となるのだ。
EUに対する不信の増大は、EU諸機構が世界化された経済の論理に対する適応構想によって導かれていると、ますます見られている以上、グローバリゼーション危機がはらむ反動作用としても解釈され得る。

トランプ政治も混乱続発に拍車

 ドナルド・トランプの混乱産出能力には際限がないように見える。しかし彼の保護主義策は、米国経済が機能するあり方と現在の資本がもつ相互結合を考慮していない。第一点として、「チャイナメリカ」の基本的な要素の一つは、中国を含む世界の残りからの資本で埋められる大きな貿易赤字を一方の片割れとして伴って、家計貯蓄率引き下げ(さらにこうして消費の増大)の余地を米国に与えたことだった。その上でトランプは、減税と共に、赤字を広げることにしかなり得ない、財政拡張主義政策を実行中だ。一人の辛辣な評論家は「貿易赤字を膨らませる秘密の計画がもしあるとすれば、それは現在の米国の政策に大いに似ているものだろう」と書くことができた。
この政権がトランプの神楯の下で理解していないことは、世界貿易が主に中間財とサービスから構成され、その比率が「最終需要に行き着く商品とサービスの比率のほとんど倍の大きさ」になっている、ということだ。たとえばそれは先頃、国際決済銀行総裁によって思い出された。彼にとってそれは明らかに自由貿易の防衛という問題だったが、彼が語ったことは現実に対応していた。
米国の場合では、米国の輸入品の多くは 中国やメキシコのような諸国での投資に対応している。IMFによれば、米国は二〇一五年、メキシコ内直接投資残高の四四%を保持していた。そして米国への中国の輸出に占める外国が参加している企業産品の割合は、二〇一四年に六〇%だった。
したがって、米国の産業界が分裂し、多くが中間製品のさらなる高価化に懸念をもち、あるいは報復策を恐れていることも驚きではない。たとえばフィナンシャルタイムスでは「トランプの保護主義がはらむ影響に関する懸念は、米国経済全体で着実に高まりつつある。そこでは多くの企業が、価格を低く抑え利潤を高くとどめるためにグローバル・バリュー・チェーンに頼っている。そしてこの時代がまもなく終わりを迎えるかもしれないと恐れている」との記事を掲載している(昨年八月二四日)。
それゆえ企業の一グループは、鉄鋼輸入に対する二五%の関税賦課に異議を申し立てる訴えを、ニューヨークの「国際貿易法廷」に提出した。さらに指導的なデジタル企業もまた、移民制限を批判してきた。それは、それらの利益となっている頭脳流入を引き下げる可能性をもっているのだ。
それゆえトランプの重商主義的政策は首尾一貫していない。米国の貿易赤字は、国民の貯蓄が国内投資に資金を手当てする上では十分でないという事実に見合っている。そしてその不十分さには、減税により加速された財政赤字の影響が加えられたばかりだ。このような諸条件の下では、米国が家計消費を引き下げ、それによって国内の成長を引き下げないならば、輸入関税があるとしても、赤字は縮みようがない。
実際問題として、世界の残りが米国の貿易赤字を埋める資金を出すためには、資本流入が続かなければならないだろう。しかしこれは、準備通貨としてのドルの役割に疑いが差し挟まれない、ということを当然のように仮定している。ところがこの地位は、為替レートが下落を続けることを理由とするか、あるいはドルへの攻撃的方策が取られることを理由とするか、そのどちらかから米国の資本家がドル保有を思いとどまるよう迫るならば、脅かされると思われる。
トランプの手法はまた、欧州と、したがって大西洋間枢軸にも懸念を起こしている。たとえばそれは、彼が条約案――TAFTA(環大西洋貿易投資パートナーシップ)――を放棄する場合だ。そしてこの条約案はその目的が、中国を脇にどかす目的で、米国と欧州間の結びつきをまさに密にすることにあったのだ。

他方中国は新しい道に踏み出す


もしトランプが米国/中国枢軸を終わりにすることを明確に決めていたとしても、中国もまた、三つの原則を基礎とした新しい道に踏み出そうとしている。第一は、その経済の焦点を国内市場に再び合わせることだ。中国はそれを今極めてゆっくりと行いつつある。第二に中国政府は、「中国製2025」という野心的計画に基づき、その生産の高度化という目標をはっきりさせている。最後に中国は、「一帯一路」と命名された構想を展開中だ。これは一兆ドル近くになる巨大なインフラ構築計画であり、六〇ヵ国以上におよぶ。この「帯」は中央アジアとロシアを経由して中国と欧州を――陸路で――つなぐ。「路」は海路であり、南シナ海とインド洋を経由してアフリカと欧州に達することを可能にするだろう。
ブランコ・ミラノビッチはその中に、ワシントン・コンセンサス勧告を破る実体のある開発計画を見ている。ちなみにこの勧告は、「私有化し、規制を解体し、価格や対外交易その他を自由化するだけで十分であり、その結果私企業は機会を掴み、発展はそれ自体で起きるだろう」とするものだった。
われわれはこの肯定的評価を共有できない。それは、パキスタンやスリランカといった関係諸国に負わせる、とてつもない財政リスクを過小評価している。それらの諸国は過剰債務で脅かされているのだ。それはまた疑いなく、何人かの人々を「新たな中国帝国主義」を思い起こすよう導きつつある論理の下に、中国が「パートナー」諸国への影響力を確立する機会にもなっている。
そうであっても、この「新シルクロード」と「中国製2025」計画は、中国経済の実質的な再配置、および世界経済の新たな組織化へと導きつつある。OECDはこれを十分に意識し、「中国が単独でできることの諸限界」を力説し、「OECD諸国からの重要な拠出が必要になるだろう」と暗示しつつ、その行く末を心配している。そしてその主張は、「市場の高まる役割」および「財産権と競争の強化」を前提としている。

慎重さ要す極右台頭要因分析


危機以前の世界秩序は今日、グローバリゼーションに批判的な、また諸々の危機が強化した極右諸勢力の台頭――および権力到達――によって異議を突きつけられ続けている。一人のフィナンシャルタイムスのコラムニストは、「ポピュリズムは世界的金融危機の本当の遺産だ」と書くことができた(昨年八月三〇日)。
確かにわれわれは、あらゆる種類の機械的アプローチに用心しなければならない。たとえば緊縮にもっとも苦しめられた諸国(ギリシャ、スペイン、ポルトガル)は、極右の台頭によってはほとんど心配させられないままとどまっている。他方で極右は今、イタリア、オーストリア、ハンガリー、またポーランドで権力の座にいる。
過去二、三年にわたる難民の流入が明らかに一つの役割を演じた。しかしこの要素もまた、様々な国でさまざまな影響を及ぼしてきた。全般的な代数的定式が新自由主義の作用と外国人排撃を組み合わせているが、しかしそれもさまざまな変化の広がりをもつ比率において、ということだ。
この結びつきについては、ブレグジット支持投票の決定諸要素に関する魅惑的な一研究が言及されてよい。その筆者は、二〇一〇年から二〇一五年にかけた社会的支出の低落から出発している。それは平均で二三・四%になるが、地区ごとに大きな変化(四六・三%から六・二%まで)を見せている。そしてそれは、二〇一六年のブレグジット支持票と付合している、UKIP(英国独立党)支持票の地図と比較可能な緊縮地図をわれわれが描くことを可能にしている。二つの間の結びつきは極めて密接で、筆者は、緊縮方策が不在であれば、ブレグジットは少数派になっていただろう、と思い切った主張を行っている。
しかしながら、新自由主義モデルの作用、つまり脱工業化、失業、そして職の両極化によってもっとも苦しめられていた諸々の地区では、社会的支出の切り下げがもっと確固と言明されていたという事実の限りにおいて、ものごとはもっと複雑だ。したがって諸々の決定要因は複雑であり、この筆者が移民にいかなる役割も与えていないとしても、外国人排撃の主張がブレグジット支持キャンペーンに不在だったわけではないのだ。
一つの最新研究が経済と選挙のデータを取り集めている。そしてこの研究がそれらをEU社会保障調査の結果、市民の意見に対する調査とクロスチェックしている。それが確証していることは、「失業のより大きな増大を経験した地域は、ある種の経済基盤に立って移民をより拒否しがち」ということだ。その危機は「経済に関する移民の影響、特にグローバリゼーションと技術の進歩の否定的結果からもっとも影響を受けた人々に対する強い作用に基づいて、欧州人の意見を変えてしまっている」。
その筆者はこうして、経済と「ポピュリズム」の文化的推進者との間に、一つの違いを持ち込んでいる。それらの結果は、移民の拒否には文化的土台というよりも一つの経済的根拠がある、と示している。国の文化的生活における移民の役割に関するものの見方と失業の間に、相関関係はまったくない。
あらゆるものごとが、極右政党があたかも移民拒絶の「経済的基礎」を「文化的」拒否へと、換言すれば外国人排撃主張へと変え続けていたかのように、起きている。
ヴォルフガング・シュトレークは、「左翼」による移民の解釈と「右翼」によるそれとの間に、一つの対立を引き出し、それは、労働と資本間の古典的左右対立に「直交している」と、彼は語っている。最後にパトリック・アルスは、OECD諸国における労働者の「社会的沈滞を解釈し」、それを彼らがぶつかっている三つの要素を通して説明する。その三要素とは、「社会的保護に対する支出に資金を手当てする諸国家の能力減退、賃金の競争を伴った労働分配率の下落、収益性に対する資本の強い要求」だ。

世界経済の組織化原理は分解中


危機から一〇年後の世界経済の光景は暗い。EUは、ブレグジットと極右の台頭の間で引き裂かれている。ユーロ圏では分裂が進行中だ。いわゆる多くの新興諸国は、資本の一貫性のない運動にさらされている。債務、特に私的債務は蓄積を止めていない。作り出された富のそれを作り出した者たちに帰属する割合は、ほとんどいたるところで下がりつつある。そして不平等は広がり続けている。福祉国家は税の競争によって掘り崩され続けている、等々。
この危機の作用は和らぐというよりもむしろ悪化した。基礎にある理由は、一〇年昔危機に突っ込んだモデルへの、世界の寡頭支配層に受け入れ可能なオルタナティブモデルがまったくない、ということだ。世界経済を組織化する諸原理すべては今、特にトランプの強打の下で、徐々に分解を進めている。中国だけが、それ自身の利益を求める、世界経済の一部を再構築する一貫した計画をもっている。
これらの条件の下に多くの評論家は今日、何がその引き金を引くことになるかを語ることのできる者が誰もいないまま、新たな危機を予測している(おそらく、一〇年前に彼らが見せた先の見えなさに対する警戒のためにも)。
しかし支配的な懸念は、利用可能な防御手段がまったくない、ということだ。危機当時の英国首相、ゴードン・ブラウンは、この怖れを明確に表した。「次の危機が起きる際にわれわれは、われわれには財政の余地も通貨政策の余地も、あるいはそれを使う意志もないことに気付くだろう」と。そして彼は、おそらくもっとも不安を呼ぶものを、すなわち不可欠な国際的協力はわれわれの役には立たないだろうということを、指摘している。
協調の諸手段はその実質をもう失っている。あるいはそれらは、今も支配的な大国によって投げ捨てられた。グローバリゼーションの水先案内人はもはや誰もいない。しかしながら気候からの異議突き付けはその本性上、発展に向けたもう一つのモデルには触れないまでも、国際協力を必要とするだろう。しかし世界経済の混乱、公共投資に敵対的な諸政策、そしておそらく資本主義に内在する論理がこの見通しを今日、悲劇的にも実現不可能なもののように見せている。

▼筆者はパリの社会・経済調査研究所(IRES)で雇用を担当するエコノミスト。左翼のシンクタンクであるコペルニクス協会とATTAC科学評議会のメンバーでもある。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年一二月号)  



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