フェミニズム
フェミニズム第三の波
新たな階級運動が姿現した
シンツイア・アルッツァ
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この二、三年、世界各国で女性が主体となった現代社会に異議を突きつける巨大な決起が、しかも明らかに国際的つながりを自覚的に追求しつつ連続し、政治と社会を確実に揺さぶってきた。昨年末に世界の注目を集めたフランスの「黄色のベスト」運動でも、女性の大きな存在が指摘されている。この一連の現象は何を意味するのか、以下ではそれを新たな階級闘争、新しい階級的自己形成として、積極的に位置づけ強調している。(「かけはし」編集部)
引き続く女性のストライキ
一〇月二三日、グラスゴーの清掃労働者数千人が平等な賃金支払いを求めて労組デモを始めた。それは、公共サービスインターナショナル、ウニゾン(公務部門労組)、GMB(全国都市一般労組)によって組織され、彼女たちの労働が男の同僚の労働と同じ尊厳と価値が最終的に認められる日を見ることができないまま死んだ女性労働者を偲ぶ、一分間の黙祷で始まった。この行動の中には、大小のさげすみ、不可視性、無視、あるいは不払い労働、不公正と細々とした虐待、その上に女性のストライキが前にした異議突き付けに対する非道な行為という、長い歴史に対する完全な自覚があった。
平等な賃金支払い、それは、合理的でほとんど些細と言える目標だが、まだ達成は困難なままだ。その困難さは、世界経済フォーラムが、女性と男性間賃金格差が最終的に世界的に埋められるには最短でも二一七年かかる、と推測した――現在の傾向とデータに基づいて――ほどのものだ(注一)(二一七年の間、世界がまだ住むことができる……と仮定して)。
グラスゴーでのピケットとストライキから一週間後、東京からニューヨークまでのグーグル労働者数千人が、抗議のために彼らの仕事机と職場を離れ、街頭に繰り出した。ハイテク巨大企業の管理職数人がしでかし、都合よく包み隠されたセクシャルハラスメントに関する、ニューヨークタイムズに掲載された一連の暴露に対する応えだった。
グーグルは何年もの間、フェースブックのような他のデジタル経済の巨人同様、進歩的資本主義の仮面をかぶり続けてきた。つまり、確かに労働者を搾取する雇用主だが、しかし男女間を、多様な性的指向間を差別せず、卵子凍結や体外受精の費用を喜んで負担までする雇用主、ということだ。しかしながらこの抗議は、仕事上でのセクシャルハラスメントの事件に限定はされなかった。
つまりそれは、一連の主張をはっきり声に上げ、その中では、保護と労働組合の諸権利を求める要求が際立っていた。モイラ・ドネガンがガーディアン紙に書いたように「この抗議は、ジェンダー不平等と階級的不平等の相互依存性に相当な明瞭さをもって焦点を当て、技術労働者内部での労組組織化努力に対する可能性を垣間見せている」のだ(注二)。
三月八日の国際的ストライキから米国におけるホテルと教育の労働者によるそれらまでの、女性が主役となった長い連なりをもつストライキの中の最新版であるこの二つのストライキは、われわれに明らかな一つのジレンマを突きつける。われわれが女性のストライキについて語る場合、われわれは何について語っているのだろうか? これは階級闘争なのだろうか、それとも新しいフェミニズムの波なのだろうか?
第四、第五ではなく第三の波
国際的決起の二年以上を経て、われわれは新しいフェミニズムの波の真ん中にいる、とはっきり言うべき時だ。この間にはまさに、二つの国際女性デーにおける国を超えたストライキがあり、チリやブラジルにまでいたった最近の運動拡張があった。前者ではハラスメントと性的暴力に反対するストライキと占拠の波が国中の学校と大学を襲った。後者では、ジャイル・ボルソナロの選挙における昇進に対抗して何人かの女性有名人が始めたハッシュタグ「♯EleNao」が、一連の大衆的決起にいたったフェミニスト決起の進展の引き金を引いた。
それは、その内部に異なった政治的また地理的強調点を抱える波だが、しかし一つの全体が、ジェンダー暴力、賃金の不平等、生殖に関わる諸権利、女性の再生産労働、さらに性的解放といった諸課題を、これらの決起に襲われたすべての国の政治的かつ文化的な論争の中心にもち出している。しかしながら、このできごとの衝撃力を完全に理解するためには、用語を鮮明にする方がもっとよい。
現在の波は、四番目ではなく、あるいは五番目のフェミニズムの波でもない。それは三番目の波であり、二番目の終わりからおよそ四〇年後に到達しているのだ。
過去二、三〇年には、特に大学構内とその周辺で起きた思想の「フェミニズムの波」運動と名付けられる、一定の傾向が生まれてきていた。思想のこれらの諸潮流は、フェミニズムの歴史内部における重要な転換点を刻み付けた。しかしながらそれらは、一九六〇年代と同七〇年代のフェミニズム運動に匹敵する、大衆的な社会的、政治的決起の進行としては根付かなかった。
それゆえ、われわれが「波」をもって、大衆的反乱を通じて起きる社会的また政治的主体化の進展を示そうとするならば、思想の諸潮流、あるいは理論的論争内部の転換を示す上では、その用語は不適切だ。その上、「波」と名付けられてきたフェミニズム思想内部の転換はほとんど、アングロ―アメリカンフェミニストの論争の時期区分に関係している。つまりわれわれは、それらに「波」という概念を適用することで、地理的な特殊性を普遍化することに終わった。しかしそれはその代わりに、「再地方化」されなければならないだろう。
これはもちろん、以前の年月に行われた理論的論争の進化が運動の思考やスローガンに何の影響力も及ぼさなかった、ということを意味するものではない。逆に、運動のトランスフェミニズムや反本質還元主義は確実に、クイアー理論やトランス理論から力を得ている。そしてその国際主義や反レイシズムは、性差横断性や資本主義とレイシズム化間関係に関する仕事に強く影響されている。
しかしながら「波」の拡散という観念は、第二の波から現在にいたるフェミニストの諸決起の歴史的連続体を暗示し、一つのできごととしての現在のフェミニズム運動について、その性質を――そしてそれゆえ政治的、社会的分裂に向けたその潜在力を――ぼやけさせている。
新しい階級的主体化が進行中
一九六〇年代と同七〇年代のフェミニズム第二の波には、その推進力の中心として、西側の先進資本主義諸国といういわば核があった。他方、現在のフェミニズムの波は、「周辺」から、アルゼンチンとポーランドから生まれた。そしてそれは、諸々の危機によって、また緊縮と債務封じ込め政策によってもっとも苦しめられた一連の諸国(イタリア、スペイン、ブラジル、チリ……)では大衆的性格を示しつつ、急速に世界的レベルへと広がった。
デジタル技術やソーシャルメディアの利用は、運動の直接的に国を超える性格にとてつもない力を貸し、闘争の協調だけではなく、文書、考え、スローガン、分析、また情報の流布をも力づけ、決起の躍動的な拡張を励ました。しかし、この新たな波のもっとも重要な新しさを構成するものは、何よりもストライキだ。
それは、ストライキが女性の労働、社会的再生産における女性の役割、また商品生産と再生産間の関係を諸論争の中心に置いたというだけではなく、ストライキが主体化過程の主なエンジンとなったからでもある。そしてその過程を通じて、新たな反資本主義フェミニストの主体性が、自由主義的フェミニズムに強く批判的な主体性が、今浮上中だ。ちなみにその自由主義的フェミニズムはまた新しい波の内部にも存在している。実際まさに米国内の女性行進におけるいくつかの自由主義諸傾向の思考は、米国民主党の進歩主義的付属物へと、あるいは「♯MeToo」の局所化的後退へと変貌した。
フェミニストの主体化における現在の進展がはらむ潜在的衝撃力は、人が今回の波と最初の二つの波間にある基本的な違いを考慮する場合、もっとも鮮明に現れてくる。極度に図式的に類型化すれば、最初のフェミニズムの波――一九世紀の最後の一〇年と二〇世紀はじめの――は、労働者運動の誕生と定着過程の枠内で起きた。つまり、ドイツ社会民主主義の成長から、欧州と米国を貫く労働組合と社会民主主義政党および共産党の形成にまでいたる過程だ。政治の場への大衆参加と労働者階級の乱入という、この歴史的な進展の枠内で、フェミニズムの第一の波は、平等のスローガン、つまり諸々の将来性と権利の平等を軸に扇動することにより、民主的自由主義および社会主義両者に固有の普遍的な保証の全面的な実現を求めた。
フェミニズムの第二の波は、階級的主体化におけるもう一つの進展の枠組み内で、つまり先進資本主義諸国内での新左翼の始まり、および反植民地、民族解放闘争の波、という枠組み内で起きた。この進展の枠内で第二の波は、社会と運動内部の性差別を糾弾するために、あまりにしばしば沈黙を強いられた特殊性に声と可視性を与えるために、黒人民族主義から借り受けた、差違という標語を活用した。
フェミニズムの第三の波がもつ脈絡は根本的に異なっている。新たなフェミニズム運動は、主体化のもっと幅広いプロセスの枠組み内部における特殊化の表現ではないからだ。フェミニズム運動のこの爆発にはもちろん、他の諸決起が、国際的可視性を伴った二〇一一―一三年の闘争期(特にオキュパイ、インディグナドス、またタクシム広場)が先行していた。そして第三の波は、それらとの連続性をもついくつかの要素を示している。
フェミニストの運動はこれらの先立つ諸運動同様、あらゆる政党および伝統的左翼(あるいはその中でまだ残っているもの)の諸組織から自立して、その外側から生まれた。そして二〇一一〜一三年におけると同様、このフェミニスト運動がもつ特徴の一つは、特殊かつ部分的な主張――女性殺人および中絶の権利に向けられた攻撃に対する糾弾――がシステム(生産の資本主義的様式とその国家諸制度)に対するある種全体的な糾弾へと形を変えた、その速さだ。
しかしながら二〇一一―一三年の決起にはらまれた反システムの性格は、組織的堆積作用に向かう能力、あるいは諸々の分析や大望がもつ急進性に対応する闘争と戦略の実践を識別する能力、そのどちらにも調和が取れていなかった。この観点から見た時、今回のフェミニスト運動は、それに先立つ社会運動期の燃えかすから生まれたのだ。
それは先の運動にはらまれた特性のいくつかを引き継いだ。しかし同時にそれは、前進に向けた決定的一歩を示した。つまり、その主要な闘争形態としての、またその政治的な独自性としての、ストライキの再発見と国際的協調によるその採用だ。
もっと幅広い主体化プロセスの枠組み内部における特殊性の表現、部分的展望の表現とはまったく反対に、このフェミニスト運動は自らを、女性ストライキを通して、この局面における階級形成の国際的進展として一層見なしつつある。
マルクス主義の階級という難問
マルクス主義の伝統には一つの矛盾がつきまとっている。一方でマルクス主義にとっては、階級闘争という概念が、資本主義の本性と資本主義の歴史的進展に対する解釈に向けた発見の原理的な道具だ。そしてそれが、その政治的―綱領的展望を構成している。他方でまさに階級とは何であるかが、マルクス主義者の論争の中だけではなくマルクス自身の諸著作の中でも、おそらくもっとも論争を呼び、曖昧さをはらんだ問題なのだ。
マルクスにおいては、階級は時として、形而上的実体を、あるいは否定の否定に帰着する歴史哲学における一つの契機を示している。それは他の場合では、客観的な社会学的、経済的基準を基礎に、工業労働者階級を示し、明確に定めている。マルクスは『哲学の貧困』において、「即自的階級」と「対自的階級」の間をすばらしい形で区別している。しかしその区別は、ほのめかされているにすぎず、鮮明とはほど遠い。結局のところ一連の政治的著作の中では、ある社会集団は、それが一つの階級として他のものとの対立的関係において政治的に行動しない限り、一つの階級と見なすことはできない、というように思われるだろう。
これらの曖昧さは、その後のマルクス主義者の論争において大きな役割を演じることになり、多様な理論を生み出した。図式的に言えば、三つの主なアプローチを区別することが可能だ。つまり、客観的あるいは社会学的なもの、形而上学的なもの(そこでは、「階級」は歴史の進歩主義的哲学の主体を指し示す抽象的な外面になっている)、そして政治的なアプローチだ。新たなフェミニズム運動が階級的主体化の進展として理解されなければならない理由を理解するためには、最後のアプローチを参照することが必要だ。
E・P・トンプソンにとって「階級」は、理論的概念である以前に歴史的な概念、それゆえに個人と集団の具体的な諸々のふるまいに対する経験的な観察を出発点に断言されなければならない概念だ。そしてそこでのふるまいが、一つの階級的特徴を表現――時を通じて――し、階級的諸機構(労働組合、政党、諸団体、その他)を生み出している(注三)。これは、階級概念が静的な実体の本質を表現するというよりも、歴史的な進展に関連した動的なものであることを意味する。
つまり、歴史的な概念として理解された階級概念は、分類学的手法で定量的な基準を基礎とした社会諸集団の社会学的概念化に還元されてはならないのだ。たとえば、あらゆる賃金労働者の組として、あるいは、雇用されていようがそうでなかろうが、自らの労働力を売る以外にいかなる財ももっていないすべての者として労働者階級を定義することは、それ自体が間違いではないとしても、曖昧であり、抽象的であり、不完全だ。
要するにこれらの定義は、真理の一要素を含んでいるが、しかしそれらは、完全な定義と考えられるならば、それに関連した結果を伴って、分析上の誤解と政治的過ちに導くのだ。逆にトンプソンにとって階級は、形成過程の到達点であり、その出発点ではない。階級は、矛盾しているように見えるかもしれないが、階級闘争の産物であり、その前提条件ではないのだ。
闘争を通じた動的な自己構成
ダニエル・ベンサイードは『われわれの時代のマルクス』の中で、トンプソンの立場と似た立場を明確に主張している。
つまり「実証主義社会学が『社会的事実を事物として扱う』と主張するところで、マルクスは常にそれらを諸関係として扱っている。彼は、彼の対象を基準や属性できっぱりと定義することはない。つまり彼は、その多重的決定因子がもつ論理を追いかけている。彼は一つの階級を定義はしない。彼は、諸階級間の対立にはらまれた諸関係を把握するのだ。彼は、『階級』とラベルを貼られた一つの社会的事実を静止画に撮ることはない。彼は、その対立的運動の中にある諸々の階級関係に、彼の照準を合わせている。孤立した一つの階級は理論的対象ではなく、一つのナンセンスなのだ」(注五)と。
階級が階級闘争の歴史的で動的な産物であるとすれば、明瞭にされるべきこととして残るものは、資本主義の生産関係の枠内における社会諸集団が占める定められた地位と闘争を通した、この形成過程間にある関係だ。生産の社会関係が、エレン・メイクシンス・ウッドが「階級状況」と呼ぶものの中に諸個人を置くことによって、社会を構造化する。そしてその性質は客観的諸要素によって決定されている(注六)。
労働者階級の諸状況の例では、われわれはそれゆえ、生産手段からの分離とその収用(プロレタリア化)、賃労働を通じた剰余価値の強奪、さらに歴史的に特定な労働の諸過程、労働の分割、その他を参照しなければならない。
しかしながら、「階級状況」に置かれることは、一つの階級に属することを自動的に意味するわけではない。実際諸々の階級関係は、いわば直接的な形で、自らを生の経験に沿う形で表示することは決してない。たとえばウッドが書いているが、工場労働は労働者を一つの階級にまとめることはなく、それは彼らを、与えられた生産の単位の枠内にまとめているのだ。労働者たちが直接に経験するものは、与えられた職場という枠内での彼ら自身の搾取であり、全体としての階級的諸関係ではない。
生産の諸関係の枠内における彼らの客観的な配列は、明らかなことだが、一つの生産単位に集められた労働者がより上位の単位を経験する可能性をつくり出す。たとえば、同じ地域あるいは同じ国にある、あるいは世界規模の他の生産単位の労働者が抱える経験、ということだ。しかし、この上位の単位は、生産の諸関係を通じた社会の組織化と分裂に対する忠実な像ではない。それはむしろ、いわばこれから起こるかもしれない、また可変的な歴史過程の産物であり、ウッドはそれを「階級形成」と呼んでいる。
「階級状況」に置かれた諸個人が自らを一つの階級とするためには、彼らは一つの階級として闘わなければならず、つまり彼らは、他の諸階級との敵対を経験しなければならないのだ。まとめれば、一つの階級は事物、静的な実体ではなく、一つの社会的関係、および政治的で社会的な集合だ。そしてそれはその後に起きる、そして特定の歴史的な過程を通じて構成される。
この理論的アプローチがもつ政治的帰結は巨大だ。事実として、階級が動的、可変的、かつ闘争を通じる自己構成という歴史的過程の将来の結果であるならば、犯される可能性のある最悪の政治的過ちの一つは、階級闘争と考えるものとそうではないものに関して、歴史に出来合いの抽象的モデルを押しつけることだ。実際に、われわれの面前で起き続けている階級的主体化の進行を認めるよりもむしろ、過去の経験と形態(あるいはわれわれの想像がつくる単なる虚構であるもの)に対する懐旧にひたり続けるという危険がある。
袋小路克服の可能性を秘めて
リセ・ボゲルが特に言及するように、「平行する諸運動」の論理が、労働者運動の歴史に関する理論と政治戦略の圧倒的多数に特徴を与えてきた。つまり、一方には階級闘争があり、他方には女性運動、環境運動、反レイシズム運動、性的解放、その他がある(注七)。
この枠組み内部で、最良の場合人は、これらの運動を互いにどう統一するか、と知りたがった。最悪の場合、さまざまな「部分的な」運動は、階級の運動を分裂させている、自由主義の諸傾向を表現している、あるいは真に中心的な問題、すなわち搾取から注意をそらせている、と責められた。
今回の新しいフェミニズム運動は、今述べたアプローチの袋小路を克服する機会を提供しつつある。なぜならば今回の波は、それ以前の波以上にさらに、階級闘争とフェミニズム運動の間にある境界(実体的なまた想像上の)をぼやけさせているからだ。グラスゴーとグーグルの例に戻れば、最初の疑問に答える点での難しさ――それは階級闘争か、それともフェミニズム運動か?――は、問題の立て方が基本的に間違っている、という事実にある。
これらのストライキは、三月八日の国際的ストライキや特にアルゼンチンとスペインのストライキ同様、フェミニストの階級闘争だ。フェミニズムの運動はなお一層、特定の諸特性をもって、つまり直接に反自由主義で、国際主義的で、反レイシズムで、明らかにフェミニストで、傾向的に反資本主義で、左翼とその諸実践の伝統的諸機構との関係では過剰であると共に緊張をはらんで、一つの階級的主体化の形成過程になりつつある。
もちろんこの過程は、それぞれの国で同じものではなく、いくつかの国では他より決定的にもっと前進している。そしてそれでも、われわれがこの運動を一つの全体と見なすのであれば、その最大の斬新さを表現し、またもっとも興味ある潜在的諸力を体現しているのは、上に見た側面だ。
われわれが潜在的諸力について語る際には、われわれは破綻の危険、必要な諸条件、なされるべき仕事、そして潜在的諸力を具体化するために適用されるべき戦略についても語らなければならない。新たなフェミニズムの波がつくり出した潜在力の具体化には何よりも、自らを深く考え、またそれゆえに、その実践を通して自らをすでに位置づけてきた同じレベルで、戦略的に考える、そうした運動の側での能力、つまり世界的レベルでの反システム運動の能力を必要とされる。
フェミニズム運動が次の時期に直面し、討論しなければならない中心的な課題の中には、闘争の共有された諸実践――まず第一にストライキ――の打ち固め、全国レベルと国を横断するレベルにおける組織的堆積作用、さらに社会全体へのその拡張を通じた、また全体に向かって語りかけるその能力――ベロニカ・ガゴの言葉を使えば「横断性」――を通じた普遍化といった諸課題が含まれる。(『ビューポイント』二〇一八年一二月三日「女性ストライキから新たな階級運動へ:フェミニズムの第三の波」より)
▼筆者は、イタリアのシニストラ・クリティカの指導的メンバーだった。彼女は今、ニューヨークにある社会研究新学院の哲学助教授であり、フェミニズムと社会主義の活動家。『危険な接触:マルクス主義とフェミニズムの結婚と離婚』の著者でもある。
(注一)世界経済フォーラム「世界的ジェンダー格差報告、二〇一七年」。
(注二)ガーディアン紙二〇一八年一一月二日、「グーグルの職場放棄を経て、『♯MeToo』はもっと戦闘的になろうとしているのか?」。
(注三)E・P・トンプソン、「一八世紀英国の社会:階級なき階級闘争?」、社会史三巻第二号(一九七八年)。
(注四)デイビット・マクナリー、「賃労働の構成における統一と差違の弁証法:労働者階級と内部関係について」、資本と階級三九巻一号(二〇一五年)。デイヴィット・カムフィールド、「階級分析の再方向付け:歴史的形成としての労働者階級」、科学と社会六八巻四号(二〇〇四―五年)をも参照。
(注五)ダニエル・ベンサイード、『われわれの時代のマルクス』。
(注六)エレン・メイクシンス・ウッド、「階級概念と理論の政治:E・P・トンプソンと彼の批判」、政治経済研究九巻一号(一九八二年)。
(注七)リセ・ボゲル、『マルクス主義と女性の抑圧、統一理論に向けて』(二〇一三年)。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年一二月号)
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