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    かけはし2019年8月26日号

核心は経済的発展妨げてきたシステムの排除


アラブ革命

アルジェリア、スーダン…

教訓刻んで今後とも一連の季節が
いくつも続くことを告げている

ジルベール・アシュカル

 スーダンとアルジェリアでは、体制に反旗を翻した民衆と軍部とのつばぜり合いが今も続いている。その帰趨は、この地域の今後、さらに世界の今後にも大きな影響を与えると思われる。その重要性を考え、この蜂起を二〇一一年に始まる長期的な革命過程の中に、また同時にこの地域全体の民衆運動の概括的見取り図の中に位置づけ、民衆の熱望実現に向けた展望を探るジルベール・アシュカルの論考を以下に紹介する。(「かけはし」編集部)

アラブの春以後の成り行き


先頃のスーダンとアルジェリアの蜂起は二〇一一年の過ちを回避した。
二〇一一年の革命的運動を思い起こさせる民衆的抗議のイメージが、何ヵ月間かアラビア語世界からのニュースを支配してきた。諸々の蜂起は、昨年一二月一九日にスーダンで、そして二月二二日の諸々の行進でアルジェリアで始まった。それらは、チュニジア、エジプト、バーレーン、イエメン、リビア、そしてシリアを揺るがしたアラブの春当初の巨大で平和的な諸々のデモの記憶を生き返らせることになった。
今回評論家たちは、アラブの春に関する彼らの当初の陶酔感に続いた苦い失望を忘れることなく、直接論評を加えるよりも数々の疑問を問いかけつつ、もっと注意深くなった。二〇一一年のバーレーンにおける蜂起は湾岸共同会議(GCC)の他の産油君主国から助けを受けわずか二、三週間後に潰されたが、その弾圧は、その国家クラブの独特の特性を前提とした時、例外となった可能性もあった。しかし二年後この地域は、他の形で広がる新たな連鎖反応を伴って一つの反革命的局面に入り込んだのだ。
バシャー・アルアサドは、イランとその地域的連携者の助けを得て、二〇一三年にシリアにおける新たな攻勢に乗り出した。次いでエジプトでは、軍が後押しする既成エリートの抑圧体制、およびチュニジアの打倒された政権メンバーの権力への復帰が登場した。つまり、カイロとチュニスでは、ムスリム同胞団に結びついた諸勢力が当初の革命的勢いをハイジャックしたのだ。リビアとイエメンでは元の体制の残存勢力が二〇一三年の展開に勇気を得て、革命に便乗した諸グループと日和見主義的連携を形成し、ムスリム同胞団に対する彼らの敵意を共有した。力による権力奪取というそれらのもくろみは、内戦に帰着した。全体主義的テロリストの企てであるISISが拠点を獲得する中で、熱気は「アラブの冬」における憂鬱に道を譲った。
アルカイダのこの最新化身は事実上イラクとシリアで潰されたとはいえ(同じ系列下で活動している諸グループは、リビア、シナイ半島、さらにアラビア語世界の外部で今も活力を保っている)、他の反革命的諸勢力は攻勢を保っている。アサド閥はロシアとイランの助けに基づいてシリア領域ほとんどの再獲得作戦を継続している。エジプトでは、アブデル・ファター・アルシシ大統領の専制体制が、スーダンやアルジェリアの反乱が秘める潜在的影響力を意に介さず、彼を二〇三〇年まで権力にとどめることを可能にする憲法修正を通した。

長期の革命過程あらためて確証

 リビアでは、エジプト、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、ロシアが後押しし、そこに遅れて米国が加わった、シシの称賛者であるカリファ・ハフタル将軍が、国全体の支配をめざし、四月以来西部への軍事攻勢を実行し続けてきた。ハフタルは、国連、ムスリム同胞団、カタール、トルコが認めている挙国一致政府を取り除きたいと思っている。そして、新たな包括的政治解決に向けた国連の仲介を掘り崩し続けている。 イエメンでは、サウジが率いる連合の介入によってその結末をより悪化させて、内戦が今なお猛威をふるっている。近い将来の長続きする平和、あるいは国民の再統一、という希望はほとんどない。
この反革命的な趨勢を前提とした時、スーダンとアルジェリアにおける蜂起は今のところ、新たなアラブの春の同類というよりも、むしろ変化する矛盾した背景における孤立した高揚のように見える。それらは成長し、広がることも、あるいは残酷に停止させられることもあり得る。いずれにしろそれらの結果は、この地域の将来に大きな影響を与えるだろう。
しかしながらそれらは、二〇一一年は長期に続く革命過程の第一局面にすぎなかった、ということを確証した。アラブの春という語は、それが多くが期待したような短期かつ相対的に平和で民主的な移行としてではなく、何年も、むしろ何十年もおそらくは続く一連の「季節」の最初として理解されるという条件で、依然として意味をもっている。
アラブ世界の問題は、ラテンアメリカや東アジアの問題のように、成熟に達した社会と経済に諸々の政治システムを適応させるということではない。実際後者では、政治的近代化が社会経済的近代化の進行に仕上げの一筆を入れた。しかしこの地域ではむしろ問題は、一九八〇年代以来社会的、経済的発展を妨げてきた政治的システムを排除することなのだ。その主な象徴こそ若者の失業率であり、この地域はその点で世界記録を長いこと保持してきた。

諸経済の弱体化と決起の継続


二〇一一年のできごとは、そこに経済的優先性の抜本的変革もあったと仮定した場合のみ、新たなかつ長続きする安定の時期に導くこともあり得ただろう。しかしそれは、経済的停滞に責任のある国家システムがそのままとどまった中ではあり得ないことだった。アラブの春が引き起こした不安定性は全体としての経済的弱さをただ悪化させることしかできなかった以上、そうした変革が不在の中では、諸々の抗議は継続を、むしろ成長を宿命付けられていた。反革命的攻勢にもかかわらず、いくつかのアラビア語諸国は、二〇一一年以後も大きな新たな諸々の抗議行動を経験してきた。
チュニジアはしばしば、アラブの春の成功物語の代表例として挙げられている。それが何とか達成された民主的成果を手放さずにおくことができたからだ。「チュニジア人の例外」は、自立性と影響力の双方をもつ、アラブ世界でただ一つの組織された労働運動、チュニジア労働総同盟(UGTT)の役割に密接に結びついている。評論家たちが、「文化的な」違い(特に、過去三〇〇年間にわたるチュニジア国家の持続性の結果)に焦点を当てることの方を好み、たとえ先の関係を認識できずにいるとしても、そうなのだ。
しかしチュニジアはこれまで、地方的にまた全国的に、数々の抗議行動で揺さぶられ続けてきた。そこには、二〇一六年の中央部のカセリヌ市における抗議行動、二〇一八年一月の大デモが含まれている。
二〇一一年以後大きな社会運動を経験してきた国には以下が含まれている。まず特に二〇一六年一〇月以来のリフ地域の抗議の決起を含むモロッコ、そして特に二〇一八年春のヨルダン、そして二〇一五年には間欠的にイラク、がある。スーダンは二〇一一年以来、厳しい弾圧を受けた二〇一三年を含んで、いくつかの蜂起を示してきた。
すべての国の抗議行動は、失業あるいは生活費に焦点を当ててきた。これらの諸問題はしばしば、国際通貨基金(IMF)の過剰な介入によって悪化させられてきた。そしてその機構はここまで、新自由主義の信条に対する不動の信仰を示してきた。その教条主義は、諸経験とは逆を向いている。そしてそれは、この機構は失敗に終わった実利主義的合理主義というよりも資本の利益を保護しようとの切望で鼓吹されている、との告発を強めている。
IMFは、アラブ世界の内部破裂は十分な熱意を持ってその処方箋を適用することに失敗したことによる、と結論を下した。しかしその処方箋は、この地域の現実には明確にあっていないのだ。
国家の関与縮小、および発展における私有部門の中軸的役割に向けたIMFの無理強い(機能することが示されたことは一度もない)は、この地域の経済的停滞に相当な程度で力を貸した。二〇一一年以来IMFは、その緊縮綱領に厳密に従うようにとの諸政府に対する圧力を高めてきた。
その結果はすぐさま現れることになった。まさにすでに挙げたできごとの他に、イランでも諸々の抗議行動が現れたのだ。そしてそこでは、そのアラブの隣国におけるシステムとイランの政治システムとの間にある違いにもかかわらず、同じ原因が似たような結果に導いている。この一月、IMFが鼓吹した諸方策に反対する抗議行動が、同時多発的にイラン、スーダン、チュニジアを揺るがした。
IMFの緊縮処方箋のすべてを強要できたただ一つの政府が権威主義のシシ政権だった、ということは偶然ではない。二〇一六年一一月以後適用された「ショック療法」の内、エジプト人はここまで「ショック」の部分しか経験してこなかった。しかしこの地域の他の民衆とは異なり、彼らは立ち上がっていない。彼らの無気力は部分的に、国家の抑圧の結果であり、また部分的に、動乱の三年(二〇一一―二〇一三年)が彼らにムバラク時代の消失を残念がらせている体制の確立に導いたに過ぎない、という事実へのあきらめの結果だ。このあきらめは、信頼に足るオルタナティブの不在によって悪化させられている。
それでもエジプトは、無駄に苦しんでは来なかった。隣国はその経験から学び取ってきた。すなわち彼らは、エジプトの軍部が二〇一一年二月にホスニ・ムバラクを退け、二〇一三年七月に、ムスリム同胞団メンバーである被選出の継承者、モハメド・モルシを打倒した時エジプト人が抱いた幻想に、前もって警戒を払ってきた。
今やはっきりしているが、政治権力が軍部に基づき据えられる場合、大統領とその側近は単なる氷山の頂点にすぎないのだ。そして水面下の部分は、主に軍部・治安機関複合体――適切にも「ディープ国家」と言及されている――から形成されている。

国家と資産の搾取が問題の核心

 アラビア語世界の政治システムは、国家とその資産を食い物にするカーストによって支配されている。それらは二つのタイプから構成されている。つまり、君主制の下で君臨する家族、あるいは共和主義者とされているが、国家の分取りを認めるシステム、そして軍部・治安機関と官僚カーストだ。そして後者のメンバーは、刷新された先祖伝来のシステムの下で国家資産から利益を得ている。二〇一一年の反乱のさまざまな結果は、これらのタイプ間にある違いによって決定された。
二〇一一年、刷新された先祖伝来のシステムのチュニジアとエジプトでは、国家機構が早々に統治にあたっていた閥を取り除いた。それは一つの厄介者になったのだ。先祖伝来の国家では、君臨する家族が躊躇なく、さらに多くの殺害を伴って蜂起を潰すために彼らの親衛隊を使った。リビアとシリアは内戦に沈められた。一方バーレーンでは、GCCの介入が民衆運動に武器を取ることを思いとどまらせた。イエメンは中間の類型に落ち込んだ。つまり二〇一一年の反乱は、その後武装紛争にいたることを宿命付けられたいわばガタガタの権力分有勢力編成に帰着した。
スーダンとアルジェリアはエジプト同様、軍部・治安機関の背骨を備えた体制を抱えている。エジプトでと同じく軍は、結局は大統領を犠牲に差し出すことで民衆をなだめようと試みた。アルジェリア軍は四月二日にアブデラジズ・ブーテフリカに辞任を強要した。そしてスーダン軍の臨時政府が権力掌握を宣言し、四月一一日にオマル・アルバシルを拘留した。
これらのクーデターは、軍がムバラクの「辞任」を公表した二〇一一年二月にエジプト軍が開始したものと同様保守的だった。軍は水面下の部分を残すために氷山の頂点を犠牲にしたのだ。エジプトでと同じく、アルジェリアとスーダンの軍部は、彼らが退けた大統領の緊密な連携部分、および大いに嫌われた体制の中で虐待と着服の点でもっとも直接に汚れていた人々と機構、を犠牲にした。
しかし両国では、エジプト人の経験(およびスーダンにおけるそれ以前の経験)から学んだ民衆運動は、罠に落ちることはなかった。彼らは執拗に、政治権力に対する軍の支配を終わりにすること、そして真正の文民的で民主的な政権確立、を要求している。

二〇一一年の実際の指導部


これらの新たな蜂起には共通して、巨大な規模の決起と抗議に関する楽しげな表現がある。それは、「想像力を権力に」移し替えた偉大な解放の反乱という伝統に沿ったものだ。それらはまた、軍を軸に構築された体制に対処しようとしている、との一つの認識も共有している。後者の高級指揮官には、彼らから体制を切り離すことことなど期待され得ないのだ。
アルジェリアとスーダンでは、高級指揮官は自らを、民衆が熱望する革命的変革の先鋒として、一九五二年のエジプトにおけるガマル・アブデル・ナセルの自由将校団運動、あるいは一九七四年のポルトガルにおける国軍運動(両者共、軍の位階制に反乱した青年将校の運動)と似たものとして押し出している。しかしこれが多くをだますことにはならなかった。
今年の反乱は、一つの重要な点で、つまりその指導部の性格で異なっている。これは決定的課題だ。
二〇一一年の蜂起におけるほとんどの敗北、およびその民主的成果がここまで保持されてきたただ一つの部分的成功には、同じ説明が可能だ。アラブの春はポストモダンと呼ばれた。それは指導部がいないように見えたからだ。しかしどのような民衆運動も、そのような条件の下では長く続くことはできない。自然発生的に巻き起こっているものであっても、民衆運動は持続性のある指導者を必要とする。
チュニジアでは、UGTTの労組活動家が、蜂起を全国的広がりに拡張し、二〇一一年一月に独裁者を打倒する点で、鍵を握る役割を果たした。エジプトでは、反政府派政治諸組織の集成体が反乱を始め、ムバラクの退陣まで指導部を引き受けた。バーレーンでは、政治的野党のメンバーと労組活動家が前線にいた。イエメンでは、政権のいくつかの分派が、運動の主な煽動者となっていた若い革命諸派を犠牲にして運動を利用するために、野党と連合を形成した。
リビアでは、蜂起の武装紛争への急速な堕落が、新旧の反体制派の人物による指導部をつくり出した。そこには体制の元支持者も含まれる。シリアには、ソーシャルメディアを通して連絡を取り合う「協調委員会」の形成に基づく最長の水平的指導部(指導部の不在と同じことではない)の時期があった。それは、トルコ、カタールの保護下でイスタンブールでつくられ、自らに指導部の役割を割り振ったシリア国民評議会の出現まで続いた。
トルコとカタールは、それらによるムスリム同胞団後援を通して、バーレーンを除く二〇一一年の蜂起すべてを何とかまとめることができた。そしてそのムスリム同胞団は、反乱を始めることには関わっていなかったが、すぐに加わり、それらを接収した。
同胞団とその連携部分はエジプトとイエメンでは早くから十分に確立されていた。リビア、チュニジア、シリアでは地下に追いやられていたが、しかしそれらの国でも彼らは、カタールのメディアの支援(アルジャジーラを通す)と物質的支援を受けた密なネットワークを保持していた。それは、他の諸国における同胞団の合法的あるいは反合法的支部と同じだった。

ムスリム同胞団の幸運と限界


左翼と自由主義(政治的意味での)的反政府派の全般的弱さのゆえに、ムスリム同胞団と関連集団の地域的影響力は二〇一一年―二〇一二年に頂点に達した。ちなみに前者二勢力には外国政府の支援がなく、またそれらは弾圧によって消耗していた。チュニジアとエジプトでは彼らは短期の移行期間の後組織された選挙に参加し、両国で権力を得た。モロッコの君主制は、同胞団のモロッコ支部を政権に組み入れることによって、二〇一一年二月二二日に始まった抗議行動の成長を先回りして阻止しようとした。
ただ一つの驚きは、リビアにおける二〇一二年七月の議会選におけるムスリム同胞団の敗北だった。そこでは、同胞団が政治的諸グループとNGOのリベラル連合である国民諸勢力連合に敗北し、後者が、同胞団のほぼ五倍に当たる全投票数(投票率は六一・六%)の五〇%近くを獲得した。
この敗北は、五月のエジプト大統領選第一回投票に続くものだった。そしてこの第一回投票では、リベラルと左翼諸政党を代表する候補者たちが得た総得票数は、同胞団と前政権を代表する先頭に立つ候補者に向けられた合計全数を上回り、モルシが得た票数の二倍以上だった。それは、オリエンタリズム――エドワード・サイードの意味における――によって吹き込まれた社会一般の知識に反して、アラビア語世界の人々が政治的イスラムによって文化的に説き伏せられ味方に引き入れられているわけではない、というもう一つの証拠だ。
これは、文化的な問題以上に政治的・組織的問題だ。民衆運動の多数派の熱望を表現している諸々のリベラル(世俗派とムスリム)から極左にいたる民主的諸勢力は、自らをさまざまな連合に組織できていないことを、また同じように二つの反動陣営――前体制の支持者およびそれらに対するムスリム原理主義者の競合相手――に対するオルタナティブとして自らを押し出すことができないことを明らかにした。不幸なことだが、アラブの春に巻き込まれたすべての国で、リベラルと左翼の反体制派は、他方に反対して一方の反動陣営と談合し、時に主な危険と思われた側を変えるという間違いを犯した。そしてそれは、これらのグループの政治的周辺化に帰着した。
スーダンとアルジェリアにおける現在の蜂起は大きな程度で、イスラム原理主義者によって接収されることから安全を保っている。これが、軍の策謀に反対するそれらの能力を強めている。同胞団は二〇一一年はじめのエジプトでは軍部に対する一つの価値ある盟友だった。アルジェリアでは、「暗黒の一〇年」――軍部・治安機関複合体とイスラム救国戦線(FIS)の原理主義者および一九九二年一月のクーデター後におけるその派生物、その両者間で展開された流血の闘争――の経験が、人々を両者に対し懐疑的にした。ムスリム同胞団のアルジェリア支部は軍と協力し、ブーテフリカを支持し、多年の間政権に参加した。この二月に始まった抗議行動のほとんどの指導者は、彼らの熱望を代表するとする軍の高級指揮官の主張を拒否すると同じほど強く、あるいはそれよりもっと強く、原理主義者による運動の指導部乗っ取りのいかなるもくろみにも反対すると思われる。
スーダンでは、反動の二陣営に対する民衆的反対は、一九八九年のオマル・アルバシルのクーデター以来それらが権力を分かち合ってきたがゆえに、なおのこと根底的だ。バシルは、ムスリム同胞団と連携した(その関係は常に円滑に行われたわけではなかった)軍事独裁の頭目として、モルシとシシの混合物に似ていた。二〇一一年以後のアラビア語世界のどれよりもより政治的に急進的な、スーダン人の蜂起がもつ鍵的な特徴は、軍あるいはその原理主義的連携者のどちらであれその支配に対する公然たる反対であり、文民的、世俗的、民主的、かつフェミニスト的政権に対するそのはっきり公表された願いだ。

スーダンに特徴的な急進主義


この急進主義は、スーダン人の運動に力を与えているもう一つの特徴と結びついている。アルジェリア人の運動は、そこに参加している諸組織の多元性と水平性によって限界付けられている。そしてその諸組織の中では、大学生の諸グループがソーシャルメディアを介してリベラルや左翼の政治的反体制諸グループ、さらに被雇用者や専門職の団体と協力しているが、指導性を主張できるグループは一つもない。それとは対照的に、「自由と変革宣言勢力(FDFC)」がスーダンで果たしている指導的役割に疑いを差し挟む者は誰もいない。
一月一日に採択された一つの宣言を軸に形成されたこの連合の中では、スーダン専門職組合(SPA)が中心的だ。SPAは、医師、ジャーナリスト、弁護士によって二〇一六年一〇月に非公然に形成され、その後教員、技術者、薬剤師、芸術家が、そしてもっと最近になると工場労働者、鉄道労働者が加わった、一つのアンブレラ型組織だ。
FDFCはまた、サディク・マハディ(一九六〇年代と一九八〇年代に二度首相を務めたことのある一人のリベラルでありスーフィ教徒の代表でもある)が率いる全国ウムマ党からアラブ世界で今も活動している最大の共産党(一九六〇年代以後相当に弱体化したとはいえ)であるスーダン共産党、そしてバシル体制に反対する地方の武装グループまで広がる、政治的反政権諸政党を含んでいる。
そこにはまた二つのフェミニストグループ、「女性イニシアチブへの抑圧ノー」と「市民的・政治的フェミニストグループ」が存在し、それらの影響力はFDFCの綱領にはっきりしている。その綱領は、この連合が要求している立法議会での、四〇%割り当ての女性議席確保、を含んでいるのだ。
スーダンに関して、フィナンシャルタイムスのジャーナリストであるデイヴィッド・ピリングは、極左の論評に普通に見つけられる類の比較に訴えている。つまり「この蜂起は、スマートフォンとハシュタグの結集力に基づき多くを二一世紀のテクノロジーに負っているとはいえ、そこには世俗主義かつサンジカリズムの両者の色合いをもつ一つの運動に付着する復古調革命の気配がある。確かなこととしては、一九一七年にツアーが倒された時ロシア人がどのように感じたか、あるいは一八七一年のフランスにおける短命のパリコンミューンの浮き浮きした、理想主義的な日々ではどうだったか、それを人は知ることができない。しかしそれは、二〇一九年四月のハルツームに似た何かを感じたに違いない」と。

教訓学んだ政治的指導の切り札


FDFCは、移行期にスーダンを統治すべき者に関して、そしてそれがどれだけ続くべきかに関し、軍の高級指揮官たちと戦闘中だ。この連合は、この連合が優位を占め、軍が少数となる主権を保持する評議会の確立を今も求めている。一方軍は、軍が主権的権力をもつ支配を取り戻さなければならない、と主張している。
この連合が選挙以前に三年も続く移行期を強く求めていること、他方で軍部がその期間を可能な限り短期にしたいと思っていることは、逆説的であるように見えるかもしれない。しかしFDFCは、チュニジアとエジプトにおける憲法制定議会選挙、立法議会選挙、さらに大統領選挙から教訓を得たのだ。これらの選挙はほんの短い期間の後に行われ、進歩派に敵対的に作用した反動的な二極化を力づけた。
彼らは、社会経済的課題と女性の課題――彼らの過渡的な憲法草案に概括されているような――に関し進歩的となる、そうした文民的、民主的、世俗的な政権を支える新たな諸機関を構築するための時間を求めている。彼らは同時に、進歩的な政治運動とそれらの民衆的指導部を支えるためにふさわしい一つの政治組織、を建設するための時間も必要としている。
これが解き明かすものは、スーダン人の蜂起が保持しているアルジェリアの蜂起よりもはるかに大きなこの地域の反動派に対する懸念だ。GCC―サウジアラビアとUAEおよびカタールという友人のふりをした敵はバシルに、彼が退けられる前に彼らの支援を提供した。
サウジアラビアとUAEは、イエメンで彼らと並んで戦闘してきた将校たちによって今率いられているスーダン軍に対し、彼らの支援を引き上げた。彼らは、FDFCの「穏健派」、特に全国ウムマ党を引き入れることでFDFCを解体しようと試みつつある。その中で彼らは、サラフィスト(イスラム原理主義者:訳者)、サウジアラビアの顧客、さらにムスリム同胞団の支持をテコに、宗教的デマゴギーを頼りにするよう軍をせき立てている。ちなみにムスリム同胞団は、FDFCの指導性の主張についても議論を仕掛けている。
この一切合切は、ロシアにおける一九一七年のように革命的急進化に導くのだろうか、それともデイヴィッド・ピリングの対比を借りれば、パリコンミューンの終わりに似た血の海を導くのだろうか?
スーダン人革命派の切り札は、軍の兵士と下士官に対する彼らの大きな影響力だ。実際彼らのある者たちは、抗議参加者を守るために彼らの火器を使用したことがある。そしてこれこそが、バシルがそうするよう迫った時に、高級指揮官たちが運動に対する部隊使用を拒んだ理由なのだ。ロシアとパリにおけると同様、これがスーダン革命の結果を決めることになる決定的な要素だ。(二〇一九年六月二五日、「ザ・ネーション」より)(「インターナショナルビューポイント」二〇一九年七月号)   

 


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