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    かけはし2018年12月3日号

「マルクスと永続革命」(未邦訳論文)


学習

マルクス生誕200年の最後の月に――

レオン・トロツキー

 今年、二〇一八年はカール・マルクス生誕二〇〇年にあたる。しかし本紙では編集部の力量不足もあり、特別の企画を届けることはできなかった。編集部の自省もこめて、トロツキーの未邦訳論文「マルクスと永続革命」(一九二八年)を掲載する。(編集部)

解説

 本稿はトロツキーがアルマ・アタに追放されている一九二八年に書いたスターリンに関する膨大な草稿の一部である。この草稿は全体として未邦訳であり(どの言語にも全訳されていない)、その一部は「官僚主義の哲学的傾向」という表題で『トロツキー研究』第七号(一九九三年)に訳載された。ロシア語原文がキエフで出版された九巻本の『トロツキー・アルヒーフ』に収録されているので、その原文に基づいて、トロツキーがマルクスと永続革命との関係について論じた部分だけを、今回、マルクス生誕二〇〇周年を記念して本紙に訳出することにした。トロツキーの永続革命論の核心が簡潔に述べられるとともに、それがまさにマルクス、エンゲルスの『共産党宣言』の革命路線を発展させたものであることが説得的に明らかにされている。

 マルクス主義の基本問題の一つを取り上げよう。それはレーニンが特別の著作で論じなければならないとみなしたもの、すなわち国家の問題である。さまざまな場面でスターリンは、「国家は、階級敵の抵抗を抑圧するための支配階級の手中における道具である」(『レーニン主義の諸問題』、一〇八ページ)と繰り返している。それにもかかわらず、スターリンは、途方もない重要性をもった二つの歴史的場合〔ロシア二月革命と中国革命〕において、この定式の内実が彼にとっては七つの封印をされた謎であることを示した。どちらの場合においても問題になっていたのは革命だった。
二月革命において、〔スターリンやカーメネフをはじめとする古参ボリシェヴィキは〕、民主主義革命を完遂するという観点に立っていて、社会主義革命を準備するという観点にはまったく立っていなかった。十月革命後に二月革命に対する自分たちの態度を批判的に評価しようとした人々は、自分たちが一つのドア〔民主主義革命〕をめざしたのだがもう一つのドア〔社会主義革命〕に至ったことを公然と認めた。たとえば、オリミンスキーは一九二一年にこの問題について次のように書いている。

 来たる革命は単なるブルジョア革命でなければならない。……この考えは、党のすべてのメンバーにとって義務的な前提であり、党の公式の見解だった。それは一九一七年二月革命までずっと変ることなく党のスローガンであったし、その後でもしばらくはそうであった。

 問題になっていたのはけっして、革命がまず最初になすべきは民主主義的諸課題を解決することであり、それらの解決にもとづいてようやく社会主義革命に移行することができる、というものではなかった。一九一七年のボリシェヴィキの三月会議に参加した者は誰も、レーニンが到着するまではこのような考えを持っていなかった。スターリンは当時、レーニンの一九一五年の論文を持ち出さなかっただけでなく、ジョルダニア(注1)の精神にもとづいて、ブルジョアジーを尻込みさせないよう〔参加者を〕説得していた。俗物の指示書に命じられた諸段階を歴史は飛び越すことができないという確信はすでに、スターリンの頭の中に確固として根づいていた。
ここでは三つの段階が想定されていた。まず民主主義革命を最後まで遂行すること、次に資本主義的生産力が発展する時期、最後に社会主義革命の時期、である。第二段階は相当の長期が想定されていた。ザスーリチにおけるような数百年ではないにせよ、数十年が想定されていた。ヨーロッパでプロレタリア革命が勝利すれば、第二段階を短縮させることができると想定されていたが、しかしこれはあくまでも最良の場合であって、理論的可能性にすぎなかった。スターリンのこのような型通りの、そして党内で支配的であった理論からすれば、民主主義革命と社会主義革命とを一つの段階の枠内で結合させる永続革命論は絶対に容認しがたいものであり、反マルクス主義的で、度外れたものであった。
だが、永続革命の思想のこうした一般的な意味においては、それはマルクスとエンゲルスの最も重要な思想の一つなのである。『共産党宣言』が執筆されたのは一八四七年末であり、一八四八年革命の一、二月前であった。この革命は、未完成で中途半端なブルジョア革命として歴史の中に収められている。当時のドイツは非常に後進的な国であり、封建制と農奴制の鎖によってがんじがらめにされていた。それにもかかわらず、マルクスとエンゲルスはけっして三段階論の観点には立っておらず、来たるべき革命を過渡的なものとみなしていた。すなわち、ブルジョア民主主義的綱領の実現から開始されるが、その内的な発展力学にもとづいて、社会主義革命に移行する、ないし成長転化する革命だとみなしていたのである。まさにこの点に関して『共産党宣言』は次のように述べている。

 共産主義者はドイツに主な注意を向ける。なぜなら、ドイツはブルジョア革命の前夜にあり、しかもドイツが、この変革を一七世紀のイギリスや一八世紀のフランスと比べてヨーロッパ文明全体のより進んだ諸条件のもとで、そしてはるかに発達したプロレタリアートとともに遂行するので、ドイツのブルジョア革命はプロレタリア革命の直接的な序曲となるほかないからである。(注2)

 この思想はけっして偶然的なものではない。すでに革命が最盛期にあった時期に、マルクスとエンゲルスは『新ライン新聞』において永続革命の綱領を提起している。一八四八年の革命は社会主義革命に成長転化しなかった。しかし、それは民主主義革命としても完遂されなかったのである。歴史の発展力学を理解する上で、この後者の事実は前者に劣らず重要である。一八四八年が示したのは、プロレタリアートの独裁にとって諸条件が成熟していない場合には、民主主義革命が本当の意味で完遂する余地も存在しないということである。第一段階と第三段階とは不可分に結びついていることが明らかとなった。この点で基本的に『共産党宣言』は無条件に正しかったのである。
マルクスは、農民問題や、一般に封建的がらくたを清算するという課題を無視したのだろうか? このような疑問を出すことさえ愚かしい。マルクスには、農民を総じて反動的原理の人格化とみなしたラサールの観念論的形而上学に共通するものは何もなかった。もちろん、マルクスは農民を社会主義的階級とはみなしていなかった。彼は農民の歴史的役割を弁証法的に評価した。この点については、マルクスの理論全体があまりにも明白に語っているだけでなく、何よりも一八四八年における『新ライン新聞』の政策が雄弁に物語っている。
反革命の勝利後、マルクスは新しい革命の開始時期を少しずつ先へ延期せざるをえなくなった。だがマルクスは自らの誤りを認めたのだろうか? 段階を飛び越すことはできないことを理解して、ついにはこの段階はきっかり三つあるということを受け入れるに至ったのだろうか? いや、マルクスは頑固だった。勝利せる反革命の時期に、マルクスは新しい革命的高揚の展望について素描しつつ、民主主義革命、何よりも土地革命と、プロレタリア革命とを永続性の観点から再び結合させている。まさにマルクスは一八五六年にこう書いている。

 ドイツにおいて全事態は、プロレタリア革命が農民戦争の第二版のようなもので支持されるかどうかにかかっているだろう。そうなれば事態はすばらしいものになるだろう。(注3)

 この一節はこれまで何度となく引用されてきたが、この数年間における論争と文献が示しているように、この言葉の基本的意味は依然としてまったく理解されていない。プロレタリアートの独裁を農民戦争によって支持するとは、土地革命がプロレタリアートの独裁の【前に】遂行されるのではなく、この独裁【を通じて】遂行されることを意味する。一八四八年の教訓にもかかわらず、マルクスは三段階論の衒学的哲学を受け入れはしなかった。この哲学は、イギリスとフランスの経験をまったく不十分に消化したうえでそれを永久化しようとするものであった。来たる革命は、民主主義革命が完成に至るまでにプロレタリアートを権力に就けるだろうとマルクスはみなした。マルクスの考えによれば、農民戦争が勝利しうるかどうかは、権力がプロレタリアートに移行するかどうかにかかっており、プロレタリアートの独裁が持続するかどうかは、それが農民戦争と同時に勃発しそれと平行して発展するかどうかにかかっていた。
マルクスのこのような観点は正しかったのだろうか? われわれは現在、この質問に答える上で、マルクスの場合よりもはるかに豊富な経験を有している。彼は、古典的なブルジョア革命の、何よりもフランス大革命の経験に立脚していた。そして、ブルジョアジーとプロレタリアートとの相互関係が変化したという点にもとづいて、永続革命という予測を引き出した。エンゲルスは、『ドイツ農民戦争』という著作の中で、一六世紀の農民戦争がつねに都市の何らかの分派によって指導されていたこと、すなわちあれこれのブルジョア分派によって指導されていたことを指摘している。ブルジョアジーがもはや全体として革命的役割を果たしえないということにもとづいて、マルクスとエンゲルスは次のような結論に至った。農民戦争の指導権がプロレタリアートに移るにちがいないこと、プロレタリアートはここから新しい力を汲み出して、プロレタリアート独裁はその最初の最も困難な段階において農民戦争に依拠することができるだろう、すなわち民主主義的土地革命に依拠することができるだろうと。
一八四八年は、この見解に対する中途半端で単に否定的な形で確証を与えるものであった。土地革命は勝利に至らず、完全な発展を遂げることもなく、プロレタリアートは権力にたどり着かなかった。しかし、その後、われわれは一九〇五年と一九一七年の経験を得ることができた。そして今では、マルクスの概念は新しい決定的で揺るぎのない確証を手に入れた。肯定的な形ではロシア革命、否定的な形では中国革命がそれである。
プロレタリア革命が後進的なロシアで可能だったのは、まさにそれが農民戦争によって支持されたからである。言いかえれば、プロレタリアートの独裁は、ブルジョア社会のあれこれの分派が農業問題の解決に向けた指導権を引き受けることができなくなっていたからこそ可能になったのである。あるいはより簡潔かつ明確に言うと、プロレタリア独裁は、何らかの民主主義独裁が不可能であったからこそ可能になったのである。
他方、中国では、コミンテルン、ソ連共産党、ソ連邦の権威によってバックアップされた民主主義独裁によって農業問題を解決しようとする実験がなされたが、この実験全体は革命そのものの崩壊をもたらした。こうして、マルクスの基本的な歴史的図式は肯定的な形でも否定的な形でも完全かつ全面的に確証された。新しい歴史時代の〔後進国〕革命は、第一段階と第三段階とを結合させるか、さもなくば第一段階よりも後方に投げ戻されるかであろう。

 訳注
(注1)ノイ・ニコラエヴィチ・ジョルダニア(1869-1953)はグルジアの古参メンシェヴィキで、第一次世界大戦前はトロツキーとともに『ボリバ』を編集。第一次大戦中は社会愛国主義者。一九一八年以降、グルジアのメンシェヴィキ政権の首班を勤める。一九二一年に亡命。
(注2)マルクス&エンゲルス「共産党宣言」、邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第四巻、大月書店、五〇七頁。訳文は修正。
(注3)一八五六年四月一六日付「マルクスからエンゲルスへ」、邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第二九巻、三九頁。

コラム

『金曜日』はどこへ行く


 何年も前の話だ。箱根に一泊した温泉旅行の帰り道。小田急線の車内でウトウトしていると携帯電話が鳴った。「急なんですが、取材に行けませんか」と女性の声。「週刊金曜日」の編集部員からだった。
 去る一〇月二八日、同誌は「創刊二五周年」を記念して集会を開いた。出版界を取り巻く厳しい環境のなか、人事を一新し再出発を期したという。雑誌「創」は最新一二月号で同誌の特集を組んでいる。関係者の証言を載せたものだが、本音が語られていて実に読み応えがある。
 元編集委員で評論家の佐高信氏は一時社長も務めた。もはや商品価値を失くした同誌の「甘え」の構造的問題や「盗用問題」に対する鈍感さ、企画のマンネリ化を嘆く。著名人が名前だけを貸し、実際は何の権限もなく責任だけを問われる「名ばかり編集委員」体制への憤怒もある。「盗用問題」は氏が辞任するきっかけに過ぎないともいう。
 前発行人・北村肇氏の告白は、さらに辛辣だ。売れに売れた「買ってはいけない」現象を「奇跡」と捉え、本来はとっくに消えていた雑誌だと振り返る。「必要なのは編集長の独裁体制」と言い切り、民主的議論から生まれる平均点主義や無責任体制を断罪する。極めつけは、「建前としての若者向け紙面作り」など潔く諦め、これまで通り団塊世代の固定読者を対象とした高年齢者雑誌に特化し、心中せよとまで提案することだ。
 ベストセラーの「神風」による四億円もの貯金を取り崩した後に待っていたものは、「人員削減」であり「減ページ」である。読者が「金曜日」に求めているものは、量ではなく質だと指摘する。
 私はここ数年、勤め帰りの書店で立ち読みをする程度だったが、書き手は相変わらず常連ばかりで、相変わらず内向きだなと辟易した。この評価には、自分がもはや部外者になった冷めた感情もある。どんな集団でもそうだが、内部にいて苦悶苦闘する当事者からすれば「いちゃもん」の類でしかないことは、十分自覚している。
 それでも今なお一万三千部強の定期購読者がいて、愛読を続けていることは救いだ。北村氏の主張が説得力を持つのは、われわれを含む左翼の機関誌や系列出版社が同じ悩みを抱え、時期さえ前後しても、解体と沈没の始まりに、日々戦々恐々としているからではないか。
 「サンデー毎日」出身の同氏は編集長就任にあたって「金曜日を機関誌には絶対にしない」と誓ったそうだ。機関誌なら組織を支える人員から資金が無条件に入ってくる。だがそれゆえ、編集者と読者は緊張関係を失い、惰性に流れる危険もある。
 植村隆新体制で「金曜日」はどこへ向かうのか。私は今でも現編集長に対し、当時仕事をくれた恩義を感じているのだが。
(隆)


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