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    かけはし2018年10月15日号

移民問題で今言葉を濁すことは問題外!


フランス

移民歓迎は政治的選択の問題だ
経済的能力の問題では全然ない

ジュリアン・サリンゲ

 マクロンの支持率が低下を続け、EU議会選が来年に迫る中、フランスの急進左派を結集し大統領選では脚光を浴びた不屈のフランス(FI)が、政治的立ち位置を微妙に変えようとしている。社会党左派との連携も視野に、マクロンの基盤の取り込みを狙っているのかもしれない。本誌前号で紹介したドイツでの動きと重なるものも見える。以下では、この動きに対し、特に移民問題での姿勢に対し、NPAの同志が鋭い批判を行っている。(「かけはし」編集部)


 「EU議会選:不屈のフランス、少しばかり移行」。これは、八月二三日から同二六日までマルセイユで行われた、不屈のフランス(FI)の「アムフィス」(注一)後にユマニテ紙に掲載された記事の標題だ(注二)。それは、「不服従」のメランション版がますます「社会でまともに見られること」の追求、また「責任感がある」との主張に向かって向きを取っていることを確証する移行だ。それは、不幸なことだが、中でも移民問題に関して確証される傾向だ。
 NPA(反資本主義新党)は、年金問題(「あらゆる戦闘の母」)についての討論のためにこの「アムフィス」に招待され、アドリアン・クァテネンス(FI議員)、クリスティーヌ・マルティー(ATTAC科学評議会メンバー)、ベルナール・ボルギアリ(鉄道労働者、EU議会選FI候補者)と並んで、はっきりと前向きに応じた。
 われわれの同志、クリスティーヌ・プパンは中でも、年金、失業保険、社会保障その他に関する、マクロン発案のウルトラ自由主義構想に対する大規模な集団的対応を、力を合わせて組織する必要を強調した。これは、鉄道労働者の闘争と公共サービスの防衛を支援する統一枠組みの口火を切ることで、SNCF(フランス国鉄)に対する反改革の中でわれわれが防衛した取り組み方だ。

水で薄められる不服従のワイン


 われわれのこの姿勢は、まったく逆に、諸組織間に意見の一致がないということの否認を意味するものではない。それこそが、FIの立場に対する批判を、そしてわれわれの考えを彼らのそれにぶつけることを、特に反資本主義者であろうとそうでなかろうと、左翼内部で論争されている問題について、われわれが決して控えなかった理由だ。
 そして今回の場合、次のことを心にとどめなければならない。つまり、ある人びとがEU問題に関するFIの一つの「動き」と認めてきたことは、「不服従」運動への「社会的なまともさ」という評価を追求することにおける、むしろ追加的な段階のように見える、ということだ。
 この追求としてはこの夏、中でも「アムフィス」への右翼議員の招待が含まれていた。そしてそれは、ベラナ事件(訳注)の真っ最中にメランションが示した特異な立場に続くものだったのだ。それは、七月二〇―二一日付けルモンド紙で「問題が国家を守り、共和国の規範を強いるというものになる場合、右翼との間にはある種の収斂があり、私はそれを認める」と伝えられた。
 メランションが政府に入りたいと思っていること、また国家に対し深い敬意をもっていること、これは新たな発見ではない。しかし明らかに彼は、右翼や既成秩序の擁護者とのある種の「収斂」を「認めつつ」、彼の不服従のワインにますます多くの、制度に合わせる、という水を注ぎ続けている。
 それはまた、EU諸機構との決裂という問題について、「プランB」を逆転させることによって(何人かの「不服従者」からはその純粋な放棄〔脅しとしてのEU離脱という考え方〕と解釈された)、そしてエマニュエル・モウレル(SP指導メンバーの一員)によって体現される社会党(SP)「左派」に接触を伸ばすことによって、路線変更を告知しているという問題でもある。これら二つの「動き」は、マヌエル・ボムパー〔メランションの緊密な協力者〕が次のように述べたように、明らかにつながっている。問題の言明は、「PS内部の全グループはEU問題に関し、われわれのものと近い志向を保持している。確かにその志向は、ピエール・モスコヴィッチ(二〇一四年には財務相も務めた社会党政治家:訳者)率いるリスト上にいるよりは、ここの方が適切だろう」(注三)というものだった。
 われわれは今や、大統領選綱領(「EU、われわれはそれを変える、さもなければそれから離脱する」)、二〇一七年九月のたいそうな諸言明(「抜け目のない駆け引きへの立ち戻り、そんなことは決してない!」)、そしてPS反主流派への敵意(その指導者の一人は他の誰でもなく確かに……エマニュエル・モウレルだった)から遠く隔たったところにいる。ちなみにこのPS反主流派についてメランションは大統領選後、「フランスの民衆が憎悪するものすべてを代表している」(注四)と言明していたのだった。
 それをFI議員団指導者は次のように説明した。すなわち「論争では、言葉では、われわれは乱暴だ。しかしもっとよいことは、ものごとをその先へは一切進めないことだ」(注五)と。そして彼は、次のように言明し、なおもPSの「左派」に話しかけつつ、九月九日に少し先まで進むことまで行った。すなわち「友人たち、私はあなたたちを理解し損なっていた」(注六)と。なぜそれで悪いのか? 結局、かつて人が言ったように、向きを変えるのは風向計ではない、変えるのは風なのだ……というわけだ。

反移民反対、しかし……


 メランションとFIは、彼らの綱領の基本部分(「プランB」)と昨日の特定された敵対相手の一つと合流することを考える「抜け目のない取引」に対する拒否を放棄し、自身を多数派の統治勢力として押し出す用意を整えた上で、移民問題に関する意見はほとんど変えていない。なぜならば、マクロン政権の反移民政策をまったく正しくも批判しつつ、また特に難民―移民法を糾弾しつつも、メランションはこの夏何度かの機会に、移動と居住の自由に対する敵意を何度も繰り返し表してきたからだ。次が九月二日のBFM・TVで放映された一つの事例だ。つまり「私が人々に言いたいことは、全員がやりたいことを行い、行きたいところに行き、望みのところに落ち着くべきだ、ということに私は同意しないということだ」(注七)と。
 そして彼は「われわれの誰一人として、『まったくそうだ、すべての者は当然にそれを行い、移動すべきだ』と語ると思われる優しい夢想者ではない」と、この立場を「責任感」の名目で正当化した。そして彼は、「分別」(「われわれは道理をわきまえた者たちだ」)を呼び起こし、こうして、フランスとEUには、強いられてであろうが自発的であろうが、ここに住みたいと願う可能性のあるすべての人を受け容れる手段はない、という神話を維持している。そのような多くの、潜在的に利用可能な富をまったく生み出してこなかった時代に……と。
 しかし移民の受け入れは絶対的に「技術的な」能力の問題ではなく、政治的選択の問題、つまり、労働時間を短縮し、富を分かち合い、空き家になっている居住施設を接収する……、という問題なのだ。移民につながっている、あるいは移民とは別の領域の一部ですらある不確かな問題に反対することとは完全に離れた、世界的な同じ見方の枠内での移動と居住の自由に対する要求と組になった常識的な諸方策は、富の真の分かち合い、小さな略奪的少数部分のためではなく多数の利益を求める諸政策など、まさに多くあるのだ。
 メランションはもっと悪いことに、国境の本物の開放に対する彼の拒否を正当化する目的で、「賃金と社会的獲得成果に圧力をかけるため」(注八)という、ブルジョアジーによる移民の利用論を使用している。いくらかの雇用主と政治家が搾取の論理を強化するための道具として移民を利用している、ということは否定できない。しかし、賃金を引き下げ、社会的獲得成果をすりつぶす目的で、移民は「自由貿易協定により組織され」(注九)ていると暗示することには、受け容れがたい一歩……がある。
 なぜならばそれは、付随的効果と後で戻る予定の組織された政策間の混同という問題だけではなく、フランス人労働者と外国人労働者間の事実上の競争という考えを正統なものにするという問題、したがって、自発的にかそうでないかに関わりなく、雇用主に対し共同で闘うという可能性に疑問を突き付けるという問題でもあるからだ。
 しかしながらあらゆる犠牲を払っても利益率を上げようと決意している資本家の圧力に対する闘いは、確かに、間接的であっても移住現象に挑む(「〈移民の波は〉賃金に下降圧力をかけ、雇用主には収益的になり得る、と語ることは完全に不合理な推論というわけではない」)ことではなく、唯一資本主義システムそれ自身と利潤を求める常軌を逸した競争に挑むこと……を必要とするのだ。
 その上で、われわれにはこの主張が、すべてのことが同じであるかのように、二〇世紀初頭における何人かの労組活動家の議論を聞いているかのように映る。その議論によれば、男より資格の低い女性の労働市場参入は、雇用主により賃金引き下げ……のために利用されるだろう、とされていたのだ。

経営者は、親移民とは正反対

 実際にも、移民と低賃金の間には機械的なつながりなどまったくない。たとえばわれわれは先頃、移民問題の専門家であるエコノミストのアンソニー・エドにより、「ラ・トリビューン」に掲載された二〇一七年二月のインタビューの中で次のことを気付かされた。つまり「移民は労働者だけではなく、消費し、事業を始め、革新を行い、こうして富の創造に参加し、結果として成長や賃金や雇用にプラスの作用を及ぼす」(注一〇)。その上に、ロジャー・マルテリが指摘したように、今日あるようなグローバルな経済システムの中では、資本家にとって主要な圧力手段として役立っているものは、世界的な経済主要国内部の移民労働者の存在ではなく、『南』の諸国内の低賃金コストだ、ということも付け加えなければならない……」と。
フランスでは、移民に向けられる一定部門の雇用主が示す日和見主義はいかなる意味でも、移動と居住の自由原則に対するブルジョアジーの集団的支持を意味していない。さもなければ、富裕層とMEDEF(フランス経団連)に対するその忠誠が論証の必要もないマクロンと彼の政府もまた、移民に敵対的である理由、全体としての欧州と特にフランスに旅をする移民の勇気をくじくために、彼らが疲れを知らずに闘っている理由、それらを理解することは困難だろう。
あらためて、この問題は政治的選択の問題だ。そしてメランションとFIが、国境の開放はフランスの土地に「すでにいる」労働者に対しマイナスの影響を及ぼすだろう、と事実上仮定する議論を頼りにしていることは、嘆かわしいことだ。
その上で、何とか欧州にたどり着けた移民たちを犠牲に資本家によって上げられる利潤という議論は、重要度が最低というわけではないいくつかの大産業グループが、移民を欧州諸国にたどり着けないようにすることから利益を上げている……ということを前提とした時、方向が変えられる可能性が出てくる。この問題に触れた作品(外国人排撃ビジネス)の著者であるクレール・ロディエは、すでに二〇一四年に、「移民ビジネス」の問題を提起していた。
いわく「われわれは、国境監視の分野での治安技術開発で上げられた利益を、また外国人の入国受付、宿泊、拘留、さらに排除に関する立法を起点とする、移民諸国内におけるすべてのことの開発から上げられた利益をも考えている。両者の場合で、この派生物の受益者は、主要に私的企業だ。すなわち、武器製造企業と航空機産業、保険会社、警備保障企業、ビザ管理のための私的サービス提供者、さらに移民と難民の政策実行に伴われる多くの作業者だ」と。
そこでは並外れた総額が問題だ。EUにおける国境安全保障向け市場規模は、二〇一五年には一五〇億ユーロに達し、いくつかの評価にしたがえば、二〇二二年には、G4S、サレス、フィンメッカニカ、シーメンス……といった多国籍企業の利益と引き換えに、年当たり二九〇億ユーロ以上にまで高まると予想されている。このすべてはほとんど、「親移民の」雇用主理論を確証するものではない。とはいえこの問題は、フランスと欧州には実際移民を歓迎する手段がある、そして討論は政治的なものであり、技術的あるいは経済的なものではない、と変わることなく繰り返す必要と比べれば、われわれが扱っている議論では現実に二義的なものだ。

首尾一貫した国際主義に向けて


ついでに留意が必要なことがある、それは、移民に関するメランションとFIの主張の二番目の軸が、首尾一貫した政治的課題設定と言うよりも、「国際主義的」な対抗に似せている、ということだ。その軸は、「神聖なわが国土に達した人々」(原文のまま)に便宜を図ることは必要だとは言え、彼らが国を離れる必要がまったくなくなるように、「彼らが故国で尊厳を持って生きる可能性を確保する」(注一一)こともまた必要、との説明からできている。
しかし「南の諸国を発展させよう」との宣言された意志(自由貿易諸協定に対する公然とした非難を通して)と、諸要求の欠落の間に、首尾一貫性を見つけることは事実上困難だ。ちなみにその諸要求としては、特に債務取消(その「再編」だけではなく)、アフリカ諸国の富を略奪しているフランスの多国籍企業の収用、「アフリカの憲兵」というフランスの役割を保証している諸々の軍事基地と軍施設の解体、がある。ここでは、「フランス、全大陸上の存在」、あるいは「フランス、世界で二番目の海運域」、つまり何よりもフランス植民地主義の常に存在する遺産にほかならない状況についての、熱を帯びた主張にまでは触れない。
そして、「人々が故国で正しいやり方で暮らす条件をつくり出す」ことが必要、という姿勢に曖昧なものはなく、それは、メランションの顧問であり、EU議会選の将来のFI候補者であるドゥジョルジェ・クズマノヴィックの定式にしたがえば、目的は移民の流れの縮小、あるいはそれを「干上がらせる」ことという考えを受け容れるものだ、ということを付け加えよう。
われわれに関しては、われわれは移民が自由であり強制されない、という条件の創出に貢献する、とはっきり言いたい。そしてまたわれわれは、あらゆる予測にしたがえば、移民の圧倒的多数は将来、気候難民になるだろうということ、また例えわれわれが気候変動に立ち向かう闘いをするとしても、地球温暖化がどれほど進むかを前提とした場合、自由貿易諸協定を無効化することによる場合も含めて、移民の流れの世界的な減速に向けた基礎をしつらえることは可能だろうと論じることに役立つものはないということ、これらも忘れない。
あらゆる人々は、移動と居住の自由の防衛を基礎に置くこれらの国際主義的批判が左翼における討論促進を図るものであること、そして、夏の終わり以来メランションの「民族主義」を攻撃し続けてきたLREM(共和国前進、マクロンの党:訳者)の指導者たちの見せかけとは何の関係もない、ということを理解するだろう。実際その攻撃は、その反移民の強迫観念が特に難民・移民法に体現され、フランスであろうが欧州であろうが、ウルトラ民族主義の諸潮流とますます強く一線をなすことをはっきり示している政府と議会多数派から現れている、機会便乗主義的攻撃――痛ましいと同時に冷笑的な――にほかならない。
ドイツのある人々が一つの運動をつくり出すことにより極右と闘うと主張している(本誌前号七面記事参照:訳者)時に、そしてそこでの目的の一つが、移民に関係する課題設定についての左翼の「素朴さ」を、右翼と極右の用語類を取り上げることにより非難することとされている時、言葉を濁すことはまったく問題外だ。
移民を、「政治的難民」と「経済的移民」間にある種の階層を設定せずに、すべての移民を歓迎しよう。資格書類のない労働者を、「働いている者」と「働いていない者」をわけ隔てることなく、資格書類をもっていないすべての労働者を正規化しよう。「息抜きの場」あるいは「不公正な競争」といった反動的な理論家に僅かでも譲ることを拒否しよう。政治的な選択の問題、あるいは富の本物の配分を求める闘いという問題以外には、大事なことは何もないと主張しつつ、移動と居住の無条件な自由を擁護しよう。
これらこそ、これまでわれわれが放棄したことのない、そして他の多くの人々と共に、病的な風がより強まろうとしている欧州の中で、われわれがこれからも守り続ける考え方だ。
そしてわれわれは、今ここであらゆる人々を構成主体とする諸戦線設立を提案する中で、われわれの成果すべての系統的な破壊という企てを前に、法と秩序、および抑圧攻撃の継続を前に、レイシズム諸政策と連帯の犯罪視を前に……、受動的なままにとどまることを拒否する人々が、そしてマクロンをつけ上がらせないために二〇一九年まで待機するつもりはない人々が、FIの中にも数多くいることを知っている。

▼筆者はNPAおよび第四インターナショナルのメンバー。政治学の研究者でもある。
(注一)「アムフィス」は「階段教室」(大学の講義ホール)をしゃれて表現する言葉。フランスのほとんどの政党は夏季大学を開催するが、これが頭文字の「FI」使用を可能にした。
(注二)「ユマニテ」二〇一八年八月二七日付け。
(注三)「ル・パリジャン」二〇一八年九月三日付記事中で引用された。
(注四)「ラ・プロバンス」二〇一七年九月一四日付け記事。
(注五)「メディアパート」二〇一八年八月二六日付け記事。
(注六)「ル・モンド」二〇一八年九月九日付記事。
(注七)「アムフィス」の中での二〇一八年八月二五日のメランションによる発言。
(注八)二〇一八年八月二五日の、メランションのツイッターアカウント。
(注九)同右
(注一〇)「ラ・トリビューン」二〇一七年二月二一日付け記事。
(注一一)二〇一八年八月二五日の「アムフィス」におけるメランションによる発言。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年九月号)
(訳注)マクロン大統領のボディーガードであるアレクサンドロ・ベナラが、今年のメーデーで、法的資格がないまま警官隊に同行し、デモ参加者に警官と共に暴行を加えた事件。現場映像がウェブサイトに投稿され発覚。マクロン政権の政治的正統性に疑念を突きつける大事件になり、現在も調査が続いている。 



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