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    かけはし2018年10月15日号

首都圏から大軍拡反対の訴え!


9.18

防衛省申し入れ行動

大軍拡予算止めろ!横田基地
へのオスプレイ配備を許すな


 九月一八日午後六時半から、大軍拡と基地強化にNO!アクション2018が防衛省に申し入れ行動を行った。アクション2018は首都圏の三つの反基地団体(有事立法・治安弾圧を許すな!北部集会実行委員会、立川自衛隊監視テント村、パトリオットミサイルはいらない!習志野基地行動実行委員会)が呼びかけたものだ。この申し入れ行動の最中にゲリラ豪雨が襲い全員ずぶぬれになりながらも行動を最後まで貫徹した。

立川、習志野
練馬つないで
最初に、立川自衛隊監視テント村が「八月二二日、政府は一〇月一日、横田基地にCV22が配備されることを発表した。われわれは八月九日に政府交渉をした。政府は米軍のやることなのでいつ配備されるのか、答えられないと何も答えなかった。情報を一切明かさない。すでにオスプレイは六月末から離発着訓練を夜間まで行っている。そして、九月一五日、基地友好祭でオスプレイがホバリングをしてパフォーマンスをやった。九月三〇日に抗議デモを行う。立川自衛隊基地の航空祭にも反対行動を行う」と報告した。
次に、習志野の仲間は「航空自衛隊木更津駐屯地でオスプレイの定期点検を始めて一年が経つがうまくいっていない。自衛隊も一七機のオスプレイを購入・導入する予定だが、佐賀漁協との話し合いがついていない。結局、木更津に暫定で配備される可能性がある。オスプレイ配備に反対し闘う」と発言した。
この後、練馬の自衛隊反対の仲間が、一〇月に開かれる朝霞で行われる自衛隊観閲式反対行動への参加を語った。辺野古実の仲間は「沖縄県知事選での玉城デニーさんの勝利にむけたカンパへの参加、辺野古の海を囲った護岸の撤去などを訴えた。その後、防衛省職員に申し入れ書(軍拡予算を批判する申し入れ書・別掲とCV22オスプレイと特殊部隊の横田基地への正式な配備に抗議し申し入れた)を読み上げ手渡した。
オスプレイ配備に反対する申し入れの具体的要求は、@今後、地元自治体への通告のないオスプレイの飛来は行わないこと。A横田基地に配備されるCV22オスプレイと特殊部隊に関するすべての情報を公開すること。BCV22オスプレイと特殊部隊の横田基地への受け入れを拒否すること、である。    (M)

10.4

玉城デニー県政の船出

新しい基地造らせない

普天間の一日も早い返還を


 政府防衛省は8月31日、2019年度の予算概算要求を発表し、総額5兆2986億円という7年連続での「過去最大規模」の更新が明らかになった。一方で1千兆円以上の借金を抱え、国民の生命と生活に直結する社会保障費の強引な圧縮を続けながら、防衛予算の特別な優遇は主権者・納税者として容認しうるものではない。
 本年末には「防衛大綱」と「中期防」が見直される見込みとなっている。これまでの安倍政権下での軍拡基調からして、さらなる軍事大国化が目論まれることは想像に難くない。今回の概算要求には、イージス・アショア取得、陸海空の区分けを超えた「クロス・ドメイン(領域横断)」構想など、その方向性が色濃く表れている。
 南北首脳会談、朝米首脳会談と朝鮮半島を軸とする東アジアの安全保障環境の緊張度は明らかに緩和の方向に向かっている。我が国においても朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)の弾道ミサイル対処の名目で各地に展開されていたPAC―3の撤収が行われたばかりである。にもかかわらず、概算要求に先立つ「防衛白書」ではDPRKの核とミサイルについて「これまでにない重大かつ差し迫った脅威」などと国際世論からすれば的外れな脅威を煽り、2352億円という法外な税金をイージス・アショアの初期整備につぎ込むほか、導入以来最大規模のミサイル防衛関連予算を計上することを正当化しようとしている。政府の説明責任の放棄、主権者・納税者を愚弄する行為に他ならない。
 さらに、相も変わらぬ「厳しい安全保障環境」「現実に真正面から向き合った防衛体制を構築」などという空疎なかけ声の下、宇宙、サイバー空間、電磁波領域など、国民には可視化し得ない領域での軍拡も露骨に目論まれている。宇宙関連経費は倍増以上、加えて戦闘機の電子戦能力の向上やネットワーク電子戦システムなど、その費用対効果も不明な項目が列挙されているのである。
 この概算要求の延長上に新たな「防衛大綱」と「中期防」が策定されるならば、トランプ政権が要求する「米国製高額兵器大量購入」、「宇宙軍」創設策動への参加強要と相まって、虚妄の軍事大国化の推進にさらに拍車がかけられ、軍事的合理性皆無の税金空費が常態化しかねない。憲法9条明文改憲はもとより、東アジアの安全保障環境を軍事優先に導く軍拡競争への路が目論まれていることは言うまでもない。
 基地現地から反戦・平和の闘いを続けてきた私たちは、第二次安倍政権発足以来の歯止め無き軍拡路線、税金の垂れ流しをこれ以上許すことは出来ない。政権においては、国際情勢、国際世論の現況を冷静に見つめ、我が国がとりうるべき外交上の役割を真摯に果たすこと、国民が直面している深刻な現実的課題にこそ向き合う責任を果たすことを強く求めるものである。
 2018年9月18日

大軍拡・基地強化NO!アクション2018
2019年度防衛予算根本見直しを求める防衛省申し入れ行動参加者一同

映評

「1987、ある闘いの真実」

チャン・ジュナン監督作品 2017年制作

スクリーンからあふれる緊張感

真実を追求する人々が
新しい歴史を作り出す


 「竹刀が折れた」
 との通報
 日本がバブル景気の始まりに踊らされていた1987年、韓国ではチョン・ドゥハン軍事独裁政権に対して民主主義を希求する民衆の抗議活動が日増しに強くなっていた。そのきっかけになったのが同年一月一四日、治安本部南営洞対共分室で捜査員による水拷問により虐殺されたソウル大生パク・ジョンチョル拷問致死事件だった。
 映画「1987、ある闘いの真実」は、一方の主人公である治安本部パク所長が小雪の舞う中、朝鮮民主主義人民共和国のスパイ摘発の功績により勲章をもらうシーンから始まる。そこに分室から「竹刀が折れた」との通報が入る。竹刀とは身柄を拘束されているソウル大生パク・ジョンチョルのこと。折れたとは、死んだという意味だ。パク所長は、親に見せることなくすぐに火葬し拷問死を心臓麻痺として隠蔽しようとするが、ソウル地検公安部のチェ検事は火葬許可を出さない。映画の始まりから最後まで、一瞬の気も抜けない群像劇がここから始まる。
 韓国現代史の視点で見れば、いわば光州事件(1980年)を描いた映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」の続編ともいうべきもの。韓国民衆の命をかけた民主化闘争が、間断なく続いていたことがよくわかる。

事件当時の
ソウル再現
この映画の見どころは、何と言ってもその闘いの歴史を実在する人物の証言を基に、ドキュメンタリーとフィクションを無理なく織りまぜているところだ。監督は韓国映画大ヒット作のひとつ「ファイ 悪魔に育てられた少年」のチャン・ジュナン。氏は、インタビューの中で「1980年代の悲劇が表出した年であり、独裁政権と闘って重要な権力を勝ち取り、大統領の直接選挙への布石を創った、韓国現代史のとても大切なターニングポイント。(略)1987年の出来事が歴史において美しい価値があると思ったのです」と述べていることも頷ける。
映画は当時のソウルの街並みや雰囲気を再現するために数千枚に及ぶ資料を考証し、東京ドーム三個分にあたる四万五千坪の敷地に大規模なオープンセットを作り撮影したという。もちろん当時のソウルの様子を知るよしもないが、スクリーンからは民衆の熱気、催涙ガスの臭いや軍事政権下の緊張感がリアルにあふれ出て観る者を圧倒。二時間余の上映時間が短く思えるほどだ。

民衆が暴いた
「事件の真相」
心臓麻痺で事件を隠蔽しようとしていた治安本部の思惑は逆転し、前述した公安検事の検死解剖や拷問死に立ち会った医師の証言、それを嗅ぎつけた新聞記者の報道により事実は白日のもとに晒されていく。新聞のスクープに、警察は「取調中、捜査官が机を叩くと驚いた学生が心臓麻痺で倒れた」とシラを切ったあげく、トカゲの尻尾切りのごとく二人の捜査官を拷問致死罪で逮捕させ事件を終結させようと画策する。しかし、民主化を願う人々の勇気ある行動は、真犯人を暴き出し、六月一〇日の夕方六時から聖公会大聖堂で開催された「拷問殺人隠蔽糾弾および憲法改正国民大会」につながっていく。そして、街頭ではこれを機に車はクラクションを鳴らし、ビル街からはトイレットペーパーが次々と空を舞い抗議の意志が表されるのだ。
また、学生たちは街頭に出て、白骨団や機動隊と対峙し、国民大会の前日には延世大学の学生イ・ハニョルが三里塚闘争の東山薫さんのごとくガス弾の水平撃ちによって死線をさまよい七月に死去する出来事が起きるなど民主化への勢いは止まることがなかった。このような熾烈な民主化闘争によって、六月二九日にはチョン・ドゥハンの後継者と目されるノ・テウにより大統領直接選挙制を骨子とする特別宣言が行われ、一二月一六日、初めての大統領直接選挙が実施された。以後、韓国の民主化が勝ち取られていくことは言うまでもない。
このような映画は日本では作れまい。そうした歴史的な熱気が喪失しているからだ。真実を追究する者がいない国に未来はないだろう。(雨)

コラム

弔  問


 三連休初日の土曜。行きつけの理髪店で散髪中、携帯電話が鳴った。「これで二度目。今度は出たほうがいいですよ」。女性理容師が手を止めて促した。私は渋々白衣から右手を伸ばした。「Aさんが死んだんだよ。通夜は明後日、告別式は明々後日」。妹の声に茫然となった。政権を非難する世間話が一転、私は考え込んだ。
 父方の従兄である。高校生の時に両親を亡くし、長男として四人の姉弟妹と共に本家を守ってきた。村のまとめ役になり、自分より他人の世話を優先して奔走した。昔から常に人が出入する居場所、そんな家柄だと語り継がれた。
 連休は通夜までで、告別式は仕事を休むことになる。「一緒に車で行く?」と妹夫婦は尋ねるが、片道五時間かかるという。悩んだ末に一人電車で行くことにした。列車を探すネット検索は本当に便利だ。上野から新幹線で長岡まで行き、信越本線に乗り換える。新潟まで行って戻るよりだいぶ安い。Aの長女が交通事故で亡くなって以来二〇数年ぶり。好天に恵まれた月曜日の午後。車窓には豊かな田園風景が広がっていた。列車が定刻通りにB駅に着くと、義弟がAの次男と迎えに来ていた。三人を乗せた車が山道を疾走した。
 家屋は旅館のように改築されていた。仏壇のある座敷で遺体を囲み、妻と息子夫婦、孫らが座っていた。再会した従兄弟、従姉妹の面影が浮かんだ。東京から直接式場に行かず良かったと安堵した。
 やがて式場のスタッフが粛々と納棺、出棺までの説明を始め、一同は耳を済ませた。手抜きのない儀式は、まさに映画「おくりびと」の世界だった。市役所に勤める長男が喪主になった。
 棺が家を出る時、空が泣いた。通夜には旧現市長はじめ、市議・県議会議員ら三百人近くが参列した。葬儀が自宅で行われなかった理由は、「時代の流れ」だけではなかった。巨大な祭壇の裏に親族控室があり棺が最短距離で移動した。豪華な料理の残りで関係者は夜を明かしたが、私には別室が用意された。
 翌朝、部屋から職場に電話を入れ告別式に臨んだ。四人の僧侶が読経と打楽器を打ち鳴らし法話を続けた。司会の女性は艶やかな声色で、最後まで厳粛に取り仕切った。
 澄んだ秋空の下、車列は自宅を経由し低速で斎場をめざした。行く先々で村人たちが家の前に立ち、手を合わせていた。「あの人らも、雪降ろしなんかでずいぶんAの世話になったんだよな」。近縁者が座席で呟いた。目頭が熱くなった。
 遠くの山々に雲が浮かび、農家の庭先にコスモスが揺れていた。日本一の米どころでAは働きづめの生涯を終えた。享年六九歳。肺がんだった。今回の弔問で私は多くを得て、ひとつの山を越えた。父の故郷が、ずっと身近になった気がした。(隆)


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