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    かけはし2018年10月8日号

右翼への対抗として誤り


ドイツ

新たな左翼ポピュリズム?

マヌエル・ケルナー

 ドイツの左翼党の有力指導者が、フランスのメランションによる不屈のフランス創出をモデルとした新しい運動建設を呼びかけている。社会自由主義に大きく傾いたドイツ社民党に失望した労働者を再結集するためには、左翼党の政治路線では不十分、という判断がその理由のようだ。しかしその新運動呼びかけにも大きな疑問点が指摘され、左翼党内でも論争が起きている。以下では、この新運動呼びかけをめぐる諸事情と論争点、また必要な観点が検討されている。(「かけはし」編集部)

AfDに対抗を
新たな運動で?


 左翼党議員団スポークスパーソン(ディートマル・バルチュと共同の)であるサラ・ヴァーゲンクネヒトは、党の反資本主義左派を基盤としている。そして長い間そのもっとも人気のある代表だった。彼女は、彼女の夫であるオスカー・ラフォンテーヌ(両者共メディア露出度が高い)と共に、一定期間「チーム・サラ」という名称の内部集団に関わってきた。そしてこの集団は、ジャン・リュク・メランション率いる不屈のフランス(FI)のイメージでの新しい政治運動創出を力説し、人々はその集団にインターネットで加わることができる。彼らは、この運動が、左翼党と競合関係の形ではなく、より多くの社会政策という観点で他の諸政党に圧力を加えるために、今年九月に始められる、と公表した。
 ヴァーゲンクネヒトとラフォンテインにより発展させられた一定の立場は、党の反資本主義的翼の右というだけではなく、党の公式的綱領に対してもその右に位置している。選定された敵はもはや資本主義ではなく、鎖を解かれた新自由主義の資本主義だ。「開かれた国境」は、底辺にある者たち内部の競争を悪化させ、賃金労働者を弱体化し、実質賃金を引き下げるための、新自由主義ブルジョアジーの一構想として言及されている。民主的な獲得成果の防衛には、EUとさまざまな構想、たとえばマクロンのそれ――EUの枠内での欧州統合強化をめざす――に対置された国民の主権の防衛が伴われている。
 ヴァーゲンクネヒトとラフォンテインの構想は基本的に、極右を弱体化すること、AfD(ドイツのための選択肢、極右)の選挙での突破に対抗すること、ドイツ人賃金労働者層を獲得すること、そして社会民主党(SPD)に不満をもつ中でAfDのデマゴギーに引きつけられ、しかし左翼党には共鳴していない、そうした「遅れた左翼」を獲得することを狙いとしている。ヴァーゲンクネヒトとラフォンテーヌによれば、左翼党は、移民との不利な競争に対する彼らの怖れを無視していることで過ちを犯している。

SPDとの連携
統治志向を批判


 ヴァーゲンクネヒトはメディアパートでのインタビューで、左翼党の「統治能力主義」的右派に伝統的に結びついてきた構想はもはや現実的ではない、と説明している(正しくも)(注)。左翼連合というこの構想は現在多数派の構想ではない。
 SPDの支持率は現在投票意図ある者の一七%でしかなく、依然閣内にいるにもかかわらず、この党は急速な後退を味あう可能性がある。他方で今日のSPDは、社会民主主義の伝統的な立場からはるかに移行を遂げた。この党は、メルケルの保守派連合と三回目の「大連合」を組んでいる。
 SPDの選挙における恐るべき危機は、この党が「アジェンダ2010」およびその残忍な反改良路線と少しも決裂しなかった、という事実に結びついている。ヴァーゲンクネヒトによればこれが、社会的諸問題を中心に置いた新しい幅広い運動を発足させるというこの構想に動機を与えているものだ。
 いわく「これ以前に社会民主主義者は、ゲルハルト・シュレーダーの『アジェンダ2010』の新自由主義改革を遂行した。そしてそれは、平等と社会的保護の政策の反対物だ。これがドイツでの巨大な低賃金部門の創出に導いた。そしてそれは次に、数知れない社会的不安定さを生み出している。われわれの政治綱領は、これらのものごとすべてとはまったく関係していない。これこそが、幅広い民衆的な運動、左翼の側にあり善意をもつすべての人々に開かれた運動の発足を準備する途上にわれわれがいる理由だ。それは、古典的な社会民主主義政策の一定の要素を今も信じている人々すべてを結集しなければならない」と。

国家を軸にした
問題解決の発想


 ヴァーゲンクネヒトは、一九七〇年代はじめに戻ることは望んでいない、と語っている。しかし、彼女が新自由主義と鎖を解かれた資本主義に対抗させているものは、何をさておいても福祉国家、国民であり、より多くの社会保障と資本主義グローバリゼーションの悪影響に対するより多くの保護を備えたそれだ。賃金労働者並びに被抑圧層の国際的連帯は、彼女の政治的議論の中ではほとんど何の役割も果たしていない。彼女にとって、民衆と特にもっとも恵まれない境遇にある人々を守らなければならないのは、国家なのだ。
 いわく「われわれが前に進めたいと思っているものによって私が示すものは、より社会的な国家にはらまれた諸価値、より高く公正な賃金、自律的な欧州外交政策、軍縮政策その他だ。それはもちろん、一九七〇年代の社会民主主義綱領への回帰ということではない。世界は展開を遂げ、われわれは、近代化する必要がある。たとえば年金では、問題は古いシステムに継ぎ当てをするということではなく、保険の新しいシステムの創出だ。それに対しては、今日のように被雇用者だけではなく、公務員から自営業者にいたるまで、全員が拠出するだろう」。
 そして「それは一つの綱領を提起するという問題であり、その綱領においては国家が、鎖を解かれた資本主義から、多国籍企業が駆り立てるグローバリゼーションから、ソーシャルダンピングによって鋭くされた競争から人びとを保護するのだ。われわれは、恵まれることが最低にある人口の半分に向けた、現在の情勢から敗者になっている人々に向けた、活力ある政策をもつ国家を再建したい」と。

新運動に三つの
レベルから批判

 サラ・ヴァーゲンクネヒトとオスカー・ラフォンテーヌの取り組みを支持している左翼党の潮流と党員は非常に多数というわけではない。この呼びかけへの積極的な反応の数が九月の新運動創出に十分なものになるだろう、とはっきり示すものもまたまったくない。特に反資本主義左翼により鋭い形で定式化された、左翼党内部論争におけるこの構想に対する批判は、以下のように論争の異なった三つのレベルに置かれている。

▼第一は、ヴァーゲンクネヒトとラフォンテーヌが、左翼党の諸組織の討論と決定に向けて彼らの立場を提出してこなかった、ということだ。実際にもヴァーゲンクネヒトは、彼女の取り組みに関する彼女自身の党内におけるあらゆる論争を避けるために、彼女の個人的な人気、メディアにおける存在感、個人的な政治的従者を当てにしている。この取り組み方にはらまれた党内の分極化力学は、二人の党スポークスパーソン、カッジャ・キッピングとベルント・リーキシンガーとの競合関係に結びついている。
▼第二に、ヴァーゲンクネヒトとラフォンテーヌは、恵まれない境遇のドイツ人に政治的に影響力を高める可能性を失うことへの怖れから、「開かれた国境」といった要求を拒否することにより、「右翼ポピュリズム」とAfDの議論に、あまりに順応しすぎている。
▼新たな運動の発足は左翼党に害を与えるだろうとの怖れがあり、そしてそれは党の左派だけのものではない。ヴァーゲンクネヒトとラフォンテーヌがメランションの不屈のフランスが一つの例として彼らに役立っていると繰り返し続けている以上、この怖れは完全に理解できるものだ。FIは左翼戦線だけではなくフランス左翼党も加えて、その灰の上に建設されたからだ。

人々の受動性を
前提とした発想


ヴァーゲンクネヒトは、左翼党はSPDの選挙における危機に乗じることができてこなかった――これまでのところ――と力説している。すなわち「私に反対する主な対案は、この情勢に不満をもつすべての者は、多分左翼党に加わらなければならない、というものだ。すばらしい! しかしそれは機能していない。われわれは何年もの間、失望を覚えているSPD支持者はわれわれに合流するようになる、と期待し続けてきた。しかし現実は、一九九八年以来、SPDが一〇〇〇万票以上を失った、ということだ。そしてわれわれは二〇〇万票獲得した。つまり、われわれには来なかった有権者が最低八〇〇万人いるということだ」と。
「左翼党に対する競合党の創出という怖れは正当ではないのか」という疑問に対し、ヴァーゲンクネヒトは「党の創出は、私には必ず迫られる一歩であるようには見えない。運動の目的は、その先頭がSPDである諸政党に、もっと多くの社会政策にしたがうよう義務を負わせるための、圧力を加えることだ」と回答する。しかしその時、FIという好例がその後に続くことはないのだろうか? これは、理解するには簡単ではない回答だ。
いずれにしろ、この路線――お好みであれば「左翼ポピュリズム」――と、不屈のフランスおよびオスカーとサラが建設したいと思っている運動の組織形態の間には、一つのつながりがあるように見える。つまり、「標準的な」人々は加わることができ、彼らはやって来て拍手を送ることはできるが、しかし彼らは、諸々の立場を発展させ、イニシアチブを準備することに参加することはできない。この美しい新たな世界では、すべてを行いすべてを決定するのは護民官なのだ。

国際連帯を基礎
に要求定式化を


内容について言えば、ヴァーゲンクネヒトが論を進めた競争と人々の心配という議論を真剣に考える必要がある。つまり「彼らもまた貧しい難民たちは、実際、社会化されたアパートを、多くは小さな、恵まれないとすら言える界隈で探し続けている。しかしながらドイツには、社会化された住宅がひどく欠けている。政府が緊縮政策にしたがってきたからだ。住宅をめぐる競争は、難民が連れてこられるにつれより強くなり続けている。この状況は、本当のところ申し分のない界隈には立地していない多くの学校でもまた悪化してきた。そしてそれはすでに二〇一五年以前に大きな問題を抱えていた。結論的に、熟練の低い人々が雇用されている低賃金部門では、競争は激しいものになっている……。現在、そして今や一定期間、民主主義が十分に機能するのは国民国家の枠組み内部でのみになる、と私は確信している」という主張だ。
競争についてのこの主張に対しては、純粋に人道主義的かつ道義的な姿勢を対置することに適切さはまったくない。そうした姿勢だけでは、さまざまな現実と恵まれない境遇にいる民衆層の感情に気を配るものにはなっていないのだ。「開かれた国境」を求める要求は問題すべてを解決するわけではない、ということははっきりしている。
それは、最低賃金や十分な社会的支給、富裕層に支払わせる課税システム、賃金引き下げがなくそれに比例した雇用増を一体化した労働時間の大幅削減、その他を含むひとそろいの過渡的要求の一部でなければならない。
しかし何よりもわれわれは、競争に関する議論に対して、純粋に一国的な「プロレタリア階級の利益」……を対置するようなことをしてはならない。それは全面的に虚構的なものだ。真の階級的利益は、欧州レベルであろうが世界的なレベルであろうが、同じ目標に向けた共通の国際連帯行動によってのみ明瞭に表現される。

▼筆者はSoZ編集者であり、左翼党並びにISO(ドイツにおける第四インターナショナル)のメンバー。(注)メディアパートに二〇一八年五月三一日に掲載された、トーマス・シュネーによるインタビュー。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年九月号)  


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