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    かけはし2018年10月1日号

保守主義・新自由主義共生徹底化は危機の表現


ロシア

保守主義めぐるプーチン体制の転換

競争の論理支えに集団主義強化

イリア・ブドライツキス


 ロシアの経済的脆弱性とその危機の進行は明らかだが、その中でプーチン体制は国家を前面に押し出し、地政学的な「西側」との競合に精力的に乗り出し、国民的支持をも高い水準で維持してきた。以下では、新自由主義と権威主義・保守主義のこの組み合わせとそれに対する国民的支持に働いている力学が、深い危機の反映として論じられている。そこにロシアにおける特有の性格があるとしても、支配の危機に対する世界の権力層の傾向として必ずしも例外ではないことも論じられている。日本の支配層の動きを考える上でも参考になる点があると思われる。やや難解なところのある立論だが以下に紹介する。(「かけはし」編集部)

社会的苦難の脱政治化の深化


 ロシアの強まる一方の新自由主義政策とそこに付随する保守主義のレトリックは、プーチン体制が前にする長引いた危機のはっきりした証拠だ。
 「強い大統領は強いロシアを意味する!」との標語を映し出し、「ロシア大統領選の空気とウラジミール・プーチンの予想可能な勝利は一見して、現ロシア政権は保守主義との点にいささかの疑いも残さない」とのキャプションを付した写真がある。事実として、うんざりするような選挙は、民族の指導者への忠誠を誓うことの確認が国そのもの――その歴史、主権、さらに政治的な諸伝統――への忠誠を誓うことに似せられた、ある種の国民投票だった。
 この選挙キャンペーンは一つの演劇であり、役割はクレムリンの戦略家たちにより注意深く輪郭を描かれていた。それこそ、「永遠の現在」、あらゆる予測できない変化を排除した現在の具体化であり、脱政治化されたプーチンが、勝手気ままさと反則すれすれの政治的駆け引きをこととする無責任さの代役を務めた哀れを催す野党の候補者の、はるか頭上にそびえ立っていた。
 現在に対するこのイメージは、民衆が自ら彼らの未来を選び取ることができる環境を想像させない。民衆には単に、世代を通じた言葉になっていないある種の合意として、その共犯を断言する可能性しかない。ロシアの市民はこうして、儀式と演劇的な積年の諸行為を守ることで、忠実な選択を行った。政治は本来的に的外れにされた。
 プーチン政権の、自己正統化の保守的かつ反政治的で反民主的な手法はしかしながら、ロシア社会に浸透している市場の理論的解釈と自然な形でピッタリ合うものになっている。政治的選択の拒絶は、伝統に対する忠節によってばかりではなく、公的な生活――その形と色合いが何であれ――への完璧な不信によっても正当化されているのだ。
 このはびこる保守主義の裏面は、個人の自己への関心、共有財を上回る私的な利益の優位性だ。市場が駆り立てる社会的原子化と組になった政府の保守主義をまとったレトリックの持続可能性は、プーチンの前大統領任期(二〇一二―二〇一八年)を通じて特に明らかだった。
 これは、特に二〇一四年の後、国家が後押しする民族主義の成長を見た時期だ。そしてその二〇一四年とは、クリミアの併合と西側との衝突が、医療と教育の商業化、加えて社会に対するロシア国家の義務の全体的引き下げとつながりあった時期だった。いわゆる「クリミア多数派」(クレムリンの外交政策の周辺に結集した愛国的なロシア人のもの言わない多数派)を特徴づけたものは、「歴史的な」ロシアの復活に対する自尊心、および特定の政府機関に対するさらに高まる不信だった。
 これらの機関(特に、警察、司法、学校)を非効率的であり腐敗していると見ることは、これまでありふれたことだった。しかしながらこの不信は、抗議運動の高まりとしてではなく、社会的苦難の「脱政治化」として映し出されてきた。諸個人は国家を当てにはできず、それゆえ家族の安全、健康、経済的なよい暮らし向きに対しては個人が責任を負わなければならない、というものが仮説だった。
 その上で、私的利益の圧倒的影響力は、各々のまたすべての腐敗した公人に共感を覚えるようわれわれを駆り立てている。彼らは、他の全員と同様、彼らの愛する者たちのより良い未来を確実にしたいと思っているにすぎないと。社会的苦難のこの脱政治化は、ロシアの社会部門における新自由主義の精神による改革と完全に調和してきた。そこでは政府が、互恵の条件で公衆に諸サービスを提供するにすぎない。

伝統的保守主義の国家・社会観

 ロシアの「特別な道」を当局が言葉によって持ち上げているとしても、現在のイデオロギー的絡み合いは、三〇年前のサッチャーとレーガンの諸政策によって例証されるような、西側における新保守主義的転換と有益な形で比較できる。その転換は当時、一つの経済的危機の中で、福祉国家への右翼の攻撃が、保守的諸価値や市場の終局的支配の防衛への訴えといった、以前には相いれないイデオロギー的諸要素を呼び物にする権威主義的ポピュリズムの形を取る、というものだった。
サッチャーの有名な金言(「社会というようなものはまったくない」)は、保守的な世界観の基礎を直接に否認した。その世界観では、社会はくっきりとしたカテゴリーとしてあり続けた。サッチャリズムは、以前の社会民主主義的総意との断絶だけではなく、保守的な政治的伝統との断絶でもあったのだ。
ディスレーリ(一八七〇年前後英国首相を務めた:訳者)の時代以来英国の保守主義は、国民の長く続いている統一――くらしと相互的な義務の分かち合い方により与えられた――との対比で、自由主義に反対してきた。保守派は政府を、その唯一の仕事が私的財産と囲いで囲まれた私的な生活を守ること、といった夜警的存在とは見なさず、社会の自然な延長、その形と見なした。
国家と国民の関係は、合理的な契約ではなかった。それは権威に基礎を置き、家族メンバーに相対する父親の隠喩を頼りとした。同時に保守派は、「公共の利益」という社会民主主義の観念にも常に反対だった。それが経済への精力的な国家介入を伴ったからだ。
保守派にとって社会は、決して規範的な概念ではなかった。それは各国の歴史の特定の結果だった。特定の社会内部にある長く続いた諸関係に対する強調は、自由や公正という普遍的な原理の実行を目標とした諸改革に対する保守主義的懐疑主義を形作った。
保守主義の懐疑的な姿勢は必然的に、合理的な諸原理の具体化ではなく、世代を通じた言葉にされていない合意の産物であるとの、法に対する積極的な観点に導いた。この意味では、英国の立憲政治に対する保守主義的擁護(英国には成文憲法がない:訳者)とロシアの独裁政体の間に矛盾はまったくない。前者と後者は、その各々の国がもつ歴史と完全に調和しているからだ。たとえばロシアの保守派であるフョードル・チュトチェフはそれを「ロシアの歴史がその憲法だ」と適切に表現している。
諸規範に向けられた保守主義の嫌悪、および自由主義や社会主義のような普遍的な理論に対するその懐疑的な姿勢は、保守主義に例外的な柔軟性と様々な国に関する融通性を常に与えてきた。保守主義は常にある種異なった内容を得てきた。政治スタイル自身はより深い理論的根拠を分かち合ってきたとはいえ、それが特定の各国における独特の暮らし方によって定義されてきたからだ。

保守主義の自由観と不寛容政治

 保守派は自由を別の何かを意味するものとして――まさに異なることへの権利として、それ自身とその歴史に忠実にとどまる国民の能力として――見ている。自由はこうして、主権の観念と重なっている。人権のような抽象的な諸原理のために先の見方を限定するあらゆる試みは、こうして自由への脅威となる。真の自由は社会の統一体に属するのであり、その一方諸個人は、逆に自己決定の彼らの自由を限定される。彼らは国民、ジェンダー、彼らが属している階級を選択する点で自由ではない。これらはそこに彼らが産み落とされた社会によって境界を定められているからだ。
現在のロシア国家の議論における基本的な構築物の区割りがまさにこのような姿勢の上に描かれている、ということを理解することは難しくない。われわれは、西側から強いられる規範的な制約に反対して主権(真の自由)を求める、そして法の文言にまさる歴史的に慣習的な行為のもつヘゲモニーを求める同じ戦闘を見い出す。プーチンはこうして、一九九三年憲法に記述された制度的な大統領権力というよりも、国民の、と称された指導者としての意味を多く表す。
ロシア国家は、一九一七年のできごとと前ソビエト共和国におけるいわゆる「オレンジ革命」の間に歴史的な平行関係を描いた上で、首尾一貫した保守的立場から、革命的変革をめざすあらゆる試みを攻撃する。ロシアの保守派の批判はまた一貫して、歴史に基礎を置いた社会を手段に実験する革命派の教条への心酔を、彼らの民族的主権を掘り崩すために外国の敵から一般にシニカルに利用されてきた、と強調する。
偽の自由のそそのかしから真の自由を維持することは、革命の脅威と闘うことによってだけではなく、道徳的な規律を強化する諸方策を一貫して取ることによっても保証される。後者としてはすなわち、中絶の権利は制限され、ホモセクシャリティは犯罪と見なされる、等々だ。これらの規律保持策と結託して進む家族の価値の防衛というレトリックは、そのメンバーが相互的な義務によって固く結ばれている大家族としての国家に関する、保守派の隠喩と直接関係している。
この意味で、ジョージ・W・ブッシュ大統領政権期の米国であろうが、プーチン下のロシアであろうが、道学者風の善悪に非寛容な議論は、新保守主義政治の普遍的な特徴だ。深まる社会的な分断を前に、それは、統一の幻想を、外国の脅威と彼らの市民権防衛を求めるマイノリティの利己主義と対決して一致団結する道徳的多数、という幻想をつくり出す。

保守主義と新自由主義の共生


二〇〇〇年代はじめからロシアで一貫して実行されてきた新自由主義諸政策は、純粋に合理的なものとして、イデオロギーや政治によっては妨げられないものとして宣伝されてきた。社会に対する国家の義務の引き下げ、大企業向け減税、労働諸法の自由主義的改革、そして公共部門の商業化が、技術官僚で構成される政府によって実施されてきた。そしてこの官僚たちの議論は、他の国のノーハウと常識にのみ訴えている。社会の統一と歴史的連続性を象徴する大統領は、新自由主義政治の公然とした防衛を一般に避け、その仕事を彼の脱政治化された官僚制に任せてきた。
大統領と政府間の書類束の分割は、全体的に見て支配的影響力を及ぼす保守主義・自由主義の共生とつながりあっている。大事なことは、この共生は、新自由主義の合理性と保守主義的政治スタイルをイデオロギー的な統一の枠組内に埋め込み、そこに明白な不一致がない、ということだ。
ウェンディ・ブラウン(政治学者、カリフォルニア大学バークレー校教授:訳者)は、この統一を示す米国人を、フロイトが描いたように夢の作用と比較したことがあった。そこでは、現実と両立しがたい考えや感情は、うまいこと想像上の無意識的な取り決めによってずらされている。この読み方では、新保守主義は新自由主義諸政策に対する単なる言語操作的煙幕ではなく、全体的なイデオロギー的構造を生み出すのだ。決定的なことは、構造自身の諸々の不一致は解決されていない、ということだ。むしろ、それらはいわば調停状態の中に保存されている。それらの相貌は、特定の歴史的な環境により規定されている。

ロシアの保守主義的展開の現実


ロシアの現在の安定期にある民衆の中心思想は、混沌からの秩序の誕生と呼べるかもしれないものだ。
この物語によれば、長く続いたロシアの歴史的パターンからの後退、およびゴルバチョフとエリツィン政権期の自由主義教条の迎え入れは、社会的破局、道徳的堕落、さらにロシアがその主権を失うという本物の危険をつくり出した。寡頭支配層は国家の権威に起きたこの腐食を利用し、国を権力と財を求める枷を外された競争の場に変えた。プーチンの出現が、ビジネスと政府をきっちりと分けることにより、こうして国をその尊厳にふさわしく戻すことによって、先のような脅威を呼ぶ諸傾向から逆転させた。
しかしながらプーチン主義的ルネサンスは、一九九〇年代の諸改革に単純に立ち戻ることではなく、その諸結果を統治に関するロシア的伝統の継続性に融合させることを意味していた。それは、ロシア帝国、ソビエト、エリツィン各時期の最良の面を、すなわち力ずくの外交政策、キリスト教的道徳律、そして強力な財産権をそのまま借用した。
この系譜図が、エリツィン期の反対派両陣営の政治的取り込みを促進した。その両陣営とは、親西洋の自由主義的反対派、およびロシア連邦共産党(KPRF)を出自とするスターリニストと帝国主義的民族主義者を含んだ、いわゆる愛国主義的反対派だ。
一方では、新しい公式的保守主義が、西側から独立した外交政策に対する要求を満足させ、民族の歴史の正統な一部としてソビエトの過去を再興した。他方では、一九九〇年代に確立された市場諸機構を強化した。それはボナパルチストのように行動し、革命の社会的諸成果の政治的価値を再評価しつつ、それらを保持した。
二〇〇〇年代以後、エリート的なロシアの自由主義者の相当数は、彼らの以前の政治的自我を捨て去り、新自由主義改革実行に関する顧問として役を果たすか、国家官僚へと直接に合流した。この戦略は、自由民主主義の諸原理の拒絶を、市場経済へのロシアの変革を不可逆的にすると思われる必要な犠牲と見なす、そうした自由主義的保守主義の基礎だった。この場合、保守主義の反革命的側面が中心的役割を演じ、その反対に、歴史的な偉大さや道徳律に関する言語操作は、道具的なものあるいは派生物と見なされた。
その一方愛国主義的反対派の元メンバーたちは、プーチンは遅かれ早かれエリツィン時代の自由主義的エリートへの恩義から自身を解き放ち、民族主義的な保守主義綱領を徹底的に実行し始めるものとの期待を心に抱いた。

価値に関する保守主義への転換


サミュエル・ハンチントンの周知の分類にしたがって、われわれがロシアの自由主義的保守主義を「状況追随的」と呼ぶことができるとすれば、その時第二の場合は、諸価値に関する保守主義と呼ばれなければならないと思われる。
公式的保守主義の二成分の相対的比率は、プーチン体制期を通じて常に絶え間ない変化の中にあった。経済的活況と何も準備せずにロシアを西欧的影響力が支配するシステムに統合しようとした不首尾に終わった試みの期間では、状況追随保守主義が優勢だった。
それに反して、二〇一二年のプーチン大統領第三期の始まり、および二〇一四年のクリミア併合後に発生を見た西側との衝突は、諸価値に関する保守主義のレトリックに向かう、ある種の転換と明確に定義されなければならない。しかしながら、イデオロギー的な両陣営のメンバーたちが戦術的な変動と考えたものは、実際は同型のイデオロギーの一部だったのだ。
二〇一二年までにプーチン体制は、二〇一一年一二月の議会選の中で行われた投票不正操作に反対する民衆的な抗議行動によって拍車をかけられた、一つの政治的危機に到達した。体制はこの危機に、諸価値に関する保守主義への言葉上の移行に突然取りかかることで応じた。民主的な抗議行動は、長々と次のように説明された。つまり、それは、外部勢力から指揮され、愛国的多数と国民の指導者が体現するものとしてのロシアの「文化的な慣例」に反する、ロシアの中間階級上層の快楽主義的メンバーにより駆り立てられたある種の反乱、としてだ。
クリミア併合は、価値に関する言葉上の保守主義の頂点だった。体制の外交政策無条件支持は、国とその歴史的選択に対する各自の忠誠を断言することと、絶対的に等号で結ばれた。いわゆる無言の多数派と利己主義的少数派間の文化的戦争における前線は事実上、ロシアと西側間における衝突点へと転じた。この立場は、二〇一四年三月一八日に行われたプーチンの有名な演説の中で完全にはっきりと断言された。その中では、併合への批判が、「民族の裏切り者」とレッテルを貼られたのだ。

危機深化で共生の両半身徹底化

 政治的保守主義への転換は、社会のポスト・ソビエト資本主義モデル下における成長の諸限界に帰すことができる、そうした経済停滞の始まりとメダルの両面的関係にあった。政府は、原油価格低落と西側の制裁で悪化させられたこの構造的な経済危機に対し、社会的支出の切り刻みで応じた。政府の危機対応経済政策は、大部分、EUで舞台に上げられた緊縮諸方策をまねたものだったが、さらに過酷なものだった。草の根の抗議すべてを非愛国的とし、無意識のうちに外国の利益に奉仕する行動として事実上犯罪扱いした、保守主義的主張はロシア版緊縮を正統化した。
二〇一二―二〇一四年に始まったプーチン体制の展開局面はこうして、新自由主義と保守主義という両半身における、イデオロギー的共生における、同時的徹底化を特徴とすることになった。同時にそれらの非調和な統一は、そこで価値に関する保守主義の表現形式が新自由主義の内容の自然的な表現として役立ったという形で、かつて以上に密着した形を得た。
こうして、それが社会に押しつけるロシアの無条件的主権と道徳的かつ政治的統一が、諸資源を求める地球をまたぐ戦闘における、個人間の競争に関する法の自然な延長表現として描かれた戦闘における、必要条件として差し出されることになった。他方で、普遍的な諸権利を支持して主権を限定する諸々の主張に向けられた保守主義の懐疑は、社会の利益を守る訴えすべては偽善的だ、との疑念に行き着いた。
逆説的だが、競争の理論的根拠が、共同社会は人間に優先するとの保守主義の観念を満たすことになった。保守主義が秘める実行力をとりとめなく語る典型的な見本は、プーチンの先頃の言明だった。そこでは、集団主義の側面はロシア民衆の心と魂に今も強力に存在するものであり、現代では、チームとして働く能力こそ競争力における利点だ、と述べられた。
新自由主義諸政策、およびそれらに随行してきた保守主義的レトリックの両者を巻き込んだ、筆者がここまで述べてきた徹底化は、体制の長引く危機の証拠となる。その今後の進行は不可避的に、現在のイデオロギー的ヘゲモニー内での破裂にいたるだろう。夢の幻想的統一の真実性に発するこれらの裂け目は、あらためてウェンディ・ブラウンの隠喩を手掛かりにすれば、かつて以上の徹底的な新自由主義改革、一層社会に有害な改革、これに対する必要から引き起こされることになるだろう。

▼筆者は第四インターナショナル・ロシア支部であるプペリョード(前進)の指導者。プペリョードはロシア社会主義運動(RSD)創立に参加した。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年九月号)   




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