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    かけはし2018年7月23日号

8・11県民大会を成功させよう


沖縄報告 7月15日

全県全国から万余の結集を

沖縄 K・S

7.7

ゲート前県民集会

2000人が結集し
土砂投入阻止のうねり

 防衛局が沖縄県に対し埋め立て護岸内への土砂投入の期日を八月一七日と通告して以来、辺野古新基地建設を止める闘いは土砂投入阻止へ向けたうねりを加速させている。七月第一土曜日の七・七ゲート前県民集会はオール沖縄会議の呼びかけで各地の島ぐるみを中心に二〇〇〇人が結集し、土砂投入阻止へ向けた決意を固めた。
 台風の高波で護岸の被覆ブロックに打ち上げられたオイルフェンスの修復やフロートの再設置などで海上工事が大きなもたつきを見せ、ゲートからの資材搬入のない日が目立つ中で、沖縄防衛局は工事用ゲート前の高さ四メートルフェンスの道路側への拡張と歩道と車道の間の柵と遮蔽物設置を七月一五日深夜に突如行い、座り込みの排除に乗り出してきた(次号詳報)。
 ゲート前の歩道をフェンスで囲み、座り込みの空間を物理的に奪うという不法行為だ。常々安倍が言っているように「やれることはすべてやる」ことを実行しているというわけだ。ただし「沖縄の負担軽減」のためではなく、日本における米軍の利益の実現と米国追従の日本国家の支配権の維持のためだ。われわれの側も辺野古新基地を阻止するためにやれることをすべてやらなければならない。フェンスや柵は県民の新基地阻止の闘う意思を押さえつけることはできない。
 地域での様々な取り組みの上で、八・一一県民大会を万余の結集で成功させ、県民の辺野古NO!の声を県内外に大きく発信しよう。沖縄県の翁長知事も、基地のない平和な未来を願う県民を代表していると認める限り、仲井真前知事の県民に対する裏切り行為たる「埋立承認」をき然として取り消すことは疑いがない。県の行政権限を堂々と行使すればよいのだ。また、辺野古埋め立てをめぐる「県民投票を求める署名」が最終段階にはいり、地域・職場で草の根の取り組みが進んでいる。すでに九割を超えたといわれるが、七月二三日の締め切りまでに間違いなく法定数の約二万三〇〇〇人を大きく上回る署名が集まるだろう。
 沖縄のことは沖縄が決めるという自己決定権の主張は県民民意として大きな広がりを見せていくだろう。辺野古新基地建設をめぐる日米両政府との妥協のない対決が八月一七日に向かって大衆的広がりの中で先鋭化して行っている。最大の山場を迎えた。負けられない。総力を結集しよう。全県全国から辺野古に結集し、辺野古の海への土砂投入を止めるとともに、歪み切った自民・公明・維新の政治を変える火柱をあげよう!

進行する辺野古の海の破壊

工事順序の無視による土砂投入

 デイゴの赤い花が見事に咲いた今年の沖縄はやはり台風の当たり年のようだ。七月初め、台風七号と八号が相次いで通り過ぎたが、辺野古の埋立工事現場にどのような影響を与えたか。沖縄タイムス、琉球新報に、防衛局が設置した汚濁防止膜やフロートの鉄板アンカーが海底の藻場をえぐり取るように削り取った無残な写真が掲載された。カヌーチームの女性メンバーがシュノーケルで潜って取った写真だ。幅は約四〇センチ、長さは約二〇メートルに及ぶという(『チョイさんの沖縄日記』7月12日付に詳しい)。現場はK4護岸の近くで、護岸に向かって一直線に海草が削り取られ砂地がむき出しになっている。台風の高波で汚濁防止膜やフロートが護岸に打ち上げられた際、海底の鉄板アンカーも一緒に引きずられ海底をえぐり取ったことが分かる。
台風が来る前に汚濁防止膜やフロートは前もって引きあげておかなければならないにもかかわらず、そのままにしておいた防衛局の責任だ。環境に配慮して工事を行うという日本政府の単なるリップサービス、絵に描いた餅。辺野古の海に生息していた三頭のジュゴンはボーリング工事が始まるや姿を消したが、餌場たる砂地の藻場が埋め立て工事により消滅すれば二度と帰ってくることはない。とても貴重なものを失っていくことに対する日本政府の政治家や幹部官僚の無責任は実は国民の無関心に支えられている。
伊江島土地闘争の阿波根昌鴻さんは「平和の最大の敵は無関心である」と言った。沖縄の中でも最も生物多様性に富んだ海をこわして軍事基地を造るという日本政府の犯罪を行う政治家や幹部官僚の勝手にさせてはならない。
政府防衛局が予定している土砂投入の区域は辺野古崎の一角、辺野古崎の海岸線とN5護岸(273メートル)、K4護岸(全長約1キロの約4分の1)、N3護岸(135メートル)に囲まれた浅い海域である。当初防衛局はK9護岸のある大浦湾側から埋立を行い、その後辺野古側の埋め立てにかかるという「設計概要」を県に提出していた。沖縄県は「施工順序の変更は知事の承認の必要な設計概要の変更にあたる」として沖縄防衛局に工事の中止と知事の承認を得ることを文書で何度も求めてきた。
それに対し防衛局は「埋め立て工事の順序を変更しても設計概要の変更ではなく変更承認申請をしなくてもよい」という屁理屈をこねて土砂投入を強行しようとしている。ここにも安倍政権下で蔓延する不誠実な言葉だましが横行している。
護岸工事はまだ途中だ。高さは完成時から比べて六・八メートルも低いという。そういうところに護岸の内側に土砂を投入すればどうなるか。護岸内の生物が死に絶えるとともに、台風の高波で土砂が護岸外に流失し一帯の海域に甚大な被害を与えることは明らかだ。藻場やサンゴの移植もなされていないことも含めて、土砂投入の条件は何もクリアされていないにもかかわらず、日本政府沖縄防衛局は八月一七日の土砂投入を通告した。通告したからには安倍政権は土砂投入のセレモニーを無理やりにでも強行し、もはや埋立は既成事実とのパフォーマンスを打ち上げるだろう。
安倍政権の土砂投入のセレモニーとパフォーマンスに対し、ゲート前と海上の現地闘争を先頭に、草の根からの辺野古NO!の声と県の行政権限の毅然たる行使を結び付けた一つの強大な辺野古新基地阻止闘争をつくり上げ対峙しなければならない。県民が団結すれば必ず勝利する。

連日頑張るカヌーチーム

体を張って埋め立てを止める!


今週は週の前半が台風のため、土曜日が三連休のためゲート前座り込みの報告はない。代わりに、カヌーメンバーTさんの日誌を紹介しよう。
7月13日(金)
天気晴れ風弱く、暑い一日であった。
カヌーチームは午前八時三〇分、松田ぬ浜を出艇した。工事は全体的にまだ台風の復旧作業なので、私たちは一番重要な区間K4のCに向かった。朝一番でオイルフェンスをクレーンで吊り上げてK4のC地点を囲おうとしている。ここを囲われてしまえば事実上、K4護岸とN3が繋がれてしまったと同じことだとの認識を持って、カヌーチームの先に着いたメンバーが阻止行動に入った。それがぴったりとタイミングが合い、メンバー五人がオイルフェンスを抑えることができた。結論から言えば抑えている時間は八時五〇分より一七時一二分まで八時間二二分頑張った。そのためには昼食もカヌーの上で食べ水の補給、選手交代など全員の参加でこれだけのことができた。実は今日の参加メンバーは残念ながら一桁の九人であった。それでも危機感を持ってやればこれだけのことができる。私は本当に本当に嬉しい一日だった。しかしこれで終わりではない。明日も今日同様やれそうな感じがしてきた。
7月14日(土)
天候晴れ、雲もほとんど出なく日が照り暑い一日だった。
今日はいつもより三〇分早い七時に第二テント集合である。昨日からの続きでK4護岸C地区のオイルフェンスがどのようになっているか興味があったが、現場に行ってみると既にオイルフェンスが四重に張られていた。非常に残念だが向こうの方が一枚上であったことを認めざるを得ない。状況からすると今日早出して、かなり早い時刻から作業を行ったと思われる。
その後、根固め袋材をまたK4護岸先端に並べ(ということは砕石の投下はしない?砕石の投下をするためには先端の根固め袋材を全て取り払わなければならない)、クレーン車は後に下がってしまった。したがって本日(14日)の砕石投下はなくなった。
その後一〇時過ぎからK4護岸内部に避難させてあったオイルフェンスを次々と引き出し、元のK4護岸に沿ったところに並べ始めた。K4護岸は一〇〇〇m以上あるので、オイルフェンスもそれ以上の長さがある。いちど一〇〇m以上の長さを引き出してきて並べて行く。私たちはそれの阻止活動を行った。しかし、群がるようにいる海保のGB(高速ゴムボート)に阻まれ思うようには止めれないが、皮肉にも私たちをはばむGBがオイルフェンスを張る作業を邪魔してる側面もあり、結果としてかなりの時間かかっても終了しない。明日以降に持ち越される公算が大である。
台風七号、八号そして私たちの抗議及び阻止活動により、当初七月三日〜四日ぐらいに護岸がつながってしまうだろうと予想されていたが、一四日現在、投石開始まであと実働二日はかかると思う。つまり早くて一七日以降になると思う。

7.15

伊江島反戦平和資料館

阿波根さんの姿が
ありありと浮かぶ

 七月一五日、東京から辺野古座り込みに参加した友人三人と共に伊江島を訪問した。本部港から出たフェリーは真夏の太陽を浴びてほとんど波のない海をすべるように伊江島に向かった。フェリーは満席、乗客も満員に近かった。三〇分後、フェリーは伊江港に接岸した。直ちに反戦平和資料館へ向かう。ぬちどぅたからの家では丁度、謝花悦子館長がひとりの訪問客と話をしている最中だった。受付は後回しにしてともかく資料館に入った。
館内でまず目にはいるのは、阿波根昌鴻さんが長い年月をかけて収集した米軍の各種投下砲弾や銃弾及び薬きょう、鉄カブト、鉄条網の類だ。中でもいくつもの核模擬弾が目につく。米軍は一九五三年朝鮮戦争が休戦になると、大々的に沖縄基地の拡張固定化に乗り出した。伊佐浜や小禄と共に、伊江島でも土地の強制収用が行われた。館内に展示された当時の写真、文書、旗や横断幕、衣服、全国から送られてきた激励の品々が緊迫した状況を伝える。
米軍は朝鮮戦争のさなかに核兵器の使用も検討した。実際には使用されなかったが、休戦後米軍は沖縄を核ミサイル基地として固定化し、最大時一三〇〇発の核兵器を貯蔵した。伊江島は核爆弾投下訓練を行う訓練場だった。伊江島反戦平和資料館に展示されたいくつもの核模擬弾を見ると、核基地沖縄の姿が一目瞭然だ。阿波根昌鴻さんは強大な米軍に立ち向かう住民の闘いの正義を非暴力のモラルと共に前面に押し出し島ぐるみ闘争を闘い抜いた。それは今の島ぐるみの闘いにつながる。
たくさんの展示物の中に赤地に白抜きの沖縄人民党25周年の旗地がある。米軍政下で住民のいのちとくらし、諸権利を守る闘いの先頭に立った瀬長亀次郎を代表とする人民党の歴史を垣間見る思いだ。また、柱の一つに昆布土地闘争の歌がプリントされた手拭いが張り付けられている。作詞の佐久川末子さんはこの曲を伊江島でつくったという。太平洋に面している昆布の闘いを歌っているにもかかわらず、東シナ海が歌詞に登場するのはそのためだ。私は勝利した昆布の闘いを振り返り、これからの米軍との闘いに勝ちぬく決意を込めて、昆布土地闘争の歌を歌った。そのとき東京から来たという二人連れが館内に入ってきて、「事務所に誰もいないがどうしたらよいか」と尋ねたので、「先に見学して後で入場料を払えばいいですよ」と答えた。
以前に比べて資料館を訪れる人が減少し、真謝部落に造られた団結道場まで足を延ばす人はさらに少なくなったが、伊江島と阿波根昌鴻さんの闘いは今なお朽ちることのない沖縄反基地闘争の原点だ。



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