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    かけはし2018年6月4日号

美ら海壊すな!土砂で埋めるな


5.26

止めよう!辺野古埋め立て

国会包囲行動に1万人

軟弱地盤と活断層隠す政府


 五月二六日、戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会、基地の県内移設に反対する県民会議、「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会の主催で「美ら海壊すな土砂で埋めるな5・26国会包囲行動」が国会正門前、首相官邸前、議員会館前、国会図書館前のエリアで行われ、一万人が参加した。
 安倍政権は、米軍とともに対中国、北朝鮮軍事シフト、グローバル派兵の実戦化に向けて沖縄辺野古新基地建設を強引に進め、警察権力を大量に動員し暴力を前面に押し出してキャンプ・シュワブゲート前の闘いなど沖縄民衆を先頭にした反基地闘争を押し潰そうとしている。しかも県の許可を得ないままの違法な辺野古護岸工事を強行し、六月には辺野古側の浅瀬の海を護岸で囲い込み、土砂を投入することをねらっている。辺野古の海の破壊でしかない。
 ところが基地建設の埋め立て予定地の海底がマヨネーズ並みの超軟弱地盤で活断層の存在もあり、工事そのものが困難な状況に陥ることが明白になってきている。沖縄防衛局は、「当初想定されていないような特徴的な地形・地質」と報告せざるをえない状態なのだ。地盤改良が必要だとしても、設計変更のための県知事の承認を得なければならない新たな困難な事態が発生しつつある。このような人権と環境破壊に満ちた辺野古新基地建設に対して憲法九条改悪反対の闘いと結びつけて国会包囲行動を行った。

安倍政権を倒
さなければ!
国会包囲実行委員会の野平晋作さんは、「『軟弱地盤と活断層』の言葉を拡散してほしい。辺野古新基地工事の地盤が『軟弱地盤と活断層』であることが明らかになった。政府は『活断層がある』ことを知っていながらウソをついていた。森友・加計問題と同じだ。政府に不都合な真実を隠蔽する安倍政権の姿勢は一貫している。辺野古土砂投入をなんとしても止めよう」と訴えた。
山本隆司さん(オール沖縄会議事務局長)は、「二〇
一三年一月二八日に安倍首相に対して沖縄全市町村長が署名した建白書(辺野古新基地阻止、普天間基地閉鎖、オスプレイ撤去)を提出した。県民総意の要求だ。しかし、米軍基地による被害は悪化し続けている。憲法の平和・人権・地方自治をともに実現していこう」と発言。
安次富浩さん(ヘリ基地反対協議会共同代表)は、「安倍政権を倒さなければ沖縄問題は一歩も前進できない。今日、辺野古基地建設に向けて作業車輌三〇〇台が入った。瓦礫を運ぶ船も動いている。日本政府と米国が一緒になって民主主義を破壊している。基地建設工事はマヨネーズ地盤、活断層問題があることが明らかになっているが、さらに米航空基地は海抜五五m以上の建物を作ってはならないという規定がある。ところが小中学校、国立専門学校、鉄塔などは高さ制限に引っかかっていることが大きな問題となっている。この問題は、政府はすでに知っていたことだ。米国ではジュゴン裁判で一審差し戻しになっており、環境問題が大きく浮上している。辺野古新基地は国際問題として批判が強まっている。世界の人々と共に基地建設を阻止していこう」とアピール。
さらに福山真劫さん(総がかり行動実行委員会)、高田健さん(9条壊すな!実行委員会)が発言。
国会議員の発言では近藤昭一立憲民主党副代表(衆院議員)、小池晃共産党書記局長(参院議員)、福島みずほ社会民主党副党首(参院議員)、伊波洋一参院議員(「沖縄の風」)が沖縄辺野古新基地反対と安倍政権打倒を訴えた。
最後に各地の仲間から取り組み報告と辺野古新基地反対のアピールが行われた後、全体で抗議のシュプレヒコール、人間の鎖包囲を行った。      (Y)

「明治150年」キャンペーン批判(4)

「科学技術総力戦体制の破綻」

山本義隆の著作から学ぶ

福島原発事故
から捉え返す

 「明治一五〇年」シリーズに関わるこれまで掲載した三回の文章(@「150年」を「100年」から振り返る/2月19日号、A歴史観をめぐる闘いだ/3月5日号、B「近代化」と「維新」の関係を問う/3月26日号)に続き、やや視点を変えて元東大全共闘、全国全共闘代表だった山本義隆の『近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書)を取り上げる。
 「明治国家」による近代化政策は、一八世紀〜一九世紀以来の西欧における産業革命――科学技術革命の成果をそれなりに「効率的」に取り入れた「殖産興業」政策の下で国家ぐるみの「近代化・成長」を達成したものの、アジア太平洋侵略戦争の壊滅的敗北で、それはいったん頓挫した。しかし新憲法の下での「平和国家」を看板に掲げた戦後の日本の歩みもまた、明治からアジア太平洋戦争での敗戦までと同様に「列強主義・大国主義ナショナリズムに突き動かされて、エネルギー革命と科学技術の進歩に支えられた経済成長主義を追求してきたのであり、その意味では一貫している」(本書序文)という評価が、この著書全体を貫く問題意識である。
 山本はこの序文の中で、自らの関わった東大闘争をはじめとした一九六八年の大学闘争、そして同時期に拡大した四大公害訴訟(熊本水俣病、新潟水俣病、富山イタイイタイ病、四日市公害)や、成田の新空港建設に反対する三里塚農民の異議申し立てが「日本における産業の発展と開発による近代化が、農民や漁民の犠牲と共同体の解体、そして自然環境の破壊の上に進められていることを明らかにした。その経験もまた、科学技術の発展と経済成長を最優先するあり方に対する批判を促した」と語る。そういえば山本は、今年三月二五日の三里塚管制塔占拠闘争四〇年の集会にも参加していた。
 そして何よりも福島の原発事故こそ、そうした近代一五〇年の帰結としての「科学技術の破綻」を象徴する事態なのである――ここに本書の「近代日本一五〇年――明治一五〇年」の総括が表現されている。

近代化と「軍学
共同」の歩み


 山本は、近代日本における「西洋」の受容が何よりも「科学技術」の受容であったことを福沢諭吉の例を取って説明する。受け入れの基準となったのは「実用性」だった。
 「福沢にとって、西欧に生まれた科学理論の真理性と優越性を担保しているのは、ほかでもない実際的応用の可能性と現実性それ自体であり、実用性にその価値を見出すこの手の学問観こそが、明治の初めに日本が西欧科学を受け入れた時の基調であった」と述べる。そしてもっぱら「実用性」に比重を置いて遂行された科学教育こそが、「日本の近代化の底の浅さ」の原因であり、人間による「自然」の支配の可能性を過大に評価する呪縛に結びついたことを指摘している。
 山本は、そのことを国家主導のエリートの育成として始まった上からの近代化・資本主義化の歩みの中で解明していく。「市民社会が先に形成され、その発展過程で職人層の内部から技術革新の担い手が生まれてきた西欧とりわけ英国の技術者と、支配階級の出自で、市民社会誕生以前にいきなり工業化の担い手として国家の指導で教育された日本の技術官僚は、根本的に異なっていた。日本における科学技術揺籃期のこういった特徴は、今日に至るまで……上級の技術者たちに、一方では過剰なエリート意識と排他的な性格、他方では官僚的で組織や国家に対しては従順な性格を与えることになった」と説明している。
 帝国大学に代表されるそうした「科学・技術教育」の理念となったものは「国家第一主義と実用主義」であった。科学・技術の力は、何よりも対外戦争=侵略戦争における「戦果」によって裏付けられるものだった。山本は本書の中でその例を地球物理学者の田中館愛橘(たなかだて あいきつ)の言葉をひいて説明している。「もし明治の教育において、科学などは全く技術であるから修むるに足らない、外国人を雇ってやらせればいいということにして、日本の古典、歴史、支那の文学をのみ修めておったならば、今日の戦争のみならず日清戦争でも日露戦争でもあの戦果を挙げることはできなかったろうと思います」。
 「軍学共同」は、まさに対外侵略戦争と不可分だった日本資本主義=天皇制日本帝国主義の成立に内在的に組み込まれたものだった。

「科学技術総力
戦体制」の破綻

 アジア・太平洋戦争=総力戦体制における「科学技術の役割」といった本書の中心部分については省略し、一気に敗戦後の急速な日本資本主義の復活について取り上げたい。ただ一つだけ触れるならば、当時の日本のマルクス主義学者の多くが、「総力戦体制」における国家主導の統制に「日本の産業と学術の後進性からの脱却の希望を託した」ということの重大な意味である。
著者は本書の中で、一九六二年に広重徹が書いた論文を引用してその問題を指摘している。
「わが国の科学技術の近代化は、もともと日本が軍国主義へ傾斜してゆくなかで、それに促され、その要請にこたえる中で開始された。太平洋戦争は、それ自身のなかに近代化にたいする阻害要因を含みながら、他方では近代化を強く要請し、……戦後の近代化のための基礎を残したのであった」(広重編「科学研究体制の近代化」)。
「科学技術総力戦体制」を日本資本主義の「後進性」からの脱却と見なしたマルクス派経済学者たちは、日本資本主義論争における「講座派」・「労農派」の違いを貫いた形で存在していた。本書の副題になっている「科学技術総力戦体制」は、戦前から戦後の復興、そして高度経済成長とその破たんに至るまでマイナスの影響をもたらしているのであり、その克服は、依然として今日の最も重要なテーマの一つである。
科学技術における総力戦体制は、その母体となったアジア・太平洋侵略戦争における天皇制日本帝国主義の完膚なきまでの敗北と、「広島・長崎」の原爆投下によっていったんは崩壊した。しかし「科学技術」における日本帝国主義の敗北は、「平和と民主主義」に衣装替えした「科学技術総力戦体制」の再構築に導いた。
ここで山本は「『合理的』であること、『科学的』であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうるのであり、そのことの反省をぬきに、ふたたび『科学振興』を言っても、いずれ足元をすくわれるであろう。それを私たちは、やがて戦後の原子力開発に見ることになる」と書いている。
著者の筆致は、この「科学信仰」に対してきわめて厳しいものがある。
「アジア侵略の自覚も戦争協力の反省も希薄な科学者・技術者は、戦後社会再建の中心的担い手のように振るまうことができた。そして『良心的』な科学者・技術者は、技術的合理性の啓蒙を伴った戦後の民主化運動に関わっていった。その組織的表現が民科(民主主義科学者協会)であった。政治家は無知で官僚は自己保身的で財界は近視眼的であり、いずれも科学にたいしては理解がなく短見であるという思いあがりと被害者意識のないまざった感情に支えられていたその民主化運動は、その後、一九六〇年代の高度成長に、すなわち官僚と政治家のヘゲモニーによる科学技術立国の奔流に、なすところなく飲み込まれてゆくことになる」。
このあたりは東大全共闘時代の彼のアジテーションを彷彿とさせるものだ。

将来社会への
ビジョンとは


本書の最終章(第7章)は、「原子力開発をめぐって」だ。この最終章は言うまでもなく、福島原発事故が誰に対しても明らかにしたはずの「原発神話」「安心・安全」イデオロギーの虚偽を余すところなく明らかにしている。
「明治150年」の総括を、福島原発事故がもたらした惨害との関係で提示し、国家ぐるみの「近代化」がもたらした帰結としてとらえる山本のこの著作は、日本近代の歴史を「科学技術総力戦体制の破綻」とその戦後における再版として捉え、政治・社会・経済の根本からの変革への取り組みに挑戦することを呼び掛けている。
本書の「おわりに」が、私たちの大先輩であり、東大闘争を山本と共に闘った故塩川喜信の文章で結ばれていることも私たちにとって示唆的だ。
「『ユートピア』を批判し、『科学的』な未来社会像を描こうとしたのがエンゲルスであったとすれば、『科学的』未来像はあるべくもないことを実感し、『ユートピア』的発想を、民衆の努力・運動・将来社会へのビジョンの提示によって少しでも実現可能な課題とするのが、二〇世紀末における私たちの最小限の課題ではなかろうか」(塩川喜信『高度産業社会の臨界点』 1996年 社会評論社刊)(純)


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