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    かけはし2018年4月23日号

性差別もレイシズムもNO!


フェミニズム

「#MeToo」が重大な達成

西欧世界はもはや回避できない

サラ・ファリス


 フェミニズム運動の新たな世界的急進化と重なる形で、「#MeToo」運動は性暴力に対決する大きなうねりを作り出したが、同時に、性暴力を西欧世界とは異なる文化の産物とみなし、特にイスラム排除を合理化する一部の論調にも大きな打撃を与えた。以下はそのことおよび残る課題を論じている。(「かけはし」編集部)

問題への西欧的見方は砕かれた


 二〇一六年一月はじめ、ドイツの都市、ケルンにおける新年前夜祭に際した大規模な性的襲撃のニュースが西側メディアの大見出しを圧倒していた。盗みと性的襲撃の報道は、日を追って積み重なり、多くは、犯人たちを「難民」あるいはアラブ人の男と表現していた。
 その後の捜査は、当初報じられたような大規模なものではなかったとはいえ、北アフリカにつながりをもつ何十人かの男たちがその夜女性たちを襲撃しものを奪った、と明らかにした。
 それでも世界中のジャーナリストと政治家たちはケルンのできごとに大急ぎで、それらの悪事を犯した褐色の男たちが「生まれつきにもつ」性差別主義の結果、との枠をはめた。ドイツの新聞でのほぼ満場一致の立場は、これらの男は女性が服従させられ虐待される社会と宗教的背景出身の者たち、というものだった。欧州の他の国々、また米国でも、似たような感情の表現があった。
 「西欧近代ではまさに原理的である、一人の女性との関係は、平均的な男〔難民あるいは移民の〕には長く理解できない関係としてとどまるだろう」、アルジェリア人作家のカメル・ダオウドはフランス紙「ル・モンド」で掲載された記事の中でこう言明した。ニューヨークタイムズの社説は次のように警告した。つまり「欧州は、今日まで圧倒的に無視されてきた一つの問題に対処する方法を見つけ出さなければならない。それは、女性が欧州と同じ自由をもっていない諸国からの難民による性的攻撃、という問題だ」と。
 一年半後、もう一つの大変な性暴力が西側でメディアのスポットライトを浴びた。二〇一七年一〇月、ハリウッドのプロデューサー、ハーヴェイ・ウェインステインに対する性的攻撃の告発が多くの女と男に、ハリウッドとそれを超える性的迫害に関する彼らの話に関し、前に出る勇気を与えたのだ。特定された犯人たちは、圧倒的に白人だった。これらの犯罪に対する大規模で組織的な、合法的あるいは違法なもみ消しは諸々の西側の社会に衝撃を与えた。
 これらの暴露と「#MeToo」運動の劇的な成長の余波の中でこそわれわれは、ケルンのできごと、男らしさの観念、暴力、そして人種を振り返らなければならない。

非白人の性的捕食者との神話


 ドイツにおけるケルン事件の衝撃と国際政治を無視することは難しい。欧州中の――同じく米国内の――保守派および右翼政治勢力は、イスラムとジェンダー平等間の両立不可能性を示す証拠として、また西側社会の女性にとってムスリムの男の存在がもつ危険性の印として、ことあるごとにケルンにふれた。
 二年後、世界でもっとも強力な国が一人のイスラム排撃者を大統領として抱えているだけではなく、ドイツもまた、右翼のAfD(ドイツのための選択肢)が国会内の第三政党にまで台頭することを経験した。
 ケルンの攻撃は、広範な国際的共鳴を引き起こした。それらが、幅広く行き渡ったステレオタイプに導くよう響いたからだ。そのステレオタイプこそ、非白人の男たち(ムスリムと非ムスリムも等しく)は何かを欠いていることに起因する性的捕食者、というものだ。
 この考えは、植民地時代に遡る。当時、フランス、英国、オランダの入植者たちは、たとえばフランツ・ファノン、アンネ・マクリントック、アン・ストーラーが彼らの作品中で横柄に詳述したように、男の植民地国民を女性を抑圧する未開人と描いたのだった。
 二〇〇〇年代を通じて、非白人の男らしさは性的暴力に結びついているとの考えは、再び活気づけられた。そして西側のメディアには、フランスの諸都市郊外で圧倒的に北アフリカに起源をもつ若者たちが犯したならず者集団のレイプに関する、あるいはほとんどが非西欧共同体で起きている名誉殺人に関する、文字通りの記事の爆発があった。
 米国ではアフリカ系米国人が、大学構内での性的襲撃やレイプに対する告発が表面化した場合、比例を外れて目立つ形にされ、類似の犯罪で告発された白人の男よりも、より厳しい処罰にさらされてきた。
 もちろん米国内では、黒人の男の身体に対する性的に極度に特化された見方や犯罪視には、長く残忍な歴史があり、今でも奴隷制とその余韻に結びついている。その中では、アフリカの男の奴隷たちが、白人女性の肉に対する絶え間ない強い欲望をもつ獣と描かれ、彼らが白人女性と接触をもったと考えられた場合、リンチにさらされた。この歴史は、米国の政治活動家であり学者であるアンジェラ・デイヴィスが「黒人レイプ犯に対する神話」と呼んだものをつくり出した。
 西側では、非白人の男がセクシャルハラスメントや性的暴力の事件に巻き込まれる場合、その論争は当然のように、われわれの社会内部にある暴力のジェンダーに基づく性質やその体系的な存在に関わるものになるどころか、むしろ次のような問題をめぐるものなのだ。つまり、これらの事件は、ミソギニー(女性軽蔑視)は問題の男たちが関係をもっている文化、宗教あるいは人種に「自然に深く染み込んでいる」との主張に対して、「証拠」を提供している、と。
 フランスのムスリムフェミニストであるスアド・ベトカの言葉を言い換えれば、非白人の男は「常に、一人の男以上のものになっている。彼は森を代表する木になるのだ」。つまり彼の諸々の行為は、単なる彼自身の個人の表現ではなく、彼がそこに所属している「人種化された」共同体の表現となる。

「#MeToo」と非白人の女性


 疑いを前にした非白人の男たち、および西側における犯罪視と暴力の高い水準に対して、非白人の女性は本物の二律背反に直面することになった。
 彼女たちの多くは、彼女たちのコミュニティ内部の性差別とジェンダー暴力を厳しく批判することを願ってきた。しかしそれは、特別に家父長的であるとするそれらの「文化」や背景に関する、人種的なステレオタイプを強化することなしに、ということだ。
 われわれはこのような経験に光を当ててこそ、彼女たちのコミュニティに対する「不忠」という重荷を感じることなしに、セクシャルハラスメントと闘うことを非白人の女性およびムスリム女性に潜在的に可能とさせる、そうした極度に重要な運動として、「#MeToo」キャンペーンを考察しなければならない。
 「#MeToo」運動は、白人の男たちがどれほどしばしば性暴力の犯人であるかをさらすことにより、また西側社会における性差別、セクシャルハラスメント、レイプの大きさと広がりを暴露することにより、何かとてつもないことをやり遂げた。
 この運動は、性差別とジェンダー暴力はいかなる形でも非白人によってのみ犯されているわけではない、という極めてはっきりした証拠を白人の主流に与えることになった。それ以上にそれは、ハラスメントと襲撃に関する女性の日々の経験をもっとまじめに考えるよう幅広い社会に迫ることになり、女性たちがこの問題をはっきり声に出すことについて、もっと自信をもてると感じ始める空気をつくり出した。
 つまり、「#MeToo」は、ありふれた以上に新たなフェミニスト運動の登場のように見えているものに対し、そうした大きな触媒となった。それが、階級、人種、そして性的分断を超えて女性に話しかけているからだ。この運動は、セクシャルハラスメントと暴力が多くの形で女性内部の「大きな均等化装置」として機能している、という事実を示している。われわれの圧倒的多数はそれを、われわれの背景とは関係なく、いくつかの形で経験してきたからだ。

明確な違いは性暴力への対応に

 それでも、性暴力は人種もジェンダーも階級もわきまえないとしても、性暴力に対する対応は確実にそのことをわきまえているのだ。
確かに力ある白人は、セクシャルハラスメントと襲撃に対する申し立てに関して彼らの職を失いつつある。そしてこれは歴史的なことだ。しかし、財政的資源、よい弁護士、また支援のネットワークを彼らが簡単に利用できることは、司法システムの人種的に歪んだ見方を加えてそのすべてが、これらの男たちが、有罪と分かったとしてさえ、相対的に軽い処罰を受けることになることをよりありそうにしている。たとえばスタンフォード大学の競泳選手であるブロック・ターナーの事件はそれを、痛いほど明らかにしている。
白人と比べた時非白人の男たちの方が性的襲撃の罪で有罪を宣告されそうであるだけではなく、レイプや性的襲撃を届け出る多くの非白人の女性に対しても、より多く異議が出される可能性がある。諸々の研究は、若い黒人女性の場合、大学構内のレイプを届け出ることがよりありそうにはないということ、またケアや家内部門といった性的虐待により脆弱な労働部門には、非白人の女性が過剰にいるということ、を示している。追加することだが、資格のない女性移民は、信用されないという怖れのために、またそれだけではなく国外追放になるという怖れのためにも、この双方で性暴力を訴え出ることが特に難しいと分かっている。
何よりも非白人と労働者階級の女性たちは、多くの場合はっきり声をあげない。彼女たちが職場での集団的な力をもっていず、三月八日の国際女性ストライキの推進者たちがはっきり述べているように、「無料の医療のような社会的支えを否認され、その外に」いるからだ。
それゆえ、次のことも偶然ではない。つまり、「#MeToo」キャンペーンは、一〇年も前に黒人活動家のタラナ・ブルケが創立したという事実にもかかわらず、資金とメディア資源を使用できる白人女性が前に進み出た時になってはじめて、今ほどの勢いを獲得したのだ。カトリーヌ・ロッテンベルグが正しくも指摘するように、この事実はそれ自体で「セクシャルハラスメントと性的襲撃に対する主張がいつ、どこで聞き届けられるか、また誰の声が重きをなすか」という、絶対的に決定的な問題を提起する。

性暴力と闘うために何が必要か


「#MeToo」が性的捕食者という非白人の男にまつわる神話の正体を暴露する点で恐ろしいほどに重要となったとしても、しかしながらこの運動は、「刑事処罰要求フェミニスト」的取り組み方を取り入れないよう注意を払わなければならない。すなわち「#MeToo」は、ケルン事件が鮮明に見せつけたように、ジェンダー暴力を解決するための大量投獄、国外追放、そして過剰警察手法は非白人の人びとに比例を欠いた影響を及ぼす、ということを認めなければならないのだ。
これは、セクシャルハラスメントと性的暴力を経験する女性は進み出るべきではなく、これらの行為を法執行機関に届け出るべきではないと示唆するために言うのではない。ジェンダー暴力に対処する代わりとなるまた実効性をもつ制度がない場合、女性は、国家が提供する方策に頼ることしかできない。
しかしながら、そのさまざまな形態すべてにおいてジェンダー暴力と闘うことにわれわれが本当に真剣であるならば、「#MeToo」運動は、はるかに必要とされる会話を始めなければならない。それこそ、われわれが思い描くジェンダー公正のタイプについて、非白人男性の攻撃的な男らしさというステレオタイプの信用を傷付ける方法について、さらに全女性――しかし特に非白人の女性――にレイシズム的反響に対する恐れなしにはっきり声をあげる能力を与えるためにわれわれが必要とする諸制度の種類について、といった会話なのだ。

▼筆者は、IIREにおけるセミナーシリーズ、「マルクス主義への回帰」の責任者であり、ロンドン大学ゴールドスミス校の社会学教授。(「インターナショナルビューポイント」二〇一八年二月号) 


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