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    かけはし2018年4月2日号

辺野古埋め立て絶対止めよう


沖縄報告 3月24日

県の埋立承認撤回と県民のゲート封鎖で

沖縄 K・S


3.24

辺野古・大浦湾シンポジウム

沖縄の財産、世界の宝を未来に

4・25海上大行動の成功へ

 三月二四日、沖縄県は日本自然保護協会と共催し「辺野古・大浦湾シンポジウム〜沖縄の財産、世界の宝を未来に〜」を開催した。会場の国立劇場おきなわには定員の二〇〇人をはるかに上回る人々が集まりロビーにあふれた。翁長知事は「絶滅危惧種二六二種を含む五八〇〇種以上の生物がいる生態系は世界に誇るべきもの、人類共通の財産だ。基地建設が中止されれば世界自然遺産に匹敵する資源として自然公園への指定を視野に入れた取り組みを進める」と述べた。
 辺野古・大浦湾の埋め立てを止めようとする決意は県の行政も県民も共有している。沖縄県は、岩礁破砕許可のない埋め立て工事の差し止めを求めた訴訟の却下に対し、あくまで新基地に反対して控訴した。天皇訪問の警備の関連で三月二九日まで警察機動隊の配置と陸上の資材搬入は一時中断されているが、その後再び熾烈なゲート前の攻防が始まる。攻防の焦点は六月にも予想されるK1、K2、K3、K4、N5護岸の連結に続く土砂投入だ。総力を結集し埋め立て・土砂投入を止めなければならない。
 この間有志の間で4・25海上大行動に合わせて二三日から「ゲート前連続6日間五〇〇人結集」の呼びかけが広がっている。民意を無視し違法に工事を強行する政府防衛局に対し実効力のある行動で工事を止めたいという広範な意志の表れだといわなければならない。このような下からの自主的な動きを強め、次は県民会議、オール沖縄会議が断固としてゲート前県民大結集、一週間ゲート封鎖の檄を飛ばす番だ。県の埋立承認撤回と県民のゲート封鎖をやり抜けば工事を止めることは可能だ。県民の総力を結集して辺野古・大浦湾の埋め立てを絶対に止めよう!

3.17

強制動員真相究明全国研究集会

韓国、「本土」からも参加

沖縄の市民団体も協賛


 三月一七日午後沖大で、第一一回強制動員真相究明全国研究集会が開催され約一五〇人が出席した。主催は沖縄恨之碑の会と強制動員真相究明ネットワーク。沖縄の市民団体(沖縄韓国民衆連帯、遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」、沖縄平和ネットワーク、基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)が協賛団体として名を連ねた。
 二〇〇六年に建てられた読谷村瀬名波の恨之碑は、韓国慶尚北道英陽(ヨンヤン)郡に一九九九年に建てられた恨之碑と同じ青銅像だ。描かれているのは、後ろ手に縛られ目隠しされ刑場に引き立てられながらも堂々と顔をあげ胸を張る朝鮮の青年とその足にすがりつき必死に止めようとする悲痛な表情の年老いた女性、そして怯え卑屈な態度で銃を振り上げる日本兵だ。
 沖縄恨之碑の会は結成から一二年。機関誌『ポンソナ通信』を定期的に発行しながら、毎年碑の前で開く追悼会や朝鮮人強制動員の調査・研究を続けてきた。他方、強制動員真相究明ネットワークは二〇〇五年東京で結成総会を開いて以降、韓国の市民団体と協同しての調査や日本政府に対する情報公開請求、ゆうちょ銀行に残されている朝鮮人労働者名義の郵便貯金通帳数万冊の発見などを進めてきた。
 集会には、韓国から和解・治癒財団や国家記録院の関係者、歴史研究者など一〇人、日本本土からネットワークのメンバー、朝鮮女性史研究家など五〇人以上、沖縄から主催・協賛団体の関係者などが集まった。またロビーでは、沖縄戦での朝鮮人強制動員や慰安所に関する調査・究明のパネル、大城弘明さんの一家全滅をテーマにした写真が展示された。
 基調報告で沖国大の石原昌家名誉教授は「天皇制を守る戦闘だった沖縄戦」と題し、@牛島司令官の就任にあたっての訓示、A軍機保護法、B報道宣伝防諜等に関する県民指導要領、C球軍会報、D国土決戦教令などを資料として提示し、沖縄戦が米軍の本土上陸を遅らせる時間稼ぎの捨石作戦であったと説明した。在日朝鮮人運動史研究会の塚崎昌之さんは、「朝鮮人軍人・軍属の動員の実態とその被害」と題し、歴史を追いながら明らかにした。
 恨之碑の会の沖本富貴子さんは「沖縄戦で軍人軍属に動員された朝鮮の若者」と題し、この間の研究成果を発表した。それによると、動員された朝鮮人には、@戦前から住んでいた住民、A連行された女性、B労務動員、C船舶乗組員、D軍人軍属の五つのカテゴリーがある。軍人軍属動員は、一九四四年七月テグで編成された軍属の特設水上勤務隊二八〇〇人のほか、陸軍の防衛築城隊、海軍の設営隊や根拠地隊など様々な部隊に分散配置され沖縄戦の各地で命を失った。そして残された課題として、@死亡者、不明者の調査と遺族への連絡、A遺骨の返還、B靖国合祀の取り消し、C未返還供託金の支払い、D一部しか刻銘されておらず実態が反映されていない平和の礎、をあげた。
 基地・軍隊を許さない行動する女たちの会の高里鈴代さんは、「なぜ沖縄にこれほどの『慰安所』ができたのか?」と題して、『沖縄県史』の「日本軍『慰安婦』と沖縄の女性たち」の章を引用して詳説し、沖縄に置かれた「慰安所」の数は一四五カ所だと述べた。ガマフヤーの具志堅隆松さんは、「沖縄戦の犠牲者の遺骨はほとんど家族の元に帰っていないが、戦争犠牲者は戦死場所に捨て置かれるのではなく故郷の墓に帰る権利を持つ」と述べた。
 高麗博物館朝鮮女性史研究会の渡辺泰子さんは、二〇一七年の企画展「朝鮮料理店・産業『慰安所』と朝鮮の女性たち」を、北海道、福島、長野、奈良、長崎、福岡のフィールドワークをもとに開催した内容を報告した。ネットワーク事務局の竹内康人さんは、「明治日本の産業革命遺産と強制労働」と題して、「三池炭鉱と高島炭鉱には多くの朝鮮人が動員された」と数字をあげて詳しく指摘し、韓国の民族問題研究所と共同で制作したパンフとDVDの活用を訴えた。そのあと、「『法的解決済み』論の構造と日本の過去清算」と題して、「過去と現在を考えるネットワーク北海道」の小林久公さんが日本政府の主張の問題を指摘した。
 たっぷり五時間、最後まで熱気にあふれた集会のあと場所を移して、懇親会が行われ、海勢頭豊さんと愛さんの演奏と歌、知花昌一さんのサンシン、金城実さんの下駄踊りなどで大いに盛り上がった。一八日の南部フィールドワークに六〇人、一九日の普天間・辺野古フィールドワークに三〇人が参加した。

3.18

南部フィールドワークに60人

沖縄戦の住民、朝鮮人
被害の現場を見る

殺された現場
を巡りながら
那覇から糸満に下っていくと海上に慶良間諸島が現われる。沖縄戦で米軍が最初に上陸した島々、日本軍の強い関与で住民の「集団自殺」が行われた島々、朝鮮半島から動員された水勤隊のうち一〇三中隊と一〇四中隊の一個小隊あわせて九〇〇人が配属された島々、はじめ特攻艇を海に浮かべる泛水作業に従事していた朝鮮人軍属が米軍との戦闘に出されて死亡したり日本軍によりスパイ容疑などで殺されたり飢餓死した島々。
喜屋武岬に続く荒崎海岸には、ひめゆり学徒が米兵の銃撃と自分たちの手榴弾で死亡した場所に「ひめゆり学徒散華の跡」の碑がある。ここで辛くも生き残った当時の一高女四年生の宮城喜久子さんは自著『ひめゆりの少女』で南風原陸軍病院へ行く話をした時のことを書いている。
父「一六歳で死なせるためにお前を育てたんじゃないぞ!」
母「一高女の卒業証書はもういらないから学校に戻らないでここに残って!」
私「お母さん、そんなことをしたらみんなに非国民と言われるよ!」
宮城さんは「戦争の時代に育ちながら戦争というものの実態、ほんとうの姿については何も知らぬまま戦場へと向かったのです」と述べている。
山城地区は六月二〇日頃水勤一〇二中隊が斬り込みに動員され全滅したところ。地元の古老の証言によると、今は平たんな畑となっているが、当時はあちこちに小山がある土地だったという。水勤一〇二中隊のひとつの組長だった金元栄さんの『朝鮮人軍夫の沖縄日記』には「山城には全中隊が陣地を移してきた。しかしそれだけの人員を収容する防空壕がない。岩の隙間や芋畑でまたタコツボづくりに忙しい」と記録している。山城丘陵のうっそうとした森の中に分け入り、日本軍歩兵部隊が八月まで隠れていた壕の前で、具志堅さんが付近での遺骨収集や銃弾、飯盒、防毒マスクのガラス、万年筆、時計などの遺品について説明した。
米須地区では、写真家の大城さんがアガリンガマの上に建てられた忠霊の塔で一家全滅について話した。アガリンガマとウムニーガマは米須小学校ちかくにある自然壕。ともに住民の避難壕だったが、ガマの入口に陣取った日本軍が米軍の投降呼びかけに応じず、住民の投降も許さなかったため、米軍はガソリンやガス弾を投げ込みガマを焼き尽くした。アガリンガマでは五〇家族一五九人、ウムニーガマでは二八家族七一人、さらにカミントゥー壕では二二家族五八人の住民が犠牲になったという。そのあと一戸一戸色分けした地図を手に集落の中を歩き、空き家となった一家全滅の家々の実情を見た。
大度海岸での昼食時には、サンゴ礁の礁池に住む色とりどりの熱帯魚やヒトデ、サンゴなどを観察した。中南部にはあまり残されていない自然の水族館だ。
午後は魂魄の塔から。戦後沖縄の歩みはどこでも遺骨の収集から始まった。一九四六年一月、真壁村(現糸満市)米須に、真和志村(現那覇市)の住民四三人が米軍の命により移動してきたが、一帯にはおびただしい数の遺骨が散乱していた。米軍は米兵の遺骨収集が終わってから、住民の遺骨収集を許可した。遺骨は大きな穴の中に収められたが収まりきれず、大きな骨の山が築かれた。約三万五〇〇〇人の人々が 軍民、国別を問わず葬られた沖縄最大の塔である。朝鮮の人びともいると思われる。
そのあとの平和祈念公園ではまず、韓国人慰霊の塔で黙祷した。韓国の墳と同じ形で、韓国各道から集められた石が周りに置かれている。広場中央の矢印が向いているのは朝鮮半島だ。沖縄島には朝鮮人・韓国人慰霊碑が四カ所ある。最初に立てられたのは、宜野湾市嘉数高台の青丘之塔(一九七一年)、続いて韓国人慰霊の塔(一九七五年)、平和の礎(一九九五年)、そして読谷村の恨之碑(二〇〇六年)である。
沖縄戦関連の死亡者二四万人以上が刻銘されている平和の礎で、朝鮮人刻銘者は北と南を合わせ四六二人に過ぎない。女性はいない。四六二人の中で、氏名、日本名、本籍、生年月日、所属、死亡年月日、死因などが分かっているのは三分の一ほど。陸海軍の主に軍属だが軍人もいる。朝鮮全域から動員され沖縄の各地で様々な部隊に配属されて沖縄戦の初めから最後まで日本軍に支配され続けた。
慶北慶山から動員されて阿嘉島で処刑され靖国に合祀されている水勤一〇三中隊の金相吉さん、京畿道水原から二四歳の時動員され松川で戦死した第三二軍防衛築城隊の金基煥さん、全南莞島から二一歳の時動員され豊見城で戦死した沖縄根拠地隊の金斗彬さん、全南長興から一七歳の時動員され呉からボルネオに行くタンカーが米軍魚雷で撃沈されて死亡した一心丸の乗組員金容五さん、慶北慶州から二八歳の時動員され宮古の三・一空襲で死亡した水勤一〇三中隊の金達州さん、慶南金海から二六歳の時動員され山城付近で戦死した水勤一〇二中隊の金億萬さん、慶北氷川から二三歳の時動員され石垣島で戦病死した水勤一〇一中隊の朴演相さん、慶北慶山から二二歳の時動員され一〇・一〇空襲で戦死し靖国に合祀されている水勤一〇二中隊の李聖泰さん、慶北奉化から二五歳の時動員され渡嘉敷島で日本軍により処刑された水勤一〇四中隊の朴煕兌さん等々、天皇制日本政府による朝鮮植民地支配の理不尽な実態が刻銘された一人ひとりの名と共に明らかになる。

無名刻銘者が
意味するもの
最後に、米須地区の刻銘と「〇〇の祖母」「〇〇の長男」など無名刻銘者を尋ねた。沖縄戦では一〇〇〇世帯以上が一家全滅になった。平和の礎には二〇〇人以上の無名刻銘者がいる。
帰りのバスの中で、沖縄に駐留している米海兵隊は「キャンプ・シュワブ」など基地の名前に、沖縄戦で死んだ米兵の名がつけられていることが紹介された。ちなみに、シュワブ一等兵は一九四五年五月七日、浦添の戦闘で死亡した。沖縄戦で一万人以上の死者を出した米軍が沖縄を戦利品と捉えている証だろう。沖縄駐留海兵隊はまさに沖縄戦の最大の負の遺産なのだ。米軍撤退により沖縄戦に終止符を打たなければならない。


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