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    かけはし2018年3月12日号

60年代の世界的青年急進化に共通基盤提供


国際連帯

テト攻勢から50年

何が国際主義に生命を与えるか
ベトナム連帯運動が残したもの

ピエール・ルッセ

 一九六〇〜七〇年代の米国のベトナムに対する戦争のエスカレーションは今日の米帝国主義の衰退の歴史的な始まりだった。この戦争の転機となり、米国の敗北を決定づけた一九六八年二月のテト攻勢から五〇年が経過した。以下は当時のフランスの革命的共産主義青年(JCR)とその後の共産主義者同盟(LC)のリーダーとして反戦運動の中心的役割を担ったピエール・ルッセ同志によるこの時代の(主にフランスの)連帯運動の回顧と総括である(「インターナショナル・ビューポイント」二月一三日付)。

この時代を特徴づけた連帯運動


 一九六八年二月、南ベトナムの解放勢力は「テト攻勢」を開始した。これはサイゴン(現在はホーチミン市)を含む南ベトナム全域で非常に大規模に展開された。その国際的な反響は大きく、反帝国主義・民族解放の運動を活性化させ、日本、米国、ヨーロッパで青年の急進化を促進した。それはこの戦争における一つの転換点であり、米国の軍事支配の心臓部における抵抗運動の始まりでもあった。
 一九六五年以来、ベトナムは世界情勢の変化の震源地となっていた。米国はフランスから戦争を引き継ぎ、多面的な軍事エスカレーションを継続し、南ベトナムの解放区や北ベトナム、ラオス、さらにはカンボジアに大量の爆弾を投下し、年々死者の数が増えて行った。米国はこの戦争に最大五〇万人の兵を投入した(二〇〇三年に開始したイラク侵略においては兵員数が一八万人を超えることはなかった)。巨大なB52爆撃機が作戦に投入された。目標を定めた殺害を謳ったフェニックス作戦は、今日のドローンによる攻撃よりも多くの犠牲者をもたらしていた。世界最強の国の経済資源と科学技術が動員された。闘争はあらゆる戦線において展開され、社会的側面においては農業の資本主義的改革が、解放勢力による革命的農業改革に対置された。多くの点で、戦争のエスカレーションの極度の残忍さは前例のないものであり、その後の歴史の中でも例がない。それは帝国主義者のバーバリズムを体現している。
 米国がそのような手段を積極的に用いたとすれば、それはこの全面戦争の帰結がこの地域に留まらない意味を持っていたからである。一九四九年の中国革命の勝利によって起動された第三世界における革命的力学を停止すること、そして後には「封じ込めと押し戻し」をはかることが問題だったのであり、その目的は米国の主導の下で世界の帝国主義的秩序を復活させることであった。
 一九六〇年代における青年の急進化のルーツは多様である。フランスでは、クーデターから生まれたゴーリスト(ド・ゴール主義)体制に耐えられなくなったこと(「一〇年でたくさんだ」)と、カトリックの影響の下でのモラル的雰囲気の息苦しさがあった。労働者階級出身の学生たちが大学に入れるようになり、それに伴って新たな社会的緊張が生まれていた。一九六八年は国によって様相が異なる。しかし、ベトナムにおける帝国主義の軍事エスカレーションに反対する大衆運動は各国の運動を統一する要素となり、共通するアイデンティティーを形成し、多くの国にわたってこの時代を特徴づけた。もちろん独裁政権下の国や東欧の諸国においては、このことは、少なくとも大きな規模という点では、あてはまらない。

「必要に迫られた瞬間」への対応

 ベトナムではテト攻勢のような規模の作戦を開始するという決定は自明のことではなく、共産党指導部内での激しい議論を伴った。最終的に選択された方針は、全面的かつ長期にわたる攻勢であり、それは(最大限の目標として)一斉蜂起に道を開く、または(最小限の目標として)その世界的な衝撃によって戦争の流れを変えることが想定されていた。ベトナム中部の省都フエは米軍に再占領されるまで二六日間抵抗した。米軍による破壊は甚大な被害をもたらした。人民軍部隊によるケサンの巨大な米軍基地への包囲攻撃は一月二一日に始まり、七七日間続いた(これはテト攻勢の準備を隠すための陽動作戦だった)。戦闘はサイゴン中心部(米国大使館を含む)を襲い、人口の多い郊外地区でも長期にわたって続いた。
 テト攻勢では人民戦争のすべての様相、つまりゲリラ作戦、蜂起、正規軍の介入(当初は北部を本拠として)が結合していた。多くの問題が表面化したが必ずしも解決されなかった。たとえば、このような戦闘の中でサイゴン郊外の離散した避難者たちをどのように組織化するのか、彼ら・彼女らを市民の犠牲に無関心な敵の反撃からどのように長期にわたって防衛するのか等である。
米国は当初は不意を討たれたが、すぐさまその巨大な軍事力とサイゴン政権の連絡網や部隊を動員し、テト攻勢に反撃した。ベトナムの革命運動が被った犠牲は大きかった。特に民族解放戦線(FLN)の政治機構や活動家の基盤が重大な打撃を受けた。南部における中堅活動家の損失の大きさは長期的な影響をもたらした。
一九六八年にベトナムの指導部は大きなジレンマに直面していた。戦争の流れを変えることは必要だった。そうしなければ米国の軍事エスカレーションは際限なく続く可能性があった。たとえば北部の紅河デルタ地帯の堤防への集中爆撃まで考えられたし、それは広い人口密集地帯に洪水を引き起こしていただろう。
中ソ紛争が全面化し、中国がいわゆる文化大革命の騒動に陥っている時、迅速かつ決然と行動することは一層決定的だった。ソ連や中国からベトナムへの物資や軍事援助は続いていたが、いつまで続くかわからなかった。
一九六八年二月は「有利な瞬間」というよりも「必要に迫られた瞬間」だった。華々しいが一時的な攻勢(たとえば革命部隊が全土で同時的な攻撃を行った後、速やかに撤退する)なら犠牲ははるかに少なかっただろうが、それでは戦争の流れは変わらなかっただろう。これほど大きな部隊をこれほど長期にわたって動員することは非常にリスクの高い賭けだったが、実際に戦争の流れは変わった。

米国と全世界に電気ショック


テト攻勢は米国と全世界に電気ショックを与えた。それは米国の多くの嘘を暴露した。この戦争が「民主主義のための戦争」でも勝利している戦争でもなく、恐ろしい、残忍な、泥沼化した戦争であることを示した。それは米国のブルジョワジーを分裂させた。なぜなら金融関係者の間では戦争の経済的コストが途方もないものになったからである。大学のキャンパスは燃えていた。米軍兵士の抵抗は組織的な形を取った。「アウトナウ(今すぐ撤退を)」のスローガンが兵士の間で広まった。アフリカ系米国人はそれまで以上にベトナムの解放闘争の中に自分たちのアイデンティティーを見い出した。
日本では米軍基地に対する闘争や成田空港建設反対の闘争が急進化し、農民、平和運動、そして極左派が動員された。ヨーロッパではテト攻勢の真っ最中の二月にベルリンで国際会議とデモが行われ、「革命家の任務は革命を起こすことである」という象徴的な横断幕が掲げられた。実際、ベトナムの闘争は社会革命と民族独立闘争の緊密な結合であり、相互に促進し合っていると理解されていたし、その理解は正しかった。
だから極左派の目にはベトナムは世界革命の現実性を象徴していた。時代背景は五〇年後とは大きく異なっている。当時のヨーロッパではギリシャ、スペイン、ポルトガルに独裁体制が存在していた。ピレネー山脈を越える交流は非合法活動を余儀なくされた。多くの著名な活動家は多くの国に滞在することを禁止されていた(女性活動家の場合はそれほど厳格でなかった)。運動の間を行き来して連携を確立するためには、「目立たないように」国境を越えなければならなかった。ドイツの米軍基地から脱走した兵士たちの支援も同様の慎重さが要求された。極左派の組織のメンバーの日常生活は社会党の党員のそれとはかなり異なっていた。ファシスト・グループとの衝突も日常的に起こっており、警察署への「挨拶」もよく行われていた。ケガや逮捕はいつでも起こりうることだった。
ベトナム人民の闘争への共感は六八年五月の急進的運動に先立って極左派、およびより広範なグループが態勢を整えるのを助けた。

分裂も併存したフランスの運動


フランスではアルジェリア戦争の時期に形成された民族解放戦線(FLN)との連帯のネットワークの中で確立された連携があったので、ベトナム連帯全国委員会(CVN)は最初から多くの人たちを結集することができた。フランス共産党(PCF)に対して独立的な立場を取っている人々、知識人、科学者、医師・医療従事者、クリスチャン、戦争に反対するためにパリに来た米国人、それに極左派(マオイスト、統一社会党、LCR、革命的マルクス主義連合など)が参加した。マオイストの主流は独自路線を取り、マルクス・レーニン共産主義青年連合(UJCML)はベトナム連帯委員会(CVB)を組織した。PCFは多くの労働組合を含む広範な連合を率いた。CVNは統一を呼びかけたが共産党は拒絶した。当時はPCFとCGTの活動家たちはデモ会場や職場で極左派への暴力的攻撃を行っていた。ベトナム人たちは誰とでも協力していた。
ゴーリスト体制の危機、潜在的な社会的緊張の高まりと共に、アルジェリアにおけるフランスの汚い戦争に対する闘争の記憶がまだ新しかったことが、一九六〇年代のフランスの特徴の一つだった。もっと遡れば、一九四六年から五四年までのベトナムにおける植民地征服とフランス帝国再生のための戦争に対する抵抗闘争の経験もあった。それは一九六〇年代に反帝国主義的連帯が発展する基盤となった。大学委員会連合はこの経験の伝達において重要な役割を果たした。

パリ和平会談と反戦運動の路線


テト攻勢の後、米国は和平交渉の原則を受け入れざるを得なくなった。交渉はパリにおいて、北ベトナム政府および南ベトナム臨時革命政府と、米国およびサイゴン政府の四者間で行われた。
ベトナム共産党は「大国」の出席を拒否した。一九五四年のジュネーブでの交渉の教訓に学んだからである。当時中国とソ連はベトナム共産党に妥協(国を一七度線で「一時的」に分割する)を受け入れるよう強い圧力をかけた。これは地上における力関係から考えて解放勢力が当然にも期待できる水準をはるかに下回る妥協だった。この妥協の法外な対価が、米国主導の下の第二次インドシナ戦争だった。米国は慎重にジュネーブ条約に署名しなかったのである。
この問題は特にヨーロッパにおける連帯運動に重要な影響を及ぼしている。フランス共産党は伝統的に「平和」を中心的なスローガンに掲げている。しかしどんな平和なのか? ジュネーブの経験から、急進的左派、学生運動、そしてPCFに対して独立的な立場を取っている人々は解放勢力の「勝利」を目指して大衆を動員した。「ベトナムにおける腐った妥協を繰り返すな!」と叫んだ。PCFは最終的に名誉ある修正を行い、PCFが率いる運動団体は「ベトナム人民の勝利のための全国行動委員会」という名称を掲げた。
強制された交渉に応じることは真に交渉を進める意志があることを意味しない。実際、米国は依然として戦争に勝利しようとしていたし、それができなくても米国にこれほど強く抵抗してきた国を徹底的に破壊しようとしていた。軍事エスカレーションは続いたが、国際的な状況と米国の国内事情によって、紅河デルタ地域の堤防への集中爆撃(実際に一部の堤防は爆撃され、脆弱になったが)や原子力兵器の使用のような究極的な手段に訴えることは不可能だった。
しかし米国は時間稼ぎをすることができた。米中関係の正常化が始まった。一九七一年に人民共和国が台湾に代って国連安保理に入り、翌年にニクソンが北京を訪問した。
ベトナムの解放勢力は国際的な連帯運動のすべての構成組織に、米国がパリ協定に署名するよう強制するために人々を動員するよう呼びかけた。一九七三年に成立したパリ協定は妥協であるが、今回は勝利に向かう妥協である。米軍はベトナムから段階的に撤退し(ただしカンボジアへの爆撃は続いた)、一九七五年にサイゴン政権は崩壊した。

国際主義学ぶ実地教育の学校

 このような戦火の時代はわれわれの活動家世代にとっては国際主義の実地教育の学校だった。連帯の有効性、そして必要性がテストされた。それはさまざまな形態、特徴、表現を持っており、その多様性が有効性を強化した。
世界中の闘争を支持する政治的立場が重要であることは言うまでもないし、状況によってはそれを行動的なキャンペーンに転化できないこともある。しかし、国際主義は抽象的な概念ではない。それは単なる理論や綱領、理論、共感、心理状態、闘う仲間という感覚ではない(そのすべてを包含するものであるが)。それは行動の中でのみ生命を与えられる。行動が可能な時に組織されなければ、それは無力になり、空疎な宣言に切り縮められる。この時代に、行動を起こす意志は何十万人、あるいは何百万人もの人々にとって当然のことだった。
しかし、フランスの場合、この行動における連帯がいかに脆弱だったか。一九六八年五月のストライキ闘争の後、極左派が労働者階級の中での基盤の強化に集中する中で、CVNとCVBは消滅した。望んでいたベトナム人民の勝利はまだ遠かったにもかかわらずである。その理由は当時のフランスの政治力学によって理解できる。マオイストたちにとって、ベトナムはソ連に接近しすぎており、もはやベトナム人民を支援する意味がなかった。その観点から彼ら・彼女らはクメール・ルージュを支持するようになった。われわれの活動家世代にとってこれは冷淡な判断の結果ではなく、突然「優先事項」と情熱の対象がシフトしたのである。
しかし、連帯運動の突然の中断は無責任そのものであり、CVNのいくつかの構成団体は痛苦にこの無責任さを感じた。
われわれがベトナム人民にもたらすことができる最高の支援は、もちろん、自分の国で革命を起こすことだった。しかしそれはまだ遠い未来のことであり、現実には当時考えていたよりももっと先のことだろう。五月危機は帝国主義の陣営を弱めたが、それによって具体的な連帯運動の重要性が減じたわけではない。そのことは一九六八年から七五年までのインドシナにおける厳しい闘いによって示されている。われわれはそのことを知っていたが、連帯運動の再構築は自然発生的には進まなかった。
ベトナムの駐フランス代表部は協力を惜しまなかった。この時期には消極的になっていたPCFが悔しがったことに、JCRの後身の共産主義者同盟がインドシナ連帯運動の再生のために呼びかけた集会には南ベトナム臨時革命政府やラオス人、カンボジア人の代表も参加した。CVNを活性化した力がかなりの程度回復し、一九七一年にはインドネシア連帯戦線(FSI)が結成され、七三年まで活動を拡大したが、七五年以降は帝国主義が進めてきた締め付け政策や、中ソの官僚間の紛争の影響、そして中国とインドシナ諸国の関係の危機に対応できなかった。
反帝国主義運動の概念そのものがフランスの極左派の間では分裂の原因となった。ベトナムにおける革命的闘争の実例(「果敢に闘うこと」)をわれわれの間で宣伝することなのか? ベトナムの人民がわれわれの運動の組織化を支援しているのか? 連帯運動が進むべき道は「そこで闘っている人々」のニーズに対応している。それに最大限に応えることによってわれわれは自身を国際主義者の組織へと確立するのである。


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