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    かけはし2018年2月19日号

「紀元節」を祝わない!


2.11

「明治150年」って何だ?

「代替わり」キャンペーンNO!

「日本近代」賛美のもくろみを斬る


天皇主義右翼
の「奉祝」式典
二月一一日、「代替わり」と近代天皇制一五〇年を問う! 反「紀元節」2・11行動は、全水道会館で反「紀元節」集会を行い、一八〇人が参加した。
 安倍政権は、グローバル派兵国家建設の一環として憲法九条改悪を射程に、「天皇代替わり」と「明治150年」を結びつけながら民衆統合を強化しつつある。「産経新聞」(2・11)は、「社説」で中国・北朝鮮脅威を煽りながら「こんなときこそ明治の、ひいては神武創業の精神を思い起こし、政府主唱の下、国民が団結して日本の平和と国民の安全を守り抜く覚悟を決めねばならない」と叫び戦争遂行=死を強要する主張を展開するほどだ。しかも政府主催の「紀元節」式典(二〇〇五年から中止)が開催できない状況にいらだちながら政府主催で開催せよと言い出している。
 連動して天皇主義右翼らの「建国記念の日奉祝式典」(明治神宮会館)では、改憲と戦争煽動決議、高村正彦副総裁(自民党)・松沢成文参議員(希望の党)・石井苗子参院議員(日本維新の会)が決議と同様の発言を行っている。
 2・11行動は、安倍政権の野望を許さず、連動してデッチ上げの「紀元節」(初代神武天皇の即位)を「祝日」とした「建国記念の日」と称した天皇制強化に抗議する行動を行った。

立川テントの
車が使えない
集会の冒頭、立川自衛隊監視テント村から緊急アピール。
「この間、テント村が反天皇制運動を取り組んでいるということでテントの宣伝カーが右翼に壊されてきた。今日も反『紀元節』デモに使う宣伝カーを駐車している周辺を右翼の街宣車が取り囲んでいた。テントの事務所前にも右翼街宣車が来ていた。しかも警察は右翼を見守っていた。こういう事態でテント宣伝カーは、本日のデモに参加することができなくなった。右翼は、テントの宣伝カーが出なければデモができないと思っているらしい。この右翼の攻撃を跳ね返していくために共に考えていく必要がある。反天皇制デモに参加する宣伝カーを増やしていく努力が必要だ」と訴えた。警察権力と天皇主義右翼が一体化した「天皇制と暴力」弾圧を許さず、跳ね返していくスクラムを強化していくことを参加者全体で確認した。
集会基調報告が実行委から行われ、@「建国記念の日=紀元節」をめぐる問題A「明治一五〇年キャンペーン」に反対しようB「天皇退位特例法」と天皇状況C「天皇制国家劇場の連続興行」と改憲にNOを!―を提起した。
とりわけ「『明治一五〇年』(二〇一八年)は、新天皇即位・改元(二〇一九年)、新天皇の国際デビューである東京五輪(二〇二〇年)と連続する『天皇制国家劇場の連続興行』の皮切りとなる」と批判し、「私たちは、天皇の代替わり過程における国家儀礼・儀式に対する抗議の声をあげるとともに、戦後つくり上げられてきた天皇による国家統合のさまざまな仕組み(植樹祭、海づくり大会、国民体育大会、慰霊追悼のたび、被災地慰問等々)に対して執拗にNO!の声を上げ続ける」と強調するとともに、「明仁天皇の三月二七〜二九日の沖縄訪問が『明治一五〇年』の当初から今日まで連続する日本(ヤマト)国家による沖縄の植民地(的)支配、構造的差別構造を改めて厳しく問わなければならない」と宣言した。

今こそ植民地
主義の克服へ
太田昌国さん(民族問題研究)は、「明治一五〇年=近代天皇制を問う」をテーマに次のように講演した。
「明治国家を評価する『明治論』に大きな影響を与えたのは司馬遼太郎の『坂の上の雲』などの関連諸作品であった。しかし、登場人物の会話の仮構性に気をつけなければならない。さらに、ペリー来航(一八五三)の過大視の限界があった。すでに外国船は、ロシアは一八世紀後半から、欧米船も一九世紀初頭から日本近海へ現れていた。江戸鎖国時代にとって外洋に面する諸藩の危機感が深まっていた。薩摩、長州連合の主導によって幕府が倒され、明治国家を形成していく。この近代国家の形成過程のイデオロギーを美化し、継承していくのが『新しい教科書運動』、『歴史修正主義』、日本会議などであった。これらを基盤にして第一次安倍政権の成立(二〇〇七)とともに在特会などの公然と民族排外主義が台頭してきた」。
「鎖国に対し開国を迫られた。その中で中国のアヘン戦争の敗北を見ながら欧米の圧力に対して、開国派、ヨーロッパの植民地主義に学びながら強力な国家建設派の攻防があった。国家建設派の勝利によって明治新政府が発足する(一八六八)。その後、蝦夷地の併合を強行し、アイヌ民族を全面的に支配していった。ロシアとの対抗を維持しながら軍事的にも強化していった。さらに江華島事件(一八七五)を契機にして朝鮮半島支配に向かう。近代国家に組み入れるために一八七九年の『琉球処分』があった。明治国家は、吉田松陰が指示した道筋をたどっていった。最終的に一九四五年の結末を迎える。私たちとは真逆な勢力が政権の座におり、安倍政権は六年以上も続いている。支える層は、一握りではなく社会層として存在している。困難な状況にあるが、私たちは対峙している」。
「簡単にこの状況を突破できないが、植民地主義問題をやり過ごしてきたことは確認しなければならない。思想的立場、歴史的立場、実践的な活動などの不十分であった結果だ。植民地主義を十分に清算し切っていない問題が根っこにある。ピョンチャン・オリンピックの行動、安倍政権の言葉の一つ一つに植民地主義の痕跡が日々見られる。アジアとの関係がいまだにゆがんだものとなっている。だからこそ歴史修正主義、排外主義と闘ううえで植民地主義の克服が重要であり、集団的努力を続けていこう」。

天皇制いらない
と元気にデモ
連帯アピールは、 202
0オリンピック災害おことわり連絡会、3・1独立運動99周年集会実行委員会、沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック、大軍拡と基地強化にNO!アクション2017、安倍靖国参拝違憲訴訟から行われた。
集会後、デモに移り、神田一帯に渡って「紀元節反対!天皇のための『代替わり』反対!天皇制はいらないぞ!」のシュプレヒコールを響かせた。   (Y)

2.2

2018年人権のつどい

「障害」って何? と問いかけ


分けないで、ゴチャゴチャに生きよう


  【東京東部】二月二日、東京都亀戸文化センターで「2018年人権のつどい『障害』って何? ―『分けないで!』『地域でごちゃごちゃになって生きよう!』」が同実行委の主催で開かれた。
 実行委代表の山口純一さんが障害者施設での虐殺事件や子ども虐待事件にふれ、「命が軽くなっている。権利や自由を奪うことはできない。学ぶ機会を増やそう」と主催者あいさつを行い、大井哲爾江東副区長が「ヘイトスピーチなどいかなる差別をも許さない」と述べ、区としても人権施策を推進すると来賓のあいさつをした。
 続いて丸子勉さん (元特別支援学校教員)が講演を行った(別掲)。その後、丸子さんと障害をもつ子どもを普通学級に通わせた鈴木さんが対談した。
 鈴木さんは子どもを普通学校に入学させたが障害を克服させたいという思いもあり、別の支援学校に週に二〜三日通級させた。小学二年生の時、開校一〇周年記念アルバムに息子が写っていなかったのに衝撃を受けた。たまたま支援学校に行っていた日で、そこに参加できなかった。
 「分けないで一緒に普通学級で勉強させたいと思い」学校に申し出たが、教師に毎日支援学校に行くことを勧められた。もしやめるのなら、給食の用意が出来ないので弁当を持って来るように言われた。
 その後、普通学校一本になり、息子は学校生活をエンジョイし、今に至っている、と鈴木さんは語った。「障害」って何? 分けないでという叫びをどう受け止めるのか、考えさせられる人権のつどいであった。 (M)

丸子勉さんの講演から

「分けること」に痛みを

もの・ひと・ことの関係


 丸子さんが小学校だった時に友人が特殊学校に通うになり、付き合いがなくなったこと、大学時代に府中療育センター移転阻止闘争、脳性麻痺の八木下浩一さんが二六歳の時から小学校入学を求めて闘い、二九歳で果たしたこと、そのような出会いから「どの子も地域の学校に」と確信するようになった。
 一九六五年、文部省「特殊教育振興政策」…特別教育推進地区指定等→以後、全国的に特殊学級が増設される。一九七三年、養護学校義務制度化実施の予告政令(一九七九年から実施)。一九七四年、東京都「養護学校義務制度化」を先行実施。

養護学校義務
制度化を前に
養護学校義務制度化は「就学義務」と「設置義務」の二つが柱。「就学義務」に関して、「障害者」や保護者、施設職員・教職員等から反対運動がおこる。
・「障害者」団体の全国連絡会議が義務化撤回を求めて文部省交渉。→映画「養護学校はあかんねん」
・滋賀「止揚学園」の職員と支援者が義務化に反対して、「文部省まで東海道五〇〇キロ大行進」を行い、文部省交渉。行進しながら歌った歌「子どもの笑顔を消さないで」。
・東京では今は亡き金井康治君が養護学校から地域の普通小学校への転向を求めて四年間自主登校や交流学習会を行ったが実現しなかった。中学校は地域の中学に入学。

新しい「障害」
名が次々と
一九八〇年以降、新しい「障害」が登場する。いずれも、胸に何らかの障害・欠陥があるとされているが…。一九八〇年代…LD(学習障害)。一九九〇年代…ADHD(注意欠如多動性障害)。処方としてリタリンが重宝されたが、当時アメリカでは幼児も含めて一割が飲んでいるという衝撃的な報道もあった。幼児は「多動」であるのが当たり前。日本では年齢制限があったため、そこまでは普及せず。高機能自閉症(「知的障害」を伴わない自閉症)。

特別支援教育
実施の結果は
二〇〇二年、文科省「学習面か行動面で著しい困難を示す」児童生徒の割合は六・三%と結論。二〇〇三年、都教委の調査で割合が四・四%。二〇〇五年「発達障害者支援法」施行。二〇〇七年特別支援教育本格実施。
導入前に強調されていた「ノーマライゼーション」という枕詞がいつの間にかなくなった。「調査」の数字が独り歩きして、特別支援学級・学校の在籍児童生徒数と通級学級に通う児童生徒数が大幅に増えた。また、調査結果の数字に教師が納得した面もあるのではないか(文科省の指導で指導力不足等教員がやたら強調されるようになり、「教員の資質向上」が声高に言われるようになった時期でもある)。
各方面の連携強化が、生涯にわたる管理につながるおそれがある。特別支援学校では職業教育が奨励される。従来の施策でも、「障害児」の社会自立、能力開発が強調されてきたが、ことさら「分けなくても」できることである。

分けられたが
ってはいない
これまで見てきた通り、「障害者」と言われる人たちや「障害児」と言われる子どもたちは、「地域の仲間や友達と一緒に」という極めて当たり前の願いを持ち続けている。
実際、学校で担任した多くの子どもたちは地域の学校での生活を望んでいた。(「いじめられなければ普通学級がいい!」「からかわれなれば普通の学校がいい」「ここ(特別支援学校)に来たくなかったけど、お母さんが行けと言うから来たけど、普通の高校に行きたかった」等々)

「分けたくない」
気持を阻むもの
「適正就学」という制度。障害に応じた教育の場を保障する(「特別支援教育が適」と判別されたが、普通学級を希望して入学した場合は、「認定就学児」という失礼な呼び方がつけられる)。私自身は「学校は子どもにとっての生活の場」と捉えたいが、実際は学習第一の場になっている。
「障害児・者」はそれなりの設備の整った場所で生活する方が良い、とする「善意」や常識による排除。→優生思想につながる→やまゆり園の事件が象徴的。

ところで、「障害」
って何だろう
その人にとっては当たり前の状態なのに、ある基準(平均的な人間像、判別基準)を設けて人を分類し、基準に満たない者を「障害児・者」としているのではないか。
人は様々であり、一定の基準で分けられるものではない。しかし、基準に合わせようするがゆえに「ボーダー」などという失礼な呼び方がなされるのではないか。
では、平均的な人間像、判別基準とは何なのか。社会が要求すること、あるいは時代が要求することをもって、基準や平均が作られるのではないか(例えば、「労働力となりうるか?」)。
「障害」はその人自身にあるのではなく、「もの・ひと・こと」との関係で考えていくべきではないのか。

「分ける」こと
への痛みを
「健常児」とされている子どもは当然のように地域の普通学級に行けるのに、「障害児」とされた子どもはなぜ行けないのか。ごく当たり前の希望が叶えられないことを私たちはどう考えるのか。「いじめられる」と言われるが、いじめをなくすのが学校の役割ではないのか。「障害児・者」はそれなりの場所で生活した方が良いとする「善意」を私たちは持ち続けて良いのだろうか。
私は「分けること」にこそ痛みを持ち続けたいと思う。(発言・パワーポイントの文章を元にし、一部を省略した)




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