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    かけはし2018年2月5日号

九条と立憲主義の連関を問う


1.13

大阪弁護士会憲法市民講座

「憲法九条の規範力」とは

石川健治さんが講演

 【大阪】石川健治さんは、二五歳の時から大学で講義をしてきたが、「国家試験には九条と天皇制は出ないので、法科大学院では大手を振って九条と天皇制の勉強がサボれる状況があるが、私らの世代はまだ天皇制と九条が語れなければダメだという意識が支配的だったので、そのことが今役立っている。若い頃、私は九条と天皇制について学生に恥ずかしくない講義をしようと考えてきた。しかし、講義の内容に学生の八割はついて来なくなったので、教師として挫折した」と語った。
 また、学会で立憲主義と民主主義は簡単には両立しないという報告をしたとき、その後のレセプションで年配の学者が、その二つが予定調和しているようなスピーチをしたことを印象深く紹介した。初めに規範力の話を、その後で運動の視点にも触れたいと述べて、以下のような講演をした。以下要旨。

石川健治さんの講演から

「九条加憲」論は
なぜ危険なのか?

黒船から
敗戦まで
一九九六年頃までの九条論は、ひたすら平和主義の理想を論議してきたが、それだけでは失われたものもある。国の仕組みを考えるとき、九条と立憲主義の連絡ができていなかった。日本は幕末の黒船来航で「開国」を強いられた。江戸時代は憲法に基づく立派な統治体制があったが、西洋からそれは憲法になっていないと言われた。
それは随分不遜な言い方だが、フランス人権宣言を基準にすれば、自由(人権論)と権力のコントロール(統治機構論)が不可欠だという。戦後、憲法が九条を持つことの意味についての認識が先輩の憲法学者には欠けていた。自由の側面から九条の意味を樋口陽一先生が初めて言い出した。私は、統治機構の面から九条の意味を考えてみたい。
黒船来航により、日本にはなじみのない法律制度を余儀なくされたとき、これに対する反作用として天皇中心主義と排外主義の考えが浮上した。日本における憲法の歴史はここから始まる文化摩擦の歴史でもある。日本古来の国体という魂と、近代立憲主義の魂を合わせ持つ大日本帝国憲法がその帰結だった。
日本は、一九一〇年代には立憲軍国主義、立憲植民地主義の国になり、その後大正政変により民主主義の要素を取り込んだ立憲主義が、大正デモクラシーを演出し、政軍・政教・公私の分離線をどうにか維持できた。けれども、一九三五年に入ると、天皇機関説事件により美濃部達吉の学説が弾圧され、国体思想が分離線を乗り越えて軍国主義・植民地主義と結びついていった。
乗り越えるきっかけは、北東アジアの対外危機の言説だった。戦争が泥沼化し、その後一〇年で国は滅びた。

憲法九条の規範
力・憲法への意思
戦後日本国憲法がつくられた。ナショナリズムのエネルギーを動員しにくい占領期に日本国憲法が強力な支持者を見いだせたのは、九条の平和主義の理念が「戦争はもうこりごりだ」という国民感情に受け容れられ、政軍関係を中心に分離線を支えてきたからに違いない。
憲法一三条は、「すべて国民は個人として尊重され、生命・自由・幸福追求する権利は、公共の福祉に反しない限り最大限に尊重される」と規定している。戦後の日本が目指した立憲主義国家には、個人の自由を保障するため、幾重にも分離線が張られている。市民的権力と軍事的権力の分離(政と軍の分離)。世俗的権力と宗教的権力の分離(政教分離)。政治的権力内部の立法・行政・司法の三権分立。政治的権力と経済的権力の分離(政権と金権の分離)。公共生活と私生活の分離、がそれだ。その基盤の上に、個人の自由がある。
この分離線は、自然に保てるわけではなく、そこには「権力への意志」に対抗する「憲法への意志」が存在する。その「憲法の意志」が憲法の規範力のことだ。
規範力には、「事実の規範力」も存在する。習慣化されれば、それ自身が規範力となる。例えば、立憲君主主義の明治憲法には内閣の条項はなかったが、衆議院の多数派が内閣をつくるという慣行ができた(議院内閣制)。美濃部達吉は、大正デモクラシーが憲法だとみなした。ある意味では、九条と自衛隊の関係にもいえる。

軍事力の統制
という「難題」
元来、軍事力の統制という問題は、執政権の統制を課題とする立憲主義にとっての難題としてあり続けた。
明治憲法下でも、軍編成権、開戦決定権、統帥権などをコントロールする努力が払われてきた。戦後、軍隊を消滅させることによって、軍事力統制の課題そのものの解消を企図した憲法九条は、日本の議会政治への制約条項の意味を持っている。平和主義の理想という高次の正当化を根拠に、軍事予算の計上を不可能にするという財政権の限界規定の意味も持っている。
にもかかわらず、国会は権限配分規定を破って、自衛隊法という組織法を制定した。しかも、裁判所が憲法判断を回避している現状の下では、自ずと九条の平和主義と軍事予算の制約に過重な負担がかからざるを得ない。
つまり、憲法九条の純理的解釈論は、権力分立の一翼をにない、自衛隊法及び軍隊組織の正当性の根拠を剥奪し、正当性の剥奪による軍事力のコントロールを行っているといえる。
九条には人権論(権利保障)と統治機構論の側面がある。九条が理想的でありすぎることに倦んで、軍事力統制の課題を安易に放棄することは、国家機構の権力バランスを損なう危険がある。

戦後の社会
と「敵」の存在
日本国憲法が制定されたとき、排除された三つの勢力(軍隊・神社や貴族関係?)が、その後日本国憲法を脅かしてきた。ドイツと違って、日本国憲法はその「敵」に対しても自由を与えている。本来は、憲法内部で直すところを論議すればいいはずだから、それが可能なら技術的に直すところはある。しかし彼らは、憲法敵視のあまり立憲主義まで吹き飛ばす。
「敵」が数の政治であるのに対して、「護憲派」は理の政治。護憲と改憲という膠着状態ができあがった。これは憲法にとっては、不幸だ。
「敵」は目的手段論であるのに対し、「護憲派」は純粋に理を議論する九条論でどうしても倫理的な九条論になる。「敵」は、冷戦に対して、冷戦後に対して、アジアにおいて、テロリズムに対して、とどんどん現実的な対応をすることが出来るが、護憲的九条論は、カントの定言命令のように無条件九条論だ。そのことが良かったか悪かったかはともかく、そのぶれない九条論が戦後機能してきた。条件的九条論の典型は、九条加憲論だ。

理の政治の体現
者としての天皇
少し脱線するが、天皇は理の政治の体現者たらざるを得ない。戦前は、天皇は君主であり現人神であり、天皇祭祀を行い、神勅によって正当化された。戦後も天皇は祭祀をしているが、そのままの姿で公共空間に現れることはできない。なぜ天皇がいるか? 天皇の存在は憲法に頼るしかない。だから、天皇は平和主義である。これがとにかく七〇年もったという事実は否定できない。
公共の空間は、個人の尊厳を守るということで、無色の空間である。明治政府は、祭政一致の国柄をめざしたが失敗し、曲がりなりにも一九三〇年代半ばまでは公と私の区別はあったが、その後は軍が公共空間を占領した。
戦後は、軍は武装解除され、植民地主義は排除され、君主天皇制は象徴天皇制となり、九条が軍国主義を排除した。この構造が七〇年もった。天皇制と九条はひとくくりになっている。これが日本の立憲主義だ。最近、政府はここに愛国心を注入した。よほど頑張らないと公共はもたないだろう。

自由と権力の
コントロール
統治機構論とは自由と権力のコントロールだ。憲法は、統制力を持ってはじめて憲法と言える。政と軍を分離し、政を優位に置く。優位な市民が軍を統制する。これがシビリアンコントロールだ。
そのほか、軍の民主化、要するに弱い軍隊をつくるということ。この領域には軍は手を付けられないようにする。九条は軍の正当性の剥奪の根拠である。憲法八三条(財政処理の権限)は九条の心臓部だ。
今、軍の正当性の剥奪の根拠が問題となっているが、コントロール権限を持たない九条加憲論は最も危険な提案だ。これについては、立場を超えて批判しなければいけない。立憲主義の根幹を保ちうるだけの本格的な「憲法への意志」を見い出せたとき、本当の意味での改憲論議に着手できる。(講演要旨、文責編集部)(T・T)



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