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    かけはし2018年1月29日号

討論のために


東アジアにおける抑圧と差別の歴史を乗り越えよう

歴史に背を向ける「強者」との
連帯を朝鮮民族は望まない

木下 正


 天皇制日本帝国主義の朝鮮植民地支配が終って以後、朝鮮戦争を通じて南北の分断が固定化した。二つの国家(北の朝鮮民主主義人民共和国と南の大韓民国)の対立は、冷戦構造の中でより深刻化していった。朝鮮半島の二つの国家の表記をめぐる問題は、この政治的対立と関連している。木下同志の意見を紹介する。(編集部)

はじめに


 日本の植民地支配より解放された朝鮮半島には、一九四八年八月一五日に大韓民国、九月九日に朝鮮民主主義人民共和国がそれぞれ成立した。そして一九九一年九月一七日に両国は、国際連合への加盟が正式に承認された。この時点でこれらの二つの国家は、国連の加盟の主体となった(注1)。また朝鮮民主主義人民共和国は公式メディアや日本での事実上の外交機関である在日本朝鮮人総連合会を通じて、朝鮮民主主義人民共和国の正式な呼称の要望を繰り返し行っている(注2)。
 このような状況でありながら日本では、朝鮮民主主義人民共和国を俗称の地域名「北朝鮮」で呼称することが一般化している。どのような背景により、このような呼称が一般化したのであろうか。日本と朝鮮民主主義人民共和国との外交関係は流動的であり、呼称にも両国の関係がそのまま反映されているため、現状のすべてを把握することはほとんど不可能である。限られた条件のもとで、日本における朝鮮民主主義人民共和国の呼称の歴史的経緯と現状、それらの問題点と問題の背景にあるものについて述べる。

1 朝鮮民主主義人民共和国の呼称の経緯と現状

 日本による植民地時代、日本は朝鮮を「鮮」の一文字で表現していた。「内鮮一体」がその一つの例である。そして第二次世界大戦後も日本では、一九六〇年代まで南北朝鮮の両国家を指す呼称として「南鮮」「北鮮」が用いられてきた。「南鮮」「北鮮」のうち「南鮮」は、日本と大韓民国の国交正常化(注3)を機会に「韓国」の呼称に変わった。そして「北鮮」という呼称のみが残った。一九七一年の札幌冬季プレオリンピック開催の際、朝鮮民主主義人民共和国はオリンピック組織委員会に対して、正式名称での国名の呼称を求めた。
これを受けて日本新聞協会に加盟するマスコミ各社が朝鮮民主主義人民共和国の呼称を「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」に改めた。そして二〇〇二年の小泉純一郎と金正日の平壌での首脳会談以降の日朝両国の政治的状況により、マスコミにおける朝鮮民主主義人民共和国の呼称に変化がみられた。
朝日新聞は、二〇〇二年一二月二八日の記事にて、それまでの「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」の呼称を「北朝鮮」に変更している。NHKも二〇〇三年一月一日に、それまでの呼称「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」を「北朝鮮」に変更した。産経新聞、読売新聞は一九九六年、一九九九年にそれぞれ「北朝鮮」に呼称を一本化している(注4)。
二〇〇二年一二月二八日の朝日新聞の記事によると、朝鮮民主主義人民共和国の呼称の変更の理由を「北朝鮮という呼び方が定着したうえ、記事簡略化も図れることから」と述べている。また二〇〇四年一月一五日の日本共産党中央委員会の機関紙『赤旗』は、「『韓国』『北朝鮮』と呼ぶわけは?」と題する記事を掲載した(注5)。記事は、これまで、「北朝鮮」「南朝鮮」と記載していた歴史的経緯を述べながら、「北朝鮮」「南朝鮮」から「北朝鮮」「韓国」と紙面上の呼称が変わった経緯を説明している。現在の日本の外務省のHP(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/data.html#section1)には、「北朝鮮基礎データ」が掲載されている。それによると、「3 首都」には平壌と記載されている。ところが表題には、地域名「北朝鮮」が使用され、呼称の国家的次元と地方的次元の混同が見られる。一方で「大韓民国基礎データ」(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/korea/data.html)には、「3 首都」には「ソウル」と記載されており、表題が「大韓民国」となっている。南北朝鮮の一方では呼称の次元の統一がはかられ、他方では呼称の統一がされていない。

2 朝鮮民主主義人民共和国の呼称の問題

 前項に取り上げたマスコミの記事は説得力に乏しいものである。二〇〇二年一二月二八日の朝日新聞の記事については、一九七一年の札幌冬季プレオリンピック開催から三〇年以上も使用されてきた正式名称と俗称の併記を突然変更した政治的意図について触れていない。これらから導き出される問題点は、大まかに以下の四点である。

 第一の問題点は、政治的立場の流動性に起因する呼称の主体的選択の欠如である。前項の二〇〇四年一月一五日の『赤旗』の説明の中にある「南では『朝鮮』を用いることも少なく」なったことによる「北朝鮮」の呼称の使用は、日本共産党の政治的継続性の欠如により生じたものである。また、「韓国」「北朝鮮」の併記の問題にも触れていない。
第二の問題点は、一九六〇年代まで見られた植民地支配下に生み出された朝鮮民族に対する蔑視の放置である。「北鮮」という言葉は一九一〇年の日韓併合後に発生した帝国主義的呼称である。朝鮮は日韓併合後、「内鮮一体」のスローガンのもとに日本人化を強制され、言葉、民族の氏名を奪われた。さらに「北鮮」なる帝国主義的呼称は第二次世界大戦後、二〇年以上も改められることなく放置されていた。これは当時の日本人のあきらかな政治的な怠慢であった。
第三の問題点は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の併記により生じる問題である。大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国それぞれの略称をそれぞれ「韓国」「北朝鮮」とのことわりをしたうえでの文章も見られるが、本来略称であれば「韓国」「朝鮮(もしくは共和国)」とするべきである。「北朝鮮」は俗称にすぎない。そして「韓国」「北朝鮮」とのことわりがなければさらに問題が生じる。「韓国」「北朝鮮」それぞれが地域と仮定すれば、朝鮮民族の一体性を否定していることになる。さらに一方を国家に対する呼称、他方を地域に対する呼称と仮定したとしても、国家的次元と地域的次元の混同、もしくは朝鮮民主主義人民共和国の実在性を否認していることになる。
第四の問題点は、現在の「北朝鮮」という呼称が内包する朝鮮民族の国家、民族への否定が一九一〇年の日韓併合以降に生まれた呼称である「北鮮」と同一の延長線上にあるという点である。二〇一〇年一二月の初旬、電車の中吊りに『AERA 二〇一〇年一二月六日号』の雑誌広告「北朝鮮はなくなれ」「コリャ大変だ」が掲載された。大きな文字の「北朝鮮はなくなれ」のメッセージは、ひときわ目を引いた。「北朝鮮はなくなれ」「コリャ大変だ」についてはそれぞれ、前者は国家の実在性の否定であり、後者は南北朝鮮両国を包括した呼称「コリア」に対する侮辱である。『AERA 二〇一〇年一二月六日号』の「北朝鮮はなくなれ」「コリャ大変だ」が映す「北朝鮮」の問題は、戦後60年以上経ったいまも日本社会に残る朝鮮民主主義人民共和国の国家としての客観的事実の悪意による否定、そして南北朝鮮両国を包括した朝鮮民族全体に対する故意による蔑視感情を白日の下にさらした。

3 おわりに

 以上、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の正式国名の呼称の現状と問題点、そしてその背景について考察してきた。現状の問題点の核心は、朝鮮民族の国家、民族への否定が一九一〇年の日韓併合以降に生まれた呼称である「北鮮」と同一の延長線上にあるという点である。日本においては、朝鮮に関する総称、正式名称の略称、地域名について、ややもすると国家、民族、言語等の次元の異なる要素が混同して用いられ、また時には感情的な議論、議論を行う双方の思い込みのぶつけ合いによる論点のずれが生じている。このような状況がさらに問題の所在を見えにくくしている。呼称をめぐる問題は、単なる言葉の問題ではなく、それを使用する主体の政治的、社会的立場の問題でもある。思えば日本における朝鮮関連の研究はこれまで、不当な政治的圧力により歪められてきた。圧力の主体は、日本人だけでなく在日の民族団体も含む。言語的次元での政治的圧力による歪曲の一例として、NHK「ハングル講座」が挙げられる。一九七六年、有識者がNHKに対して「朝鮮語講座」設置の提言を行った。それに対して政治団体の圧力が加えられ、紆余曲折ののちにNHK「ハングル講座」(注6)が発足した。われわれは良心によって相当な理由をもって選択された名称、呼称に対する不当な圧力を許してはならない。このような複雑な状況は、日本社会の各時代における政治への無意識の追従の姿勢、そして呼称の主体的選択の怠慢が招いたものである。国家だけなく、民族、言語の次元でも南北朝鮮の呼称におけるわれわれの主体的選択が求められている。それは同時に、東アジアにおける強者による弱者への抑圧と差別の歴史を、強者と弱者が共に乗り越えるための課題でもある。
(注1)
国際連合憲章第4条
(注2)
朝鮮中央通信 二〇〇〇年七月二五日付論評
朝鮮新報二〇〇三 年一月二四日、二〇〇三年一月二八日、二〇〇三年二月四日、二〇〇三年二月六日付の各記事
(注3)
一九六五年六月二二日,「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」
(注4)
朝日新聞 二〇〇三年一月九日
(注5)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-01-15/20040115_faq.html
(注6)
「ハングル」は文字の名称であるため、「ハングル講座」の名称は不適切である。例えば日本語や英語に置き換えると、それぞれ「ひらがな講座」「アルファベット講座」の意味になってしまう。


コラム

年末の想定外


 昨年一二月中頃。愛用のNEC製ノートパソコンの変換が極端に遅くなり、クリックするたびにフリーズを繰り返すようになった。私は昔からモノを大切に使う性格で、頻繁にジャンクファイルを取り除き、ハードディスクにも十分な余裕を持たせてあった。こんな症状は初めてだった。導入済の無料ソフトで「高速化モード」にしながら使うこと二週間。ついに起動すらしなくなった。
 パニックに陥りながらも予備の東芝製ノートでネットに接続。解決方法を検索し試してはみるが、埒があかない。翌日、隣のA区にある大型家電量販店内の修理コーナーに持ち込んだ。三一日の朝のことだ。
 やたらと接客態度のいい店員が「診断CD」を差し込むと、画面に「注意」の黄色い文字が見えた。「これは重症かもしれませんね」。「元に戻すのに、いったいいくらかかるの?」。店員は細かな価格表と電卓をはじきながら「これくらいですかね」。ざっと八万円、新品が買える値段である。スッと血の気が引いていった。
 本体には本紙のテキスト原稿をはじめ、趣味の風景写真や施設に暮らす母の動画などがぎっしりと詰まっていた。カウンターで考え込むこと数分。結局、現在のデータをすべて取り出してストレージを交換し、買い替えないことにした。
 「ノートパソコンの寿命は五〜七年」と店員。保証書を見ると購入から七年半が経っていた。「ディスクが新品でも他の部分が壊れるかも」と不安に追い打ちをかけてくる。職場の新年会で事のてん末をシステム担当管理職に話すと、「ああ。あそこはインターネットの高額契約で高齢者を騙し、かなり問題になった店だね」と吐き捨てた。
 年明けからの「東芝使い」に慣れてくると、修理への関心も薄れていった。だが引き取らないわけにもいかない。「SSD交換修理」「オフィス認証」「データバックアップ+戻し」「内部調整」「ウイルス検査」など見積りは増え続け、七万円で買った製品の修理代は七四、六四〇円になった。冬期一時金が消えた、想定外の出費である。
 老舗の寿司販売店に勤める弟は毎年大晦日に、家族分の高級おせちを宅配便で送ってくる。それを正月の主食にし、初詣を兼ねて根岸、下谷、浅草周辺を、今年ものんびりと散策するはずだった。パソコンの構造に通じていれば、少しは適切な対処ができたかも知れない。だが悔やんでも仕方がない。暮れには仕事関係でも訃報が相次いだ。私はパソコンで命を落としたわけでもない。
 自室に戻ってきたNEC機はサクサクと動き、入力速度にもしっかりとついてくる。当分はこいつを使い続けるしかないか――秋葉原の量販店に並ぶ格安な最新機種を横目に、一人つぶやく私であった。     (隆)


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