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    かけはし2018.年1月22日号

2つのテロリズムへの対抗とは


中東

オルタナティブ体現する組織

ジルベール・アシュカルに聞く

 米国はエルサレムをイスラエルの首都として認め、米大使館をそこに移すだろう、とのドナルド・トランプの発表は、中東を貫き、さらにそれを超える抗議の爆発を生み出すことになった。しかしこの地域におけるワシントンの影響力と力は、一連の後退を理由に下落を続けてきていた。ジルベール・アシュカルは、レバノンで育った社会主義者であり、数多くの本の著者でもある。その彼が、中東における近頃の展開とトランプの一年を経た結果について、アラン・マスと語り合った。

バーバリズムの衝突はなお進行


――米国は「イラクとシリアのイスラム国」(ISIS)を打ち破ることに主に焦点を絞ってきた。そしてそれは、両国における彼らの主な拠点からISISを追い出す攻撃をもって、大幅に成し遂げられたように見える。最初の質問だが、今イスラム国には何が起きているのか?

 ISISは明らかに厳しい敗北を被っている。彼らは、シリアとイラクに非常に大きく伸びた領域上で一定の長期続くと思われた、構築された一国家、カリフ統治領を得た、と考えた。しかし彼らはこのすべてを基本的に失うことになった。それは、分解するまでおよそ三年続いた。
事実上他の誰をも敵に回しそのような長期にわたって大きな領域を確保したということは、ISISにとってそれだけで大きな偉業となった、と言えるだろう。この地域に関係した他のあらゆる勢力すべての間には、何らかの種類の総意があったが、ISISはそれに敵対したただ一つのグループだからだ。
ISISは大敗北を喫した。しかしそれは、彼らが消えるということを意味しているわけではない。大量のその戦士は、イラクとシリアで何とか地下に潜ることができ、いくつかの他の諸国には出先を確保している。そしてわれわれがアルカイダの例から知っているように、テロリズムは地下のネットワークを通じて、はるか遠くまで達する可能性があるのだ。
私が確実に言えることは、今後の時期われわれはこのテロリズムを大量に見ることになる、ということだ。それを生み出す諸条件を変えない限り、このいわば悩みの種を取り除く実のある方法はまったくないからだ。
今日これらの諸条件は極めて複雑になっている。これらにはまず第一に、イスラエルをはじめとしてこの地域で西側帝国主義の支配がしでかした、国家テロリズムが含まれる。一九九〇年以後世界規模で起きてきたことの多くに分かることとして、その根は、一九九一年と二〇〇三年のイラクに対し米国が仕掛けた戦争、およびその結果として続くイラク占領にある。
しかし同時にこの地域には、国家テロリズムを実行し、似たような憎悪に油を注ぎ、こうしてISISのようなグループの孵化場を生み出している、多くの当地政権がある。
全体としてわれわれは、私が九・一一後に書いた本の中で「バーバリスムの衝突」と呼んだものを目撃し続けている。強者のバーバリズムが、弱者の対抗バーバリズムにとっての条件を諸々生み出しているのだ。
強者のテロリズムが、すべての中でもっとも死を呼ぶものとしての米国か、ロシアか、あるいは二つだけ名を挙げるとして、この地域政権中でもっとも残忍なシリアのアサド政権のような当地政権か、エジプトのシシ独裁体制か、そうしたことと関わりなく、この条件こそがわれわれが見続けてきたものだ。そして言うのも恐ろしいことなのだが、われわれはもっと多くのそうした条件を見ることになるだろう。

米国の影響力が最低点の中で

――イラクとシリア内のISIS拠点を攻略したことから生まれる問題の他の側面は、これが米帝国主義をどこに置くのか、ということだ。中東における諸大国に関係する、またその国際的な帝国主義のライバルに関係する米国の位置取りはどうなるのか?

 一九九〇年以後、米国がこの地域におけるその影響力で最低の地点にある、ということにはまったく疑問の余地がない。その年は、イラクに対する第一次戦争に向かう序曲として、大規模な部隊を展開してこの地域に介入した時だ。その後米国は、その地域的覇権の史上最高点に達した。
これは、ソ連邦が死の苦悶の中にあった時に起き、それによりワシントンは、中東情勢に対する完全な支配権を確保した。その頂点と比較して現在の情勢を評価すれば、米国がどれほどまで転落したかがあなたにも分かるだろう。
それをもっとも鮮明に描き出しているものは二〇一一年の蜂起だった。それは、米国が占領の目標のどれをも達成することがないまま、この地域におけるワシントンの大敵であるイランの支配下にこの国が落ちるに任せて、イラクから撤退を迫られた年だった。そしてテヘランは今やイラク政府に対し、ワシントンよりもはるかに決定的な影響力を行使している。
二〇一一年はまた、ワシントンの中心的同盟諸国が大規模な蜂起に直面した年でもあった。チュニジアの独裁者のジネ・エル・アビデネ・ベンアリには、エジプトのホスニ・ムバラクが続いた。二〇〇三年にワシントンの側に移行したリビアのムアムマール・エルカダフィも彼らに続き、バーレーンも突如反乱状態に入り、湾岸の石油君主国すべてに傷跡を残した。
反カダフィ蜂起支持のリビアへの軍事介入は、「背後からの指導」に関するオバマの有名な定式にとって好機となった。そしてそれは、指導権を取ったNATO内の欧州同盟国よりも、米国がこの介入でより低い存在感しかないことを映し出した。
しかしその介入は大失敗であることが明らかになった。リビア人の蜂起を統制し、リビア国家を維持することになると思われる一つの結論に向けそれを操作する、というもくろみは散々な形で破綻した。そしてリビア国家は完全に崩壊した。
こうしてリビアは、支配体制を徹底的に打倒することに成功した――進歩的なものは言うまでもなく、あるべき場所を占めたオルタナティブがまったくないことを除いて――アラブでただ一つの国となった。当然ながらカオスが続いた。
「イエメン方式の解決」も三年も経たずに悲劇的に崩壊した。それは、米国の支援に基づき湾岸の君主諸国によりでっち上げられた、国の支配グループと反政府勢力間の妥協であり、オバマにより、シリアに適用されるべきモデルと指摘されるほどに賞讃されたのだった。
米国はこのように、イラク侵攻以後この地域で一連の後退を重ねてきた。イラク戦争は、米帝国主義史上の大失策――米国が直面すると思われる問題がどのようなものかを分かっていたブッシュ家の親密な友人たちの助言にすら背を向け、ブッシュ政権により行われた自滅的な占領――として思い出されるだろう。

トランプは米帝の後退一層促進

 結果としてワシントンは、二、三〇年前に比較し、極度に低い存在感の地点にいる。米国は、二〇一四年のISISによるイラクへの拡大を、限定的復帰を組織する好機としてつかんだ。米国は、ISISへの爆撃作戦を始めるために一つの連合を組織し、イラクでの一定の存在を再び確立、シリアでも同じことを行った。シリアの現場におけるワシントンの主な介入は、クルド諸勢力の側に付くことだった。しかしそれはそれ自体矛盾したことだった。それらの勢力は急進左翼の伝統を起源とし、それでもシリアにおける対ISIS戦闘の主な米国の同盟勢力だったからだ。ドナルド・トランプはこれを「愚かしい」と呼んでいた。そしてそれを止めたいと言明している。
あらためてこれはワシントンの全般的な弱さを示している。一方イランはその力、影響力、また地域への介入を広げ続けている。そしてもちろんロシアは、シリアからリビアにわたるこの情勢全体における大きな勝者として現れている。
モスクワは二〇一五年、その空軍をもってシリアへの直接的介入を開始した。同時にオバマ政権は、ロシアは対ISIS戦争に参加しようとするだろう、との口実の下にロシアの介入を歓迎した。しかし誰もが知っていたことだが、モスクワの主な標的はISISではなく、アサド政権に対するシリア反政権派になると決まっていた。
ワシントンは基本的にロシアに、反政権派をシリア政府が粉砕する助けをする上でのフリーハンドを与えた。ロシアはトランプ選出後、しかし彼が大統領になる前から、イランとトルコ両者を同じ船に乗せながら、急に政権と反政権派間の調停者という役割で行動しつつ、シリアにおける事態解決策策定者の役割に向け自身を準備し始めた。
ここにはもう一つの課題がある。二〇一六年秋トルコは、シリア内クルド諸勢力に対するワシントンの支援に怒って、ロシアとの連携に位置を移し、こうして、この地域における米国の影響力にもう一つの重い打撃を加えた。
今日ロシアは、この地域全体で地歩を得つつある国として現れている。他方米国は地歩を失い続けているのだ。モスクワは今日、地域の抑圧的秩序のもっとも効力ある支えとして現れている。それは、シリアで演じた極めて残忍な役割に続いて、当地の豪腕であるハリハ・ハフタルの支持を得たアラブ首長国連邦と歩をそろえた、リビアへのシシの介入を維持するために、シシからエジプト内に空軍施設を認められた。サウジを含めて、石油君主国すべては今、モスクワに言い寄り続け、ロシアの兵器類を購入し続けている。
ドナルド・トランプは、米国の地域的後退というこの流れを決定的に逆転しようとはしていない。逆に彼には、中東における米国の影響力のさらなる、急速な悪化に向かう理由がある。

エルサレムをめぐる愚かしさ

――そして今トランプは、米国はエルサレムをイスラエルの首都として認めるだろう、と公表するにいたった。これはどのような衝撃力をもつだろうか?

 これは、トランプのような合理性のない――つまり、米帝国主義の基本的利益という基準から見た合理性のなさ――人間しかやり通すことができないと思われる完全に根拠のない挑発だ。
このようなゲームをやることは、米国の利益には決定的に役立たない。トランプはそれを、彼の支持者中のもっとも反動的な翼の要求を満たし、彼の前任者が選挙キャンペーンでの誓約を満たすことができなかったところで「満たす」にいたったという彼の病的な自己顕示症を押し上げる以外では、何の明白な理由もないままにそれを行おうとしている。
彼はそれを、パレスチナ人をなだめようと試みるための何かを提供することもないまま行った。彼は、そうした動きを行う見返りに、イスラエルのネタニエフ政権から何らかのものを確保することもなかった。それは、米国の中東政策という観点から見て、まさに意味をなさない。
これは、トランプが理由となって、米国のイメージがアラブ世界、ムスリム世界、さらに世界中の南ですでに恐ろしいほど否定的になっている時に、ワシントンにはおおいなコストになるだろう。オバマの下で達成された限定的イメージ高揚はどのようなものも完全に一掃された。そして、米国がこれまで得ていた中ではもっとも見苦しいそれで置き換えられた。
結果はただ米国に対するもっと大きな憎悪となり、もっと多くのテロリズム――弱者の武器――を育むだけとなる可能性がある。米国の住民は再度、その支配者たちの強欲の対価に耐えることになるだろう。それはまさに、それ自体が中東における米国の政策の直接的結果にほかならなかった、九・一一に際して経験したことと同じことだ。

サウジでも「宮廷革命」進行中

――この構図のもう一つの部分について質問させてほしい。あなたは、モハメド・ビン・サルマン王子の策謀と一体化したサウジアラビアにおける展開に関し話すことができるか?

 サウジアラビアで起きつつあることは何よりもまず国内問題――権力闘争――だ。これまで起き続けてきたことはある種の「宮廷革命」だが、近頃起きた、王族内の数人の大物、また国の貴族社会に属する他のメンバーの劇的な逮捕までは、いくつかの段階を踏んで行われてきたという意味で、相対的にゆっくりとしたものだった。
われわれが今目撃中のものは、この王国を君主制の伝統的な型をもっと多くもつものへと戻すモハメド・ビン・サルマン王子〔しばしば彼のイニシャルにちなんでMBSと呼ばれる〕によるもくろみだ。そこであなたが見るのはもっと小さな支配家族だ。対照的にサウジ王国には、膨大な数の息子――一〇〇人近い子どもの中で四五人――がいた一人の王、アブドゥラジス(イブン・サウド)の息子たちから構成される拡張された支配家族がある。  MBSは拡張されたサウジ家による支配というこの伝統を終わりにし、権力を彼自身の下に集中し、新たな王族系列を権力の座に着けようと挑み続けている。彼はこれを、彼の父親が王になって以後、王子の地位から行い続けている。しかし彼の父は、彼が今行っているすべてのことを支持し続け、したがって彼はその点に関し白紙委任を得ている。
彼は、彼の父親であるサルマンが王になった後二〇一五年一月に国防相に指名された野心的な若者だ。その時彼はまだ三〇歳になっていなかった。
国防相として彼が行った最初のことは、イエメンで戦争――サウジとその連合軍による、極度に破壊的で虐殺的な爆撃作戦――を始めることだった。それは、サウジと連合軍がすぐさま問題を解決するという期待が完全に間違っていたと分かった、という意味で今では破綻している。
近頃のできごと――特に、元大統領のアリ・アブドゥラー・サレーが再度姿勢を変え、サウジとの連携を新たにすると公表した後の、彼の殺害――からあなたが理解できるように、彼らは勝利を達成するところからは極度に隔たったところにいる。彼らは、既にわれわれの時代では最悪の人道的悲劇となっているものを引き起こすことに成功したにすぎない。そこには、飢餓を原因とする死に直面している七〇〇万人近く、並びにコレラを原因とする死に直面している一〇〇万人近くが伴われているのだ。
MBSはその後彼の注意をもっと国内的な問題に移した。そしてそれは、古い伝統に従って任じられた前の王子がその地位から単純に除かれ、MBSがその地位を占めた時だった。これは、「宮廷革命」における鍵となった瞬間――伝統との最初の大きな決裂――だった。
MBSはその時以来、潜在的に可能性をもつライバルたちを排除することで、彼自身の権力を固め続けてきた。彼の道に立ちふさがる可能性をもつと思われる誰もが、さまざまな口実の下に、その一つが腐敗だが、抑圧を受け、逮捕され、迫害され続けている。
もちろんMBSは、それに人気があるという理由で、この腐敗という口実を頼りにしている。そしてサウジ国家では、膨大な量の腐敗があるということは否定しがたい。しかしそれがまさに一つの口実であるということもまた明白なのだ。
実際MBS自身極めて腐敗している。確かにこの男は、一方で彼の王国の臣民に緊縮策を強いながら、彼が望むやり方でどんな額のマネーも使用できる若者なのだ。彼は昨年、ロシア人の大物のものだった一隻のヨットを気に入り、それを五億ユーロ――およそ五億五〇〇〇万ドル!――で購入した時に、そのことを証明した。それはまさに、われわれが今扱っている者について一つの考えを与えるものだ。

地域にもう一つの不安定要因


――この権力闘争は地域にどのようなはね返りを与えるだろうか? たとえばサウジは、その首座にある現地の同盟者であるサード・マリリ首相を辞任させることで、レバノンへの介入をもくろんできたように見える。こうした動きのすべてはイランとの長期の競合関係と密接に関わっているが、それで正しいか?

 サウジ王国は、イランの拡張主義――最初はイラク、次いでシリア、さらにレバノンまで貫いて――からの心配をますます抱えることになった。今や、テヘランからベイルートまで通じるイラン支配の回廊がある。そしてそこには、直接のまた代理を通じた両者のイランの軍事的プレゼンスが含まれている。
サウジはこれに、彼らがイランを大敵と見ているがゆえに、極度に気をもんでいる。彼らは、一九七九年にそこでの君主制を打ち倒したイランでのイスラム革命――サウジの体制にとっては悪夢のシナリオであり、彼らは同じ年、本国のメッカでウルトラ原理主義者の蜂起と衝突した――以後ずっと、気をもんできたのだ。
二〇一五年にサルマンが王となった時、彼は最初サウジ王国を、地域のスンニ諸勢力を統一する政策へと動かした。彼は、ムスリム同胞団との一定の合意に対する障害物を攻撃することを含めて、二年この政策にしたがった。
それはドナルド・トランプが大統領になった時まで続いた。トランプは、悪意をもつステファン・バノンに助言を受け、この政策の逆転とイランおよびムスリム同胞団両者に対する敵対のエスカレーションを強要した。
これがこの年はじめにおけるサウジアラビアの、ムスリム同胞団に対する主要な後援者であるカタールとの決裂に導いた。カタールは、この時点まで連携したイエメン爆撃に関わっていたが、この問題を理由にその連合からはじき出された。それは極めて貧弱な策動であり、期待したこととは逆の結果となった。
反イランのエスカレーションはレバノンにまつわる最新のエピソードに導いたものだ。ハリリは全面的にサウジに依存している。ハリリ一族は、支配的王族メンバーとの結びつきを通じて、その富をサウジ王国で築いた。そしてそのことは、サウジ王国内でのあらゆる財産形成では必須条件だ。
サウジから送られ続けていたメッセージは、われわれはわれわれの人びと――すなわち、ハリリ――がヒズボラを意味するイランの人間が支配するレバノンの政府に参加することを求めてはいない、ということだ。
それはメッセージだった。しかしそれさえも、米国とフランスを含む西側諸政権の介入のおかげで失敗した。マクロンフランス大統領は、この王国からハリリを逃れさせ、レバノンに戻す点で精力的な役割を演じた。そして彼は今、サウジが終わらせたいと望んでいるものである、そうした何らかの妥協に新たに取りかかっている最中だ。そうであってもそこでの情勢は高度に不安定だ。

長期的革命プロセス中の反革命

――アラブの春からほぼ七年の今、革命と反革命のバランスシートに関し、あなたは何らかの全般的な結論をいくつか引き出せるか? あなたは以前、これを進行中のプロセス――別々のエピソードで終わりになるのではなく、継続的な――として理解することについて書いたことがある。あなたはそれをさらに広げることができると思うか?

 出発点は、アラブの春と呼ばれたものが、メディアで描かれたような、民主主義と自由という課題に限定されてはいなかった、ということを理解することだ。それは、社会的性格をもつ不満の蓄積を理由とした、はるかに深い社会的かつ経済的爆発だった。特に若者の記録的な失業率、生活基準の低さ、貧困、これらすべてが二〇一一年に機が熟したのだ。
それこそが、私が当時、私が「長期的な革命プロセス」と呼んだもの、何年も何年も――今や人は自信をもって数十年ということができる――の混乱が続くと思われるプロセスが始まったと強調した理由だ。
世界のこの地域には、極めて長期の新たな安定は決してないだろう。実際にその理由は、安定への条件は抜本的な社会的で政治的な変革、完全に異なった種類の経済的で社会的な発展に向けた軌道をこの地域に敷くと思われる変革だからだ。そうした抜本的変革がなければ、中東の不安定性は解決されないだろう。
現瞬間の直接的問題は、アラブの春で登場した進歩的な諸勢力が、二〇一一年から数年のうちにほとんどすべてのところで周辺に引き下がっている、ということだ。その時からこの地域は、二つの反動勢力の間で引き裂かれてしまった。
一方にはこれまでの諸体制、あるいはそれらが打倒されたか、大きく掘り崩された諸国でのその名残がある。そして他方には、イスラム原理主義諸勢力――もっとも重要なものとしては、カタールが後ろ盾になっているムスリム同胞団、およびサウジが鼓舞するサラフィスト――がある。そしてこれらは、その内部で民族主義諸政党と共産党が鍵となる役割を演じた、左翼活動の以前の波が崩壊したことを受け、一九七〇年代と一九八〇年代に台頭を果たした。
現実は、この地域全体が二〇一三年以後、アラブの春と称された先立つ革命的な局面からある種の反革命の局面へと移行を遂げた、ということだ。後者は、二つの反革命の極――これまでの体制のそれとそれらに対するイスラム原理主義者の競合相手――間における衝突を特徴としている。
これが、リビア、シリア、さらにイエメンで勃発することになった戦争で作動しているもの――基本的にあらゆるところであなたは同じ成分を見出す――だ。それらはエジプトでの緊張した情勢の中に存在している。そこでそれらがとった形態は、ムスリム同胞団を粉砕して、ある種の復讐を伴った旧体制の復帰だった。
われわれはこの反革命的局面の真ん中にいる。しかし同時にあなたは何らかの指標から、社会的諸課題が今も煮えこぼれ続けていることを理解することができる。二〇一一年の爆発に導いた社会的かつ経済的な諸要素が今なおそこにあるだけではなく、それらはさらに大きく悪化してもいる。これは、さらなる爆発とさらなる混乱へと導くだろう。それは大いに確実だ。われわれが期待してよいことはただ一つであり、それは、二〇一一年に強力に現れた進歩的な潜在能力が、権力を得ようと力を振り絞るために、自らを再確立し組織することだ。これこそがアラブの春で欠けていたもの、つまり、旧体制とその原理主義の相手両者に対するオルタナティブを構築する明確な戦略を備えて、先の潜在能力を体現する組織、だ。(二〇一七年一二月一一日、ソーシャリスト・ワーカーズ・ウェブサイトより)(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年一二月号) 


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