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    かけはし2018.年1月1日号

クライメート・ジャスティス軸にグローバル
資本主義との闘いの新しいサイクルの始まり



三里塚管制塔占拠闘争から40年

闘いの教訓を確認し、未来に生かそう

 一九七八年三月二六日の温かい日曜日、開港直前の「新東京国際空港」の管制塔が、空港に反対する農民と共に闘ってきた若い労働者、学生によって占拠された。この闘いは、農民の土地を奪い、抗議の訴えを踏みにじってきた政府・空港公団の暴挙への正当な反撃だった。闘いを振り返り、未来に生かそう!(編集部)

1978 3・26三里塚管制塔占拠闘争40年

今こそ新たな世直しを

      3・25集会

 ?日時:二〇一八年三月二五日(日)午前一一時

?会場:連合会館二階大会議室(御茶ノ水駅)

?集会:第1部 映画「三里塚のイカロス」上映/第2部 現地から報告、発言、他/第3部 懇親会

?参加費:1部+2部 一〇〇〇円、3部(懇親会) 二〇〇〇円

?主催:三里塚芝山連合空港反対同盟(柳川秀夫代表世話人)、元管制塔被告団

◎連絡先
?三里塚芝山連合空港反対同盟 千葉県山武郡芝山町香山新田90─5/TEL・FAX0479―78─8101
?元管制塔被告団 090─8171─1810 中川憲一
?三里塚空港に反対する連絡会 東京都千代田区内神田1―17─12勝文社第二ビル101 研究所テオリア/TEL・FAX03─6273─7233 Mail:email@theoria.info

●三里塚管制塔占拠闘争40年3・25集会に賛同を
◎賛同  個人1000円、団体3000円(公表の可否をお知らせください)
◎賛同金振込先/郵便振替 00180─5─567296 研究所テオリア
(通信欄に「管制塔集会賛同」と明記)

空港突入四〇年の集いにむけて

柳川秀夫
(三里塚芝山連合空港反対同盟代表世話人)


世直しの旗が翻ったのは駒井野の強制代執行であった。まさに戦争状態でむかえた代執行。世直しの闘いを宣言することで百姓も誇りを持って闘うことができた。
百姓は畑に種をまくと、訪れる豊かな稔りを迎えるために手入れを惜しまず汗を流す。山の木の手入れ等、何十年も次の世代の為続ける。
闘いも途中で決してあきらめず根気よく闘い続けてきた。作物を育てるのと似たようなものだ。
新しい年を迎える度、又今年も頑張れば来年は勝てると年寄りが話し会っていたのを今も覚えている。作物も今年だめでも来年があるように。
しかし、百姓では出来ないこともあった。今日ではボランティアとかになってしまったが、多くの人達の助けが求められた強行開港阻止という難題。それは果断に生命、人生を代価に三月二六日に行われた。
重くて背負いきれない程の快挙であり、大義の春であった。
四〇年目に何を思えば良いのか、三里塚では世直しはいくさと密接でもあったが。時が移り世の中の在り方を見直すことへと重みが増している。
今あの日に帰って夢は色褪せてないか。さらに輝いているか確かめるのも大切なのかも。世直しの新たな旗が翻るために。     
(2017・11・7)

「3・26」の闘いを継承し
新たな世直しへ

中川憲一(元管制塔被告団)

 一九七八年三月、時の福田赳夫自民党政権は成田開港を国家の威信をかけた最重要課題と位置づけ、力ずくで3・30開港を図ってきました。一九六六年閣議決定から、機動隊の暴力を前面に出した国家の土地取り上げと闘ってきた三里塚の農民と支援は、この非道に真っ向から立ち向かいました。
一年を超えた開港阻止決戦の正念場となった3月26日。「空港包囲・突入・占拠」
を掲げて菱田小跡に結集した三里塚闘争に連帯する会、労調委などの仲間は、横堀要塞の闘いと連動して空港へ突入。
前日二五日夜から下水溝に進入していた私たち管制塔部隊は、二六日午後一時、9ゲート・8ゲートからの空港突入に呼応して、マンホールから飛び出して管制塔に駆け上がり、管制室を占拠しました。
時の政権の道理を無視した3・30開港を人民のパワーが阻止したのです。この闘いは、六〇年代の反戦・全共闘の闘いから七〇年代連赤・内ゲバという後退とは違う闘いのあり方を示しました。管制塔の闘いは海外の運動にもインパクトを与えたと聞いています。
その後も2005年には皆さんの協力による一億円カンパ運動によって、管制塔被告は政府による賠償強制執行をはね返すことができました。
いま法も道理も無視した安倍政治が憲法改悪を目指し、沖縄では基地建設反対
の闘いが続いています。成田空港でも住民を無視した夜間発着時間拡大、第三滑
走路の計画が出されています。
このような中で迎える管制塔占拠闘争40年。40年集会を開催したいと思います。
「3・26」40年にあたり、民衆の闘いの歴史を貶め消そうとする体制に対抗して「3・26」を語り継ぐととともに、40年前の闘いをもう一度見直し、その原点を再発見・再定立していきたい。この集会が旧交を温めると共に、78年を知らない人々と共に、その今日的意味を考えるきっかけになれば幸いです。
全国の皆さんの集会への参加と賛同を呼びかけます。

日本人民の希望と未来の赤旗

加瀬 勉(三里塚大地共有委員会代表)

 開港阻止決戦・空港包囲・突入・占拠。三里塚空港にディエンビエンフーの戦いを。空港を包囲し突入し、亀井・三井警備局長率いる警視庁精鋭部隊を粉砕し、管制塔に突入占拠し赤旗を翻した。開港を阻止し、ディエンビエンフーの戦いを三里塚闘争で実現させたのである。三里塚で「警視庁敗れたり」と秦野警視総監に言わしめたのである。
管制塔戦士たちが打ち振る赤旗の血潮の燃え滾る鮮やかさは我々の前途を指し
示すものであったが、また権力の容赦ない弾圧でもあった。新山君が原君が犠牲になって斃れていった。囚われた管制塔戦士達は冷たい鉄格子、獄中の深い闇、
家族の苦難の生活。10年余の歳月。三里塚闘争のさらなる前進と勝利を、日本の夜明けを信じて戦い抜いた。俺たちは万難を排して獄中にいる管制塔戦士に連帯したのか。したと言い切れるのか。問い続ける四〇年であった。
その問いに一人一人が答える時代が到来してきた。戦争政策遂行、改憲内閣、ファシストの安倍内閣の四度の成立、「三里塚空港機能拡大・夜間飛行制限緩和・空港用地七〇〇ha拡大・新滑走路の建設・五〇万回増便」の一〇年計画の新たなる攻撃がかかってきた。戦いの思想を魂を管制塔戦士の行動を規範に共に競いあい磨きあってゆこうではないか。団結して前へ。

12.3

毎年恒例の反戦反差別荒川集会

避難者現状と原発再稼働を考える

差別と排外主義に抗して


 【東京東部】一二月三日、東京・荒川区で年末恒例の「反戦・反差別荒川集会」が開催され、地域で運動に関わる個人・団体らが集まった。主催は表題の実行委。会場は荒川区立さつき会館。
 司会を清掃労組の田崎明さんが務めた。最初に今夏NHKスペシャルで放映されたドキュメンタリー作品「沖縄と核」が上映された。
 一昨年アメリカ国防総省は「沖縄に核兵器を配備していた事実」を初めて公式に認め、元兵士たちもようやく重い口を開き始めた。そこから浮かび上がったのは「核の島・沖縄」の衝撃的な実態だった。集会でのビデオ上映については、とかく技術的なトラブルがつきものだが、音声・映像とも快適な状況で、参加者はスクープ報道の画面に見入っていた。
 上映後、開会のあいさつとして三井峰雄さんが発言に立った。三井さんは、地域の労働運動の創始者的な存在だった森谷新さん(社民党荒川支部長)の訃報に触れた。

常に行政と
対峙して
「いつも集会に力強い筆書きの横断幕を作ってくれていた森谷さんが、亡くなった。七期二八年の荒川区議会議員生活があり、本実行委を区の社会教育団体に登録したのも森谷さんだ」。「その際に区側から『政治的な団体ではないか』と訝しがられた。だが森谷さんは『反戦も反差別も、まったく憲法の精神に則っている。こういう主張をするのは当たり前のことだ』と力強くかつ丁寧に相手を説得した。実に森谷さんらしいエピソードだ」。三井さんは当時を振り返り、集会参加者全員で故人に黙とうを捧げた。
今年の講演者は「NPO人権センターHORIZON」の片岡遼平さん。「福島原発事故被災者の現状と再稼働問題」と題して、現地で撮影したスライドを上映し報告した。
「今日は埼玉からここまで、電車を五回も乗り換えてきた。今の時間がちょうど二時四六分。震災が起きた時間だ」。片岡さんに促されて時計を見ると確かにそのとおり。東日本大震災から早や六年半。死者・行方不明者は約一万八千五百人(一六年一二月現在)にも上り、加えて震災関連死は約三五〇〇人(一七年三月現在)になる。片岡さんは部落解放同盟埼玉県連にも所属。宮城県気仙沼で三年間続けた仮設住宅への支援では、大工らが物干竿の下に縁側を作り、住民にとても喜ばれたという。イベントやスタディツアーも企画し、「被災地を忘れないで」とのメッセージを届けてきた。

被災者への
陰湿ないじめ
それでも被災者、避難者への差別や偏見は、後を絶たないという。避難者の子供が「バイ菌」扱いされたいじめはメディアでも大きく報じられた。子どもの甲状腺がんは、本来の統計よりはるかに高い確率で発生している。
福島ナンバーを付けている車への損壊事件もある。風評被害をはじめ、女性は将来子供が産めるのかといった不安や、結婚に影響するために「福島出身」を隠す事例もある。避難者の家には「帰れ」というペンキの落書きも見つかった。
いわき市では、道を挟んで立派な戸建住宅と仮設住宅が向かい合っている。元々の住民には一時金が支給されるが、仮設の住民に対しては「避難者は賠償金をもらったうえ、家賃はタダで住んでいる」といったバッシングが絶えないという。
さらに、避難者が増えたことで病院などインフラが混雑し、「避難者はタダで医者にかかっている」などといった感情がぶつけられ、「避難者は出ていけ」といった心ない声が上がっている。住民同士に軋轢が生まれ、分断が起きている。避難指示が解除されても家には戻れない。特に子供のいる世帯は戻らない。そのために意見が割れて別居するなど、幸福だった家族も分断されている。
原子力発電環境整備機構(NUMO)と経産省が住民向けに開いた埼玉の意見交換会では、運営した企業がカネで学生を動員していたことが分かった。

メディアへの告
発でニュースに
運営と広報は民間企業への委託で行われていた。今年十一月六日開催の会で、一万円の日当と引き換えに十二人の学生が参加していた。こうした買収行為は、その金額こそ差があるものの、静岡や奈良など全国各地の意見交換会で行われていた。片岡さんが前述の埼玉での会に参加していて、この事実をつかみメディアに流したことで大きなニュースになった。
「震災と原発事故は、日本社会が抱えてきた多くの問題を露呈させた。岩手、宮城では、住民を置き去りにした巨大復興事業の矛盾が浮き彫りになっている。福島では帰還政策による強引な避難指示解除と避難者の切り捨てが進められている」――片岡さんは厳しく安倍政権のやりかたを批判した。そして、「大震災以後も毎年各地で災害が相次ぎ、昨年の熊本地震でも被災者の生活再建は厳しい状況にある」。「それらの多くは人権にかかわる問題であり、弱者に寄りそった支援活動をこれからも続ける必要がある」と提起して、一時間十五分の講演を締めくくった。
質疑応答では、被災者の二重ローンについて、地層処分についてなどの質問が出された。部落解放同盟荒川支部の高岩正興さんが、閉会のあいさつを行って、第一部のプログラムは終了。参加者は第二部の交流会へと移っていった。

悲しみを越え
闘う決意
本実行委の集会は毎年この時期に、地域で活動する団体・個人の一年を振り返る「忘年会的」な性格でも続けられてきた。部落解放同盟荒川支部を先頭に、さつき会館前の公園にテントや机を何組も並べ、炭火で大量の肉を焼いた。そのために「焼き肉パーティー」などとも呼ばれ、地域の活動家が家族ぐるみで触れあう冬の一大イベントだった。だがここ数年、さまざまな事情で屋内での開催に替わり、規模が縮小した。力仕事が無くなりスタッフの準備は楽になったのだが、これも時代の流れなのか、どこかさびしい気もする。
中心人物だった森谷新さんの急逝を受けた今年の集会は、これからを担う後進たちの顔触れが揃った。安倍政権の連勝による自民一強政治の下、差別・排外主義勢力はやりたい放題、怖いものなしの攻勢をかけてきている。人権派の今日までの地道な闘いと、その成果を何としても防衛し、反転攻勢に打って出よう。悲しみを乗り越えて連帯を固め、お互いに支えあっていかなければならないと痛感した一日であった。(隆)



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