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    かけはし2017.年12月11日号

プロレタリアート政権樹立へ


ロシア革命100年

第4回:1917年10月権力獲得

臨時革命政府にしたがう者は消え
権力奪取の論争も8月以来公然と

  ロシア十月革命百年にあたって本紙は百周年記念シリーズの一環として、二月革命から七月事件までの過程を三回にわたってたどってきた。今回はいよいよ十月革命を取り上げる。『ランティ・カピタリスト』(仏NPA=反資本主義新党機関紙、四〇二号、一〇月二日)からの転載。(「かけはし」編集部)

10月の権力移行の真実

ローラン・リパール

 一九一七年一一月七日夜(当時、ロシアで用いられていた旧暦=ユリウス暦では一〇月二五日から二六日)、冬宮の奪取によって、パリ・コミューンから四六年後、ボリシェヴィキは新しいプロレタリアート政権を樹立することができた。
 一〇月における権力の獲得は、陰謀的作戦などではまったくなくて、二月に始まった革命的危機の新たな展開によるものである。このことは、八月末以来数週間かけて公然と討論されて来たことである。それが、何百万人もの労働者、農民、兵士にとって、革命に着手するという目的を達成する唯一の方法に思われたからである。
 兵士たちは、戦争の終結を望み、何万人という単位で武器と背嚢を背負ったまま脱走していた。農民は、臨時政府が公約の実施を拒否し続けていたのにいら立ち、領主の館に大挙しておしかけ襲撃し始めた。九月と一〇月には、一千戸近い地主の館がこうして略奪され、焼き払われ、耕地が再分配された。

権力問題論争公然化の背景


 工場では、権力なき管理が限界を示し、大企業の閉鎖の脅威が高まりつつあった。経営者が逃亡している時、何を管理すべきなのか? まったく当然のことながら、ソビエト、工場委員会、兵士委員会、赤衛軍の中の討論は、常に、国家権力の問題に、権力を「ソビエトに」の問題に立ち戻るのだった。
 ボリシェヴィキ党内の論争も公然としたものだった。レーニンは、プロレタリアートだけが危機を解決できると確信し、弾圧を逃れて隠れていた国外から何度も伝言を送り付けた。ボリシェヴィキがプロレタリアートの間の多数派なのだから、権力を取りさえすれば、権力を帰すべきはボリシェヴィキのもとにだとレーニンは考えた。ジノヴィエフやカーメネフのような別のボリシェヴィキ指導者たちは蜂起に反対した。二人は、来るべきすべての選挙でボリシェヴィキが多数派になるだろうと考えていたからである。二人は、ゴーリキの新聞に蜂起に反対する論文を発表した。もう一つの論争が存在した。それは、一〇月二五日に開催されるソビエト第二回全国大会の開幕までに、権力を握るべきかどうかという点をめぐるものであった。それは、党とソビエトのそれぞれの立場はどうあるべきか、という問題であった。
 臨時政府は、権力獲得を妨げる力を持っていないだろう。もはやすでに、臨時政府のために死ぬことを望む者はだれもいなかった。臨時政府の決定のすべてがその崩壊を促進した。前線に送られるかもしれないという恐れが広範な反乱の引き金となり、兵士と水兵はペトログラード・ソビエト軍事委員会の命令に従うようになった。臨時革命政府は、ボリシェヴィキの新聞の発行を禁止しようと試みなかっただろうか? しかし、その新聞は、防衛するために護衛の下で、再開され、発行されるようになった。臨時政府は電話通信のサボタージュを組織しなかっただろうか? だが、それも復旧された。
 もう命令はペトログラードでは軍事革命委員会の命令なしには実行されなくなっていた。軍事革命委員会は、一〇月二一日には、すべての駐屯地に、さらに続いて一〇月二三日にはペトロパブロスク要塞に、自らの権限が及んでいると宣言していた。一台の大砲と四〇人の兵卒によって一発の銃火を交えることもなく国立銀行の引継ぎがなされた。駅、橋、電話局、郵便局の引継ぎがいたる所で「ソビエトの命令にもとづいて」衝突なしに実行された。一〇月二四日には、町は蜂起派の手中のもとに置かれることとなった。この交替の出来事は、街の圧倒的多数の住民の眼に映らないままに進行し、レストランや劇場は開いていて、交通機関も運行していた。労働者街でもまったく特別なデモはなされていなかった。

冬宮占拠後にも革命続く

 臨時政府陣営のうちで残された勢力の本拠地であった冬宮を包囲する数千人の部隊は、守備部隊がいない扉から突入した時、いかなる抵抗に遭遇することもなかった(1)。そこに残っていたのは三〇〇人未満の士官学校生であり、それ以外の兵員は駐屯地に戻るか、食事やサウナに行くために外出していた。冬宮の奪取は窓と軒の蛇腹(じゃばら)部分を破壊した。「蜂起に加わったのは、一六〇〇人の赤衛軍、七〇六人のクロンシュタットの水兵、軍の四七の部隊、一二の工場委員会、五カ所の地区委員会、約二〇のさまざまな委員会、アナーキスト・グループ、労働組合の少数派などであった」(2)。その後に続いたものはまさに、革命そのものであり、その夜の二二時四〇分、ソビエト大会が活動を開始した。
このソビエト大会でレーニンがこう宣言した。
「同志諸君、ボリシェヴィキがつねにその必要性を説いてきた、労働者・農民の革命は実現された。
この労働者農民の革命は、どんな意義をもっているのだろうか? なによりもまず、この変革の意義は、ブルジョアジーがどんな形でも参加することのない、われわれの権力機関、ソビト政府を、われわれがもつだろうというところにある。被抑圧大衆自身が、自分で権力をつくりだすであろう。旧国家機関は、根本的に粉砕され、ソビエト組織という新しい統治機関がつくりだされるであろう。
いま、ロシア史上には新しい時代がやってこようとしている。そして、この第三次のロシア革命は、結局、社会主義の勝利をもたらすにちがいない。
われわれの当面の任務の一つは、ただちに戦争をおわらせることである。だが、今日の資本主義制度とかたく結びついていた、この戦争をおわらせるためには、資本そのものに勝たなければならないということは、だれにもはっきりしていることである。……
ロシアの内部では、農民の大部分が、資本家とたわむれることはもうたくさんだ、労働者といっしょに進もうと言った。地主的所有をなくする布告をだしさえすれば、われわれは農民の信頼をかちとることができるであろう。労働者と同盟してはじめて農民が救われるということを、農民は理解するであろう。われわれは、生産にたいする真の労働者統制をうちたてるであろう。
いまや、われわれは、協同一致して活動することを学んだ。このことは、いまおこったばかりの革命が証明している。われわれは、すべてのものに打ちかって、プロレタリアを世界革命の勝利にまで導く、大衆組織の力をもっている。
ロシアで、われわれはいますぐ、プロレタリア社会主義国家の建設に従事しなければならない。
世界社会主義革命万歳!」。

 モスクワでは、革命は、なお革命派の側に少なくとも五〇〇人の死者を出す、カデットや学生に対する流血の街頭戦として、一〇日間にわたって続いた。

注記
(1)エイゼンシュテインの映画「十月」から冬宮への攻撃を想像したもの。
(2)マルク・フェロー『ロシア革命』から、「軍事委員会、臨時政府が終わったことを宣言」から。

 革命諸党派の間で当然の淘汰(とうた)がなされる中で、ボリシェヴィキが自ら、首尾一貫した明確で自立的なやり方で活動的な人民大衆の願望を最も適切なやり方で表現できることを示したがゆえに、ボリシェヴィキが権力を引き受けることになった。人民大衆は、バルト海から太平洋岸に至るまで、多くのためらいや衝突があったにもかかわらず、結局のところボリシェヴィキを支持したので、ボリシェヴィキは権力を保持し、内戦に勝利した(ヴィクトル・セルジュ『ロシア革命から三〇年、一九四七年』)。

 世界を震撼させたこの一〇日間(十月革命)が忘れ去られることなどありえない。この出来事の一時期の輝きの中から出現した人類の希望、普遍性の希望、解放の希望は、『人類の利益とあまりにも深く絡み合っている』ので、忘れ去ることなどできるはずがない。この遺産は、いま、大勢順応主義の脅威にさらされているが、この遺産を管理しかつその責任を引き受けるわれわれには、この希望を『再び思い起こさせる』ことができる状況をつくりだす責任がある(ダニエル・ベンサイド「共産主義とスターリニズム――共産主義黒書に答える」、『21世紀マルクス主義の模索』所収))。

 

「あえてやる」:10月の選択

ローラン・リパール

 「レーニンとトロツキーとその友人たちは、世界のプロレタリアートに模範を示した最初の人々となった。これらの人々は、これまでで唯一、『私はあえてそれを行った!』と叫ぶことができる唯一の人々である」。この一節を通じて、ローザ・ルクセンブルクは、十月革命の主要な教訓を指摘している。すなわち、たとえ革命的危機がこれまでの歴史の中で数多く存在してきたとしても、社会主義者が権力を握ることができるような出来事はまれであった、と。
 そうするためには、実際には、すべてを失う危険があるにもかかわらず、「あえてそれを行う」ことができる指導部を準備する必要がある。たとえば、ドイツ共産党指導部は一九二三年にそうすることができなかった。この時、ドイツ共産党指導者たちの躊躇(ちゅうちょ)が権力獲得の歴史的機会を取り逃がすこととなり、ドイツ労働者階級がナチの恐怖支配に屈伏せざるをえないようにしたのだった。

情勢変化に応じ
対応永続的進化


しかしながら、たとえこのようにボリシェヴィキがあえてそれを行ったとしても、次の点は強調されなければならない。すなわち、その選択は、長きにわたって温められてきた戦略やまして準備された計画、の結果ではまったくなかった、ということである。実際には、それはしっかりと定まっていた「筋書き」が存在していたわけではけっしてなく、基本的に実践的な戦略、すなわち、具体的な情勢に対する具体的な分析にもとづく永続的に進化する分析、があっただけである。マルクス主義の根拠のない臆説(おくせつ)と完全に決別する蜂起の戦略にまで行く着くための新しい道を取り入れることを可能にしたのは、ボリシェヴィキ指導者たちのこのプラグマティズムであった。
「四月テーゼ」が、ブルジョア的な臨時政府への参加も、ブランキ型の冒険主義も、認めないという立場に立っていただけに、この点はそれだけによりいっそう注目に値するものである。臨時政府への参加とブランキ的冒険主義はともに、蜂起の戦略にも、一九一七年のロシアで社会的に少数派であった「労働者の政府」の実現にも、反対していた。一九一七年の春の段階においてボリシェヴィキたちによって考えられていたことに従うと、「全権力をソビエトへ」のスローガンは、実際には、「労働者と農民の民主主義的独裁」の実現というものにほかならなかった。この労農民主主義独裁は、労働者の社会主義政権ではなくて、臨時政府が企てることを拒否している民主主義の綱領を実施することができる過渡的な性格の権力の創設を可能にするものでなければならなかった。

反革命を相手
に短距離競争


ボリシェヴィキの指導者たちがすぐれていたのは、「全権力をソビエトへ」のスローガンが実現できないことが事実上明らかになった以上、この戦略的路線を修正する必要があるという点を理解したことである。一九一七年の七月の破局ととりわけそれに続く労働者の運動に対する弾圧は、社会革命党とメンシェヴィキが右へと傾き、ブルジョアジーと手を切ることを拒否したのであって、そのためにソビエト権力の形成が事実上不可能になったことを実証した。一九一七年六月末の戦線でのロシア軍の反撃の失敗とコルニーロフの反動の台頭はまた、ケレンスキー政府を袋小路へと追いやり、ボナパルティスト型の政権の復活への扉を開くこととなった。レーニンが七月の日々の中で、次のように考えるにいたったのは、現実的実践家であったからである。すなわち、それは、「四月テーゼ」は今や古いものとなり、これまでなら想像だにできなかったようなこと、すなわち、ボリシェヴィキだけの指導の下で前衛的勢力の蜂起を試みる以外にもはや解決策がないということであった。
このような戦略はひどく冒険主義的に思えたので、レーニンは九月初めの段階では、そうした考えを否定していて、コルニーロフの反乱によって社会革命党とメンシェヴィキがケレンスキーと手を切って、ソビエト政府を樹立させるように向かわせるだろう、と確信していた。事態の中で、九月半ばにはレーニンはその考えを新たに変えることとなった。この時点で、社会革命党とメンシェヴィキがもはや傀儡的権力でしかない臨時政府を支持するという、これまでの自らの路線と決別できない、ことが明らかになったからである。反革命の脅威、農村での蜂起、労働者ソビエトと兵士ソビエトの九月初め以降のボリシェヴィキ支持への傾斜、それと同時にドイツとイタリアにおける最初の反乱がレーニンをしてその立場の再検討へと向かわせた。権力の空白は、反革命との間の短距離競争の道を開き、ボリシェヴィキに、権力を獲得して攻勢に打って出るための有利な状況をボリシェヴィキに利用させるように向かわせたのだった。

蜂起が日程に
のぼっている


九月二一日の時点では少数派だったレーニンの立場は、一〇月一〇日から一一日にかけての夜にペトログラードのアパートで秘密のうちに開かれた中央委員会では多数を獲得した。ボリシェヴィキは徐々に力を強めていき、最終的には将来の憲法制定議会で多数派を獲得すべきだと考えるカーメネフとジノヴィエフの激しい反対にもかかわらず、中央委員会は、次の決議をもって、一〇対二で蜂起を日程にのせると決定した。「中央委員会は次の点を確認する。すなわち、国際情勢も、同じく、軍事情勢、ソビエト内部におけるプロレタリア党による多数派の獲得、農民の蜂起ならびにわが党に信頼を寄せる民衆の態度の変化と結びついたすべての事態、そして最後にコルニーロフの新たなクーデターに向けた明白な準備も、蜂起を日程にのせている、と」。
しかしながら、中央委員会の多数派は、同質的ではなかった。過ぎていく一時間、一時間がさらなるリスクを引き起こすと考えていたレーニンにとって、この一〇月一〇日の決議は、できるだけすみやかに権力を奪取することを意味していた。トロツキーにとって、それは、情勢がその実行を可能にした時にのみ実行に移し得るひとつの戦略的選択にすぎないものであった。この二つの路線の間で、多数派を占めたのはこの二つの路線の間の妥協の立場であった。トロツキーが、権力の獲得がソビエト大会の会議の中で、ペトログラード・ソビエトの正式の指導部の下でなされるべきだとしたのに対して、レーニンは、ソビエト大会の意見に従うことはなく、したがって蜂起がソビエト大会の開催の前になされるべきである、としていたのだった。

1917年のボリシェヴィキ党

パトリック・ルモール


一〇月のボリシェヴィキ党は複雑な歴史から生み出された産物である。一九〇三年以降、四つの組織が次々と生まれて来た。ロシア社会民主労働党は、一九一一年までその中のいくつかの分派がその指導権をめぐって争い、この党内にボリシェヴィキが生まれた。一九一二年にはロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ派)が形成された。この党が、一九一七年の革命の過程で七月に合同した。
ボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂は、一九〇五年から一九一二年まで続いた。多くの都市では、二つの分派の活動家は共闘し続け、時としてそれは一九一七年九月まで続いた。ツァー体制の下にあったロシアでは、すべての活動が非合法であり、活動家の多数は、逮捕されたり、国外に亡命したりする前に、国内で数カ月間の活動をしたにすぎなかった。そのために、革命派とか改良派とかの間の分化の余地が残されていなかったのである。

大衆党への成長
1914年後に


ボリシェヴィキ党が労働者階級の中で多数派の大衆党になるのは一九一二年から一九一四年の時期における闘争の再高揚期の過程においてであった。一九一二年のドゥーマ(ツァー体制の下での国会)の選挙の時には、民主共和国、八時間労働日、大土地所有の農地の没収を三本柱とする選挙戦によって、ボリシェヴィキは、九人の労働者議員のうちの六人を獲得した。一九一二年二月の時点で、その合法日刊紙『プラウダ』は、四万部から六万部が発行、販売され、そのうちの六千部が定期購読だった。一九一四年初め、ボリシェヴィキは、社会保障委員会の選挙で多数派となり、既存の小さな労働組合の間で多数派指導部となった。そして、いくつかの都市では三万人から五万人の活動家を結集して革命派の大衆政党となり、ロシアの人口の中ではとても少数ではあった工業労働者階級の中では、多数派となった。戦争がこうした現実すべてを破壊することになる。
二月革命は革命派の不意を打ち、他の革命諸派と同様に、ボリシェヴィキも、その現地の指導者たちは、これが革命の始まりだとはまったくみなしていなかった。しかし、ソビエトが結成されると、ボリシェヴィキがその中で位置を占めることとなった。この時点では、ボリシェヴィキは少数派だった。活動を開始し革命に加わった大多数の民衆は、一九一四年の組織労働者の経験をもっていなかったからである。ペトログラードの労働者の数は、一九一四年以降、二倍になっていた。この過程の中で役割を果たした兵士たちは基本的に農民だった。
四月以降、「全権力をソビエトへ」という路線の下に、ボリシェヴィキは、運動に加わって来た勤労大衆の間で急速にその影響力を拡大していった。労働者の間では、そして兵士の間ではよりゆっくりと、さらに農民の間でも最終的に、次のような確信が強まっていった。すなわち、生活状態は変わらず、戦争は継続され、有産階級は民主主義と平和という目的に反対していて、革命を粉砕して軍事独裁を敷こうと決意している、と。有産階級を排除した政府が必要であるとする、ボリシェヴィキによって擁護された立場が、一九一七年を通じて多数派になっていったのは、こうした理由からであった。

革命の後押しで
2月以後再成長


二月時点でボリシェヴィキが擁していていた一万人の活動家(ペトログラードでは一五〇〇人)は、四月には、七万九〇〇〇人(ペトログラードでは一万五〇〇〇人)にまでなった。ボリシェヴィキは、革命に後押しされて、レーニンが擁護した「四月テーゼ」を有効だとみなしたが、ソヴィエトの代議員では一五%の支持者であった。七月の弾圧と八月のコルニーロフのクーデターは、次第に民衆に対して次のような確信を抱かせるようになっていった。すなわち、「パン、土地、平和」を勝ち取る唯一の解決策は、この三つの要求を唯一擁護しているボリシェヴィキによってソビエトに権力を移すことを通じてである、と。
一九一七年七月の合同党大会の時、ボリシェヴィキは、直接の革命行動を希求する統一した労働者と兵士が加わる大衆運動という枠組みの下に、それまで距離を置いていた、トロツキー自身が所属していた統一社会民主主義者地区間組織を含む独立革命派諸潮流を統合した。当時、四七歳だったレーニンは、中央委員会の中で最年長で、一一人の中央委員は三〇歳から四〇歳の間であり、三人の委員会は三〇歳未満だった。最年少の中央委員のイヴァン・スミルガは二五歳だった。彼は一九〇七年以来のボリシェヴィキ活動家であった。レーニンとトロツキーの党であった一〇月のボリシェヴィキ党がここに誕生した。この時点で党は一七万人(ペトログラードでは四万人)を結集していた。「統一された党の力は、プロレタリア革命を目指す長年のイデオロギー闘争や共同の闘争をもたらしたさまざまな道程からだけでなく、こうしたさまざまな潮流の全面的な統合からも同じくもたらされたものだった」。(1)

大衆の支配的な
気分への敏感さ

 この党を特徴づけるものは、一般に受け取られている見方とは反対に、その相対的な柔軟さであり、大衆の支配的な気分に対する敏感さである。党は六月初めには工場委員会で、続いて八月にはペトログラードとモスクワのソビエトで多数派を獲得した。
九月以降、レーニンは国外の隠れ家から、権力奪取を説いた。彼は、中央委員会やペトログラードやモスクワの委員会に向けてメモを、そして『ボリシェヴィキは権力を維持できる?』というタイトルの小冊子を含む諸論文を書き送った。この路線は、大都市のソビエトの多数派には共鳴を呼んだが、ボリシェヴィキ党内では論争が激化し、ジノヴィエフとカーメネフを中心とする一部の指導者たちは、将来の憲法制定議会の「多数派」に従うべきとする「待機主義」の立場を擁護した。一〇月一〇日の指導部の会議は、一〇対二で武装蜂起を決議した。
一〇月二五日に開かれたソビエト大会では、六七〇人の代議員のうち、三〇〇人がボリシェヴィキで、一九三人が社会革命党(その過半数以上が左派社会革命党)、八二人がメンシェヴィキ(そのうちの一四人が国際主義派)であった。ソビエト常任委員会は、一四人のボリシェヴィキと七人の左派社会革命党によって構成され、メンシェヴィキに割り当てられた四つのポストは埋められなかった。
ボリシェヴィキ党にもとづくソビエト政府を支持する代議員が圧倒的多数であった。

注記
(1)ピエール・ブルーエ『ボリシェヴィキ党』より。


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