寄稿
反核WSFとCOP23対抗アクション (2)
ボン・民衆気候サミットの論議
寺本 勉(ATTAC関西グループ)
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反核WSFからCOP23
反核WSFでは、三〇を超えるワークショップが開かれた。そのテーマは、核兵器禁止条約やヨーロッパにおける核兵器反対運動、原発と気候変動、各国における原発反対のとりくみ、ウラン採掘や原発事故などによる被ばく、原発労働者の被ばく労働、核兵器や原発にかかわるフィルム上映など多岐にわたっていた。四日のランチタイムには、近くの共和国広場で核反対のパフォーマンスもおこなわれた。
四日の閉会集会では、記念講演、フォーラムのまとめと次回開催のアナウンスがあったが、特筆しなければならないのは女性参加者から「壇上の発言者がすべて男性だ」として、女性もステージ上に上がろうという呼びかけがあり、一〇名近い女性参加者がそれに応えて、ステージに上がったことである。さらに、「女性や先住民、若い世代の参加や運営への関与が少ない」という批判の声もあがった。この点は、私たち自身に突きつけられた課題でもあると思う。なお、第四回反核WSFは、二〇一九年にスペインのマドリードで開催されることがスペインの参加者から明らかにされた。
反核WSFが終わると、私はドイツのケルンに移動した。COP23の対抗アクションはCOP23開催地であるボンで開かれるのだが、ボンでの宿泊が難しく、近くのケルンにホテルを予約していたのだ。パリ北駅から「タリス」と呼ばれる国際列車に乗り、途中ベルギーを通過してケルン中央駅まで約三時間の行程である。私の乗車券は、メールに添付されたQRコードが印刷されたA4のプリントで、車掌はタブレットのようなものでQRコードを読み込んでいく。中には、スマホでQRコードを示す乗客もいた。
ケルン中央駅に降り立つと、まず目の前にいきなり出現するケルン大聖堂に圧倒される。ケルンの人口は約一〇〇万人で、ケルン大聖堂の南側に広がる旧市街の歴史はローマ時代にまで遡ることができる。旧市街には狭い路地が続き、ビヤホールやレストラン、カフェなどが軒を並べている。
ケルン・ボンの整備された都市交通
ケルン到着から一週間のあいだ、毎日ケルンからボンに通うことになるので、ウィークリー・チケットを購入した。このチケットは、ケルン・ボン周辺の国鉄・トラム(路面電車)・バスに共通のもので、検札があった際に提示すればよい。国鉄も路面電車も改札口は全くないため、無賃乗車も可能なのだろうが、時たま回ってくる検札で発覚すると、かなり高額の罰金をとられることもあり、何回か経験した検札の際には無賃乗車の人は見かけなかった。トラムは四両連結で、市内中心部では地下鉄に、郊外では近郊電車にもなる本格的なもの。しかも、市内では路面電車の軌道内をバスも走っていて、停留所にはバスストップも併設されている。しかも一回乗車券の場合、一定時間内であれば何回でも乗換え可能だ。このあたり合理的な公共交通整備だと感じた。
ケルンからボンに行くには、国鉄の快速列車(三〇分弱)か、路面電車の一六号線(ライン川沿いの工業地帯を走る)あるいは一八号線(農村地帯を走る)を利用することになる。路面電車は一時間ほどかかるが本数が多く、ホテル近くから乗れる、一方国鉄は乗っている時間は短いが発車時間がしょっちゅう遅れるし本数も少ない、と一長一短である。
ケルンに着いた初日、夕方からボンに行こうとして失敗してしまった。国鉄でライン川左岸線に乗ったつもりが、よく確かめずに右岸線の列車に乗ってしまったのだ。いつまでたってもボン中央駅に着かないな、と思っていたら、いつの間にかボン市街の遥か南の方まで行っていた。そこから無人のホームで折り返しの列車を一時間近く待ち、途中でボンのトラムに乗り換え、ボン中央駅に着いたときには八時になっていた。結局、その日のイベントには参加できなかった。
COP23は何を課題にしていたのか
COP21(二〇一五年)で合意されたパリ協定は二〇二一年から開始されることになっている。つまり、二〇二〇年までは京都議定書の期間内である。したがって、今回のCOP23(国連気候変動枠組条約第二三回締約国会議)以外にも、京都議定書第一三回締約国会議(CMP13)やパリ協定にかかわる諸会議も並行して開かれていた。
このCOP23では、パリ協定の運用に関するルールブック作り(来年のCOP24で合意される予定)が中心的な課題だった。と同時に、パリ協定で示された各国の温室効果ガス削減量を合算しても、産業革命以前と比べて気温上昇を二℃以内に抑えるという目標達成は不可能なことから、二〇二〇年までにこの目標値を上積みさせていく枠組み=促進的対話(議長国フィジーのことばを使って「タラノア対話」とも呼ばれる)の内容・プロセスを確定させることも大きな課題とされていた。さらに、トランプ大統領によるアメリカのパリ協定離脱の影響も大きな関心事だった。
しかし、COP23の中では、それ以外にも先進国から途上国への資金供与問題、パリ協定開始以前に温室効果ガス排出のさらなる削減(「プレ二〇二〇」問題)、脱石炭など多くの課題が提起されていた。その結果と評価については、最後に述べたい。
今回のCOP23では、二年前のパリの時のような誰でも入れるパブリックゾーンは用意されていなかった。主な交渉会場は、ボンの国連大学構内の世界カンファレンス・センターとその周辺で、「ブラ・ゾーン」と呼ばれていた。ボン中央駅から南にトラム(地下鉄)で五駅目から歩いて五分くらいの場所にあり、公式の交渉以外に水面下の折衝や政府間会合などがおこなわれ、政府関係者や特に許可された者だけが入場できる。
南東に少し離れたライン川沿いの公園内に仮設の建物が建てられ、こちらは「ボン・ゾーン」と呼ばれた。「ボン・ゾーン」内には、オブザーバー登録のNGOや企業関係のブースなどが設けられ、各国政府やNGOによるサイド・イベントや記者会見なども活発におこなわれた。この二つのゾーンはシャトルバスで連絡されていて、バスの横には「ゼロ・エミッション(CO2排出ゼロ)」と大書してあった。
これに対して、ATTACドイツをはじめとしたドイツの社会運動団体やBUND(FoE「地球の友」ドイツ)などの環境NGO、緑の党・左翼党などが中心になって、COP23対抗アクションが企画された。ATTACドイツは、COP23に際して、「気温上昇を一.五℃以内に抑えるには、埋蔵されている石油の三分の二、天然ガスの半分、石炭の八〇%を地中に残したままにしなければならず、自動車や輸送機関、工業的な食料生産を劇的に減らす必要がある。自由貿易協定は、気候変動をさらに加速する。先進国におけるシステム・チェンジ、つまり成長ドグマからの脱却が必要である」という脱成長の立場を明確にしていた。
民衆気候サミット
COP23対抗アクションの一つとして、民衆気候サミットが三日から七日までの五日間、ボン市内のいくつかの会場で開かれた。ボン中央駅近くのライン川沿いにある公園にインフォーメーション・テントが設けられ、民衆気候サミットの案内、食事の提供(無料だが、自由に寄付を募る形)、宿泊場所の紹介など、参加者の便宜を図るとりくみがされていた。このテントでは、最終日の七日夜にはさよならコンサートも開かれた。
三日から五日までは、私は参加できなかったが、「世界的な気候正義:資源略奪主義との闘い・汚染者の責任追及」「化石燃料を地中に留め置き、化石燃料時代を終わらせよう」「CO2を計算することから決定的な変化へ:移行に向けていかに活動すべきか?」といったテーマで、イブニング・プレナリーと呼ばれる集会(講演会?)が開かれた。このテーマ設定には、化石燃料を好きなだけ使って気候変動をもたらした先進国や多国籍企業の責任を問い、途上国や島国が現に蒙っている気候変動による損失への補償を求めつつ、経済システムを変えて化石燃料に依存しない社会を実現するためには何が必要か、という問題意識が感じられた。
六日、七日の二日間がワークショップで、二つの会場(「ボン・ゾーン」のすぐ近くにある研究施設)、三つの時間帯に分かれて五〇以上のワークショップが開かれた。その他に、今後の方針をめぐる討議や音楽行事が別会場でおこなわれていたようである。
気候変動は現実に起こっている問題だ
私が参加したワークショップ「南の声」では、気候変動によって南の諸国の人々が受けている被害、火力発電所などのプロジェクトに反対する抵抗運動について、インドネシア、フィリピン、ナイジェリア、モザンビーク、ボリビア、インドの代表から報告された。その中では、気候変動が将来の問題ではなく、現実に生起している危険であって、南の人々の生活に大きな打撃を与えているという悲鳴にも似た訴えが聞かれた。報告のいくつかを紹介してみよう。
*イアン・リベラさん(フィリピン気候正義運動)
フィリピンは、気候変動でもっともひどい被害を受けている国の一つだ。現在、一九ヶ所で石炭火力発電所建設の計画がある。石炭火力発電所は、漁業・穀物・果物に悪影響を与えるだけでなく、住民の健康、重金属による水の汚染などをもたらす。これらのプロジェクトに反対する闘いは、政府や企業による暴力的な弾圧にさらされている。ミンダナオ島では、環境活動家が殺害された。
*ディプチ・バトナガールさん(FoE〈地球の友〉モザンビーク)
アフリカの農業生産の少なくとも半分は女性が担ってきた。しかし、いまその農業が破壊されている。石炭火力発電所の電気は、こうした女性のために作られているのではなく、多国籍企業のために作られている。コンゴで中国資本が建設した石炭火力発電所は、進出してきた中国企業のためのものだ。アフリカは天然資源に恵まれているのに、人々の貧困は継続している。多国籍企業による新たな植民地主義だ。ジンバブエでは、気候変動の影響で、多くの人々が気候難民となっている。
*マルチン・ビレラさん(ボリビア気候変動プラットフォーム)
ボリビアでは、資源開発のために、先住民の生活地域三ヶ所を貫く道路建設が計画され、抵抗運動が起きている。マザーアースの権利、自然の権利が憲法で保障されているはずのボリビアで、マザーアースと自然の破壊に対して、困難な闘いが続いている。
ボリビアの報告の中で、この道路建設に反対する先住民のインタビューを収録したビデオが上映された。実は、この地域はまさに五〇年前、チェ・ゲバラが最後の闘いを展開し、アメリカ政府の支援を受けた政府軍によって拘束・虐殺されたところなのだという。ビデオでは、ゲバラと直接に接した農民の証言もあった。
このワークショップでの証言からは、気候変動とその被害のリアルさだけでなく、気候変動を加速する石炭火力発電建設や資源開発の実態、そしてそれに反対する先住民を中心とした抵抗運動を知ることができ、大変勇気づけられた。
原発は気候変動の解決策ではない
私が参加した別のワークショップ「核エネルギーは気候変動の解決策ではない」では、そのテーマ通り、原発を気候変動との関係で売り込もうとする原子力ロビーや政府に対する批判が語られた。これはパリでの反核WSFとも共通する問題意識であり,実際にパリにも参加していた活動家が複数参加していた。
私は会場ロビーで、インドのクマル・スソダラムさんから参加呼びかけの声をかけられた。彼はノー・ニュークス・アジア・フォーラム(NNAF)でたびたび来日していて、日本語も話せる活動家である。トルコのピナールさんやパリで活躍したレオナさんも発言することになっていて、私が一番注目していたワークショップだったので、すぐに参加すると返事した。
ワークショップではまず、レオナさんが「核植民地主義」というタイトルで発言し、アメリカの先住民に対する土地略奪、強制移住、文化の剥奪、資源略奪など、合衆国政府がとってきた政策を振り返り、現在のウラン鉱山開発や採掘できなくなったウラン鉱山の無責任な放棄にいたっていると説明。それに対して、先住民にとっての聖なる土地を守り、文化を取り戻し、資源略奪をやめさせる先住民自身の抵抗運動が、若い世代のとりくみと結びついて進められていることを報告した。
クマルさんは、インドにおける原子力の拡大が非常に大きな規模で進められており、現在はエネルギーのうち一.八%にすぎない原子力の比重を二〇三二年には七?八%、二〇五二年には二五%にまで拡大しようとしていると指摘。インド政府の核政策は、ウラン鉱山の開発から核兵器、再処理まで全てのサイクルを同時に進めようとするもので、原子炉の供給先はきわめて多くの国にわたっている。原発建設予定地での住民による抵抗運動に直面しているが、これへの弾圧も含めて、この原子力開発を気候変動への対応として合理化していると述べた。
ピナールさんは、トルコの原子力政策が一九五〇年代に「原子力の平和利用」を看板に始められ、政府は原子力エネルギー開発を輸入に頼らない国内エネルギー確保のためと説明している(実際にはウランは輸入に依存しているのだが)と原発推進政策の背景を説明した。さらに、原発建設が財政的理由や住民の反対などで思うように進まない中、石炭火力発電所にも注力しているが、これも現地住民の大きな反対運動に直面して、計画の撤回を余儀なくされた例もあると指摘した。
マーカス・アトキンソンさん(オーストラリア)は、オーストラリアには全世界のウラン埋蔵量の三五%が存在しており、とりわけ先住民居住地域に多くのウラン鉱山があること、ウラン鉱石の価格下落で採掘中止に追い込まれている鉱山もあり、脱原発の世界的な流れが加速すればさらに価格が下落してウラン鉱山を閉鎖に追い込むことができること、オーストラリアでは環境保護団体とアボリジニー社会が共同で、核植民地主義を打ち破ろうととりくんでいることを報告した。
これらの報告で、「核植民地主義」ということばが繰り返し使われていた。この概念は、先進工業国のエネルギー需要を満たすために、途上国、とりわけ先住民地域でウラン鉱山を開発し、資源を略奪し、その後始末をしないまま放置する、利益だけを持ち去って害悪のみ残していくという核政策を意味しているが、この中には先進工業国が歴史的に、環境債務、核債務を途上国に対して負っているという考え方が反映されている。日本でも、広めていくべき考え方だと思った。(つづく)
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