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    かけはし2017.年12月4日号

核のない世界をどう作るのか


寄稿

反核WSFとCOP23対抗アクション (1)

原子力との決別へ国際的模索

寺本 勉(ATTAC関西グループ)


 一一月六日から一七日にかけて、ドイツのボンでCOP23(国連気候変動枠組条約第二三回締約国会議)が開かれた。この会議では、二年前に合意されたパリ協定を今後いかに実施していくかというルールブック作りなどが主な議題とされた。COP23に対する対抗アクションとそれに先立って開かれた第三回反核世界社会フォーラム(反核WSF)に参加したATTAC関西グループの寺本勉さんにそのレポートをお願いした。なお、このレポートは三回に分けて掲載する予定である。

核兵器廃絶と反原発の合流


 一一月一日から一二日にかけて、私はパリとドイツのケルン、ボンを訪れた。第三回反核世界社会フォーラム(一一月二?四日、パリ)およびCOP23(一一月六?一七日)の対抗アクションに参加するためである。
 反核世界社会フォーラム(反核WSF)は、ブラジルのチコ・ウイティカーさん(世界社会フォーラム創設者の一人)の呼びかけに応える形で、二〇一六年三月に第一回が東京で開かれ、モントリオールでの第二回を経て、今回が三回目となる。「もう一つの世界は可能だ」を掲げるWSFのテーマ別フォーラムという位置づけである。私は、その準備過程の会議(二〇一五年三月のWSFチュニス、同年一二月のCOP21の際に開かれた)を含めて、連続して参加してきた。
 このフォーラムの特徴について、フランス在住の日本出身者で作る脱原発グループ「よそものネット」の飛幡祐規さんは、次のように指摘している。「この反核フォーラムが興味深いのは、これまで一緒に行動することがほとんどなかった軍事核への反対運動と、原子力の民生利用に対するさまざまな反対運動の世界各地の市民たちを、同じ場所に集めたことだ」(レイバーネット「パリの窓から」)
 また、COP23の対抗アクションとしては、民衆気候サミット、自然の権利国際法廷、四日と一一日の大規模なデモ、石炭火力発電に反対する行動などが行われた。また、COP23の会場内外で、オブザーバーとして参加している環境NGOによるサイド・イベントも開かれた。
 今回、私が注目したのは、この両方を通じて「核エネルギーは気候変動の解決策ではない!」というスローガンが参加者から語られていたこと、先住民の代表を中心に、いわゆる先進国による「核植民地主義」や「資源略奪主義」を告発するメッセージが多かったことである。

パリ・反核WSFへの道

 一一月一日、パリに向かって出発したが、朝七時前に自宅を出てから一八時間少しで、パリのホテルにチェックインできた。フライトは伊丹?羽田?パリという経路で全日空機を利用した。利用期限が切れるマイルが相当あって、マイレージを使って往復の航空券を購入したため、関空からの直行ではなく、こういう経路が指定されたのだ。伊丹空港(国際線は飛ばないのに、名称はいまだに「大阪国際空港」となっている)で国際線乗継ぎカウンターでチェックインすると、手荷物はパリまで運んでくれる。
パリまでのフライトでは、エコノミーの座席が思ったよりもシートピッチが広く、隣席の人とも「これくらいのシートピッチがあれば、エコノミーでもOKですね」みたいな話をするほどだった。ただ、起床が早かったのと風邪薬の影響か、やたら眠く、うつらうつらする時間が続いた。
パリの空港での入国審査はカードもなく、簡単に終わった。テロを警戒してピリピリした警備を予想していたので、少し拍子抜けした。疲れていたこともあって、ホテルまではタクシーを利用(空港から市内まで五〇ユーロの固定料金)したが、大きな渋滞もなくスムーズに市内に入り、狭い道路をあちこち流しながら、四五分くらいでセーヌ川近くのマレ地区にあるホテル前に到着した。
ホテルの入口は本当に分かりにくく、「HOTEL」の表示は二階に小さく出ているものの、狭い入口の両側は商店になっていて、ドライバーに言われるまでは、全く気付かなかった。その意味では、タクシーに乗ったのは正解で、自分で探していると見つけるのに相当時間がかかったかも知れない。
翌日(二日)から三日間、反核WSFが共和国広場近くの三カ所の労働会館でおこなわれた。オープニング集会はその別館ホールで開かれたが、会館前の歩道には大きなバナーが掲げられ、会館に入るとロビーには登録ブースや各団体のブースが出されていて、大勢の参加者で賑わっていた。ここで登録料二〇ユーロを支払い、プログラムをもらう。ATTACフランスもブースを出して、リーフレットなどを置いていた。

菅元首相のビデオメッセージ

 オープニング集会の司会はATTACフランスのジャクリーヌさん。まず、アフリカから順に世界各国からの参加者の紹介がおこなわれた。国名が紹介されると、その国からの参加者が手を挙げる形で、ニジェール、アルジェリア、ブラジル、アルゼンチン、カナダ、アメリカ合衆国、インド、トルコ、日本と続いた。フランス在住者を含む日本から参加者の多さに会場がどよめき、大きな拍手が送られた。おそらく二〇人以上参加していたのではないだろうか。ヨーロッパの多くの国々からも参加者がいた。飛幡さんによれば、「一五カ国から数十の市民団体、約四〇〇人の市民が参加した」とのこと。
発言の最初は、この反核WSFを呼びかけたチコ・ウイティカーさんで、WSFそのものの簡単な歴史を振り返りながら、地域別あるいはテーマ別の社会フォーラムが盛んにおこなわれていることを紹介し、反核WSFを呼びかけて以降の経過に触れた。チコさんは、ブラジルでも「核は出ていけ」のスローガンのもと反核運動を展開しているが、核のない世界をめざして運動を、と呼びかけて発言を終えた。
続いて、菅直人元首相のビデオメッセージが紹介された。この中で、菅さんは「フォーラムに参加する予定だったが、突然の選挙で参加できなくなったことをお詫びしたい」と述べ、首相時代に起こった福島第一原発事故の深刻さ、今なお多くの人々が戻れない状況を述べたあと、再生可能エネルギーへの移行は可能だし、絶対に必要であることを強調した。彼も含めて、小泉さん、鳩山さんと首相経験者が脱原発や自由貿易協定反対、沖縄連帯などの活動に参加している。どうして首相をやめてからなのか、という疑問はあるが、それだけ危機の深刻さを身にしみて感じているのかも知れない。
さらに、崎山比早子さんが「福島原発事故の現状」について講演した。崎山さんは、国会の福島原発事故調査委員会の委員を務め、現在は三・一一甲状腺ガン子ども基金の代表理事である。崎山さんは、講演の中で、福島第一原発の事故の深刻さと困難点を指摘し、決して事故は収束していないことをさまざまなデータをもとに、詳しく説明した。
特に、大量の除染土が黒い袋に入れられ、大量に積み上げられている状況は、多くの参加者に事故がまだ収束などしていないことを印象づけたように思う。また、子どもたちの甲状腺ガン発生率がきわめて高いことを指摘し、政府による調査委員会はこの事実を軽視しているが、民間の支援組織による子どもたちへの支援がおこなわれていると述べた。

核被害・被ばくについての「証言集会」

 二日目午後には、核被害・被ばくについての「証言集会」が開かれた.この「証言集会」は今回の反核WSFのメイン企画の一つで、インド、トルコ、アメリカ(ディネランド)、ニジェール、フランス、日本、ウクライナからそれぞれ報告があった。
まず、インドのスナリ・フリアさん、トルコのピナール・デミルジャンさんから、それぞれ自国政府の原発推進政策とそれへの抵抗運動についての報告がおこなわれた。スナリ・フリアさんは、「フランスのマクロン大統領が一二月にインドを訪問し、原発輸出・建設を促進しようとしている。インド政府は、福島原発事故の後でも、経済的効率を優先して原発建設を進めている。それに反対する闘いは、漁民・女性などを中心に各地で起こっている。政府はこの闘いに苛烈な弾圧を加えているが、抵抗は持続している」と述べた。
たびたび来日してノーニュークス・アジア・フォーラムなどに参加し、日本語も流ちょうに話すピナール・デミルジャンさんも、トルコの状況について、「気候変動が原発建設を推進している側面があり、お互いに関係しあっている。トルコは化石燃料のほとんどを輸入に頼っており(天然ガスの八五%はロシアからの輸入)、トルコ政府は、国産エネルギーとして原発建設を推進してきたが、電力需要の五%でしかなく、しかも燃料ウランは輸入である。すでに日本・ロシアと原子力協定を結び、中国とも結ぶ可能性がある。トルコでは、マグニチュード九クラスを含めて大きな地震が多発するが、原発は断層の上に建設されており、非常に危険だ。アレバと三菱がすすめるシノップ原発プロジェクトも採算面では引きあわない。もし事故が起これば、地中海諸国に大きな影響を及ぼす」と説明した。

核植民地主義への告発

 続いて、先住民の立場から、ディネランドのレオナ・モーガンさんとニジェールのムスタファ・アルハッセンさんが発言した。二人の発言はともに、アメリカやフランスの核植民地主義を鋭く告発するものだった。レオナ・モーガンさんは、自らをディネであると紹介し、アメリカ政府はナバホと呼んでいることにも触れ、次のように述べた。
「アメリカでは、先住民の土地と資源を合法的に奪う法律が制定されており、先住民居住地のウラン鉱山採掘を政府が認めてきた。採掘され尽くして放棄されたウラン鉱山が、先住民居住地に多数存在している。ほとんどが露天掘りで、ウラン鉱滓がそのまま野積みされて放置されている。健康被害や家畜への害が深刻化している。私たちは、放射能モニタリング・プロジェクトを立ち上げて、放射能の現状調査と正確な情報提供に努めている。“HAUL! NO”をスローガンに、さまざまな直接行動や政策提起も行っている。運動の発展には、若い世代と先住民の参加は不可欠だ」。
人権と健康を守るためのNPO「アギルインマン(魂の盾)」を結成して活動しているムスタファ・アルハッセンさんは、「ヨーロッパの原発を動かすために、フランス資本=アレバ社がウラン採掘を行ってきた。ウラン鉱山は露天掘りで、放棄されたウラン鉱山から持ってきた放射能を含む鉱滓を住民が住宅などに再利用している。ウラン鉱滓が危険だという情報が不足しているためだ。モニタリングと情報の拡散にはさまざまなNPOの協力が必要である。ウラン採掘によってニジェールの人々は全く豊かになっていない。放射能の危険だけを担わされている。これが核植民地主義というものだ」と述べた。

廃炉作業と被ばくの実態

 証言集会では、原発労働者や廃炉作業に従事した元兵士からの発言もあった。フランスのフィリップ・ビラードさんは、元原発下請け労働者で労働組合員という立場から、「原子力産業で働く労働者にとって、労働条件だけでなく、原子力政策に影響力を持つために、労働組合が必要だ。労働者が被ばくして犠牲になる原発はやめるべき。労働組合は労働者の健康をまず要求する必要がある」と述べた。
また、元郵政労働者で除染作業や廃炉作業に従事した池田実さんは、「除染作業での被ばく対策はいい加減なものだった。原発での仕事は三次下請けで、社会保険もなく、法律が原発構内では適用されない治外法権的状況。政府の被ばく労働に対する扱いは酷いもので、昨年初めて労災を認めた例があったが、常に発病の不安があっても、離職後には何の保障もない。しかも、被ばく線量の上限が一〇〇ミリシーベルトから二五〇ミリシーベルトに引き上げられた。果てしなく続く廃炉収束作業を、東電や下請けに任すのではなく、政府が責任を持っておこない、被ばく労働への保障をおこなうよう強く求めたい」と福島第一原発での被ばく労働の実態を明らかにした。
元兵士としてチェルノブイリ原発事故直後に現場に滞在したウクライナのオレグ・ヴェクレンコさんは「チェルノブイリ原発事故のあと五日経ってから、兵士として派遣され、四カ月間滞在し、収束作業にあたった。何万人もの兵士がチェルノブイリに派遣され、作業にあたった。その時に撮影した写真やスケッチで、当時の状況を紹介したい」と当時の写真やスケッチをスライドで映し出した。(つづく)


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