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    かけはし2017.年10月30日号

1985年地震後の政治力学は再現するか


メキシコ

大地震が突きつける課題

地震被害者連帯の巨大な民衆的
決起の自律的発展が不可欠の鍵

エドガルド・サンチェス


 九月の地震――約三〇〇人の死者と何千人という負傷者、さらに数十万人の家を失った人びとを残した――からやってきたさまざまなはね返りが、メキシコですでに先行していた社会的かつ政治的な諸々の危機を深刻化しようとしている。メキシコの長期にわたる一党支配国家を切り裂くことを助けた一九八五年地震の三二周年に到来したこの先月の惨害は、エンリケ・ペニャニエト大統領の支持率を歴史的低さ近くにまで押し下げる後押しとなった。他方で救援と復興の努力が、政府の広範にわたる腐敗を表に引き出すことになった。革命的労働者党(PRT)の指導的メンバーであるエドガルド・サンチェス・ラミレスは以下で、この地震が引き起こした打撃、および生き延びた人びとに支援を提供しつつ、隣人を救出しようとする、また軽蔑すべき体制に対決して立ち上がっている、そうした普通の人びとの大変な奮闘から立ちのぼっている、社会的で政治的な挑戦に向けた潜在的可能性を点検している。この論考ははじめPRTのウェブサイトに公表され、ソーシャリストワーカーのウェブサイト向けにトッド・クレティエンが英訳した。

民衆の自発的救援活動が再現

 われわれは呪われているわけではないし、神罰や単なる自然災害に苦しめられているわけでもなく、その苦しみは、残忍な資本主義とそれを保護する政権の諸政策から生まれている。
最初の大地震がメキシコ南部を襲った九月七日直後に上院は、チアパスとオアハカで生き延びた人びとを支援する寄付金を集めるために、銀行口座を開設すると公表した。彼らはメキシコ市民からたった一件の寄付も受け取らず、上院議員自身からもほとんど何も受け取らなかった。対照的に、CNTE二二支部(メキシコの教員組合の急進的部分)は、オアハカの人々にそれらを直接配分するために、メキシコシティとそれ以外のところからの最初の救援物資と何トンにもなる物資を、被災地域へ輸送した。
エンリケ・ペニャニエト(以下EPN)大統領が援助を約束するためにオアハカに向かった時、二二支部はすでに集めたかなりの部分を配分し終えていた。そして九月一九日に地震がメキシコシティとメキシコ中央部を襲った時、政府と制度的な諸政党から自立している社会諸組織と社会運動に援助を直接渡すようにという、公衆への広範な呼びかけが起きた。
メキシコシティ中すべてで――普通の家庭で、電力労働者組合(SME)のような組合会館で、またオアハカの画家、フランシスコ・トレドのような芸術家のアトリエで――、援助物資を集め、それを居住地区、町、コミュニティに国家を通さず直接渡すために、諸々のセンターが設立された。それらのところにはこの物資を切実に必要としている人々がいた。人びとは、食料、水、また子どもの世話を提供し、ボランティアが携帯電話に充電できるよう、彼らのコンセントまで差し出した。
これは明らかに、一九八五年の地震後に起きた民衆のとてつもない対応を思い起こさせるものだ。ちなみにこの地震は、メキシコシティで一万人の人びとを死に追いやった。
現在、人びとを救出し、瓦礫を取り除き、食料や衣料や水を運び、壊れた家屋を補修し、掘削用具を提供し、またその他のことをやるための活動部隊に、何万人もの人びとが自発的にかけつけている。これらの活動部隊で活動している人びとの大多数が一九八五年にはまだ生まれてもいなかったことを考えれば、この伝統の自然発生的な再出現はなおのこと注目に値する!
巨大な数の若者たちが人びとの救出を助け、生き残った人たちに援助を差し出しているのを見ることは、希望を呼び起こすと同時に感動的だ。若者の諸グループ――それ以前にはいかなる組織にも所属せず、クラスメートや友人として、あるいは互いに初めて知り合った見知らぬ人としてであっても結集した――が、リュックサックを肩にかけ、マジックインクで腕に個人情報を書き込み、また一〇〇%充電を終えた携帯電話を携えて、どこに助けにいけばいいのかを探しながら、今も街頭に繰り出し続けている。

政府対応への深い不信と軽蔑

 このすべては、政府のあらゆるレベルで見え見えとなっている、スキャンダルに満ちた非効率性、冷笑主義、そして腐敗と鋭い対照をなしている。
国務長官のオソリオ・チョングは、廃墟となったボリバルとチマルポポカの諸工場で野次り倒され、そこからすぐさま走り去った。ソチミルコの市長は、ブーイングのコーラスと住民が始めた水のペットボトルの威勢にさらされ、もっとも被害の大きかった居住地域の一つから逃げ去った。
モレロス州(メキシコシティの南に隣接し、ひどい打撃を受けた)知事のグラコ・ラミレスは、活動部隊員たちとテテラ・デル・ボルカンの隣人たちからしかりつけられた。その後彼と彼の妻、エレナ・セペダは、市民社会が送った救援物資を退蔵したとして、新聞で糾弾を受けている。
オアハカでは人々が、与党の制度的革命党(PRI)が経営する商店に犠牲者への配分を予定した品物が一杯になっていること、そして、彼らが救援を支配し、その物資を意図的に選ばれた受取人に配分することで、犠牲者たちを彼らに政治的恩義を感じる者へと変えようとしていることを発見した。
このすべての頂点に、EPNの対応に対する広範な糾弾がある。この地震の前、EPNが大統領に就任して初めてオアハカ市に旅した時、教員組合二二支部は彼に反対する大きな抗議行動を組織した。オアハカでの抗議行動では普通のこととして、彼らは、花火や打ち上げ花火を仕掛けた。そしてその一つが、大統領の随員たちの乗った(記者たちの輸送)ヘリコプターに届き、ヘリコプターに非常着陸を強いることになった。
それでもEPNに対する大衆的な拒絶を象徴するおそらくもっとも重要な事件は、メキシコ州(メキシコシティーを取り囲む州、そこではつい先頃、PRIが州全体の選挙での勝利を不正な手段で得た)で起きた。その時一人の男が、彼の嘘に満ちた約束に異議を突き付ける方法として、大統領に「シャベルを取れ」と要求して、EPNが公開の場に現れることを妨げたのだ。大統領の警護スタッフは、男を逮捕させようと思った。それによって、この男を防衛し反EPNの抗議行動を始めるようメキシコ州立自治大学の若い学生グループを焚きつけるためだ。
それに反応してEPNは、おそらくメキシコ州の中でさえ抗議行動が彼につきまとうことを実感して自分を抑えることができず、グスタボ・ディアス・オルダス(トゥラテロコで一九六五年の学生数百人の虐殺を指揮したPRI大統領)ばりに、脅迫的な演説を始め、「外国の考え」を吹き込まれた「職業的な煽動者」を糾弾した。そしてEPNは、「時としてトラブルを焚きつけ、(怒り)を挑発するためにやってくる見知らぬ者たちがいる……われわれはソーシャルネットワークの中に、援助活動を妨げる大量の誤報、時として偽情報、偽ニュースを見てきた……だまされるな、混乱させられるな」と語り続けた。
もちろんわれわれは、このEPNに対する若い学生たちの反応に驚かされるはずもない。われわれは、二〇一二年にイベロ・アメリカン大学で、選挙不正で彼を非難した学生たちがどのように彼に笑いものにされたかを思い出す必要があるだけだ。抗議を行った者は「一三一人しかいな」かったという彼の主張が、大学キャンパスを封鎖し、何ヵ月も高速道路を妨害した、「♯yosoy132(♯私は一三二)」という大衆的学生運動を発進させたのだった。
今日、何千人という若い活動隊員たちが、彼らはトラブルメーカーではない、
と返答している。逆に、援助を政治的目的に変えることによって、あるいは被災コミュニティにたどり着こうとしている連帯のトラックや乗り物の自由通行を阻止することで、それを妨げている、と責められているのは政府と制度的な諸政党なのだ。
EPNの脅迫、すなわち「見知らぬ者たち」は暴徒、という言い草はあたりに漂っている。こうしたほのめかしで追求されていることは、一九六八年の後国家がかき立てた類の恐怖の再創出だ。その時、五人の大学労働者が「外部の煽動者」であると告発され、プエブラのカノアという小さな村でリンチに逢うという悲劇が続いた。
しかしながら、政府への不信とその正統性の崩壊は今強烈であり、かつてあったもの以上だ。そしてEPNの脅迫は、彼への判定となっている軽蔑を高めているにすぎない。

政府は民衆の自己組織化に敵対


政府は、社会の中で、また生き残った人びとの中で起きつつある自己組織化の進行を、妨げ、遅らせ、崩壊させようと欲している。一九八五年に動き出した政治的力学の繰り返しを避けるためだ。彼らは、体制から自立した、自律的運動の台頭を阻止しなければならないのだ。
運動が救援提供の分野で政府をしのいでいる、と聞くことは今や普通のことだ。一九八五年、再建の全過程中で運動は続いた。そして社会的自己組織化と政府の破綻の双方を明らかにした先例を提供している。
これらの力学は巨大な学生ストライキ(大学学生評議会、CUE、に率いられた)を伴って一九八六年へとあふれ出た。その後まもなくPRIは、一九八七年、チュアウテモク・カルデナスを代表とした歴史的な潮流によって分裂した。この人物はその後PRI一党制国家に反対して一九八八年大統領選に立候補し、民主的革命党(PRD)という中道左派政党の創立に進んだ。
公職者たちが市民社会が集めた援助物資を横領する時、彼らが腐敗しているから、また個人的な裕福化を追求するからだけでそうするのではない。むしろ彼らは主に、支配を確保することに、そうすることで生き残っている人びとへの援助すべてが政府の、特に家族統合開発システム(SNDIF)の名の下で配分されることに、利益を見ている。ちなみにメディア内で後者は、EPNの妻であるアンジェリカ・リベラという名で現れている。
メキシコシティのソチミルコ地域のサングレゴリオ居住地区で地震の恐るべき結果が知れ渡るようになった九月二〇日、何千人ものボランティアがボランティア活動を目的にそこに集まった。
まさに数多くの人々が助けに向かったために、しかしまた海兵隊、軍、さらに自治体当局と中央政権がさまざまな道路バリケードを設置し、これ以上先に行かず、救援物資を彼らに渡すよう告げたためにも、とんでもない交通渋滞が起きた。これは想像するに、すべての物資を集中化する一つの方法だった。つまりそれは実際上、当局を救援の取り組みにおける決定的機関だと描き出す、さらに市民のボランティアなど役立たずだと証明しようとするもくろみだった。

運動内部にも組織化への焦りが

 確かに重要なことは、生き延びた人びとから見た認知をどちらが多く確保できるかを確かめるために、国家諸機構と競争することではない。むしろ、生き延びた人々が彼らの要求を、特に復興と彼らの家屋の再建を勝ち取ることに関し確保する唯一の保証は、これらの要求のために彼らが組織され、決起し、闘うことにかかっているのだ。
幸いなことだが、メキシコシティにおいてだけではなく、チアパス、オアハカ、またモレロスでも、闘いの豊かな経験と強い伝統がある。
たとえばメキシコシティでは、一九八五年起源の生き延びた人びとの諸組織の連合が、最終的に「生き延びた者たちの統一連合」(CUD)に結集し、再建の分野において公的に認知された国家との仲介者になった。そしてオアハカのフチタンには、社会的諸闘争の長い伝統がある。諸闘争がPRDを介した左翼の制度化の動きにより分断されてきたために、もはや歴史的な「イストモ労働者、農民、学生連合」(COCEI)の中に統合されていないとしてもだ。もっと近年の起源をもつものに関してわれわれは、オアハカ民衆会議(APPO)の経験や二〇〇六年にそれが率いた大衆ストライキや闘争を当てにすることができる。
われわれは同時に、国家や制度諸政党に発する策謀から自己組織化の歩みを自衛しなければならないだけではない。左翼と社会運動の諸部分の内部にも、巨大な正統性と国民的な地位をもちつつも組織されないままにとどまっている、そうした新しい活力ある運動の誕生に向けた潜在力を前にした時の、一種の焦りがあるのだ。
政府と衝突する危険、そして数件の「低強度」弾圧(九月二一〜二三日の週末にわたって、警察と救援活動家、あるいは援助物資を輸送している人びととの間でさまざまな衝突があった)を前に、一定の左翼潮流が運動の指導をめぐってすでに抗争しつつある。しかも、萌芽的な形態の組織に自らを押しつけることでそうしようとしているのだ。

あくまで当事者の自己組織が鍵


明らかに、あらゆる運動の自然発生性は相対的だ。われわれは常にそこここで、政治的経験を付随した、また軍事的経験をも付随した要素を見出している。それでもあらゆる新たな社会運動は、もっとも脅かされた人びとの自己組織化の進行にかかるのであり、彼らのために語る左翼の立場に立つわれわれにかかるのではない。
たとえば、ガソリン価格の法外な引き上げに反対する強力な運動が今年一月に勃発した際(本紙一月三〇日号参照)、いくつかの以前からあった運動と組織が会議や評議会を諸々召集し、新たな運動を彼らの隊列に引き込むために闘争に向け彼ら自身のスローガンを掲げようと挑んだ。しかしそれは機能しなかったのだ。
今、われわれの各々の社会的組織や運動が生き延びた人びとの運動と地震連帯運動を直接にわれわれの隊列に引き入れることができる、そしてそのことでそのような運動の発展を、政治的な方向にまた急進的な方向にすら確実にできる、と信じる似たような危険がある。
疑いなく、一九八五年の地震以前ですら、一つの先例を提供し、当時生き残った人びとの運動に明らかにそれらの経験ある活動家を合同できた重要な都市運動があった。この以前の経験は、民衆都市運動全国評議会(CONAMUP)とプラン・デ・アヤラ全国委員会(CNPA)に集中されていた。
しかし一九八五年の生き延びた人びとの運動はCONAMUP構成諸組織を単純に膨らませることはなかった。代わりに新しい運動は、彼ら自らの組織による闘争の中で新しい主体をつくり出し、それは最終的に生き延びた人びとの統一評議会(CUD)に収斂した。事実としていくつかの道を通り、CUDの経験はCONAMUPの経験よりも成長が早かった。
生き延びた人びとの新たな本物の運動が九月一九日の経験から成長することがあるとすれば、それはそれ自身の組織を発展させるだろう。事実それらは、最初の居住地区総会の中ですでに成長中なのかもしれない。社会的かつ政治的諸組織は確かにそれらがもつ事例、経験、またそれらの活動家をも提供しなければならないが、しかしそれらは、生き延びた人びと自身の組織的形態を勇気づけ、尊重することで、またこの運動を古い組織に合わせようと試みないことで、そうしなければならないのだ。
重要なことは、人々――生き延びた人びととボランティア――が行動に入り連帯を築いているこれらの新たなグループを確かめ、そうすることでそれらがどれほど政府の出先機関とは違っているかを理解できるようにすることであり、そしてわれわれは、代行しようとする、あるいは当初の運動を吸収しようとする焦りに抵抗しなければならない、ということだ。
それは厳しい課題だ。なぜならば同時に運動は、運動の組織を解体し、それを吸収し、さらに必要とあればそれに弾圧を加えることを狙っている政府からの圧力に抵抗しなければならないからだ。しかしながら、自律的運動がまったくなければ、成功の可能性もまたゼロなのだ。

一九八五年地震以上の爆発力

 われわれがすでにふれてきた一九八五年の生き延びた人びとの運動は、メキシコ国立自治大学(UNAM)におけるCEUが率いた一九八六年の学生ストライキ、および一九八八年の選挙で一つの結論に行き着いたPRIの分裂を先取りしたものだった。そしてこの一九八八年、PRIのサリナスが、大量の投票不正を背景に権力の座に着いたのだった。
こうした展開の後に続いたPRIに対する大衆的拒絶と民衆的決起は、これらのできごとを考慮しない限り理解できない。これらの経験と到達した意識のレベルは当時、PRDが本物の抜本的な変革を代表してはいなかったとしても、この政党へと水路が向けられた。
生き延びた人びとの今日の運動も、それがもっている全面的な道義的権威に基づき、体制の社会的かつ政治的な危機のど真ん中で、さまざまな反響を引き起こす可能性をもっている。
事実として今は、メキシコの体制の歴史における正統性という領域で最悪の時であり、それは、PRDが一つの協力者として吸収される中で、この党が代表したオルタナティブがすでに内部破裂を終えている時に到来している。それは特に、おびただしい女性殺人、ジャーナリストに対する容赦のない暴力、そして麻薬との戦争の軍事化という惨害を悪化させたにすぎない、EPNの新自由主義綱領を支える、「メキシコのための協定」にPRDが署名した後では真実となっている。
現実に体制の危機の表現は、EPN執政のほとんど毎年、繰り返し掲げられている「ペニャ出ていけ」のスローガンに見出すことができた。例をあげれば、先述した二〇一二年の「♯yoso132」、二〇一三年の新自由主義構造改革反対の大衆的抗議行動、二〇一四年のアヨツイナパの拉致、二〇一五年中間選挙のボイコットと教員運動の成長、二〇一六年の師範大学におけるストライキとメキシコシティの基本法改定投票における高率の棄権、そして今年はじめのガソリン値上げ反対の「ガソリナゾ」抗議行動といったことだ。
この体制がまだ崩壊していないとすれば、それはその強さのためではなく、運動の弱さのためだ。われわれは、この進行中の危機の次の爆発は二〇一八年の七月に現れるだろう、と予測してきた。そしてその時PRIは疑いなく、大統領選の新版の不正を通して権力にしがみつこうと試みる。しかしながら今回の地震が、メキシコの社会的、政治的構造地質学のプレートを移行させることになった。そしてそのエネルギーは、この体制の腐りきった基礎を破砕するかもしれない。

制度主義的展望を拒否する時


われわれの目標は、生き延びた人びとの運動と反新自由主義運動が、共有された反システムの展望を発展させるために、道を見つけ出すことを助けることでなければならない。
これは込み入った問題だ。たとえば、まさにPRDが政治的オルタナティブとして退却した中で、アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドル(またはAMLO、PRDの元大統領候補、現在は無所属)と彼の新党、MORENA(民族再生運動)は、カルデナスとPRDがかつて推し進めた選挙主義の展望を取り入れるにいたった。
AMLOは今、体制に反対して闘っているすべての運動はその銃火を控え、その努力を二〇一八年の彼の選出に振り向けるべきだ、と主張している。幸いなことだが、EPNに対決して立ち上がった運動はどれ一つとして、自らを選挙と制度の道にしたがわせるAMLOの提案を受け入れていない。
全問題の解決策として二〇一八年にAMLOが票を勝ち取ることにMORENAがどれほど新たな幻想を生み出すことを希望しようが、一九八八年とは対照的に、支配政党を単純に「取り替える」という展望はもはや、その当然の成り行きをたどって消滅している。とはいえ、今日の運動も、この政治的な矛盾に対処しなければならない。
しかしながら言わなければならないことがあり、それは、焦燥感の中で、またPRIに対する憎悪から、運動のいくつかの部分はこれらの選挙主義的幻想を受け入れているということだ。同時に、メキシコ州における最新の選挙は、たとえMORENAが多数票を獲得できるとしても、PRIは権力維持のために不正に頼るつもりでいるということ、そしてAMLOの唯一の対案は法廷で不平を述べるだけ、ということをはっきり示している。現実にメキシコ州の選挙は、二〇一八年にわれわれが予想できることに関する予告編だ。
このすべてを考慮した場合、生き延びた人びとの運動がもつ潜在的な力とエネルギーが意味することは、二〇一八年は必ずしも一九八八年のようにはならないだろう、ということだ。一九八八年の危機は、詐欺的な制度主義の防衛という形で、PRIが他の既成諸政党(基本的には、親ビジネス勢力である国民行動党、PAN)と大統領職任期を交代することにより権力を分け合うことを通じて解決されたのだが、一九八五年がこのような一九八八年の危機に導いたとすれば、それでも二〇一七年は、ある種の繰り返しを自動的に予示するわけではない。それは、力関係が異なり、体制の危機がもっと深いからだ。

根本的オルタナティブに向けて

 今や、諸政党が政権を交代で担うことでよしとはしない反資本主義諸勢力の、より強力な表現がある。
それは時として分散しているとはいえ、反資本主義の意識は、多様な労組、また社会的、政治的諸運動の内部で進んできたのだ。一つの例は、「民衆と労働者の政治組織」(OPT)の創立であり、それは、メキシコシティの電力システムの新自由主義的私有化と対決した必死の闘争の渦中にあった、電力労働者労組(SME)の主導性によるものだった。
依然として以下が唯一の選択肢だ。サパティスタ民族解放軍(EZLN)は全国先住民会議(CNI)に、先住民統治評議会(CIG)設立を提案し、次いで、二〇一八年大統領選に立候補する無所属候補者として、そのスポークスウーマンであり先住民指導者であるマリチュイを提示した。そしてCNIは五月にこの行動計画を採択し、実行に移す活動を始めた。
九月九日のOPT全国会合は、批判をもってだがマリチュイとCIGの大統領選挙キャンペーン支持に同意し、重要な連携――一方におけるサパティスタとCIG間の、他方におけるSME・OPTとの間の――に向けた潜在力を示した。それらは全部を合わせた場合、システムへのオルタナティブとして一つの社会的ブロックを推し進める可能性がある。
疑いなく、CIGとそのスポークスウーマンのキャンペーンは、選挙の制度的枠組みを破って飛び出すものとなるだろう。マリチュイがすでに語ってきたことだが、われわれは票を追いかけようとしているのではない。これは闘争に基礎を置くキャンペーンとなるだろう。
こうして体制の危機は、選挙においてさえもその表現を隠せないことになるだろう。マリチュイのキャンペーンは、PRTが主導した一九八八年のロザリオ・イベラの大統領選に非常に似ている。しかしながら今日、力関係は変化を遂げた。当時に戻れば、一九六八年の戦闘から登場した社会主義的左翼の主要潮流は、カルデナスの制度的な展望に屈し、自身をPRDの中に解消することまでした。PRTはそうすることを拒否したが、こうした環境の中で自身が孤立していることを見出すことになった。
今月の悲劇的惨状にもかかわらず、ソーシャルネットワークの中で言われているように、このシステムが構造的な欠陥に冒され、崩壊の瀬戸際にある、と期待する理由がいくつかある。九月の地震性微動は、歴史におけるマルクスの古いモグラのように、腐敗しガタガタになった伽藍全部を倒す十分な力をもって、地中から上に向かって穴を掘る社会的、政治的勢力を、目覚めさせるかもしれない。(二〇一七年九月二六日)

▼エドガルド・サンチェスは、PRTの指導者であると共に、OPT全国執行委員会メンバー。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年一〇月号)    


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