寄稿
山崎博昭君虐殺から50年(下)
ベトナム市民との交流の中で
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日本のインドシナ侵略
一九三〇年代には日本は帝国主義として中国の満州を支配し、当時の中華民国への侵略を全面化し、日中戦争を拡大する。一九四〇年に入ると日中戦争の行き詰まりを打開するために、大日本帝国はドイツがフランスを降伏させたのをきっかけにインドシナに侵略する。ベトナムにおいてはフランス総督府と折り合いをつけながら、日本の軍部がフランスと二重支配を行う。この中で一九四四年末から起こった天候不順、翌年夏の洪水、日本軍による過度なコメの供出などが原因でベトナム北部を中心に二〇〇万人以上の餓死者を出すことになる。
しかし、大日本帝国は一九四五年八月一五日には、ポツダム条約を受け入れ、連合軍に降伏し、民衆が受けた悲惨な被害を放置したまま撤退することになる。日本が降伏するとホーチミンが指導するベトミンが各地で権力を握り、ホーチミンがハノイでベトナム民主共和国の成立を宣言する。この宣言の中で日本の支配からの独立を勝ち取ったことを述べているが、ホーチミンが真の独立を果たすためには、もう一つの支配者フランスとのインドシナ戦争、フランスに代わって南ベトナムの傀儡政府を通して支配を続けるアメリカとのベトナム戦争を戦わなければならなかった。
ところがベトナム戦争の激化の中で、安保条約によって米軍基地を提供している日本から兵器、弾薬、燃料が供給され、爆撃機が出撃していくことになった。この中で佐藤首相は南ベトナムを訪問し、その政府その戦争への支持を世界に表明するために羽田空港から出発することを明らかにした。私は友人の話を聞きながら、日本とベトナムをめぐる歴史の中で、一〇・八羽田闘争の持つ意味の大きさを再確認した。
六〇年代の闘いを伝える
第二に、このホーチミン戦争博物館の展示を見て抱いた思いを紹介したい。まず、今回の特別展示について。実はこの特別展示の前から総評、共産党、べ平連の反戦運動を紹介する常設展示はあった。しかし、今回、一〇・八佐藤訪ベト阻止羽田闘争での山崎博昭さん虐殺から全国化したベトナム反戦運動を記録する展示は、今までそこにはなかった。日本のもう一つの反戦運動の記録がそこに示された。ベトナムの民族独立運動の歴史を知らなくても、ベトナムの人たちの民族独立の願いを支持し、米軍基地から爆撃機が飛び立ち武器や兵器そして兵士が運ばれることを体を張って、実力で止めようとする運動の姿がしっかり記録されていた。
またベトナム戦争に加担し協力する自民党政府との闘いが大学闘争、三里塚闘争、自衛隊反軍闘争、沖縄の基地労働者の闘争に広がっていく闘いの姿も確認できた。特に、展示会で流されていた「怒りを歌え」のビデオに映し出された日大一〇万人集会の映像は圧巻だった。
第三に、ベトナム戦争証跡博物館の二階、三階の常設展示から受けた衝撃を述べておきたい。そこには、ベトナム戦争当時新聞などでよく目にした爆撃や戦火から逃げる家族や子供たちの写真があった。しかし、それだけでなく、戦火そのものの写真があった。家に火を放つ米兵の写真。山と積み上げられた半裸の子供や女子の写真。はっきりと無差別な殺戮が写真に残されていた。敵を威嚇するために戦争が行き着く先には、人々の生活と命の破壊があるというのは歴史に記されたことなのだ。
歴史を消すことはできない
事実を知る人が少なくなったり、証言する人が少なくなる中で、歴史を修正しようとする人が出てくる。日本でも南京虐殺はなかったと歴史を修正し、戦争を正当化する動きがあるが、ベトナム戦争での虐殺の場面を映した写真を見てみろと言いたい。この日も博物館にはたくさんのアメリカ人の姿があった。彼らが写真を凝視し、長い時間その場に立ち尽くす姿が忘れられない。
第四に、初めて訪れたベトナム社会主義共和国に対して抱いた感情について述べたい。何よりも驚いたのは道がバイクで埋め尽くされていることだ。車もあるがバイクの川の流れの中に浮かぶ島のようだ。とにかく活気のある変貌する都市だ。開発が進んでいる。町の一角が塀で囲われているが、そこにかけられた看板には高層ビルの完成図がかけられている。さらに今地下鉄建設も進行中だという。突然韓国のソウルを思い浮かべた。高層ビルデイングで埋め尽くされ、道は車で満たされたソウル。そんな姿に変貌するのかなと思った。わいろを要求する官僚の弊害もたくさんの人から聞いたが、それを明るい顔で話す人たち。国家からの圧迫のない発展の道を歩んでほしいと感じた。
最後に、どうしてもアメリカ軍が散布した枯れ葉剤によってもたらされた傷跡について述べておかねばならない。ホーチミン市にあるツーズー病院・平和村では枯葉剤で障害を持ち、生まれた子供たちがリハビリやケアを受けながら生活している。障害を受けた子供たちの七〇パーセントがダウン症だというが、ここにいるのは重度の子供たちだ。彼らに本などのお土産をもって行き交流した。明るく触れ合う彼らだが、体の機能に重度の障害を負いながら、リハビリを続けている。
枯葉剤の影響を受けた人は数百万人と言われ、特にベトナム中部地域に今でもその影響は続いている。この病院はドイツの支援などで運営されているというが、アメリカ政府は今も公式にその責任を認めてはいない。病院には、生まれても生きられなかったたくさんの子供たちがホルマリンの中にいる。戦争の傷跡は歴史の中で、何十年あるいは何百年にわたって、人々に危害を与え続けるものなのだ。
このツアーを通して改めて感じたことは、今の日本の現実である。歴史を偽造し、再び戦争を実行する国に向かおうとする安倍政府。戦争は始まったら管理できない。多数の人々が、その犠牲となり、長い間人々に苦しみを残す。絶対にアジアで再びの戦争の引き金を引かさせてはならない。
10.4
翁長知事の工事差し止め訴訟支援
辺野古新基地建設やめろ
2000人が集会・デモ
一〇月四日午後六時半から、東京・日比谷野外音楽堂で「翁長知事の工事差し止め訴訟支援! オスプレイ配備撤回! 辺野古新基地建設を許さない集会」が主催:基地の県内移設に反対する県民会議、「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会、戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会で開催され、二〇〇〇人が参加した。主催者を代表して、野平晋作さん(国会包囲実行委)と藤本泰成さん(総がかり行動実行委)が発言した。
藤本さんは「安倍と小池が手を結べば戦前の大政翼賛会になる。それを止めるためにも、立憲民主党、共産党、社民党と市民が団結して総選挙に勝利を」と訴えた。
大城悟さん(基地の県内移設に反対する県民会議・事務局長)が沖縄現地の闘いの現状を報告した。
「四月から海上での工事が着工された。三カ所のうち一カ所の大浦湾側で三〇〇mのうち、一〇〇mまで進んだ。今後、辺野古側のK1、N5護岸に着手する。ダンプでは間に合わないので海上から砕石を投入する計画がある。しかし、大浦湾の海底は大きな窪みがある。活断層ではないか、大型船で調査を繰り返している。地盤が強固でないので、ケーソンなどの投下をどうするのか検討しているのではないか。工事は計画通り進んでおらず、三年遅れている」。
「陸の辺野古では三時間おき、三回(午前九時、正午、午後三時)にわたり、延べ一六〇〜二〇〇台のダンプカーが入っている。そのたびに、抗議の人を機動隊が出て排除している。しかし、みんな笑いながら阻止行動をする余裕が出来ている」。
「岩礁破砕許可は知事の承認が必要だ。国は漁業権が放棄されたのだから、県知事の許可は必要ないとして違法な埋め立て工事を行っている。国のやり方を許してはならない。オスプレイが次々に事故を起こし、民間空港に緊急着陸している。民間空港を簡単に使用できるようにしている。オスプレイの飛行を中止しろ。人殺しの米軍基地を作らせない。沖縄・全国の力で基地建設を止めていこう。総選挙に勝利しよう」。
次に、民進党と共産党の参院議員が参加していることが紹介された。
環境・人権破壊
の基地つくるな
糸谷欽一郎さん(全国港湾労働組合連合会・中央執行委員長)が土砂運搬を拒否し辺野古を守る闘いの特別アピールを行った。
参加した市民団体の発言が続く。辺野古・高江を守ろう国際NGOネットの満田夏花さんは「五月の国会で稲田元防衛相が、普天間基地の代替で辺野古に基地を作ると従来言われていたことを、那覇空港を使わせなかったら(長い滑走を持つ空港を使いたい)、普天間は返さないと米軍は言っていると話した。これはわれわれをだましたことになる。許せない。理不尽な解散総選挙に対して、民主主義・地方分権の立場から、自民党政権と市民の二極対決で闘おう」と話した。
ジュゴン保護センターキャンペーンの仲間は、「米国・カリフォルニア高裁で出されたジュゴン裁判で地裁への差し戻し判決を説明し、この裁判の行方によっては辺野古の埋め立てを差し止めることになる。そしてヤンバルの森を世界自然遺産に登録することはオスプレイの配備を止めさせることにつながる」と報告した。警視庁の沖縄派兵反対住民訴訟の仲間たちと東日本でのオスプレイの配備に反対する会からの活動報告の後に、全水道の代表が「高江のヘリパッドは森林を伐採し水源地に作られた。これは命の水を奪うことで基地は人権を侵している。嘉手納基地でもその中を通る川がある。基地から有害物質が流れ出る。そのたびに取水制限を行っている。基地撤去しかない。全国の基地をなくそう」と訴えた。
最後に集会アピールを採択し、「辺野古新基地NO!」などのシュプレヒコールを行い、銀座方面へ向かうパレードを行った。(M)
コラム
スランプ
九月の中旬ころから英語勉強の進み具合が急に悪くなった。その第一の原因はストレスの蓄積である。それは勉強疲れということもあるのだろうが、それ以上に過度の運動不足によるものだと考えられる。三カ月間ほど部屋に閉じこもる生活を続けていて、全身の筋肉は信じられないほど削ぎ落ちてしまった。
股関節の痛みだけではなく、座椅子から立ち上がるのもひと苦労だ。おまけに腹筋がなくなったお腹は、五キログラムほどのスイカがすっぽりと収まっているかのような状態になってしまった。叔母からは「なに!そのお腹」と言われてしまうし、二九歳になって同棲を始めた娘からも「ビールっ腹でしょう!」と散々なのである。
そこまで言われたら、勉強のためにも体のためにも何らかの運動をするしかないだろう。それで走ることはいまの体力では無理だと考えて、とりあえず夕食前に近所を歩くことにした。デバラが見っともないので、暗くなってからの時間帯の方がよい。そして近所の地図を広げてコースを決める。K公園通りを南下して、公園内の野球場を一周して戻ってくると約四・五キロメートル。それをできるだけ早く歩く。
そういうわけで二週間ほど前から歩くことになった。約四五分間歩き続けて、帰宅したら腹筋二〇回もノルマとした。それにしても夜の公園は想像していた以上に暗い。野球場でナイターをやっていれば光が零れてはくるのだが、そうでないと足元もあぶなっかしいくらいだ。それに走っていればまだ格好もつくのだろうが、腹で風を切って歩いていると、そのうち警官に呼び止められて職質されてしまうかもしれない。
そんなつまらぬことを考えながら歩くのはいいのだが、今度は疲れのためだろう、夕食後に猛烈な睡魔が襲ってくる。単語・熟語の暗記勉強にとって睡魔ほど厄介なものはない。こうして夜の勉強時間はうまいこと作動しなくなってしまう。かと言って歩くのを止めるわけにもいかない。しかもこのことを新たなストレスにするわけにもいかない。もう少し体力がつけばこの問題も解決できるのだろうから。
先月、事務所で新聞の発送作業をしているところに、英語が堪能なYさんがひょっこりと現れて私に言った。「六〇歳を過ぎてから勉強を始めたのだから、翻訳も会話も英作文もと、欲張らない方がいい」「まずはインターナショナルビューポイントの翻訳を目標にすべきではないか」「僕がうんざりするほどの赤ペンを入れてあげるよ」と。
そう言ってくれた彼の表情からは「諦めることなくがんばれよ!」という同志愛のようなものを感じとれた。ありがたい限りである。私とていつまでも「英語勉強自由人」でいられるとは考えていない。あまり自分を追い詰めずに、がんばり続けるしかないようだ。(星)
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