沖縄報告:10月7日
1区赤嶺政賢、2区照屋寛徳、3区玉城デニー、4区仲里利信
沖縄 K・S
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安倍政治の無法な暴走を反映して、沖縄自民党の粗暴さが強まっている。
彼らは県議会の場で、辺野古新基地建設を止められないのは翁長知事の責任であるかのように発言したり、四つの選挙区の内一つでもオール沖縄の候補が当選しなければオール沖縄ではなくなる、と言ったり、知事の発言に汚いヤジを飛ばしたり、知事を「あんた」と言ったり、やりたい放題だ。安倍政治の破たんは現場では、問答無用の機動隊の暴力と自民党政治家のモラルの崩壊となって現れている。
負けるわけにはいかない。基地のない未来を子供や孫たちに伝えることをかけて勝ち抜く以外ない。沖縄全四区の勝利のために沖縄につてのある全国の皆さんの総力を集めてほしい。
10.7
辺野古土曜行動に1000人
終日工事車両をストップ
一〇月七日土曜日の辺野古現地行動は、各地の島ぐるみが総結集し、工事車両の全面ストップをかちとった。日本政府防衛局による埋立工事のための資材搬入が連日強行される中で、毎月第一土曜日を島ぐるみの総結集による県民行動と位置づけ、朝から夕方まで資材搬入を完全にストップすることを目的に取り組まれたのがこの日の土曜行動だ。
午前中は那覇と北部、午後は中部と南部の担当となりゲート前座り込みを貫徹するとともに、一二時から一時の間に県民集会が開催された。
海にも陸にも新しい基地は造らせない
キャンプ・シュワブ第一ゲート前の路上は人波で埋まった。参加者は主催者発表で一〇〇〇人。丁度一二時、宣伝カーの上にしつらえられた壇上で、司会のうるま市島ぐるみの伊芸事務局長が開会を宣言し次のように述べた。「辺野古の海にも陸にも新しい基地は造らせないと、ゲート前で座り込みを始めてすでに一〇〇〇日以上。憲法違反の安倍の冒頭解散に対し、建白書に立脚した県民の声をハッキリと示そう!」
稲嶺名護市長は「これまで何度も民意を示してきたが、見ようとしない日米両政府。衆院選の勝利で、辺野古阻止・普天間閉鎖・オスプレイ撤去の闘いをもっと強く作らなければいけない」と檄を飛ばした。
照屋寛徳議員は「連日の闘いをゲート前で、カヌーで勇敢に進めているみなさんに敬意を表する。今回の最大の争点は辺野古新基地ストップかどうかだ。ウチナーの未来はウチナーンチュが決める」と訴えた。
赤嶺政賢議員は「米軍が最も恐れた男はカメジロー。安倍が最も恐れているのは、1〜4区の議員たちだ。無法な強権政治と闘うオール沖縄の4人の候補を当選させよう」と呼びかけた。
玉城デニー議員は「小沢さんと話した結果、私はそれぞれの立場で自由に考えを主張することのできる無所属で出ることを決断した。辺野古は白紙撤回しかない。馬の鼻先のニンジンのように、目新しいスローガンをとっかえひっかえする国のリーダーには退場願おう」と述べた。
県民の代表4人
再び国会に送れ
伊波洋一参院議員は「解散のない参院の私と糸数さんは、一〜四区を駆け回り、辺野古阻止に全力で取り組む。県民の声を代表する4人を再び国会に送ろう」とアピールした。
県議会会派「おきなわ」の親川県議は「名護市長選の相手側候補が決まった。辺野古推進の張本人だ。勝ち抜こう」と訴えた。元大宜味村長で島ぐるみやんばる共同代表の島袋義久さんは「原点に戻って考えよう。美しい海を人殺しの場にしようという考え自体がおかしい」と述べた。
ヘリ基地反対協の仲本興真さんは「朝の海上行動の現場から駆け付けた。八年と四九二九日闘い続けてきた。運動の主体は地域住民だ。ゲート前で海上で、地域から多くの人が立ち上がればストップできる。一〇・二五海上行動を成功させよう」と訴えた。現地闘争本部長の山城さんは「ゆるやかにしなやかに、歌って踊って権力を笑い倒して闘い抜こう」と檄を飛ばした。
最後に、オール沖縄会議共同代表の高里鈴代さんが「今度の選挙、ある人が、ワクワクすると言った。県民の力を示そう」と述べ、全員が手に手を取り合って、ガンバロー三唱をした。
山城さん「全国
で大歓迎受ける」
テントで行われた午後の集会では、各地の島ぐるみの発言、歌やパフォーマンスなどが続いた。山城さんは「全国どこでも辺野古から来たと大歓迎される。ゲート前で機動隊にゴボー抜きされ、痛い痛いと言いながら悔しい思いをして頑張っている皆さん、全国に仲間がいる。くじけず、心を折ることなく頑張ろう」と述べ、泰さんと共に、ケサラなど数曲を力づよく歌った。
高里さんは「オール沖縄会議がドイツの平和賞を受賞した。二〇年にわたって辺野古反対の闘いを続けてきた私たちに与えられた賞だ。来月スペインのバルセロナで行われる授賞式に参加する。あきらめず非暴力で闘い続ければ、必ず政治的な変化が起こる時が来る。チャンスが生まれる。心を一つに頑張りぬこう」と呼びかけた。そして「機動隊がみんな引きあげた。今日は資材搬入はない」と勝利宣言をした。その後も糸満市、南風原町、八重瀬町、うるま市などの発言・パフォーマンスがあり、午後三時前幕を閉じた。
10.4
辺野古ゲート前に100人
資材搬入阻止の闘い3度やり抜く
午前八時、工事用ゲート前に集まった参加者はまず、ブロックと足場板を並べ座り込み用の席を設置することに取り掛かった。進行係の伊波義安さんは「国頭村と本部町で採石場からのダンプを止める行動が今朝も行われている。辺野古・大浦湾の海は四二五種のサンゴが生息する。サンゴは現在のように育つまで三万年かかる。われわれの代で壊してしまっていいのか」と訴えた。
ヘリ基地反対協の安次富浩さんが「今朝も海上では、抗議船二隻、カヌー一〇艇が現場に出ている。ゲート前と海上で、不法な埋立て工事を止めよう」と話している時、県警の座り込み排除と防衛局の資材搬入が始まった。
砕石を積んだ一〇トンダンプ、二〇トントレーラーだけでなく,大きなブロック、鋼材、鉄筋、汚濁防止膜、足場板を積んだトラック、ユニック車、機械を積んだトラックなど五六台が進入した。とくに生コン車が多く、一三台を数えた。資材を基地内の作業ヤードに降ろしゲートを出てくるまで五〇分近く、県警の排除が続いた。その間、「基地建設に加担するな」のマイクの訴えとプラカード抗議が続いた。
資材搬入が終われば、機動隊によって路上脇によけられたブロックと足場板を再びセットし、座り込み集会を再開する。「けが人はいませんか」「落し物はありませんか」との呼びかけで始まる再開集会で、大宜味、本部、名護など各地の島ぐるみの発言が続いた。二回目の資材搬入は一二時から約四〇分にわたって行われ、五三台が進入した。その後、座り込みはテントへ移動し、三回目の資材搬入に備えた。
9.30
訪米報告会に120人
米国に沖縄の声広がる兆し
八月一六〜二四日、県内各界の代表が参加し辺野古NO!を訴えた訪米報告会が開かれ、一二〇人参加した。司会は沖教組の山本隆司さん。
団長の伊波洋一参院議員は「沖縄からの二一人に四人の通訳、総勢二五人の行動だった。沖縄の声がアメリカでもようやく広がり始めた。会えば向こうから、ミスター山城はどうしているか、と聞いてくる。これからの交流が大事だ」と報告した。県議の比嘉京子さんは「英語の冊子を作り配った。ある補佐官は、狭い沖縄にこんなに多くの基地を置いていることはアメリカでは考えられない、もっと情報が欲しいと言った。取り組もう」と述べた。労組グループ代表の連合沖縄の大城紀夫会長は、統一連や平和運動センターの代表と共に前に立ち、「アメリカが当事者であるのに、残念ながら沖縄のことがあまり知られていない。アジア太平洋系労働組合との交流は大きな意義があった」と報告した。
環境分野の吉川秀樹さんは「行って直接話をする大切さを感じた。ジュゴン訴訟の判決は今後の運動の手掛かりになる。沖縄の米軍基地は国連の基地でもある。国連特別報告者を通して問題提起していきたい」と話した。その他、若者代表の玉城愛さん、女性代表の宮城千恵さん、さらに意見交換で沖ハムの長浜社長が発言した。
詳細な『オール沖縄会議第二次訪米報告集』が発行された。問い合わせは電話098-869-4312 Eメールall.okinawakaigi@gmail.com
沖縄戦の始まりを告げた10・10空襲
日本軍不意つかれ甚大な被害
沖縄戦の始まりを告げた一九四四年一〇・一〇空襲から七三年。一九七一年に復活した那覇大綱挽は、一〇・一〇空襲を忘れないため一〇月一〇日に行われていた。アメリカは日本攻撃作戦を三段階に分け、@沖縄を制圧するアイスバーグ作戦、A九州に上陸するオリンピック作戦、B関東に上陸するコロネット作戦を策定した。一〇・一〇空襲は、九州、日本本土への上陸作戦に向けて沖縄を制圧するアイスバーグ作戦の一環だった。
日本軍は一〇月一〇日に大掛かりな図上演習を予定していて、前日の九日夜は那覇の料亭に各地の軍司令官たちを集めて宴会を開いていた。米軍の攻撃に全く気づかなかった。「警戒警報はおろか、空襲警報のサイレンさえも、ただの一度も鳴らなかった」(第二高女、平良ゆり子)。住民も寝耳に水。「今日の演習はいつもより激しいな」と話しあい、日本軍の演習と思っていたという。
五波にわたる米軍機の延べ出撃回数は、一三九六機。飛行場、港、軍施設さらに各地の人家が炎上、とくに那覇の被害が大きく、九〇%が炎上した。死傷者は軍民合わせて約一五〇〇人にのぼった。辻の遊郭もこの時焼けた。一九四〇年に二七〇軒、一〇〇〇人以上いたとされる女性たちは、その後、日本軍慰安婦として戦場に動員されていった。
港に陸揚げされたばかりの住民の食料なども燃え灰となった。離島航路など住民の船舶もことごとく沈没。県の経済活動はマヒ。「住む家がない。食べる物がない。着るものがない」という戦争の苦しみが始まった。日本軍も航空機五一機、船舶一五五隻、弾薬一〇〇万発、軍用食糧米三〇万俵など、壊滅的な損害を被った。
那覇市安里の養蚕試験場にあった三二軍司令部も焼けて、日本軍は首里城地下に人工壕を掘ることを決めた。当時、首里城は国宝だった。沖縄は京都、奈良に次いで国宝が三番目に多い県だったが、その象徴が首里城だ。首里城が沖縄戦で廃墟と化したのは、沖縄と沖縄の文化を軽視し壊滅へと導いた日本軍に責任がある。
一〇・一〇空襲のあと、絶望的な対米戦争への邁進に拍車がかかった。沖縄では「六〇万県民の総決起」「軍官民共生共死の一体化」方針のもと文字通り県民の戦争への総動員が実行されるとともに、日本本土では、松代大本営の構築が着手された。
日本政府は一九四四年一二月九日、中立国のスペインおよびスイス政府の駐米大使館を通じて、「米軍機は、学校や病院、寺院、住居などのような那覇市街の非軍事的目標にやみくもに攻撃を加え、灰燼に帰せしめた。同時に無差別爆撃と低空からの機銃掃射により多数の民間人を殺害した。日本政府は、非軍事的目標や罪のない民間人に対するこのような意図的な攻撃が、今日、諸国家間で承認されている人道の原則と国際法に対するきわめて重大な違反であると認め、抗議する。」と非難した。米国は黙殺した。日本政府による一〇・一〇空襲抗議は後にも先にもこの一回だけだ。
民間人の大量殺傷をともなう、あるいは目的とする無差別爆撃は、ドイツ軍によるゲルニカ爆撃(一九三七年)、日本軍の重慶爆撃(一九三九年)に続き、米軍による一〇・一〇空襲、そして、東京大空襲、広島、長崎の原爆投下へとつながる。日本の支配層は自国民の命を奪った米国の無差別爆撃という戦争犯罪を非難せず謝罪も求めない。米国に追従する国だから。もし米国の戦争犯罪を非難するなら、アジアに対する日本の戦争犯罪に頬かむりし続けることができなくなるから。同じ穴に住む、森で一番力のあるムジナとその子分ムジナ。森の平和を一番脅かしているのはこの二匹のムジナだ。
【訂正】前号(10月9日号)1面総選挙論文8段、3〜4行「維新の党」を「日本維新の会」に訂正します。
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