もどる

    かけはし2017.年10月2日号

やんばるの森と高江の今


8.21

世界遺産の自然を守れ

オスプレイ運用開始で何が壊れたのか!



市民運動・自然
保護団体が共催
 八月二一日午後六時半から、東京・文京区民センターで「やんばるの森と高江のいまを知ろう オスプレイ運用開始で壊されたものは?」の集会が辺野古・高江を守ろう!NGOネットワーク、FoE Japan、美ら海にもやんばるにも基地はいらない市民の会の主催で開かれた。ヘリパッドはいらない住民の会、島ぐるみ会議・国頭、島ぐるみ会議・東、島ぐるみ会議・大宜味、高江現地行動連絡会が八月二二日に、「北部訓練ヘリパッド問題に関する要請書」をもって防衛省との交渉に臨むために、東京にやってきた。

沖縄と世界の
恒久平和掲げ
最初に、北上田毅さん(沖縄平和市民連絡会)が高江の現状と申し入れの中身について報告した。申し入れ項目。一、北部訓練場の全面返還に向けた計画を明らかにすること。二、米軍に対して、北部訓練場でのオスプレイ運用の中止を求めること。三、米軍に対して、新しく造成されたヘリパッドの運用禁止を求めること。四、米軍に対して、夜間訓練の禁止、集落上空の飛行禁止を求めること。五、今回のヘリパッド造成工事で不具合が生じた原因を明らかにすること。六、ヘリパッド造成現場周辺を完全に原状回復すること。七、米軍に部分返還地の土地の使用履歴を公開させ、枯葉剤などの調査も行うこと。
「高江での闘いは歴史に残る画期的闘いだった。七月一日から工事が再開され、七月一一日から、N1、Hヘリパッドでオスプレイの離発着が始まった。ずさんな工事でやり直しや騒音被害がすごく、これに対する闘いを始めている」。
伊佐育子さん(「ヘリパッドいらない」住民の会)。「オスプレイの運用開始には三村に連絡するとしていたが約束を破った。オーストラリアでオスプレイが墜落事故を起こした。基地のない自然遺産のために毎日座り込みをしている」。
大田博信さん(島ぐるみ国頭)は「沖縄を返せ」などの歌を披露した。當山全伸さん(島ぐるみ東)。「東村の四一%が軍用地。ノグチゲラなどが棲息している。一九八八年にダムにヘリが墜落し四人の米兵が死亡した。六カ所の水源地ダムがあり、本島の六割分を供給している。ダムの安全性を確保し、自然を生かした観光業の発展こそを。高江基地の撤去、北部訓練場の閉鎖」。
島袋義久さん(島ぐるみ大宜味)。「大宜味には基地はない。国有地がなくすべて村有地になっている。毎月定例会を開き、毎週月曜高江へ、水曜辺野古へと行動している。村には四つのスローガンを書いた旗を立てている。世界恒久平和のために沖縄の基地に反対している」。
間島孝彦さん(高江連絡会)。「九月末が補修工事の最終。少しでも遅らせるために闘う」。奥間政則さん(土木技術者)。「私は技術者なので、オスプレイの工事がいかにずさんであったのかが分かる」と話し、「オスプレイの離着陸で芝生が焼けてしまう。爆風除けの琉球竹が枯れている。ノリ面が崩れている」と指摘した。
花輪伸一さん(沖縄環境ネットワーク)は日本政府の「沖縄島北部の世界自然遺産推薦地」に関して、世界遺産委員会の諮問機関であるIUCN(国際自然保護連合)の事務局長、世界遺産プログラム・ディレクター、世界保護地域委員会議長、種の保存委員会議長名宛に、意見書を送付したことを報告した。  (M)

9.4

辺野古実が防衛省行動

連続行動に取り組み
東アジアの平和実現へ

 九月四日午後六時半から、辺野古への基地建設を許さない実行委員会が定例の防衛省抗議行動を行った。嘉手納出身の島袋さんが「古い駐機場を使わないと約束していたのに、今でも使っている。パラシュート訓練も行い、とても危険だ」と訴えた。続いて、沖縄戦・首都圏の会の仲間が「二〇〇五年、司令官の命令ではないと、『沖縄ノート』の著者と出版社が名誉棄損で訴えられ、いわゆる大江・岩波裁判が始められた。教科書から沖縄戦の記述が歪められ、住民の集団自決が軍の命令で行われたという記述が削除された。これに抗議して、二〇〇七年九月二九日、一一万人の県民大会を開いた。九月一二日〜一三日、参議院議員会館101会議室で、沖縄戦『集団自決』消せない傷痕 沖縄戦を考える講演会・シンポジウムが開催される。集団自決体験者の証言もある。ぜひ参加を」と呼びかけた。
 日韓ネットの尾沢さんから「東アジアへの平和を求める9・16集会」への案内、神奈川で米軍厚木基地との闘いを担っている松本さんは、原子力空母はドナルド・レーガン艦載機の爆音訴訟差し止めの闘いをアピールした。沖縄一坪反戦地主会関東ブロックの仲間は二二年前の九月四日に起った三人の米兵による少女レイプ事件を思い起しながら「普天間基地無条件返還」の闘いの意味を改めて訴えた。
 練馬の池田五律さんは、首都圏の反基地運動団体によって大軍拡予算反対の防衛抗議行動を行うと紹介した。
 最後に、沖縄現地の攻防と結んだ一連の行動予定が紹介された。
 警視庁機動隊派遣反対の住民訴訟、大浦湾を守る集会、一〇月四日の沖縄と結ぶ日比谷集会、辺野古カヌー海上行動などである。沖縄と「本土」をつなぐ闘いへ。       (M)

三里塚の証言 悪魔の731石井部隊 E

我が内なるファシズムの思想を克服せよ

三里塚大地共有委員会代表 加瀬 勉 2017年4月10日

731部隊篠塚良雄隊員の証言 3

 加瀬「ソ連参戦。八月一五日、篠塚さんはどうしておられましたか」。
 篠塚「支那派遣軍大本営命令が出ました。@貴部隊は全面的に解消し、部隊を一刻も早く日本全土に帰国させ、一切の証拠は廃棄し永久にこの地球上から霧散霧消すること Aこのため工兵一個中隊と爆薬五トンを貴部隊に配属するように手配済につき、貴部隊の諸設備を爆破すること B建物内の丸太〈人間〉を電動機で処理した上、貴部隊のボイラーで焼却した上、その灰は松花江に流すこと C貴部隊の細菌学の博士号を持つ医官五三人を貴部隊の軍用機で直路日本に送還すること D職員、女子、子供まで二五〇〇人、平房駅から輸送帰還させること、満鉄本社に指令打電済」。
 「石井四郎軍医中将の最後命令もありました。ものすごい形相で軍刀を振りかざしての厳命でした。@郷里に帰っても731部隊に在籍していた事実を秘匿し、軍暦を隠すこと Aあらゆる公職につかぬこと B部隊員同士の連絡は厳禁 この三原則の命令を守らない者は、この石井が地獄の底まで追いかけて行く。731のことは墓までもってゆけというものでした。ソ連が参戦してハルビンの夜空が真昼のように明るくなりました。照明弾の炸裂、ソ連軍の攻撃。「731部隊は、これより朝鮮方面に疎開する。731部隊に関するものは一切破棄せよ。これ以後、731部隊のことは極秘にせよ」。屋根のない貨車に全員が乗った。全員起立せよ。本部に向かって黙祷。三秒、二秒、一秒前、ものすごい破裂音、火柱、黒雲は空を覆い尽くしました。平房には二〇〇人の人が収容されていたのですが、全員に首を括って死ねとロープが配られました。死ぬことを拒絶した者は射殺したそうです。油をかけて全員焼却して石炭に骨を混ぜ、袋に詰めて松花江に流したそうです」。
 加瀬「篠塚さんは撫順刑務所に戦犯として服役していますね。三里塚芝山連合空港反対同盟瀬利誠副委員長も戦犯で服役していました。二人は会われましたか」。
 篠塚「瀬利さんは、陸軍の将校で731部隊の南京攻略寧波の細菌作戦に参加しています。中国戦犯で最後の帰還兵でした。私は731部隊の少年兵でありましたから、すぐに釈放されました。瀬利さんとは中国帰還者連絡会議で共に活動しています」。
 「私は内蔵を患って陸軍配下の病院で治療を続けていました。平房の施設に帰った時には少年隊は解散していました。第一部研究、第二部実験、第三部防疫給水、第四部製造に編入されていました。私は第四部千葉県出身川島清少佐配下の柄澤十三夫の細菌製造班で仕事をすることになりました。日本軍は浙江省寧波はじめ金華、玉山、常徳で大規模な細菌作戦を展開しています。石井四郎軍医中将の責任で作戦は展開されました。中国人民は大きな被害を受けています。南京攻略では『栄』1644部隊と第731部隊派遣隊〈石井少将〉が合流して河川、井戸、建物にチフス菌とパラチフス菌を散布して攻撃しています。この時、石井は南京山西省第一軍軍医部長になって、この一連の細菌作戦の計画を立てています」。
 加瀬「貴重な証言、貴重な時間ありがとうございました」。
 篠塚「加瀬さんを案内したいところがあるのです。私の菩提寺に『日中友好不戦之碑』を私財で建立しました。謝罪してすむことではないですけれど、花を供え、香を焚いて犠牲になった中国人民を供養しています。石井四郎部隊長は『731』のことは『墓場まで持って行け』『731のことを語る者は、この石井が地獄の底まで追いかける』と厳命していますが、私はこの『禁』を破って天下に公表することを決意しました。この過ちを二度と繰り返してはならないと決意しているからです」。

国家の悪魔性


 篠塚さんが731部隊を経験したことは私の理解をはるかに超えるものでした。国家の魔性といっても国家は人間が作ったもの、人間はそこまで悪魔になれるのか。なれたのである。天皇制支配の国家原理は、天皇を神として神聖なものとして絶対化し、臣下の国民を優秀民族として他の民族は劣等民族として抹殺してよいというものであった。人間を丸太と呼び、頭の黒いネズミと呼んで抹殺していった。その抹殺行為は「天皇の命令」「朕の命令」「神の命令」として実行されていったのである。ナチズムのユダヤ人虐殺と同じ原理である。
 三里塚における空港建設は、天皇制の思想、ナチズムの思想をもって強行されていった。天皇に代わって「国策を絶対化」して「国策に反対するお前らは日本人ではない」「日本から出て行け」「反対する奴らは何人殺してもよし、お上政府から許しが出ている」「非国民」「国賊」として迫害され、三里塚の空港建設は天皇制の思想、ナチズムの思想、ファシストの思想をもって建設されたのである。三里塚の空港建設は、国家犯罪として実行されたのである。
 近代国家の政治装置、政教分離は大原則であり、主権在民、人権主義は憲法で保障されているがことごとく蹂躙されていった。生存権、財産権、居住権、職業選択の自由、健康で文化的な生活を送る自由等基本権がことごとく無視されたのである。三里塚の農民の闘いは、自己の存在、自己の生存をかけた農民の生死をかけた闘いであった。
 篠塚さんは、石井四郎軍医中将、「日本陸軍大本営命令」を破って真実を公表した。731部隊のことは「墓場まで持ってゆけ」の良心を縛っていた鎖を断ち切ったわけである。その行為は、国家に対して、支配者に対して、強者に対する反逆であり、抵抗であったと思います。「自由は抵抗、戦いによって獲得される」と言いますが、「言うはやすく行いは難し」、困難と犠牲を覚悟しなくてはなりません。自由の獲得は常に支配者との対抗関係にあります。
 私は三里塚反対同盟訪中団の秘書長として参加しました。上海の大通理で石橋政次副委員長が「俺は大砲を引いて南京攻略に向かった時は、この道は砂糖黍の皮が一尺も積もっていた」と語りました。南京大橋を特急列車で渡った時、団員の小川喜重さんが「俺はこの橋の守備隊であった」と叫びました。毛沢東の生家の湖南省迎賓館では、団員小川総一郎さんが長沙作戦に参加して湖南省に攻め入ったと発言した。私はすかさず
「南京大虐殺をやったのではないか」「中国の女性に対して強姦したのではないか」と問いただしました。「みんなはやったが、俺はやらなかった」との返事でした。
 「天皇の命令」「軍律厳しい」なかで俺だけやらなかったで済むはずはないと思います。ファシズムが巨大な歯車となって全力で回転しているときに、一枚の歯だけ逆転する良心の存在など許されるはずもない。それは言い逃れであり、逃げ口上であり、責任の回避だと思います。沈黙は傍観者は共犯者であります。真実、事実に対する反省が必要だと思います。
 戦争について旧約聖書の戦争神意説、ヘーゲルの絶対精神の自己貫徹過程における必要悪説、マルクスの地域的経済対立と国内階級闘争隠蔽作用説、集団間の関係にある必然的・恒久的憎悪説など色々あるが、私たちは個人の体験を通して、個別的体験が個別に終ることなく存在論として普遍化してゆかねばならないと思う。戦争は国家的規模の確信犯罪行為であるからである。
 芝山町史が発刊された。731部隊石井四郎軍医中将に関する記述はない。A級戦犯鈴木貞一企画院総裁〈芝山町山中〉は郷土の偉人として記載されている。空港問題の「位置決定は」運命としか言いようがないの評価である。芝山町史は権力史観で書かれている。戦争の証言者、歴史の記録者にとって中国の「春秋左伝」の故事は勇気を与えてくれると思う。
 紀元前五八四年、斉の国の重臣崔叔は、かって自ら伐った晋の国の反撃を恐れ、自国の王の首を捧げて難を逃れようとし、王を自分の妻に姦通させておいて、その家を謀殺した。歴史官である太史は、その時、宮廷の公式記録に「崔叔は其の君を殺せり」ときっぱり書き綴った。崔叔は激怒してその官吏を殺害した。その弟が兄の後を継いで同じ文章を記録した。かくて殺されたものは三人、なおもその弟が事実を記録すべく史官の任務についた。流石に崔叔は殺すのをためらった。そのときである、史書補佐の家柄のものが、太史官の家系がことごとく尽きたりと聞き及んで、自ら同じ運命に至るべく鑑札をとり記録所にはせ参じたという。
 「春秋」襄公二五の記録「五月乙亥、斉崔叔殺其君光」二一文字の記録の史実である。剣よりも弱い文筆が権威を確立したのである。後世、正史の編纂が国家の事業とされて権力に対する歴史の審判の意味は削られ事実上消滅して現代に至っている。    (完)


もどる

Back