第9回アジア・グローバル・ジャスティス学校
冷雨のマニラとミンダナオの戒厳令
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二〇〇九年以来、毎年フィリピンのマニラで開催され、今年で九回目となったアジア・グローバルジャスティス学校が、七月二五日から八月一三日までの日程で開催された。主催はIIRE(リサーチと教育のための国際協会)マニラ。IIREは最初にアムステルダムに常設機関として建設され、その姉妹機関が、パキスタンとフィリピンにそれぞれIIREイスラマバード、IIREマニラとして二一世紀になってから発足した。
私はIIREの学校に毎年、「講師兼生徒」として参加している。今年も、なかなか日程が取れず、七月二五日から三〇日までの参加にとどまった。日本からはもう一人の同志が参加して報告を行った。私の滞在期間中に参加していた仲間は、地元フィリピンを除けば、インドネシア、ネパール、スリランカ、そしてオーストラリアから。ネパールからの参加は初めてだと思う。
西パプア独立
運動の今を問う
インドネシアから来た二人の仲間は、西パプアの独立運動に深くかかわっている。パプア・ニューギニアの問題は、本紙でもあまり取り上げたことはないので簡単に彼らの話を紹介しておこう。
一九世紀の半ば、当時インドネシアを植民地支配していたオランダは、パプア島の西半分をオランダ領に編入した。この歴史的経過を通じて、西パプアは現在もインドネシアのパプア州となっている。パプア州では、インドネシアからの独立を求める運動が続けられているが、インドネシアはこの運動を厳しく弾圧してきた。したがってパプアの民主主義とはインドネシアによる植民地的支配からの解放を求める闘いとなる。
西パプアの解放組織は、基本的に先住民の組織であり、インドネシアの拡張主義やパプア島のプランテーション化に反対して闘っている。それは熱帯雨林と生物多様性を守るエコロジカルな闘いでもある。現在インドネシアの軍部に支えられながら、多くの鉱山開発企業が西パプアで事業展開している。西パプアの先住民はオーストラリアのアボリジニーと同じ運命をたどろうとしている。
こうしたインドネシアによる支配に抗して、四つの組織の連合による西パプア統一解放運動(ULMWP)が作られている。インドネシアでもパプア人学生が同組織に入って活動している。西パプアの独立運動は、国際的な闘争として展開されなければならないし、それは平和と自由を求める闘いである。
「一帯一路」戦略
と中国拡張主義
私に与えられた今回の「アジア・グローバル・ジャスティス学校」のテーマは、「今日のアジアにおける帝国主義のあり方」であり、さらに巨大な軍事的・経済的パワーとなった中国の役割についての報告だった。
ここでは中国の「一帯一路」構想や、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)などの拡張主義的・新自由主義戦略についての批判的分析が求められていた。それは私にとって、全くと言っていいほど手をつけてこなかった勉強不足のテーマだったが、討論を通じて問題がどこにあるのかを共有することはできたと前向きに考えたい。
グローバルな新自由主義的経済発展戦略を主導する国の一つとなった中国の役割は、日本の「アベノミクス」の国際展望にとっても無視できないものであり、この「一帯一路」戦略と「東シナ海・南シナ海」に向けた拡張主義的路線、総じて中国指導部の方針と米日帝国主義の角逐をつねにイメージしながら、議論し行動していくことが必要であることを改めて痛感している。
七月二七日に行ったこのレポートで司会を担当してくれた女性は、一九九五年生まれだというミンダナオの大学生。若い力が着実に結集していることを感じた。
戒厳令の5カ
月延長に抗議
私がマニラに着く三日前の七月二二日は、ミンダナオ島北西部ラナオ・デル・スル州の州都マラウィの一部をIS(イスラム国)勢力が占拠し、国軍との戦闘状況に入ったという理由でドゥテルテ大統領が五月二三日にミンダナオ島全域に二カ月の戒厳令を布告した期限にあたっていた。ドゥテルテ大統領はマラウィ市におけるIS勢力の占拠がなお継続していることを理由に、この戒厳令を五カ月間、年末まで延長するよう国会に要請し、国会はそれを認めた。そんなこともあり、現地の新聞やテレビはこの戒厳令延長のニュースがトップの話題だった。
日本のメディアでは報じられていないが、フィリピン国軍との戦闘は「マウテグループ」と呼ばれるIS系とされるグループとの間だけではなく、CPP(フィリピン共産党、いわゆるシソン派)の新人民軍(NPA)との間でも起こっている。この戦闘はミンダナオ島だけではなく中部のビサヤ諸島でも展開され、国軍兵士にも死者が出ている。
七月二六日には、フィリピン上院前で、革命的労働者党ミンダナオ(RPM─M)の同志たちとマニラで友好・協力関係にある労働者党(PM)の仲間が中心になって、契約労働法反対とともに戒厳令延長反対を掲げた行動があり、私も降りしきる雨の中、「グローバルジャスティス学校」参加者とともにこの行動に参加した。
以下、戒厳令問題について、第四インターナショナル・フィリピン支部であるRPM─Mの指導的同志とのインタビューを紹介する。なお戒厳令とマラウィ市での人道的危機状況については本紙七月一七日号掲載の「マラウィ市の住民・避難民に緊急の人道支援を」という呼びかけ(五面)とピエール・ルッセの報告「草の根ネットワークに支援を」(七面)を参照してください。
フィリピンの同志に聞く
マラウィ市の人道的危機
戒厳令をやめろ 住民を救え
――ミンダナオ島での戒厳令も三カ月目に入り、ドゥテルテ大統領は今年いっぱいの戒厳令延長を決定しました。戦闘は今も続き、多くの難民が出ています。政府によれば、この二カ月間の死者は「テロリスト」側四六〇人、兵士一一一人、一般住民四五人とされています。また四〇万人近い難民が出ていると報じられています。そしてマラウィ市では五〇〇以上の建物が破壊されたとも報じられています。現状をどう考えていますか。
まず一般住民の死者が四五人というのは明らかに過小評価です。マラウィに近いイリガン市で得た情報では、一カ所で五〇人の市民の死体が発見されたと報じられています。空爆の「成果」なるものは飛行士の申告によるもので信頼できる数字ではありません。
テロリストの拠点を破壊したという主張もそのデータがどこから出たものか分かりません。現在も一般の市民三〇〇〇人から五〇〇〇人が、取り残されていると言われています。彼らこそ最も重要な証言者です。
今、私たちに必要なことは、戒厳令を撤回し、空爆をやめさせ、軍と行政が市民の帰還を阻止している状況を終わらせることです。軍は、自分が行った犯罪行為の証拠を消そうとしています。彼らは、カネを持って逃げた人びとを殺害したりしています。市民が戻れない状況は軍にとっては都合のいいことなのです。
――IS勢力と言われているマウテ一家とはどのような人びとなのでしょうか。
マウテ家はマラウィから一五〇キロほど離れた町で商売をしていました。ビジネスウーマンであるマウテ兄弟の母は、マラウィの市長と対抗関係にあったと言われています。マウテ兄弟は七人います。彼らは中東でイスラム過激派と関係を結び、原理主義に引き付けられたようです。彼らはマレーシアのテロリストから爆弾テロの訓練を受け、アブサヤフやISとも自発的に結びついたようですね。アブサヤフはミンダナオの先住民族解放組織MNLF(モロ民族解放戦線)から分裂した原理主義グループであり、またMILF(モロイスラム解放戦線)から割れてISに近づいたグループもいます。
この間、アブサヤフは若い人たちをリクルートしており、マウテ兄弟はそこにISの黒い旗を持って近づいたとも言われています。
――いま、どのような活動が必要なのでしょうか。
非合法ドラッグを取り締まるためにも戒厳令が必要だなどと言われています。私たちは難民など被害者を救援するキャンペーンとともに、とりわけミンダナオで先住民とムスリムを分裂させるのではなく団結させる活動を強化しようとしています。
――ここ数日のフィリピンの新聞を見ていると、マラウィだけではなく、またミンダナオだけではなく、フィリピン共産党(CPP)・NPA(新人民軍)と政府軍の衝突が頻発しているようですね。CPPは、ドゥテルテ政権を肯定的にとらえていたのではありませんか?
CPPはいまミンダナオだけではなく、ビサヤ諸島(北部ルソン島と南部のミンダナオ島の間に位置する島々)でも軍事的衝突事件を起こしています。CPPは、ドゥテルテ政権を挑発し、ミンダナオだけではなく全土に戒厳令を敷かせようとしているのではないでしょうか。民衆の怒りを引き出して政府に対決させようという方針なのではないでしょうか。今でも新人民軍は民衆の間でポピュラーな存在ですから。
――話は変わりますが、さる三月にミンダナオの同志が、国軍によって虐殺される事件が起きました。私たちは、東京のフィリピン大使館への抗議を行いましたが、あの事件は、今回の戒厳令と何らかの関連があるのでしょうか。
直接の関係はないと思います。私たちの調べたところでは、ある著名な脳外科の医者が殺害された事件があり、殺された同志はこの殺害事件に軍が関与しているのではないかと疑い、調査を進めていました。この調査活動を妨害するために軍が同志を暗殺したのではないか、と考えています。残念ながら確固とした証拠はないのですが。(K・K)
コラム
カメジロー
九月初めの日曜日、昨夜呑んだ深酒の余韻に浸りながらベッドでごろごろしていると時計の針は、すでに正午近くを指していた。天気は秋晴れ。家に閉じこもっているのは少しもったいないくらいのお出かけ日よりである。しかし、取りあえずの予定も目的もないボク。少し呆けた頭で、さて今日は何をしようかと思いあぐねていたその時、よし「カメジロー」を観に行こうと急に思いついたのだ。思い立ったら吉日とは、このことである。
「カメジロー」とは、戦後、米軍占領下の沖縄にあって「一握りの砂も、一坪の土地もアメリカのものではない」と、その圧政に抗した政治家、瀬長亀次郎のこと。沖縄人民党結成に参加し、立法院議員、那覇市長をつとめ、本土復帰後は、戦後沖縄初の衆院議員に当選、その後日本共産党と合流し、副委員長をつとめた不屈の闘士だった。その生涯を描いたドキュメンタリー映画が、「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」である。
上映場所は、「三里塚のイカロス」と同じ渋谷のユーロスペース。ネットで上映開始時間を調べると何と午後二時半からではないか。あわててベッドから飛び起き、そそくさとシャワーを浴び、新幹線に飛び乗ったボク。いつもは、新宿湘南ラインを使うのだが、今日ばかりはそうは言っていられない。とにかく時間ギリギリいっぱいなのだ。
何とか上映一五分前にユーロスペースに飛び込んだが、館内は満席。最前列の席が三つ空いているだけだった。この映画の関心の高さがうかがえる。チラシには、「沖縄の戦後史、そこで闘った男の生き様を知れば、地続きの歴史が見えてくる。沖縄返還45年。日本国憲法施行70年。瀬長亀次郎生誕110年」の文字が踊っていた。
映画は、当時の写真や資料映像、関係者へのインタビューにより淡々と紡がれていく。古い写真には音声こそないものの、そこに映し出された光景からはカメジローと、その演説を一声聴こうと集まった民衆の熱気がひしひしと伝わってきた。沖縄刑務所から出獄したカメジローを出迎える数千の支持者たちの姿は圧巻。まさに沖縄のヒーローそのものである。米軍のさまざまな妨害や弾圧に、決して屈しなかった人間カメジローの魅力が満載なドキュメントだ。
そして、一〇七分の映像から観客に突きつけられたものは、「不屈の闘士カメジロー」の生き様とともに、現在の沖縄が抱える米軍基地問題そのものだった。日本にある米軍専用施設面積の約七○・六%が集中する沖縄の現実。沖縄返還四五年と日本国憲法施行七〇年の矛盾と不条理が、映画のここそこからスクリーンいっぱいに飛び出してくるのだ。いま、機動隊、防衛省の暴力のもと強行されている辺野古新基地建設やさまざまな米軍犯罪、オスプレイ墜落などがまさにそれ。そんな不条理の塊に抗して続けられるオール沖縄の基地反対闘争は、カメジローの信念とその遺志を完全なまま現在に引き継いでいると言い切れる。
「あなたならどうする 愛と涙 おしえてよ 亀次郎 平和を愛する ウチナーと 闘う拠点の 基地がある 手を合わせる 親祖父がいるのに」。これは、ネーネーズが歌う「おしえてよ亀次郎」の一節。歌にまで歌われるカメジロー不屈の生涯をぜひ観ていただきたい。 (雨)
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