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    かけはし2017.年9月4日号

こじ開けられた好機に喜んで応じよう


ロシア

進展中の政治的空気と結ぶことで
左翼の自立的勢力への成長可能に

イリヤ・ブドライツキス/イリヤ・マトベーフ/セアン・ギローリー


 一般紙で報じられることは少ないが、今年ロシア国内では、プーチン体制に対する民衆の不満が大きな街頭行動として噴出した。生活の止まることのない悪化への不満が上層エリートの腐敗への怒りと結びついたものであり、かつての抽象的に政治的自由を求めた決起よりも、より具体的に社会に根を持つ性格を明らかにしている。また決起した層の新しさも特徴だった。以下では、それらを踏まえつつ、左翼がこの決起に積極的に関わり、左翼再生への基盤をつくるべきだと論じられている。(「かけはし」編集部)

左翼を不意打ちした民衆的高揚


 ロシア左翼は過去のものだけではない。それは、新たな自立した運動を成長させるために、アレクセイ・ナバルニーを中心にした高揚を活用できる。
今年、ロシアの反腐敗で反政権派の政治家であるアレクセイ・ナバルニーが、三月二六日には八〇の都市で、また六月一二日には一〇〇以上の都市で、全国規模の抗議集会の口火を切った。この両行動日は、民衆の不満の急上昇をはっきり示し、若者たちと地方都市住民の高まる政治化を白日の下に引き出した。
実際、ナバルニーの集会に加わった抗議行動参加者の多くは、二〇一一―二〇一二年には、ほとんどがモスクワに集中した当時の大規模なデモには参加していなかった。これらの新たに生み出された活動家たちは、全国的に広がる腐敗、高まり続ける経済的不平等、またぼろぼろに崩れつつある生活水準と闘うために、街頭に繰り出した。
この民衆的な盛り上がりはロシア左翼に不意打ちを食らわした。多くの献身的な活動家とその支持者は今も運動にとどまっているとはいえ、抑圧が左翼を弱めてきた。また、クリミアの併合とウクライナへのロシアの介入に関する不一致が、左翼を分裂させてきた。ロシア左翼――国際的左翼運動にはふれないとしても――は、この盛り上がりに、特にその指導者たちにどう対応すべきなのだろうか?
多くの米国と欧州の左翼から見て、ロシア左翼はある種のこしらえもののように見えている。彼らはロシアの価値をその革命的な過去から定め――その望みと達成物をひらめきの根源と、またその過ちと悲劇を一つの訓話と考え――、その現在の表れを一つの戯画に引き下げている。
ロシアとウラジミール・プーチンが激しい民衆的議論の中心に位置しているこの時にこそ、西側の左翼は、ロシアのさまざまな反政権派の政治諸勢力に、また彼らが前にしている現実と彼らが構築できる連携に、気付くようになる必要がある。

数々の的外れ的ナバルニー批判

 今年六月の当惑は、ロシアの左翼だけではなかった。クレムリンと自由主義派のロシア反政権派の古い世代もまた驚かされた。ナバルニーは早々に、ロシア国家メディア内での口汚い攻撃だけではなく、一定数の反政権派学識者からの批判においても、その的になった。
不幸なことだが、この批判の相当な部分は政治的脈絡を無視し、ナバルニーの選挙計画に対する抽象的な議論に取りかかっている。ロシアの自由主義者がブレグジットと先頃の欧州の選挙サイクル後に一つの呪文のように取り上げた、不合理な「ポピュリズム」に関する諸々の攻撃は、自動的にナバルニーの上に置き換えられた。
たとえば自由主義派のエコノミストであるアンドレイ・モフチャンは、月額二万五〇〇〇ルーブル(約四四〇ドル)の最低賃金要求は、ロシアの最貧困層の歓心を買うものであり、中間階級の現生活基準を脅かす、と論じた。扇動的なジャーナリストであるオレグ・カシンは、ニューヨークタイムズ紙でナバルニーを攻撃し、彼を権威主義者の指導者と呼び、ボリス・エリツィンと対比した。いわゆるポスト工業社会の理論家であるウラディスラフ・イノゼムツェフは、ナバルニーには彼の無分別なポピュリズムに置き換わることのできる「将来ビジョン」がない、と気づかっている。
自由主義派学識者たちは、違ったメロディーで同じ月並みなコーラスを歌いながら、若者たちには理解しがたい言葉で話し、事業家階級と教育ある階級の代表者たちに話しかけている。「それは本当にそれに値することなのか?」「われわれは、プーチンの憂鬱な退屈をナバルニーの気まぐれなポピュリズムで置き換える必要があるのだろうか?」、彼らは低い声でこう口ずさむ。
不幸なことに左翼さえも、この疑わしいキャンペーンに加わることになった。アレクセイ・サクーニンとペル・レアンダーはナバルニーを、近頃「ドナルド・トランプのロシア版」と呼んだ。彼らはいくつかの争う余地のない事実を並べ立てた。しかしサクーニンとレアンダーはそれらを、ナバルニーの運動全体が外国人嫌悪であり親市場――基本的に、政治的権力のためのトランプによる社会的不満の利用に一致する――である印だと考えた。
そうしたもっともらしい対比をもってナバルニーを批判することは、あたかもその将来が彼らの展望には何の影響も及ぼさないかのように、左翼を運動に対する外在者にするものだ。さらにその論考は、ナバルニーの敗北はロシアのバーニー・サンダース――正しい政綱を携えた真に進歩的な指導者――のための空間を切り開くだろう、と結論づけ、より左翼的な政治家が歩みを進めることになるという希望の中で、プーチンの再選を暗黙の内に受け入れている。

ナバルニーヘの連帯こそ出発点


これらの批判の多くは、ナバルニーは来年の大統領選に参加するだろう、との確信に依拠している。しかしこうした結果は確実とはとても言えない。
一つあげれば、彼の自由は危険にさらされたままだ。ロシア国家はすでに、彼の兄弟のオレグをでっち上げの罪で投獄し、事実上彼を人質に変えている。ナバルニー自身は、今執行猶予の状態――ロシア連邦刑務所管理局は、それを実刑に変えるよう繰り返し求めてきた――に置かれている。そして他のでっち上げによる腐敗の告発を前にしている。
ナバルニーの運命は、プーチン・マシンの不明瞭な働きの中に編み込まれている。来年の選挙に関しては、民主的なものは何もないだろう。プーチンは、次の任期に向けて勝利のうちに戻るよう今準備中だ。
現に選挙は、偽の候補者、投票偽装、またあらかじめ定められた結果をもつ、一つの儀式と成り果てている。政治学者のグレゴリイ・ゴスロフは、それらを「選挙イベント」と呼んでいる。つまりそれらは、表面上民衆の民主的な意志に似ているが、クレムリンが前もって書いた筋書きを単純に実行に移すものでしかないのだ。
ナバルニーは、この興業から変わることなくはじき出されるとの予想が付くがゆえに、底辺からの政治化に火をつけることにより、それを舞台裏から掘り崩そうと挑んできた。政府が彼の選挙立候補を許しそうもないがゆえに、おそらくナバルニーは、代わりに大統領選のボイコットを呼びかけるだろう。
左翼はこの呼びかけを支持しなければならない。われわれは、抑圧の停止と民主的な機会の創出を要求しつつ、ナバルニーに連帯して立ち上がらなければならない。加えてわれわれは、彼のキャンペーンが政治的自由の課題にロシアの並外れた不平等を合体させた、という事実を歓迎しなければならない。ナバルニーと彼の支持者たちは、腐敗を終わりにすることと並んで、天然資源からの、また元ソビエト企業からの所得について、公正な再配分を要求している。
これは、ナバルニーに対する、あるいは彼の個人的政治に対する無条件の支持を求めるものではない。後者は評価が難しい。彼はインタビューの中で、右でも左でもなく、それでも双方を結集しようとしている、と力説している。彼の主要なキャンペーンスローガンは、進歩的な変革を抽象的に呼びかけている。すなわち、政府の透明性、小規模事業への支援、民主的な諸権利――極右が政治生活に参加することの容認、無神論者が彼らの信念を公然と宣言することの許可、公式投票に向けてゲイが結婚する権利を掲げること――などだ。
ナバルニーは、これらの抽象的な立場から語りつつ、古風な、特にプーチンが道徳的に解釈している伝統的な諸価値と彼が関連づけるすべてを攻撃している。そしてこの攻撃は、ロシア正教会の検閲を理由に激しいものとなった。公言された諸価値という面では、ナバルニーは、キャンペーンを孤立主義と外国人嫌悪の上に構築しているトランプと共有するものを、ほとんどもっていない。
その上でナバルニーのキャンペーンは、ロシア経済に関し強い見方をとるにいたった。彼は政府当局を批判するが、それは、非民主主義的であるというにとどまらず、上位〇・一%を利するにすぎない略奪的システムを作り出しているということも理由にされている。われわれは彼を真正な社会民主主義者と呼ぶことはできないものの、彼がトランプでないことは確実だ。トランプの課税計画は、ナバルニーがロシアで攻撃している者たちに米国内で相当する者を大きく利するものなのだ。
それでも左翼は、腐敗に対する攻撃が権威主義的なポストソビエト資本主義の政治を変えることはないだろう、と示すためにナバルニーのキャンペーンを活用できる。百万長者諸個人に対する力ある批判は、自由市場に対する首尾一貫した批判と同じものではない。ナバルニーの新たな最低賃金を含む社会経済諸要求は、そこに底辺からの労働者の強力な諸決起が含まれないならば、民衆の暮らしを実質的に改善することはないだろう。
ナバルニーが勝つこと――ありそうもない結果だが――があるとすればそれは、プーチンが上演する選挙を通してではなく、支配の全システムを危機に追いやる街頭の運動を通すものだろう。彼が最終的に実行する政治は、この運動の力学に結び付けられるだろう。そして左翼は、それらをもっと進歩的な方向に押しやることを助けることができる。

批判は抵抗参加の中で力を得る

 左翼は自らを、ナバルニーの敵としてではなく、プーチンのもっとも首尾一貫して活力ある批判者として証明しなければならない。われわれは、左翼ブロックとロシア社会主義運動の活動家たちがすでに行っているように、街頭の諸決起に参加しなければならない。もっと多くの左翼が、この運動に参加し、その民主的諸要求との無条件な連帯を示し、そしてナバルニーの綱領の社会的に進歩的な要素を支持し発展させなければならない。その後にはじめてわれわれは、その非民主的な決定策定、そのロシア民族主義者とのいちゃつき、また自由市場への傾倒の点で、ナバルニーの運動を批判できる。
ロシアの左翼はまた、政治化の場所はナバルニーがエネルギーを吹き込んだ運動だけではない、ということも認めなければならない。小さく、地方に限定され、分散的だとはいえ、昨年を通じて、特に未払い賃金を中心に、労働紛争も増大してきた。
都市と地方のコミュニティは、環境の破壊、産業汚染、天然ガスパイプライン建設、また都市緑地のはぎ取りに対決して精力的に闘い続けてきた。長距離輸送トラックドライバーは同様に、新しい輸送税に対し二年間抗議を続けてきた。ちなみにプーチンはこの徴税を、彼の億万長者の取り巻きに、その一人の息子に外注した。
これらのデモを粉砕するという当局者たちのもくろみ――いわゆる住宅「刷新」反対の先頃の抗議行動におけるような――は、より多くの活動家たちを生み出しただけだった。これらは次に、何人かの公認左翼を含む、自治体レベルでの反政権派政治家の新しい波にエネルギーを送っている。
この徐々に進展する政治的空気に入り込み、社会運動に参加し、左翼メディアを強化することにより、ロシアの左翼は自立した勢力へと成長できる。ナバルニーの運動はそのいくつかの欠陥にもかかわらず、市民の受動性を当てにした体制の中に開けた政治的空間をこじ開けつつ、否定的なものよりも前向きなものをもっと多く生み出してきた。左翼は、ロシアと世界中の双方で、未来の民主化とロシアでの社会的公正の実現に向けたこの好機に喜んで応じなければならない。

▼イリヤ・ブドライツキスは、第四インターナショナルロシア支部、フペリョード(前進)の一指導者。フペリョードはロシア社会主義運動の創立に参加した。▼イリヤ・マトベーフは、サンクトペテルブルグを本拠とした研究者、教員。また「オープンレフト」を創立した編集者であり、研究者グループの「公共社会学研究室」メンバーでもある。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年八月号) 

ベネズエラ

声明:トランプの脅迫を前に 2017年8月15日

ベネズエラに連帯!
 帝国主義のあらゆる介入に反対する!

フランス・NPA

 グロテスクかつ危険なドナルド・トランプは、「軍事的選択肢もあり得る」との言葉をもってベネズエラを脅すことによって、この国が通過中の極めて深刻な経済的、社会的、政治的な危機の火にむしろもっと多量の油を投げ込んだ。合衆国のもっとも緊密な同盟国やワシントンにつながったベネズエラの右翼反政権派さえをも含んで、すべてのラテンアメリカ政府がたとえこれらの言葉から身を引き離したとしても、あるいはそれらの言葉を厳しく非難したとしても、それらの言葉は無視することのできない警報を表している。アメリカ合衆国は、軍事介入、また地域のクーデターや軍事独裁に対する支援という、長い伝統をもっている。
そして彼らは今も、外交や外交の策動を通して介入を――EUがそれ自身のやり方で行っていると同じく――続けている。
 NPAはこれらすべての干渉と介入を糾弾する。NPAは、まずそして何よりもこの国の領土の完全な保全の防衛をもって、ベネズエラの人びとへの連帯を呼びかけ声を上げる。米兵は一人としてこの土の上に足を着けてはならない! そして明日、不幸なことにそのような侵略が現実になったとするならば、あらゆる反帝国主義勢力は、またより全般的に民衆の自決権に愛着をもつすべての人びとは、「アンクル・サム」の部隊に反対して行動で団結しなければならない。
 しかしわれわれの場合これは、ニコラス・マドゥロ政権の政策に対する無批判的な支持、あるいは何も見ることのない支持を意味するものではない。チャベス主義派の官僚部分と「ボリブルジョアジー」は、現在の惨状、それによってMUD(民主統一円卓会議)の新自由主義右翼と反動派の暴力行為やクーデター呼びかけに油を注いでいること、に重い責任を負っている。腐敗と横領、民主的自由に対する諸攻撃、そして選挙の不正は、底辺の人びとを犠牲にする点で、どちらか一方の専売特許ではない。
 右翼と古くからの親米ブルジョアジーを前にして一層軍による支えを頼りにするマドゥロと現政権は、自らを反帝国主義者として押し出している。しかし、この国からますます多く血を抜き取りつつある対外債務に即金で返済を続けている者こそ彼らだ。また、先住民衆と生態系の均衡に惨害となる結果を残して、外国の多国籍企業の貪欲さにオリノコ川地帯(国土の一二%)を手渡しつつある者も彼らなのだ。
 われわれの政治的連帯は、労働者と民衆層に向かうものだ。彼らこそ過去には、極めて大規模な民衆的決起における主体となったのであり(一九八九年のいわゆるカラカーゾ、二〇〇二年の反チャベスクーデターに対決して勝利した闘争、そして一五年以上にわたる都市と地方における諸々の自己組織化空間の創出)、現在の危機にまだ介入していない諸層だ。
 われわれの支持はまた当然にも、今日前述のような自立した介入をもたらすために闘争中の、反資本主義左翼の諸組織にも向けられている。
(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年八月号) 


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