8.17
沖縄に連帯する市民のつどい
生きぬいて基地を止める
「死人をまたいで生き延びた」
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八月一七日午後四時から、参議院議員会館講堂で「島袋文子さんを迎え沖縄に連帯する市民のつどい」が文子おばぁを迎えよう!実行委の主催で行われ、メイン会場が一杯で入りきれず、サブ会場を含めて五〇〇人が参加し、文子おばぁの講演を熱心に聞いた。
八八歳になる文子おばぁは、「ダイナマイトを持って、国会に行きたい」と日ごろ語っている。命をかけて安倍政権と対峙している文子おばぁの話を聞いた。
『戦場ぬ止み』(三上智恵監督作品)の短縮版が上映された。一五歳の時、母と弟と三人で逃れるなか、沖縄戦の糸満の壕で米軍の火炎放射器で焼かれた。キャンプ・シュワブ前で、トラックを命がけで止める文子おばぁの闘いの姿が映し出された。続いて参加した国会議員からのあいさつと沖縄出身の国会議員からのメッセージが紹介された。
軍隊は住民の
命を守らない
第一部 島袋文子さんの講演。三上監督が話を聞いた。
安倍晋三に会いたい。総理になって良いことはひとつもない。美しい日本、命や財産を守ると言うが、その反面やっていることは皆殺しをするような戦争のできる国を作ろうとしている。自衛隊員の命も安倍の命も同じ。命の予備を持っている人はいない。
私は七〇年前に一度は死んだ。一五歳の時、目の見えない母と一〇歳の弟といっしょに逃げ回った。食べるものがない。水がない。人間が浮かんでいる水を飲んだ。夜飲んだから人間が浮かんでいるか分からなかった。日本は勝っていると思っていた。住民を追い出して、日本兵が壕に入った。日本兵が助けに来てくれると思っていたのに沖縄住民を殺した。軍曹が二等兵をいじめて殺した。味方を殺すのが日本兵だ。誰が戦争を起こしたのか問いたい。戦争はダメだ。基地はどこにおいてもいけない。
北朝鮮からのミサイル。戦争は予告できない。落ちてきたらどう守れるか。安倍の甘い言葉に乗ってはいけない。
二度と戦争を起こしてはいけない。命をかけて、ゲート前に座っている。小指五針ぬった。頭を打って救急車で運ばれた。八八歳だが生きながらえて基地建設を止める。
辺野古の最新情報。ゲート前たいへんだ。機動隊にごぼう抜きにされる。無抵抗で闘っているが機動隊は逮捕する。山城博治さんの逮捕は共謀罪のさきがけだ。座り込みで歌ったり踊ったりできるのは沖縄の住民だからだ。沖縄戦の結果、負けない意思が強い。海の産物によって飢えをしのいだ。その命の海を埋めるのは許されない。負けない、がんばる。
本土の人が応援してくれているがまだまだ足りない。力を貸して下さい。沖縄だけではなく、本土が沖縄になる。沖縄の基地がなくなれば本土の基地もなくなる。辺野古に来てください。若い人、力を貸して下さい(発言要旨、文責編集部)。
高校生と文子
さんとの対話
第二部。自由の森学園高校(埼玉県飯能市)の男女二人と文子さんの話。
高校生A、「中三の時、修学旅行で沖縄に行った。ガマの中に入った。文子さんは『命の恩人はアメリカだ』と言われましたが心からそう思っているのですか」。
文子おばぁ、「本心ですよ。日本軍は住民追い出して奥に隠れた。小さな子ども連れていた。暗いから子どもが泣く。親はタオルで子どもを殺した。日本兵が見せしめで子どもを奪って殺した。親がものを言えば、自分が殺されるという状況で、弾に当たってもいいからと言って、親子でガマを出て行った。胸がつまって苦しい。二度と戦争をさせてはいけない。戦争のことを考えると苦しくて夜も眠れない。死人の上をまたいで歩いて生き延びてきた」。
高校生B、「北朝鮮がミサイル撃ってきたら、民間人、手を出せない。自衛隊は必要なのか。ぼくたちは何をすべきと考えますか」。
文子おばぁ、「私も分からない。ミサイルがどこに落ちるのか、命が助かるのか分からない。自衛隊は軍隊だ」。
高校生B、「ヒッチハイクで女川に行った。ガマにも行った。自分の目で見ることが大切だ。辺野古に行ってみたい。無知なんだと思う。話し合って興味を持って調べていく」。
高校生A、「話を聞いて、戦争が現実のことと感じた。本当に自分のこととしてとらえていたのか、もう一回沖縄に行きたい」。
文子おばぁ、「七二年前の戦争、教えられないのが悲しい。みんな笑って暮らしたいものだ」。
文子おばぁの話が終わると会場は長い拍手で、話に応えた。この後、六時過ぎから官邸前で、文子おばぁが安倍首相に向かって、「一二〇歳まで生きて基地を止める。基地を作らないで」と声をかぎりに訴えた。 (M)
8.7
辺野古実が防衛省行動
またオスプレイが墜落
生命を奪う基地をなくせ
八月七日午後六時半から、辺野古への基地建設を許さない実行委員会が月初め定例の防衛省申し入れ、抗議行動を行った。申し入れを行う時間帯には台風の影響で、土砂降りになったが一〇〇人の仲間が参加した。
普天間所属のオスプレイがオーストラリアで訓練中に墜落し、乗員数人が行方不明になっているという重大事故が明らかになるなかでの行動であり、沖縄からオスプレイの撤去を要求する行動にもなった。
最初に嘉手納出身の島袋さんが、支持率急落の安倍政権は追い込まれており、辺野古に基地を作らせない、と訴えた。次に七月二五日、カヌーデモに参加した加藤さんが発言した。
沖縄から安次富浩さんが携帯電話でアピールした。
「オーストラリアで、普天間配備のオスプレイが墜落した。配備から三機目だ。新潟、長野でも飛んでいる。来週、北海道での訓練に参加する。全国で訓練する。日本政府は一時中止を申し入れたが、高江から普天間へ飛行していた。米軍は日本政府を無視している。日本政府は核兵器禁止条約に反対した。いつまで安倍政権を存続させていくのか。民衆の共闘で安倍政権を打倒しよう」。
「八月一二日、辺野古基地建設反対の県民大集会を行い、翁長知事をバックアップする。来年の一月名護市長選にオスプレイは安全だと言った候補が立候補する。稲嶺市長の三選に向けてがんばろう。韓国民衆のように、ひとりひとりの闘いが平和・民主主義を作る」。
辺野古基地建設のために、全国から土砂を運び入れるのに反対している全国土砂連の動きを首都圏グループの毛利さんが「土砂搬出地で、辺野古に出さないように条例を作っていく運動を行っている。各県に要請している」と報告した。八月一七日、島袋文子さんを呼んで話をする集会への参加の要請の後に、日韓民衆連帯全国ネット、沖縄と連帯する川崎市民が防衛省に申し入れを行った。MXテレビ抗議、警視庁の機動隊派遣反対訴訟、八・一二東京池袋集会の案内がそれぞれ行われた。最後に防衛省に、辺野古新基地建設をやめろのシュプレヒコールを上げた。 (M)
三里塚の証言 悪魔の731石井部隊 (2)
三里塚大地共有委員会代表 加瀬 勉 2017年4月10日
芝山町住母家春日神社忠魂碑
芝山町住母家春日神社は住母家、坂志岡、白升、加茂の氏神、産土神である。芝山町唯一の郷社の資格を持つ神社である。奈良の春日神社から願請してきたものである。大同二年〈八〇七年〉の創建である。祭神はタケミカズチ命、天児家根命、経津主命、比目大神である。氏子は四七〇戸。境内の面積四八六坪、拝殿は昭和二七年〈一九五二年〉に新築したものである。 「息子が一五歳になった。お祝いに春日神社に参拝してきてくれ」と頼まれ、「七歳の紐解き、息子を連れて産土様にお参りにいってくれ」と反対同盟の両親に頼まれて少年行動隊員を連れて行った。
この春日神社に二つの忠魂碑が建立されている。一つは日露戦争松樹山の戦闘で戦死した石井彪雄の忠魂碑〈明治三九年〉乃木希典大将の揮毫である。もう一基の忠魂碑〈昭和三二年〉は731部隊石井四郎軍医中将の揮毫によるものである。四郎の兄が彪雄である。二人は千代田村大里加茂〈現芝山町〉の生まれである。
731部隊とは?
731部隊とは、関東軍防疫給水本部、満州第731部隊のことである。石井四郎軍医中将を部隊長に日本の優秀な医学者研究者を呼び集めて組織された世界最大の細菌部隊である。同部隊は三〇〇〇人を医学、生物学兵器に転用した世界最大の悪魔の軍隊であった。
生きた人間を丸太と呼んで、遠心分離機にかけて生き血を絞る搾血実験、真空室に放り込んで内蔵が破裂する真空実験、梅毒実験、コレラ実験、ペスト実験、肺結核実験、毒ガス実験、銃による貫通実験、戦車に入れて火炎放射器で焼き殺す実験、空気を静脈に注射する実験、人間の血と牛や馬の血液を交換する実験、胃と腸を逆につなぐ実験、女性の性器の解剖などありとあらゆる実験を行った。
加茂石井家墓碑名?
加茂集落は西と東に分かれて四〇戸足らずの小さい集落である。私は空港反対同盟を組織化のために日常的に加茂集落を訪ねていた。東と西の三差路を西に向かって台地に登ると加茂集落の共同墓地がある。石井四郎家の墓はかなり広く一番奥にある。荒れ放題で灌木の繁みの中に墓石が建っている。江戸時代のものか小さい墓石が茂みの中に転がっている。
石井伊八、奈加子の墓石には伊八は下総国香取郡の生まれ、幼少に父母を失い、石井定右衛門の長女・奈加子と結婚と刻されている。これが731部隊石井四郎の祖父母である。「自證院忠渡彪雄居士」「明治三七年一一月三一日於松樹山戦死」石井桂〈昭和八年一二月一九日八九歳没〉、次女福子〈明治四〇年一一月二四日没二六歳〉、石井千代〈昭和二四年一〇月一八日没九六歳〉、石井剛男〈昭和三一年七月四日七一歳没〉、731部隊石井四郎軍医中将の墓はない。
高利貸地主加茂の「カネカ」
「カネカ」は、731部隊石井四郎軍医中将の生家の屋号である。この地域で地主で金貸しの加茂の「カネカ」を知らぬものはない。私は、金貸しが訛って屋号の「カネカ」になったと思っていたが、大工が使う金尺の中のカであった。
「今日は千代田村加茂〈現芝山町〉では石井閣下が村に戻ってくると大騒ぎである。村長、村会議員、学校の子供等が日の丸の小旗をもって出迎えにでている」と大人たちが話しているのを幼い時に聞いた記憶がある。石井家は石井桂の時代に事業を起し蓄財したと言われている。勿論地主で田畑の小作地を多く持っていた。酒屋、味噌屋、それに繭の仲買人をやり自宅に大きな繭集荷場をつくっていた。加茂は銚子─八日市場─多古─加茂─三里塚─成田の江戸街道に面していて、石井家は「若町屋」という宿場宿を開いていた。石井家は、繭相場の下落、戦争と農地改革で没落、廃屋となった。無人で失火しては不安だと親戚と村人で解体してしまったので現在は屋敷跡が残っている。
石井四郎加茂の自宅を脱出
平山利雄君(多古町林)は、青年運動時代からの私の同志である。この平山君の母親の妹が「証言731石井部隊」「真相石井細菌部隊」の著書実名星野歌子〈多古町島〉である。星野歌子の夫房治は731部部隊員、歌子の姉夫婦、歌子の弟等星家では五人が731部隊に勤務している。星野歌子は戦後は石井四郎の私設秘書として尽くす。歌子の証言では、終戦直後、石井四郎、兄の三男、剛男の兄弟は静かに加茂の自宅で生活していた。外出は一切しなかった。
一〇月の寒い日、夜一〇時一台の黒塗りの車に、石井の奥さんと二人の男がいた。その男たちは石井の兄弟と何か相談していて「加茂にいるのは危険だ。家を直ぐに出る。四郎さんと奥さん三男、剛男と私は車に乗って家を出ました。時計を見ると一二時五分であった。千代田村〈現芝山町〉の「自由青年会」が石井四郎告発文を発表した。匿名であったが、実川清之〈千代田村山田〉の共産党グループのものである。戦前実川は日農書記、共産党員、治安維持法で逮捕在監七年、特高警察の世話で新京満蒙開拓本部勤務、戦後故郷の千代田村山田に帰り、農民組合を組織して小作地と国有地の全面開放、強権発動阻止を闘い千代田村で共産党の村長になった。
731部隊の平房の施設で軍属として働いていた小川和一千代田村菱田辺田が帰郷してきたMP(米兵)に連行された。富沢太吉(多古町牛尾)も復員してきて田植作業中にMP〈米兵〉に連行されていった。二人ともB級戦犯として横浜軍事法廷で死刑の判決を受け東京巣鴨プリンスで死刑となった。
このような情勢があり石井一族は身の危険を感じ加茂を脱出したのである。村長が石井を匿って潜伏させたとか、石井の偽装葬儀は単なるうわさに過ぎない。石井四郎は「カネカ」の分家である。住居は街道から二〇〇m入ったところに建っていた。昭和四一年空港反対闘争で加茂を訪れたときには無人であった。三里塚強制代執行の戦いで過激派に放火されると村人の手によって解体された。
長男彪雄松樹山で戦死
芝山町住母家春日神社石井彪雄戦死碑文の内実。乃木希典中将率いる第三軍は旅順港要塞に第一総攻撃。戦死負傷者一六〇〇〇人、第二回総攻撃部隊全滅。第三回総攻撃、松樹山、二竜山、東鶏冠に対して各師団総攻撃、白樺決死隊三一〇〇人組織白樺決死隊第一回総攻撃、二三〇〇人戦死、部隊全滅。
ロシア軍はセメント二〇万袋で要塞を構築、各堡塁を地下トンネルで繋ぎ、最前線に地雷原、次に鉄条網、機関銃、迫撃砲を備えた。日本軍はその正面から総攻撃を何度も繰り返し部隊は全滅。屍は腐乱してその悪臭でロシア兵は閉口したといわれている。
乃木は急きょ日本から二〇インチ砲を取り寄せて二〇三高地攻撃、旅順要塞陥落。二〇インチ砲は戦勝記念として香取神宮に寄贈。太平洋戦争時、九十九里浜防衛のため再び二〇インチ砲は多古町城山の陣地に備え付けられた。敗戦、解体されてトラックのタイヤを利用した馬車で銚子浜の断崖絶壁から海に捨てられた。(つづく)
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