ロシア革命100周年「全権力をソヴィエトへ」が民衆の要求に
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第3回:ロシア1917年7月 革命の転換点
反動の表面的勝利の深部で
権力の空洞化ますます進行
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ロシア十月革命の百周年に当たって、本紙は百周年記念シリーズの一環として二月革命、「四月テーゼ」という形で二回にわたって、二月から一〇月の過程をたどってきた。本号では、その第三回として革命の基本的な岐路となった七月の出来事を取り上げる。『ランティ・カピタリスト』(NPA=反資本主義新党機関紙、三九二号、二〇一七年七月一三日)からの転載。(「かけはし」編集部)
【一九一七年のロシアの革命過程において、七月という月は、根本的な転換をなしている。六月におけるロシア軍による対ドイツの軍事的攻勢の失敗は情勢を安定させる能力を臨時政府がもっていないことを白日のもとにさらけだした。農村には夏の間、革命の波が波及したために、この国はますます統制しがたいものとなっていった。ペトログラードのプロレタリアートは、臨時政府を一掃することによってこの問題を解決しようと試みた。これは、七月三日と四日の蜂起という形をとって現れ、ボリシェヴィキの権力獲得という問題をはじめて提起したのだった】。
戦争と臨時政府の破綻
ローラン・リパール
臨時政府の袋小
路的安定化政策
二月革命から生まれた臨時政府は、一方において、西ヨーロッパ型の議会制共和国の樹立のためにロシアを安定化させたいと心がける自由主義派の閣僚たちによって指導されながらも、同時にまた他方では、ペトログラード・ソヴィエトに対して責任を有する社会主義派の閣僚(メンシェヴィキと社会革命党)の閣僚も入っていた。
その時点でソヴィエトの多くを支配していた穏健派社会主義者にとっては、当面の優先課題は、反動に対して二月革命の勝利を打ち固めることであった。こうした意識が穏健派社会主義者をして臨時政府の支持へと向かわせていた。しかしながら、臨時政府によって展開された安定化政策は、戦争の問題に直面することになる。臨時政府は、国際的信頼をつなぎとめ、西側からの支えを失わないようにするために、実際にはもはや戦争を遂行する能力がなくなっているのに、戦争の続行が可能であることを連合国側に対して証明しなければならなかったのである。
極度の物資欠乏
と前線での抵抗
二月以降、軍事情勢はそれほど進展してはいなかった。オーストリア・ドイツの両国軍は、ロシア軍が戦線離脱していくがままに任せていた。実際、経済の全般的な崩壊が、ロシアの軍事情勢の悪化を促進しており、ロシアにはもはや自国軍隊の食糧や武器の補給を行う手段がなくなっていた。政府が、兵士に政治的自由を与え、兵士たちが自分たちのソヴィエトを結成することを許しただけではなく、政治的に自らを組織し、自分たちの将校の任免に関する支配権をもつことを認めざるを得なかった。事態がこうなっていたので、耐え難い物資の欠乏に直面していた軍隊はそれだけよりいっそう急速に崩壊していった。
政治的に最も進んだ部隊では、司令官は、クロンシュタット海軍基地の場合のように、いっさいの権限を失ってしまっていた。この基地では、水兵たちが、大将や五一人の将校を銃殺し、それ以外の五〇〇人の将校を解任し、部隊の中から新たな将校を自分たちで選出した。兵士たちは大挙して部隊から離脱した。交通手段が欠乏しているために、食べ物を確保するために略奪しなければならない脱走兵たちが国中をコントールのきかない徒党をなして横行せざるを得なかっただけに、混乱はよりいっそうコントロール不可能のものとなった。前線部隊の情勢がこのように破局的であったとすれば、都市駐屯地に残されたままの連隊の間でも不服従の気分がさらにいっそう強固になっていた。たとえば、こうした駐屯連隊はペトログラードで約二五万人いたが、その兵士たちの多くはボリシェヴィキやアナーキストによって獲得されていたのであって、前線へのいかなる出動計画をも拒否していた。
コントロール
不可能な情勢
同じく深刻だったのは、都市プロレタリアートの情勢であった。二月革命は、進行していたロシア経済の崩壊過程を完成させることとなった。工場は事実上操業停止の状態にあった。たとえば、ペトログラードのプチロフ工場は、七月にはもはやその操業に必要な石炭の四%しか受け取っていなかった。こうして人為的な失業を余儀なくされた労働者は、都市への物資の補給を危機に陥らせる農業生産の崩壊と交通手段の全般的な混乱のために、毎月約五〇%のテンポで上昇する食品価格の値上がりに直面せざるを得なかっただけに、よりいっそう窮乏に陥っていた。ロシアの都市の情勢がコントロール不可能になっていたとすれば、臨時政府の方は、他民族の居住地域でもさらに深刻な情勢に直面しなければならず、さまざまな少数民族が革命を利用して自らの独自の要求を強く主張するようになっていた。とりわけ急進的な革命の波に覆われたフィンランドは、ロシア政府の支配をほとんど免れるようになった。ウクライナでも、情勢は急激に悪化し、六月一〇日には、キエフの議会が「ウクライナの自由」を宣言して、自身のウクライナ国民憲法制定議会を招集し、七月二日には臨時政府に対して広範な自治を承認するよう強く求めた。連合国側からの圧力に譲歩して、ケレンスキーが七月一八日にオーストリア=ドイツ軍部隊に対してガリシア地方で大規模な攻勢を開始したのは、まさにこのような兵士の大量脱走が全般的に拡大するという状況のもとにおいてであった。たとえ最初の局面で、ロシア軍が若干の地歩を挽回したとしても、情勢は、主としてロシア軍部隊内で勃発した反乱のために、すぐさまそれを維持できなくなった。七月の最初の時期に、オーストリア=ドイツの両国の部隊が反撃を開始すると、ロシア軍は総崩れとなり、敵軍に対して二〇〇キロメートルにわたる地域を放棄することになり、その後、その地を回復することができなかった。臨時政府の破綻はこれ以降、全面的なものとなった。
農民が革命に加わる
パトリック・モール
二〇世紀初め、ロシアはとりわけ農民の国だった(農民が人口の八五%)。農民は、その圧倒的多数が、地理的な面でも人里離れた農村で、法的、経済的、社会的、文化的な水準の点でも立ち遅れていた農業に従事していた……。
膨大な農民兵士
が犠牲になった
多くの農村には、(二月)革命の知らせは三月中旬になってようやく届いたが、時にはそれよりもさらに遅れてその知らせを知った農村もあった。
一九〇五年〜一九〇六年の革命の記憶はまだしっかりと存在していたが、この一九〇五年の革命の期間に、三〇〇〇の地主の屋敷(全体の一五%)が破壊された。二七〇〇件の農民蜂起が軍隊によって鎮圧された。土地を所有する貴族は、私兵を使って弾圧を強めた。
ロシア軍は本質的に農民の軍隊であった。この軍隊の敗北によって一九一四年にはその犠牲者は一八〇万人にのぼった。この軍隊はしばしば農民と同じ地域の土地を保有する貴族によって指揮されていたが、これらの指揮官たちはこの大量の犠牲にも無関心であった。ロシア軍の戦場での敗北は、ヨーロッパのすべての軍隊の中に存在していた平和への希求に社会的側面を付与することとなった。
二百万の脱走兵
が重要な役割り
出現したすべての政治的機関――村落委員会、農民組合、ソヴィエト――は、養うべき家族の構成員数に応じた耕作土の分配を求める農民の間の結びつきを作り出そうとするものであって、伝統的な村落共同体の革命的形態をなしていた。いたる所で、農民集会が開かれ、政治的要求(憲法制定議会の開催)や戦争の終結……を盛り込んだ陳情書を作成した。農民は、国家保有の土地や大地主の土地の差し押さえ、地代額の引き下げ、放牧地や森林の再分配を要求した。一部の地域では、村落共同体によるロシア正教会の土地の占拠を皮切りに闘争が始まった。農村でのこの革命的過程は、革命の大きな決着を画す明白な日程を利用する形で進んだ。国家はこうした農村には浸透していなかった。四月の期間、表面的な平穏が支配していた。だが、これ以上待ちきれないという農民の思いは、憲法制定議会選挙まで農地改革の決定を延期するという臨時政府の現状維持策によって急速に広がっていった。「法の侵害」は、四月には一〇〇件未満だったが、六月には一〇〇〇件を超えた……。
五月は、夏季の農作業の開始期であった。多くの兵士がしばしば武器を所持したまま脱走し、村に戻り、農村の運動に、とりわけ土地の分配に加わった。その数は、その年を通じて拡大し続けることになる。この脱走兵の数は、一〇月の情勢の下では二〇〇万人に達した。軍隊を脱走したこうした農民たちは、春に開かれた農民集会の承認の下に進行した農民革命で重要な役割を果たした。
穏健な要求から
土地没収へ進展
「農民革命はこのように進んだ。あらかじめ決められていた午後一時に、教会の鐘が鳴り、農民たちは村の真ん中に自分たちの荷車を引いて集まる。それから、地主の屋敷に向かう。農民は、思い思いに銃、熊手、斧、鎌、シャベルで武装している。領主とそれに仕える管理人たちは、たとえすでに逃亡してしまっていなかったとしても、逮捕された。逮捕されていない場合でも、農民のすべての要求を受け入れる決議を承認するとの署名をせざるを得ないのだった」(注一)
春には、農民の要求が、地代の引き下げや用具の再分配という穏健なものであったとしても、夏からは、農民たちは領主の土地の没収を決定していた。没収に伴ってしばしば、貴族の屋敷の焼き討ちや農業労働者の雇用人数を減らす農業機械やこれみよがしの富(絵画、彫刻、書物)の破壊が起こった。貴族は譲歩したり、逃亡したりした。土地の分割は平和的になされることもあったが、貴族とその家族が殺害されることもあった。「一部の兵士たちに率いられた農民の徒党がサブロフ王子の屋敷に押し入り、斧と小刀で王子の体をばらばらに切り裂いた。こうして、農民たちは、この流血の中で、一九〇六年にかつてこの王子が地区の農業責任者として果たした役割に対する仕返しをしたのであった。一九〇六年に、反乱した一二人の農民が、泣き叫ぶ妻や子どもたちの眼前で絞首刑に処されたのだった」(注二)。
農村ソヴィエト
ほぼ村落共和国
秋の種まきの時期が近づく八月の終わりから、臨時政府による公約の実行の拒否にいら立った農民は、地主の領地を襲い始めた。「九月と一〇月には、一〇〇〇近くの領主の屋敷が略奪され、燃やされた。……秩序を維持するいかなる力をももはやもたない地主たちは、パニックに陥り、大挙して都市に逃亡した」(注三)。
農民にとって、裁判官、役人、税金徴収人の消滅によって、国家と地主に対する一九〇二年、一九〇五年〜一九〇六年の反乱を経て、養うべき家族の構成員数に応じたすべての耕地の分配を実現することができるようになった。これは同時に農村に対するいっさいの統治の拒否ということでもあった。大多数の農民大衆にとって、ソヴィエトは、農民自身による村落の直接統治の実現であった。「農民ソヴィエトはしばしば、中央権力の秩序をほとんど考慮しない村落共和国のように運営されていた。そうしたソヴィエトのうちの多くは、独自の警察部隊を使い、独自の裁判所を設置し、その一部は自分たちの旗や象徴となる標章(エンブレム)さえもっていた。これらの村のほとんどすべては、志願者からなる民兵や赤衛軍を保持していた。それは、革命的な村とその境界を守るために軍隊を脱走したばかりの若い農民によって組織されていた」(注四)。革命の基本原理であるいっさいの社会的特権の廃絶は、こうした権力の地方分権的考えと並行する形で進行したのであった。
注記
(注一)オルラン・フィージュ『ロシア革命』(La Revolution russe, Orland Figes, p.463)
(注二)同右書。p.464.
(注三)ニコラ・ヴェルト『ロシア革命』、創元社、二〇〇四年、九九頁〜一〇一頁(La Russie en revolution, Nicolas Welth,p.96 )
(注四)オルラン・フィージュ『ロシア革命』(La Revolution russe, Orland Figes, p.463)p.579.
7月の決定的日々
ローラン・リパール
七月二日、ペトログラードの民衆は、ロシア軍の攻勢が失敗に終わったことを知った。情勢は急速に緊張していった。
ヴィボルグ工業地域に駐屯していた一万人の第一機関銃連隊は、ペトログラード最大の部隊であり、ボリシェヴィキが最も浸透していた部隊でもあったが、この部隊が、前線へ派遣されるのではないかとの恐れから反乱を起こした。
事態の進行に追
いつけない政府
反乱側は、革命委員会を設置し、使者を工場や軍の他の部隊やペトログラード海軍基地に派遣し、臨時政府の解散と権力のソヴィエトへの移行を要求するために、自分たちが明日に計画しているデモに加わるよう呼びかけた。翌、七月三日、クロンシュタットの水兵や首都に駐屯する軍の別の部隊が強化されたが、同時に、何万人もの労働者や第一機関銃連隊の兵士たちなど数万人がペトログラードの中心部をデモ行進し、ソヴィエトに権力を取り戻させようとして、ソヴィエト本部があるタヴリーダ宮殿に到着した。全体として、臨時政府は事態の進行に立ち遅れ、首都圏に対する支配権を失っていた。民衆の運動に抵抗するごくわずかな地点も武装したデモ参加者によって一掃されてしまった。ブルジョアジーにとって、このデモはボリシェヴィキによるクーデターの試みにほかならなかった。デモ隊が前面に出したのは「資本家の閣僚を打倒せよ」と「全権力をソヴィエトへ」という合言葉だった。
ボリシェヴィキ
の影響力の急伸
ペトログラードの蜂起はボリシェヴィキの力の急速な高まりを立証した。ボリシェヴィキは、ペトログラード第一の政治勢力となり、二月から六月までの数週間の間にその支持者は二〇〇〇人から三八〇〇〇人になった。多くの日刊紙だけでなく、何万人もの支持者を組織するサークルにも支えられて、ペトログラードの工場でも、軍の部隊内でも大きな影響力を得るようになった。
この数カ月間にわたって、ボリシェヴィキは、「平和」と「パン」の二大スローガンを中心に単純だが効果的なキャンペーンを展開し、それを実現するための条件は、「資本家の大臣を解任し」、「権力をソヴィエトに移す」ことである、と説明してきた。ペトログラードの反乱者たちが実現を望んだのはこの路線であり、これらの人々が七月四日にボリシェヴィキの本部があるクシェシンスカヤ邸にやって来てその権力を差し出そうとしたのはまさにそのためであった。
誰が権力の行使
に向かうのか?
しかしながら、ボリシェヴィキ指導部がそれほど望ましい状況にいるというわけではなかった。七月三日と四日のデモ参加者には、そうしたスローガンはすでになじみのものだったし、活動家によってすでにこうした路線が吹き込まれていた。しかしながら、ペトログラードのソヴィエトも、ほぼすべての地方ソヴィエトも自らのこの権力を望んでいず、臨時政府を支持していたかぎりにおいて、このスローガンは少し抽象的な性格を帯びていた。
七月四日のデモの時点で、社会革命党の指導者であり、ソヴィエトの主要指導者の一人であると同時に臨時政府の閣僚でもあるチェルノフが、デモ隊に向かって、ソヴィエトは街頭が提唱しているような権力を望んではいないのだ、と宣言した時、デモ参加者はチェルノフが何を言いたいのかが分かった。憤激したデモ参加者がチェルノフの手を引っ張ってリンチにかけようとした時、トロツキーが間に入って、デモ参加者からチェルノフを引き離し、彼の命を救った。チェルノフが余りにも慎重すぎたとしても、しかし、彼は重大な問題を提起していたのだった。ソヴィエト自身をそれを望んでいないのに、どうして権力のソヴィエトへの移行の計画を進めるのか、と。
こうしてボリシェヴィキは大きな困難に直面することとなった。なぜなら、七月のデモ参加者たちは、ソヴィエトに依拠することができなければ、自身の党の独裁以外に出口を見出すことができなくなるからである。ところで、たとえボリシェヴィキがペトログラードでは否定し得ない力をもつようになっていたとしても、全国レベルでは非常な少数派の勢力にとどまっていたのである。ボリシェヴィキが、パリ・コミューンからいっさいの教訓を導き出すとするならば、数週間後には倒れるであろうペトログラード・コミューンの樹立をけっして望むことにはならないのである。こうした状況のもとで、党の指導部は、ためらい、分裂しながらも、デモ参加者の望む権力の獲得を拒否する一方で、デモに対して支持を与えたのだった。
つかの間の秩
序回復の陰で
実は、この時、風向きが変わりつつあった。七月五日、デモ参加者は、いっさいの具体的な政治的目標を奪われてしまったので、自分たちの兵営や工場に戻る以外になすすべがなかった。他方、その日、ブルジョア新聞は、レーニンがドイツのスパイだったと非難する偽りの暴露記事を掲載した。自分が強力な人間であるとみせかけようとしていたケレンスキーは、これを利用し、いくつかの部隊を結集して、ボリシェヴィキの本部があるクシェシンスカヤ邸を急襲させた。政府は、ボリシェヴィキの印刷機を差し押さえ、その主要指導者を裏切りと暴動の罪で逮捕した。レーニンだけが例外的にフィンランドに何とか逃れた。権力の首班の座に就いたケレンスキーは、自分こそ秩序回復を保障する人物なのだと振る舞い、軍隊内の規律の復活を命じ、七月一二日には、前線での死刑を復活させた。
こうして、一九一七年七月の日々は、反動の外見上の勝利によって混乱のうちに終わった。しかしながら、たとえボリシェヴィキがこの対決の大きな敗者であると見えたとしても、臨時政府の成功は表面的なものにすぎなかった。崩壊の道をたどる国の首班として、国の軍隊がもはや継戦能力がないのに戦争を続けるという決定を下したケレンスキーは、自らの政策手段をもっていなかった。彼の最後の日々のカウントダウンがそれ以降、始まった。
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