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    かけはし2017.年7月31日号

劉暁波を追悼する


?秦に仁政なく、鬼国に義士あり(訳注1)

彼の死を無駄に終らせない

區龍宇

 中国の民主主義運動の闘士であり、ノーベル平和賞の受賞者・劉暁波さんが末期がんのために七月一三日に亡くなった。劉暁波は一九八九年の天安門事件で学生と共に闘い、中国共産党の独裁体制を厳しく批判したため、弾圧・長期投獄にさらされた。彼の闘いを引き継ぐ強い思いを込めて、香港の活動家・區龍宇の追悼文を掲載する。(編集部)

 劉暁波は自由になったが、劉霞はこれまで以上に不自由となった。痛わしきや、劉霞よ。

 劉暁波を殺したのは中共である。しかし劉暁波はたんに被害者に甘んじたわけではない。かりに劉暁波の全綱領に、すべての人が同意するものではないとしても(訳注2)、彼は専制に反対し、その身を殉じたのだから義士である。罪を犯したのは彼ではなく、中共である。我々は劉霞とともに嘆き悲しむ。

習近平は蒋介石にも及ばない

 香港本土派の一部は、中国人のことを「鬼国賊民」と形容して喜んでいる。前半の句[鬼国]は真実である。中共統治下の中国は、すでに悪鬼が横行する国となっている。中共が一九四九年に政権を獲得して以降、自ら好んで「新中国」と称し、「旧中国では人が鬼となった。新中国では鬼が人になった」と主張していた。これも同じようにその前半の句は真実である。旧中国の[政権党の]国民党は、人々から「刮民党」と呼ばれていた。民から刮(け)ずる、つまり奪い取るには、悪鬼[悪党]を雇わなければならない。だから「人が鬼になった」のである。
だが「新中国」もそれほど誇れるものではなかった。一九四九年からほどなくして、新中国も猛スピードで以前の状況に後退したからだ。その結果、革命の幹部らも徐々に人から鬼になってしまった。鬼になることをよしとしない者は、毛主席による闘争で命を奪われ、恨みを抱えた鬼[幽霊]になるしかなかった。共産党も早いうちから重惨党[旧中国時代の共産党に対する中傷的呼称]となっていた。ここで両党のもとでの反対派の運命を比較しても差し支えないだろう。
一九三二年、刮民党統治下の中華民国で名声赫々たる反対派の陳独秀が逮捕された。当初、弾圧に都合の良い軍事法廷で彼を裁こうとした。しかし逮捕のニュースが伝わると、全国で陳独秀救援運動が展開された。国民党の著名人であった宋慶齢、柏文尉、蔡元培らも進んで陳独秀擁護の言論を展開した。
蒋介石はしかたなく、陳を公開裁判で裁くことにした。胡適と蔡元培はすぐさま陳のために同じく名声赫々たる「公共知識人」である章士サを弁護士として選んだ。法廷で検察官は「(陳が)国民党を打倒することを主張して民国に危害を及ぼした」と告発した。章士サはすぐに立ち上がってこう弁護した。「そんなことはありません。陳独秀はすでに共産党を離脱しています。つまり国民党のためになることをしたのです」。
これを聞いた陳独秀は、机をたたいて立ち上がり、自分の声明を読み上げた。「章弁護士の弁護はまったく彼個人の意見であり、当事者の政治主張は当事者の文書を根拠とすべきである!」。つづけて彼は自分で執筆した「弁訴状」を読み上げたのである。
「半植民地の中国、経済が立ち遅れた中国は、外からは国際資本帝国主義に、国内では軍閥官僚に苦しめられている。民族の解放、民主政治の成功を求め、血で自由をあがなう大業は、自分の身や妻子のことしか考えない懦弱で妥協的な上層搾取階級の輩に実行できるものではない。…最も抑圧され最も革命的な労農勤労人民[の]革命の怒潮をもって、対外的には帝国主義の支配を排除し、対内的には軍閥官僚の抑圧を一掃」する。(原注)

共産党は国民党にも及ばない


ここで注目すべきは、当時の刮民党の党内において、著名人が公然と蒋介石と論争し、蒋介石も若干の譲歩を余儀なくされたということである。そして刮民党は公開裁判を決めれば、本当に公開裁判を行い、原告と被告の双方の主張が新聞で報じられ、そのおかげで、これまで刮民党が抑えてきた陳独秀による刮民党批判が、広範な読者の目に触れることができたのである! もちろん刮民党もお人よしではない。最後には八年間の懲役刑で陳独秀に応えた。刮民党の監獄は居心地のいいものではなく、無数の仁愛の義士が暗闇の監獄で命を落とした。だが陳独秀のような著名な反対派に対してはいくらか丁寧に接した。妻子との毎週の面会を許可するなど、監獄の決まりを大幅に超えた優遇をしたのである。
これに比べると、重惨党はまったく刮民党に及ばないし、習近平は蒋介石に及ばない! 暁波ひとりの容疑に対して、妻子や友人にまで弾圧を広げている! すべての裁判は事実上の秘密裁判である!そして獄中の待遇は犬小屋以下である!
両党が支配した中国はどちらも「鬼の国」であるが、重惨党の鬼はたんなる悪鬼ではなく、視S[凶暴な鬼]である。そうであろう。毛主席が梁漱溟[1893─1988、思想家、政治家。工業化を唱えた毛沢東を農本主義の立場から批判した]を攻撃した際、「共産党は仁政を敷かない!」と公然と宣言したではないか。刮民党も仁政を敷かなかったが、少なくとも公然とそのようなことを主張したことはなかった。重惨党は本当に惨事を重ねている。恥知らずに平然と視Sの政治を敷いていても、党内から誰ひとりの異議も敢えて提起することができないからだ!

市井の義士こそ中国の脊柱

 だが市井には敢えて提起しようとする人々がまだ存在している。この瞬間も劉暁波のために身を挺して声を上げ奔走する多くの人々が存在している。これはまさに魯迅が言うところの中国の脊柱である。
「われわれには古来より、わき目も振らずに一所懸命にやる人、必死でやりぬき通す人、民のために助けを請う人、捨て身で真理を求める人がいた……帝王や将軍、宰相らのために書かれた家譜にも等しいいわゆる『正史』でも、これらの人々の輝きを覆い隠すことはできない。これこそ中国の脊柱なのである」。(訳注3)
いまでも中国には脊柱が存在している。だから、いわゆる「鬼国賊民」の後ろ半分はすべて間違いである。もちろん中国国民のなかには「虎の為に?鬼となる」(悪人のために悪事を働く)ものもごく少数だがいる。しかし少しでも理解力のある人間なら、多数の国民が黙々と悪鬼に抵抗しており、さらにはその中の義士が身を挺して正義のために獄につながれてきたことを知っている――かつての李旺陽(訳注4)や現在の劉暁波のように。暁波の後には、幾千幾万もの暁波が、今後わき起こるであろう滔々たる民衆の波濤を巻き起こすだろう。暁波の死は無駄ではない。中国は鬼の国の歴史を終わらせるだろう。

2017年7月14日

原注:『陳独秀全伝』、唐宝林、中文大学出版社、二〇一一年、一六章から要約抜粋。[日訳は『陳独秀文集三』江田憲治、長堀祐造編訳、一五六頁より]

訳注1:?秦は、春秋戦国時代の「秦」の国姓「?」をつけた呼称。ここでは苛政を敷いた秦王朝と現在の中国をなぞらえている。
訳注2:劉暁波が起草にかかわった〇八憲章など、中国リベラル派に対する綱領的批判は『台頭する中国』(區龍宇ほか著、柘植書房新社、2014年)に収録されている「劉暁波中国の自由主義派」に詳しい。以下のサイトも参照。
?社会主義の名において劉暁波氏の逮捕を糾弾する(旧「虹とモンスーン」ブログ、2009年6月)
?08憲章が提起する積極性と限界(章泉、かけはし2009年5月18日号)
訳注3:「中国人は自信力を失ったのか」、魯迅、一九三四年九月二五日、『且介亭雑文』に収録
訳注4:李旺陽[1950―2012]一九七九年の民主化運動からの労働者活動家。八九年民主化運動にも故郷の湖南省邵陽市で労働者組織を結成して参加し、反革命宣伝扇動罪で一三年の懲役。さらに二〇〇一年に国家政権転覆罪で起訴され二〇一一年五月まで刑に服した。獄中での肉体的ダメージから両目両耳が不自由となっていた。出獄後も民主化を訴え、香港のインターネットTVの取材が放映された四日後の二〇一二年六月六日、入院先の病室で首をつった状態で発見された。当局は自殺と発表した。生前の取材では「斬首されようとも信念を曲げることはない」と力強く答えていた。こちらのサイトも参照。
?一人一人の李旺陽(ふるまいよしこ、中国風見鶏便り、2012年6月20日)
?中国:労働者民主化活動家・李旺陽の死(虹とモンスーン、2012年6月13日)

コラム

脳出血患者の闘病記(2)


 この病気にとってリハビリはすべてに優先すると言われている。今回はそのリハビリについて記したい。
 当初私はリハビリに対して筋肉トレーニング的なイメージを持っていた。例をあげると、今まで一〇回上げていたバーベルを二〇回に増やすとか五〇メートルの全力走をこれまでの一〇回から二〇回にするというようなイメージを持っていた。しかし現実は全く違っていた。リハビリの出発点は麻痺で自分の意志で動かず、力の入らない腱を動かすことから始まる。すべて神経が通っていない部分を動かすことから始まる。麻痺して以降、腱も筋肉も使われていないから硬直している。そのため少しでも動かすととんでもない激痛が走る。
 動く右手に輪投げ用の輪を持ち、動かない左手にはめるような練習・運動から始まる。簡単なように思えるかもしれない。しかし油断すると身体は左の方向に倒れてしまう。「油断」というには語弊がある。正確にはちょっとでもバランスを崩すと倒れる。一度倒れると恐怖感が付きまとい、なかなか左手に輪を運べないのが今の現実だ。
 六月一六日に私は救急車で運ばれた最初の病院からリハビリ専門病院に移った。最初の病院で入院直後に三八度台の熱を出し、熱が引かないうちに血尿が出て、二週間も寝たきりであった。この二週間のリハビリの遅れが、今度移ったリハビリ病院では大きなハンディとなり、その遅れは二週間どころか三週間か一カ月の立ち遅れとなった。「二週間前ならもっと簡単に動いたのに。結構硬く固まっている」という言葉を何度も聞くはめになった。しかし、今更仕方ないとあきらめている。
 リハビリ病院に移って今取り組んでいるのは、左手を抱えて寝返りを打つ訓練と鏡を見て真っすぐ座る練習。これも体感バランスを取るリハビリだがバランスを維持するのは結構むずかしい。
 そして今週から真っすぐ立つ訓練が始まった。真っすぐ立つためには最低限、右足と左足が同じだけ「力」を入れて立つことが要求される。どうしても動く右足、右手、右肩に力が入ってしまう。そのためすぐにバランスを崩して倒れそうになる。まずは麻痺した左足の裏側が大地にふれる感触を理解すること、次に左足が大地を踏みしめることができるかだ。これは相当時間がかかる気がする。真っすぐ立てない限り歩行練習には入れない。右足を踏み出すと左足で踏ん張れなければ倒れる。理の当然だ。
 いつ真っすぐ両足で立てるようになるのか。立てるようになれば歩行訓練が近い。しかし、それは暑い夏の日が過ぎ去ってからかもしれないと思うこの頃だ。
 寝る時、麻痺した左手を腹の上に置くようにしている(「医者にそうして寝るように言われた」)が、目を覚ますたびに右手で左手を探す。まるでもう一人の自分を探しているようだ。笑い話のようだが実際にそうなのだ。一日はリハビリで明け、リハビリで終わる。七月一四日記す。
         (武)


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